245.他称圏外
森の悪臭で肺が満たされる。
動くほどに、すり潰した植物を鼻に詰めたような臭いが来る。吸えば喉に貼りつく気がして呼吸を抑える。
濃密な湿気に包まれた中に、日の光は届かない。
光球によって照らされた周辺は、どこからも湿った照り返しが届く。
木々は地面から登ってきた緑に体を食いつくされ、今にも倒れそうなほど中身が朽ちた姿を見せる。倒木となり既に長さを失っているものは、踏めば木片になるだろう。
地面は苔や細かな葉で緑に覆われ、歩くごとに靴底が沈む。簡単に動く表面は、引きはがした下に腐った水でも流れているのかもしれない。
真上に広がる葉の天井は、複雑に入り組み、見えない暗がりから蔦が垂れ下がっている。
森に侵入して最初の内は良かった。
枯れ葉と土の柔らかい臭いがあり、薄い日差しと風通しのあった。
長く踏まれていない地面を進み、時々、獣の通った跡を横切る。魔物を見かけて、避けられない戦闘も起きた。時間に追われて解体もせず、アンシーの魔法で死体を土に埋める。
危険を感じる場面は、何度か経験している。
森の中を進むほどに、奥は暗くなり下草も尽きる。唯一の光源に群がる羽虫さえ見失い、生々しく熟れた大地が視界を染める。
今ほど、荷物に助けられた事は無い。
移動に専念するために食料や水を持ち込む。途中で食材を集める必要を無くして、生物が集まる水場も通らずに済む。
自分たちの強みは、生物として不可欠な作業を我慢できる事だと……。
前準備での理由と違い、――ひたすら、この地に縛られない事に安堵した。
時々見かける半端な高さの植物が、なぜ、光も無い場所でありながら鮮やかな色合いを持つのか。最初に見かけた生物が、外敵の存在を知りながら追ってこないのか。
在る物の可不食を悩むまでもなく、人の生きられない場だと確信した。
歩く音に紛れて、全体から水の泡が潰れたような音が聞こえる。わずかに露出する肌に、生煮えた熱が触れてくる。
会話は以前から途絶えている。
仲間の鈍い足音を聞き逃しながら、移動を保つ。
長く移動したつもりでも空腹を覚えない。感じたくもない。終わりがある事だけを頼りに、アンシーの後ろ姿を追う。
あと少しだという合図を見ると、余計に足が重たくなった。
湿り気が増していく中、天井に霧のもやを見つける。
外の光を通さない。風も生まれないような環境で霧だけが流れている。昨夜、森の上を動いていた霧であるなら、終わりも目前だろう。
視界に現れる白い塊は、木々や地面の小盛を貫通して横へ流れる。
触れようとした手を避けて通るため、物に干渉しないわけでもない。割けた一部も通り過ぎた後には形を取り戻す。
霧の通り道に入り込み、周囲で霧が入り乱れる。
光球が隠れされ光が薄まりつつも、視界は明るさを保ち、霧自体の発光で遠くの景色を視認する。
色の悪い森の木々が遠くまで見えて、上にある枝葉も霧が近づいた時だけ色を表す。次第に霧の姿は増え、暗いはずの前方に白い壁を見つけた。
獣魔たちに集まるよう指示して、白く染まる奥へ進む。
視界はうごめく白に埋め尽くされる。
見えない地面が硬さを取り戻して、嫌な臭いが薄まる。
速度だけを意識して歩いた。
「アケハ」
霧の壁を抜けて、一気に晴れる視界。
こちらを見るアンシーの後方に、緑黄の景色が広がっている。
暖かみのある光に包まれ、視線の先まで木々の集まりが続く。
上から落ちてくる葉は、その軽さを揺れで存分に示し、木の葉のこすれあう音と共に、鳥のさえずりが聞こえてくる。
辺り一帯が鮮明な色彩の森に包まれており、ここへ至るまでに溜まった息苦しさは一度の深呼吸で残らず晴れた。
背後の霧からは、レウリファと獣魔たちの姿も現れ、突然切り替わった周囲の様子を観察している。
「魔道具は機能しているかい?」
「ああ、問題ない」
事前の忠告で、一部の魔道具が使えなる事は聞いていた。
自分の指輪から首輪の存在は感知できており、自身で魔力供給が必要なレウリファからも頷きが返ってくる。
「深部では使えなくなる場合もある。本来ならこんな早くに警戒する事じゃないけど、ここは特殊だから」
この立ち入って二日目。迷宮酔いの範囲を見積もっても三日だ。
三日程度を歩くだけなら多くの探索者が経験している。数日歩いて中継地点まで設置されているダンジョンも存在する。都市で暮らす住民はともかく、探索者の間で魔道具への注意喚起が行われていない。
アンシーの言う、特殊な場所という説明にも納得できる。この場が、一般の探索者で手に負えない事実も、意識しなければならない。
「粗悪ではなく設計の問題だから事前に確かめようがないんだ。売る側も、こんな場所を訪れるなんて考えない」
「軍でも、装備の補充は大変そうだな」
「当然。取り違えがあっても困らないよう、仕様は統一されているみたいだよ」
遠征に同行する以上、アンシーは軍から説明を受けているのだろう。
「首輪の破損だけは注意して、そもそも戦闘に向いた魔道具じゃない」
「ああ」
「迷宮酔いも濃いんだけど、大丈夫?」
「問題無い……と思う」
依頼を忘れて暴れたりしていない。現時点では問題にならないだろう。
今の心地よさが迷宮酔いから来るものなのか、景色の良さによるものか区別はできない。
これまで経験したダンジョンで、最も過ごしやすい雰囲気はある。深部と言われても決して人間が生きられない場所ではない。食料として狙える魔物も多く、長く生存する不可能ではないのだ。
話を終えたアンシーは、近場にある小岩の影から小さな花を摘み取る。一切の接触を絶っていた先ほどまでと比べれば、この場の安全は確かなのだろう。
低い草葉がしげる足元が久々の来訪者の足跡を残し、踏まれた細かな枯れ葉が適度に乾いた音を出す。
「もう夜の時間だ」
「そう、なのか……」
夕暮れの色でもない。空も見えない場所でも暗がりが見つからない。異常な光景ではある。
「昼食を抜いているから、早く食事を取って休もうか」
歩き詰めで疲労もある、真昼は過ぎているとは思う。
それでも自分の体感と異なり、見渡す周囲には昼の明るさがあり、夜という事実を疑ってしまう。
「あ。……でも、その前に体を洗ったほうがいいよね」
こちらに近づいてくるアンシーは、半端な位置で止まると、自身の臭いを確かめている。真似して袖辺りに鼻を近づけると、直前の悪臭が残っている。
靴底への付着は確実で、おそらく全身にも臭いは染み付いている。帰りに再び通ることになるのだが、今だけでも洗い落としたい。
持ち込んだ分もあれば魔法からも作り出せる。
水には困らないおかげで、心地よい睡眠が得られた。
獣除けや見張りも不要で、交代のために起こされた時も、眠る前と同じ明るい光景が保たれていた。
装備の点検を済ませると、用済みの寝袋を片付ける。
「ここは圏外だよ」
出発直前にアンシーは告げた。
国の領土にあっても、未知が広がっている事に変わりない。
訪れた目的は依頼品を採取するためだ。それ以上は求めてはならない。身の安全のためなら依頼さえ放棄しても構わないのだ。判断を誤れば簡単に死ぬ。
後ろのレウリファを見る。
足を止めることも、一歩退くこともできている。
再び、進む背中に視線を戻す。




