246.獅子身中の虫
足を進める間に、森の様子は変わる。
木々と落ち葉が織りなす、暖かみのある景色は乱れた。
点在していた多彩な植物は次第に姿を増して、どれもが競い合うように色めき立つ。風で揺れる度に響きのある高音があふれかえり、虫や鳥の奏を奪い取る。
幹を太めた木々は間隔を広げ、枝葉の天井を遠くに隠した。
色と音で騒がしく、薄甘い匂いが一帯を包む。
羽虫は発光しながら漂う。人丈ほどの若木へと近寄っていき、枝のひとつに叩き落とされた。鞭のように跳ねた枝は、先の動きに反して緩やかに姿勢を戻していく。
手製の罠ではなく自然の植物だ。知らなければ怪我を負う。意外な生態を持つ動物以外の危険も多い。見慣れない物が多いため、視界は良好であろうと危険を見落としかねない。
「あれも、魔物なんだよな?」
「うん。人の骨を折るくらいの威力はある。ここらの草花も、踏むくらいは大丈夫だけど、顔を近づけるのは危険だよ」
「立ち入らないのが一番か」
アンシーは、視線で足元の草花を示している。
擬態といっていいのか、有害な魔物が隠れている場合もある。
軍の規制も妥当な判断だろう。毒を持った植物だと、見分けがつかない場合は地域ごと遠ざけたりする。この辺りの植物を誤って持ち帰るなどして、都市周辺に繁殖させてしまえば面倒な事態になりかねない。
姿形を変えてまで食べられにいく習性は、個として理解できないものだ。
「こう。襲ってくる生物がいないと、危険という実感が湧きづらいな。……覚えるために痛手を負うのが失策と言われても、他人の失敗談も笑えない」
「ありもしない危険に怯えているのは事実だからね。話半分でも聞いてくれるだけ嬉しいよ」
先人の知恵と言うが、知った者同士で臆病を演じているだけとも言える。
一度の失敗が命取りになる問題でも、自身の考えが及ばなければ対策できない。信頼を元に行動する部分も多いだろう。
「軍の進路は、ここより安全なのか?」
「いや、あちらさんは結構危険な道を選んでいる。……諦めたんだ。最短距離だとしても管理には向かない。施設を建てるとしても、警戒する兵士の負担が深刻になるんだよ」
「教えてくれ」
「補給路に頼る以上、警戒範囲も広いわけさ。危険だからと周囲の監視を怠るわけにもいかない。だけれど、下手をして深部の魔物を引き寄せるのも駄目だ。……道の復旧は数日だけど、倒壊した拠点を回復させるのは困難だからね。予備の道が使えなければ、次の遠征を待つことになる」
教わった知識のほとんどは、今歩いている進路の情報だけだ。数日の講義だけでは、数世代にわたる軍の活動を把握できない。
聞く機会があるなら、逃がしたくない。
「正直、毒沼みたいな所で一夜を越すのは、私たちでも厳しいものがある。早足ならともかく、荷車は通れないさ。掘っても、盛っても、悪いことにしかならない」
時期というなら、安全な期間が限られているという話だろうか。
土中に大量の魔物が眠っていたり、特定の植物が実る場合に悪影響があったりするかもしれない。何にしても知らない。
「昨日休んだところだって……まあ、時期的にまともなだけで風の次第ではね」
アンシーは悩んだ表情のまま語りを中断した。
「とにかく、土地選びは慎重なんだ。……環境が揃った土地で一定の広さも欲しい。となると、魔物あふれるダンジョンなんて場所では限られてくる。実際、次の道を見つけられず拠点を放棄した地点もあってね。そんな警戒心のおかげで百年近く維持できている」
現存する補給路も段々と作られてきた物であり、同じ長さの道を比較しても、今より好条件となる経路はあるだろう。
調査次第で今の最善も変わるものだ。気軽に一新できるものではない。
自分たちと違って軍の計画は大規模であり、崖を切り開いて道を作ると聞けば、何でも可能だと勘違いしてしまう。
「……結構な手間でしょ」
「ここの兵士にはなりたくないな」
「まあね。代わりに練度は相当だよ。常、戦場に在り。兵士の理想形だ。こんな補給も満足に届かない土地だと、一から作り上げるような習慣が身に着く。連中なら、都市を追い出されても野生で生きていけるさ」
最後の冗談も、決して間違いではないのだろう。
探索者でもダンジョンに長居する者は割合少ない。戦闘の絶えない中でも、警戒心を保ち続けるには限界があるのだ。
迷宮酔いがいくら心地良いと言われても、日増しに溜まる疲労感を忘れさせるほどではない。
たとえ建物の中で暮らすとしても、壁の外の危険は忘れられない。長期間滞在できるだけでも、ここの兵士は鍛えられている。
「気持ち足りない給金についても、退役時に受け取る、優良店への招待状を思えば我慢できるものですよ」
「詳しいんだな」
「そりゃね。付き合いは長いから、色々とお得は頂戴している。最近の事情は知らないけど、酒場から不動産屋まで何でもありだ。年金持ちってだけで店は助かる。引退後の人間関係を保つためもあれば、守秘義務に理解ある相手方を探すにも、助かったりするんだ」
軍の情報を教わる貴重な機会だとしても、話題に興味がない。兵士の給料事情なんて、入隊希望者しか気にしないだろう。
「今は落ち目だけど、一時は注目の的だったよ。毎回、誰かが言い争っていてね。それはもう。特にお偉い方も交ざって、愛人のお誘いが来たりしてね」
「結果は――」
「――聞くのかい? ……いいさ。毎回、丁寧に断っていたとも。さて、どうだったか、年のせいで思い出せないや。百か二百か。いやー、美人様様だなぁ」
振った首は無視され、低い声で答えが返る。
魔法で強化していなければ、アンシーに肩を握り潰されていたところだった。
「……兵士も強いんだな」
「生存競争の最前線だからね。強くなければ生きていけない。今日明日で崩れるとは思いたくないけど、崩れる時が人類の終わりかもしれないんだ」
最奥まで到達していないダンジョンを、絶滅の脅威と評価するのは早い気がする。
事実として確認されているのか、目安として語られているのか。
個人が対処する規模でない事だけは確実だ。
進む内に、大樹の森を抜ける。
最後に通り過ぎた木も遠く背後にあり、見晴らしの良い草原が広がっている。
森を抜けたと勘違いさせる真上の昼空は、やはりというべきか太陽が見えず、いつまでも何かに覆われている。
青芝が広がる大地では、露出した岩に小動物の姿も見える。
見知らぬ存在に警戒するのはこちらも同じ。岩周りだけを守ってくれるなら横切る間に衝突も起こらないと思っても、相手の都合など知りようがない。
「この草原を抜ければ、群生地だよ」
「依頼の品か」
アンシーが受けた依頼は、とある植物の採取だ。
鎮痛薬の素材として、現存する中で最も優れている。効果を比べても優良な部類で、摂取量を誤った場合の後遺症も少ないという。
どうあっても、高級品だ。
立ち入り制限のある地域に向かわせてまで求める。人工栽培が実現していないどころか、群生地の確保もできない状況にある。伝説なんかに登場するような代物で、蒐集品としての価値まで付くという。
一般人が服用するには過ぎたものである。
場所が場所なので、群生地の状態も落ち着かない。定期的な採取など考えられず、依頼者自身も実際の使用は想定していないはずだ。
「もうすぐ、帰路になるのか」
「王都に帰るまで油断しないでね」
「ああ」
危険なダンジョンと聞いていたのに、実際に出会った魔物も自分たちで対処できるものばかり。危険を避けて進む、と語っていたのは事実らしい。
事前に教わった内容も、多くが魔物から逃亡する方法だ。限られた準備期間で無駄を学ばせる理由が無い。
「ここは化け物の腹の中だからね」
「……アンシーは生物に例えるのか?」
「あくまで見た目の話だよ。魔物を生み出して、好みの環境を維持しようとする。人間が都市を作って外敵を拒むようなものじゃないかな?」
制御できる事を知らない側からすれば、生物として見えるのだろう。
「迷宮酔いがある。魔物を出現させる。核が存在する。呼び名があるくらいには、共通する点が多い。各地に存在して新しく増えたりする。意外と繁殖なんかもあるかもしれない」
「成長する点も似ているな」
「それもあったね」
人間を殺すことで規模を拡大できるのは、これまでの経験で学んできた。人を殺して得た力で人を殺す。その過程にある力の増大を頼りに自分は生きてきた。
ダンジョンで暮らして、操られていたのは自分の方なのかもしれない。人間の思考を借りて、人間を撃退する方法を学ぶ。効率的だ。
実際に求めていた。過去を覚えていないおかげで他人への警戒もあった。知らない事ばかりの状況では、限られた力に頼るほかなかった。
ダンジョンに死への恐怖があるのなら、依存しあう関係だったのだろう。
自分の身に起きた異常の原因がダンジョンによるものだとしても、解決する手段は無い。頼れる人間も今は見つからない。
光神教に助けを求める選択もあった。聖女の専属従者として立場のある今でも、保護を受けられるとは限らない。内通者や反逆者として扱われるなら即刻死刑もありえる。
聖者や聖女より劣る以上、他人に生死をゆだねる事と変わらない。
行動を選ぶために実力を求めても、返って脅威として扱われる原因になる。
どちらが適しているのか、未だ判断できずにいる。




