243.底の大地、あるいは地の底
それは丘を登った先にある。
立ち入り禁止の文言が書かれた柵を通り過ぎて、なおも遠く。
視界に映る数十もの監視塔は、付近に近づいてようやく、数刻歩く間隔で並べられている事に気付く。
迷宮酔い。
ダンジョン周囲で得られる違和感を感じ取っても、原因となる姿は見えない。
歩けばひたすら増していく気の高ぶりに、初めて経験する者は自身の感覚を疑ってしまう。
慣れた者でも同じだ。迷宮酔いによる快感は、判断能力の低下させて衝動的な行動を促す。魔物が住まう壁外では致命的な失敗に繋がりかねない。監視を任されている軍人でさえ、定期的に医師の観察を受ける。
専用の街道を進んだ先の施設では、迷宮酔いの影響を警戒して、大きな宿舎が建てられている。
慣れた者でさえ訪れる際に感覚を慣らす必要がある。
一つの失敗が容易に大勢の死に繋がる。
危険である確信は、丘を登って見下ろす景色を知ればわかる。
巨大な穴だ。
都市など、いくらでもでも収めてしまえる広大な地形。
すぐの傾斜は、立ち入りを拒むかのように岩と崖で埋め尽くされており、下った先を目で追うと、一転して緑の雄大な自然が広がる。
人の手が加わっていない。
これまで百年以上、軍による遠征が行われて、確かに中継基地も存在する。それでも攻略は進まず、手付かずというべき景色が多く残されている。
人が未だ到達しない最奥には、生物や資源、数多くの未知があるだろうと。
王国内で最古であり最大とされているダンジョンは、山一つをくり抜いたような地形から、底の大地と呼ばれている。
これは以前、アンシーから聞いた話だ。
来るまでに草原が広がっていた事も、無断での侵入を阻止するためだろう。
王都を離れて別の都市へ通じる街道までには、森も見えていた。おそらく長い内に、遮蔽物となる木々を切り倒したのだ。
万一、魔物が外へ流出してしまえば、近郊の都市への被害は避けられない。
日頃から探索者が行き交うダンジョンでも、日々狩られる魔物の数は多い。定期的な駆除がなければ、人を超える数の魔物が溜まってしまう。広大な土地で人の手も及ばないとなれば、魔物の生息数が多くなる事は分かりきっている。
そんな場所に、自分たちは立ち入る。
簡単な手順だ。
アンシーの魔法で、軍の監視網を隠れて通り過ぎる。事前に聞かされたとおりだが、不必要でも足音を抑えようとしてしまう。
先頭を歩いていたアンシーが止まる。
「ここまで進めば自己責任。途中で見つかっても兵士は追わないだろうね」
常習性を思わせる一言だ。
軍に同行する際は普段着を着ていると話していたわりに、今のアンシーは、自分やレウリファと同じ、防御を考えた服装をしている。
横に伸ばした手が握り込まれると、周囲が明るさを取り戻す。
アンシーの隠れる魔法は、内部にいる際は多少暗くなる。魔法を解いた今は、周囲の光が遮られることなく、自分に届く。
監視塔は通り過ぎて、傾斜の手前まで来ている。
これから進む道こそ見えないが、対面へと続く周上をたどれば、険しい道が見えている。
「どう、体調に問題はないかい?」
「疲れもそこまでだし、迷宮酔いもおそらく大丈夫だ」
「うん、顔色も悪くないから、我慢もないだろうね」
振り返ったアンシーは、全員に目を向ける。
自分とレウリファも体力維持は欠かしていない。連れてきている獣魔に至っては、長い移動をむしろ楽しんでいただろう。
見合わせた顔には、健やかな表情がある。
ここまでの道中は、非常に楽な旅だった。
まず、荷物が軽い。レウリファと自分は、それぞれが数日過ごせる物資を持つだけだ。それが背にある鞄ひとつ。
おおよそ考えられる旅路とは異なり、一日の移動距離は倍にもなる。これまで荷車で運んでいたのが、いかに効率の悪い事なのか自覚してしまう。
ただし、誰もが真似できるものではなく、アンシーのおかげだ。
アンシーが持つ鞄だけは特殊で、見た目からは想像できないほどの物が入る。収納している間は、大して重量も感じないらしい。非常に希少価値のある魔道具で、想像するに貴族の住む豪邸は軽く数軒立つ。本人は明確な答えを示さない。
「今は魔物の姿も遠いけど、警戒が必要になったら合図はするよ」
「頼む」
初めて訪れる以上、慣れた者の忠告は受け入れる。
背を向けて再び進もうとしたアンシーだが、足を止める。
「あ。アケハ、少しいい?」
「何だ?」
「魔力ちょうだい」
「……は?」
「ほら!」
魔力を他人に譲る事が可能だという。
疑問が解決される前に、アンシーは手を繋げてきた。
「魔道具あげたでしょ? 練習していないの?」
「いや」
「時間無いんだから、早く」
確かに、普通の人間は魔力を送り込んでも害にならない。魔石でもなければ、魔法未満の魔力に危険は無い。
ただ、自分由来でない魔力を受け取っても、まともに操れる物ではない。外部の魔力を自由に利用できるなら、最初から誰も魔力量に困っていない。
「注ぐぞ」
「うん。……あー、気持ちー」
魔力を失わせる拷問もあるとは聞いた。逆を言えば、足りない状態に魔力を足せば、今のアンシーのような感想になるのだろう。
アンシーは長い移動の間、常に魔法を保っていた。魔力操作を継続してたなら、精神的な疲労も大きい。使われた魔法に詳しくないが、範囲を調節するものなら消費も変動する。全員を包むために普段より負担は増えただろう。
「悪いな。負担させていたみたいで」
「いや、いいよ。気にしないで。誘ったのは私だし、弟子の成長は師匠の誉れだよ」
歩きながらも、魔力の供給を続ける。
どれだけ送り込むかは、アンシー本人に答えてもらうしかないが、今の勢いで構わないのだろう。
「気持ちいいけど、あんまり他人に試しちゃ駄目だよ。魔力なんて過ぎると人間にも害だし、操作に優れた魔物の体でも限界はある」
「そうなのか」
「他人の魔力に抵抗があるのは普通でしょ。変に混ざって魔法が生じる場合もあるし、そもそもが受け入れるようにできていない」
過ぎる例は見たはずだ。
魔法に秀でた者、使徒と呼ばれる者たちは、秀でているが故に体に異常が現れていた。他人より寿命を伸ばせるとしても、魔力自体に害があるため限界が生じるのだろう。
「ちなみに魔石への魔力供給に訓練がいる理由はこれだよ。正しく制御しなければ、質の悪い魔力で根詰まりを起こす。魔石が壊れてしまう。素人が真似しても数回で魔道具が使えなくなってしまう」
「そうだったのか」
洗礼を受ければ魔法を扱えるようになる。
魔力操作が可能になる以上、魔石への魔力供給は皆ができると思っていた。商売として成立するのは個人の魔力量だけでなく、技術的な問題もあったらしい。
魔道具を持つ人間が少ないのは、管理が難しい事も関係しているようだ。
「アケハの場合、触れてもらうだけでも良いでしょ」
アンシーの顔はこちらとは反対側、レウリファの方に向けられている。
「あんまりドハマりしないでね。アケハくらい上手だとアレだけど、誰にもできる事じゃない」
「まあ、貰った魔道具は長く使っているよ」
「渡した甲斐はあるけど、女遊びをさせるためじゃないよ……」
「それは分かっている」
利用できる事を暗に示しているが、気軽に使える物ではない。今の自分にとって、関わる相手は少ない方が良い。
できるからと試していると、他人に広まった場合の反響が怖い。下手な者が真似をすれば、相手に怪我を負わせる事になる。変に恨まれたくはない。
「他人の魔力を受け入れるって、信頼の証だからね。普通は体内に入るのを本能的に拒む。相手の肉体を干渉できれば、殺す事も難しくない」
触れた時の印象というのも間違いではないらしい。
聖女だったロ―リオラスが似たような話をしていた。互いの手を繋いで感触を確かめるという話だ。近くで魔法を使う場合の相性というものだったが、魔力同士の抵抗が操作に関係してくるのだろう。
「私みたいな教え方をする場合、総じて異性を教える事は少ない。魔法自体が秘匿すべき存在という意味もあるけど、まあ、これは笑い話だからいいや」
そんな言葉を言った後には会話も終わる。
アンシーへの魔力供給はその後も長く続き、下る先の森が見えてくる頃になって、ようやく止めるように言われた。
尽きない自分の魔力量にも驚きはあるが、アンシーが溜め込む量も侮れない。
短期間にアンシーへと送り込んだ魔力は、訓練用の魔石で中級が満杯になる。硬化魔法を同時間保つより消費が激しい。
普通、魔物から手に入る魔石は大抵が指先ほどでしかない。訓練用の魔石は手に握る大きさに整えられており、魔石自体の質も高いのだ。
アンシーは並みの魔物より多く魔力を蓄えられるという事でもある。
ロ―リオラスが反逆した際、戦況を立て直すためにフィアリスが欲した魔力の四半分と考えれば、決して少ない量ではない。
アンシーも、これからダンジョンに向かう状況で、全ての魔力を使い切ったわけでもないだろう。
「アケハも試してみる?」
「まあ、頼む」
魔力を供給した後では、自分も魔力を返されるだけのように思える。
「ほら、どう?」
繋ぎなおした手からは、確かに魔力の流れを感じる。
魔法の訓練の際に体内の魔力を操作されているため、似たような経験が無くもない。そもそも魔力が足りている身では、魔力が満ちる快感は得られないだろう。
今感じている理由は、魔力を受け入れた事実を知り、錯覚しているだけなのだ。アンシーを信頼できる自分に安心している。
「悪くない感覚だ」
「私も慎重にやったからね。不快と言われたら本気で殴っていたよ」
「怖いから、それだけはやめてくれ」
硬化魔法はアンシーから教わったのだ。
頑丈と強力を備えた魔法、長く扱うアンシーに利があるのは確実だろう。本気で攻撃されれば、負傷はまぬがれない。
冗談でも殴り飛ばされる姿が想像できてしまう。
「少しは緊張が取れたかい?」
「……そうだな、ありがとう」
「どういたしまして」
お互いの視線を外した後は、向かう場所に目を向ける。
迷宮酔いの範囲から分かる通り、巨大なダンジョンだ。
魔法を使えるようになった今でも、魔物が脅威である事に変わりない。軍に同行する優秀な探索者でも警戒を欠かさない、格上というべき存在だろう。
見下ろす景色は遠く、対岸はおぼろげで見えない。
今いる場所を下りると人の背丈を越える岩山が多く見つかり、広大な森に霧が立ち込める姿は、自分の存在がいかに小さいものかを伝えてくる。
皆の顔を見た後に、挑むべき場所へと一歩を進めた。




