258.理不尽
降りてきた広場には、戦闘の痕跡が残されている。
敵の進攻が幅の小さい坂一本に定まり、攻めてくる相手は密集させ、広場に残った者も高低差も利用した攻撃を浴びせられた。遠距離攻撃や壁を這って進む、あるいは飛行する場合の危険は残されていたが、結果として防具類を数個交換するだけの消耗に抑えた。
坂の上から一方的に攻撃した事は、安全の上では正しい。
圧倒的勝利と言ってもいいだろう。
代わりに掃除の問題が生じた。
後で通るはずの坂道を戦場に含める。戦闘後には死骸が積み重なる通行困難な道となった。
代案など存在しない。敵が数的優位になる広い場所に誘導するなんて手段は、ありえず、必然といえば納得するほかない。
それでも、実際の作業を目にすると改善策を考え悩んでしまう。
自分が見ているだけの立場だとしても、作業を眺められている兵士たちは急かせていると感じていないか心配になる。聖騎士でさえ最低限の警護を残して、他は周辺の掃除を手伝っているのだ。
血で汚れていた坂道は、そのままでは滑る危険があった。邪魔な死骸を下の広場へ落として、血濡れも焼いて乾かして、ようやく人が通れるようになる。
調査隊を先に走らせ、本来の陣形とは異なる順番で降りる。人員の半数近くが降りた時点で、聖者の部隊も下に向かった。
物資を積む荷車の移動は、上下層に戦力を残した状態で行われた。
労力を惜しんだために破損を起こしても困る。
荷車の滑り止めも絶対ではない。三、四階分の高さから落下すれば、台車は壊れる上に押していた人手の負傷も深刻になる。足場に余裕を持たせて、一台ごとに複数人で動かしている姿は、慎重そのものだ。
積まれた物資は武器に限らず貴重で、予備照明に用いられる燃料や傷薬は漏出後の回収が不可能に近い。
時間をかけても確実に運ぶ事を優先する堅実な姿は、自分には足りない。傾斜の緩やかな坂から視線を下げて、広場の掃除風景を眺めた。
荷車が集結した後には、待機していた兵士と広場に集まる。再び続く下り坂を前に一度陣形を整える。
部隊が縦に伸ばした状態では、襲撃を受けた際の対応が遅くなる。幅に余裕のない坂道では兵士の移動が満足に行えず、荷車を移動させる間は特に護衛が手薄になる。ダンジョンの中であれば魔物の襲撃は常に警戒すべきだろう。
加えて、傾斜の緩い坂でも、距離が長ければ疲労も溜まる。荷運びをする者にも途中で休憩できるのは悪くないはず。
広場の利用は最小限に留める。今後使われるとしても制圧後であり、掃除も最小限に済ませた。
通ってきた坂道の付近は壁汚れが多い。血の垂れた先には落下した魔物の残骸があり、何度も攻撃を加えた跡も見える。人間が致命傷になる高さでも魔物は耐える。落下後の追撃は必須だ。
指揮官からの命令を待つ。
三層続く円形広場。一番下では魔物が見つからないらしく、降下直後の交戦は考えにくいそうだ。最下層の広場は横に四角い空間が繋がっており、まだ先があると言う。変わらず一本道だ。
調査隊が入手した情報を、部隊全体に共有する。魔物がいないと言われたところで、兵士は警戒を解かないだろう。
調査隊、信号途絶。
連絡役の発声が聞こえた瞬間、近くの音が失せた。
即座に指揮官が警戒を促し、皆一斉に構えを作る。
薄暗い広場に、新たな姿は見当たらない。
遠く、耳奥まで小さく震わせる音が聞こえる。
足裏に細かな揺れを感じて、空間全体に響いているような。
投光器の照らす先を追わず、天井を含めた周囲を観察する。
大群が動いているような、切れ目のない音がどこからともなく聞こえる。
一部兵士が陣形を離れて、周辺の調査のために坂を下りていく。
「緊急! 結界に異常、魔力が急激に消費されています」
人の声。
叫びは部隊内部で聞こえた。
「全隊! 密集せよ」
言葉二つ。指揮官の圧を込めた声が通った。
周囲の聖騎士が距離を詰めた。
分からない。
誰かの名前を叫ぶ声が、辺りに複数聞こえた。
突然見失ったように、存在の有無を問う言葉が飛び交う。
聖騎士の鎧に囲まれて周囲の様子はうかがえない。
「フィアリス!」
「え……。で、でも、こんなの、」
アプリリスの声を受けて、フィアリスが混乱した言葉を返す。
「聖騎士、包囲展開、魔法防護を維持しなさい。こちらも全力で対抗します。……ラナン、フィアリスをお願い」
周囲と同じく、自分も場を離れる。
聖騎士が円状に広がり、中央にアプリリスだけが留まる。
「……リーフ」
「あいよ」
アプリリスの顔がこちらを向く。すぐ隣にいたリーフがアプリリスへと近づき何かを手渡した。
アプリリスの手は口元へと運ばれ、受け取った何かを飲み下したように喉が動く。次には腰に携えた本を取り出し、開けたままの本を宙に浮かせた。
戻ってきたリーフは、こちらに短く笑顔を見せてから、隣に並んだ。後の視線はアプリリスの方に向けられる。
聖女が持つ武器。聖者が聖剣という印象に対して、聖女の持つそれには個性がある。
アプリリスが今回持ち出したのは、厚革の表紙を持つ暗色の本だ。
縫い込みで装飾があるとしても、宝飾などに比べれば地味な外見をしていた。片手で持つには苦労する大きさがあり、肩にかけて運ぶくらいに重量もある。
古びた色が染み着いた厚みのある本は、アプリリスの正面に浮いたまま、誰の手もなく読み進められる。
紙がめくられる軽い音は続く。
何の意味があるかは分からない。
使う度にこの光景を見せられるなら、戦闘には使えないだろう。
紙の動きは止まる。
一方の手が本の背に軽く触れ、もう一方が見開きを上から押さえつける。
「神降ろし――」
周囲が無音だというかのように、小さな声は耳に届いた。
視界に映る輪郭がぼやける。小雨を受けた池がわずかに波立つように、どこにも直線が存在できず、正しい姿に歪みを感じる。
息苦しい。
呼吸は続く、拳にも力は込められる。
全身が危険を感じているのは、似たような経験があるためだ。
第三聖女のロ―リオラスが用いた領域の内部では、肌の上から縛られたように、空間全てが重たかった。
周囲全ての魔力は、アプリリスの制御下にあるのだろう。
大規模な魔法が使われる。
違和感から逃れようとする目を、硬く留める。
視界の歪みも次第に薄れて、ただ一つの存在を見つめる。
一度、目を閉じたアプリリスが、重たげに目を開けた。
「……――迷宮崩壊」




