260.即発
魔族は人間の姿を真似ているだけ。過去に遭遇した魔族も、擬態を解いた人外の姿を見せていた。
噂だけで聞く、並大抵では敵わない存在。過去の記録によると、社会に度々現れ、深刻な被害を生み出していたらしい。
最近の出現でも、都市の存続が危ぶまれる事態にまで陥った。人類の守護者である聖者の歴代が多くを討伐してきた魔物であり、誰もその脅威を疑わない。
ラナンの強さは既知のものだ。
聖剣を携え、個人では成しえないだろう規模の魔法を平然と使いこなす。魔物の軍勢を撃退して、国同士の戦争でも勝ち続けた。活動を始めて数年で、聖者としての功績を作り出しており、既に一体の魔族を討伐している。
ダンジョンの異変を知り、制圧部隊に同行して、最下層までたどり着いた。
そんな状況に合わない
正面で、少女らしき存在が脱衣を行う状況で、誰も動かないでいる。
目線が外れたとしても、ラナンは斬りかからない。後方にいる自分たち部隊も構えを強くした。後には過剰な警戒に対する嘲笑らしき声が聞こえた。
未だ幼気を残したような動作で、服を脱ぐ。良家の教養を示す中、衣服を地面に置くやむおえない行動にも、汚れを嫌うよう丁寧に重ねていた。
他人の目がある場での非常識な行動でも、文句を言う者はいない。無防備に素肌をさらす存在を、誰も人間とは思っていない。
未だ脱衣に慣れない子供の困ったような表情も過ぎ去り、こちらに視線を戻した後には、親しみを込めた微笑を浮かべる。
一歩。踏み出したサブレは、その形状を崩した。
遠い視線をわずかに下げる。
縮んだわけでも、屈んだわけでもない。サブレという人間の形が崩れて、地面に血肉の塊が落ちた。
音は、水を多く含んだ粘性を伴う物体を連想させた。血管の網が浮かび、挽き肉にも似た赤黒い塊には骨格も無い。
自重のまま地面を広がり、血溜まりへと成り果てた。
最後には静寂が残る。
ラナンは聖剣を構えたまま動きを見せず、対峙するはずの敵は死んだように痕跡を絶った。
戦闘が始まらない。
存在するはずの敵を探して周囲を見回す。油断を誘って、空間の薄暗い部分に姿を隠したのかもしれない。
騒音を出さないように顔を動かす中で、真横にいるアプリリスが視界に入る。
魔法によって体調を崩していたアプリリスも、進む間に自律して歩けるまで回復した。補助の手を貸しているのは慎重を期してだ。
アプリリスは、ラナンがいる方向から視線を外さない。
どこにも見つけられない。魔族は場を離れていないというなら、血溜まりに脅威が残されている事になる。
指揮は叫んだ。
視界の先、ラナンの奥側から赤い色が膨らみ、途端に周囲の景色は変わった。
照明が照らしたのは室内ではなく至近。部隊各部を包む結界は、血液らしき液体によって形状が明確になる。
わずかな流れの違いと途中に混じる塊が視力の正常を告げており、黒々とした点が通り過ぎる。次第に外への視界を取り戻した。
天井から正面まで、存在した室内は赤黒く一変している。
血肉が雨だれのように結界上部に落ちては表面を汚す。隙間から覗けた外は生物として危機感を感じるものだった。
結界外では靴底まで沈む血の海が広がり、生物じみた物の破片に埋め尽くされている。
部隊内で悲鳴が跳ねたのも無理はない。血に混ざる瓦礫には、道具や武器の残骸まで含まれている。辺りに散らばる肉片は、おそらく人間を素材としたもの。
結界に守られた中でも血の臭いを幻覚する。
こちらが生死を脅かす存在と意識するのに対して、魔族からすれば単なる肉の塊としか思われていない。
暗に示される答えは、非情なものだ。
自分に助けられた経験があるとしても、種として隔絶した違いがある。サブレに知り合いの人間を助けるくらいの情が存在するとしても、誰も同意はしてくれないだろう。
結界が解かれると同時に、部隊は環境改善に務める。
血に濡れた地面では足取りも悪く、即座に魔法による凝固が行われる。特に顔に呼吸器を付けた兵士は、指揮官の指示で結界の解除前から動いていた。
もはや、天井からの落下物など気にしていられない。
血をすするような濃度には呼吸も苦しく、皆が咳き込むような動作を見せた。
以前は慣れていた臭いでもある。これまで探索者として活動を続けて、多くの生物を殺して解体を行ってきた。
腐臭ではなく、どれも新しい死体なのだろう。
ラナンは既に戦闘を始めている。
聖剣は光を帯び、その剣身を伸ばしている。
対峙する敵は一点に留まっているようだ。斬撃を身に浴びるばかりで、膨れ上がる肉は次々に削ぎ落とされている。
聖剣の力を防げない。一方的に与えている損傷に、敵の劣勢を見てしまう。
ラナンが傷の浅い攻撃を続けている。
なぜ、削ぎ落とすだけに抑えているのか。
致命的な一撃を与えられていない。
おそらく、敵の肉体には魔法への抵抗がある。厚みだけの肉体であれば、構わず奥を貫いたはずだ。
単純に魔力を循環させるだけでも、外部からの干渉への妨害になる。魔法によって切れ味を増している聖剣も類に違わず、分厚い肉に長く接触して、威力を消耗してしまう。
どれほど強力な魔法も、元となる魔力が尽きれば効果を失うのだ。
単に斬れない以上に、魔力の消耗を早める防御を備えている可能性がある。
ラナンは決定打を狙わない。掴めない敵の形状に警戒を残しているのか。細々と、敵の周辺に肉片を散らばらせていく。
一点の光から目を背けて、血生臭い空間を見る。
ラナンが戦う状況で、何もせず立ち尽くす部隊ではない。兵士らは血肉の沼を押し退け、光源を増やして照らす範囲を広げる。
四角で形作られていたはずの空間に、歪みができている。
肉片散らばる床に血濡れた壁や天井と呼ぶだけでは、各所の圧迫感に説明がつかない。
血が垂れ落ちる場所にも偏りがあり、滴る直前は他所より低い。ひと筋に続いている血の滴りは、あらかじめ流れる位置を決めていたかのように、表在している。
壁や床にも、まるで縄をいくつも散りばめたような、疑わしい厚みが張り付いている。途中に曲がりを加えながらも、手前から奥まで繋がる。一段分厚い線がある。
表面に見える凹凸も、肉片の集まりとは違う、一塊とした形を残している。
類似した何かに覚えがある。
ニーシアが誘拐され、人質にされた状況で救ってくれた。
あの時は、肉腕を操って誘拐犯を捕えていた。
血濡れていなければ、肉片に隠れていなければ。
今いる空間には、全体を取り囲むように肉の触腕が広がっているのではないか。
「動くのか……」
何気なく、口に出した言葉は場に変化をもたらした。
全体から細かな反射が増えた。深緑に潜む小虫が夜を待って発光するかのように、一斉に微小な光が湧く。
部隊には指示や報告が飛び交っていたはずのなのに、聞き耳を立てていたように、自分が言葉を発した直後に起こった。
部隊の真横に横たわっていた肉腕は、人間を軽々押し潰せる体積の表面に、眼球をいくつも浮き上がらせている。
大小構わず乱雑に埋め込まれた眼球は、多くが部隊の方を見ていた。




