220.偏差
書類を机に戻したロ―リオラスは、腕と背を伸ばして完全に姿勢を崩す。
読み飽きたのだろう。
名を隠して潜伏していた学園でも、場所を借りて剣を振るくらいだ。運動する方が好みなら、建物に閉じ込められて暮らす今は退屈でしかない。
持ち込まれる書類を明日に先送りしないだけ、本人も事務作業に努めている。本業ついでに運ぶ側としても、毎日の量を増やす気にはなれない。
談話室の面々は、ここ数日変わらない。
ラナンとフィアリスがいなければ、他の従者の立ち入りは極端に少なくなる。
「呼び出しを受けてたなんて、酷い。私も一緒に行きたかったなー」
「あの時はロジェも外出してただろ?」
「同時に呼び出すなんて、嫌がらせだよね」
ロ―リオラスの専属でもなければ、自分が日程を調節する必要もない。
加えて、無断外出を続けていた分の呼び出しは、当人の自己責任だ。
「いや。招待されていない者を連れていくのは、正直、どうかと思うぞ?」
「知らない顔でもないし、席くらい用意するでしょ」
いくら聖女でも、突然の訪問は迷惑だ。
手紙の整理を待つ秘書課でも、席の用意した後は放置したいところだろう。
ロ―リオラスは休憩時間とばかりに、レウリファにお菓子を頼む。
「ここのお菓子もいいけど、あそこで出される方も悪くないよね」
「お菓子は出されなかったな」
口を軽く潤した後、お菓子に手を伸ばす。
摘まみ上げられた小さな一つは、一瞬待って、口へと運ばれた。
「となると、一対一ではなかった、……ね」
「ああ」
その場にいた女性は名前を知ったくらいで、紹介は受けていない。
「男? 女だよね」
同じ男神派というわけか、枢機卿とも面識があるらしい。
面談の詳細を教えずとも相手側から伝わりそうではある。
「ま、いいや。……アケハ、こっち来て」
「断ってもいいか?」
「駄目」
ロ―リオラスが隣を示してくる。
この数日の様子を見るかぎり、敵対派閥という理由で襲われる事は無い。対面のアプリリスも同じ考えなのか、ロ―リオラスの小さな要求には関知しない。
求める業務を妨げない範囲では、こちらの意思が優先されている。
最低限の警戒を残すように、手のひら程度に離れて座る。
「座るが、お菓子を近づけてくるのは無しだ」
「えー、手が汚れないから楽でしょ」
ロ―リオラスの手は、お菓子の皿から離れる。
悪い予感がして先に断ったのは正解だった。
「おいしいよ?」
「美味しいのは認める。食べたい時は自分で盛るから気にするな」
間延びした返事をして諦めた、ロ―リオラスは窓の方を見上げる。
「市街は祭りだよね」
「戦勝祭か……」
戦争後にも民衆への祭りは行われたみたいだが、今度は聖者も参加する。魔族討伐の功績まで含めた祭りだ。
犠牲となった者の関係者のために、国への貢献は大いに称えるべきだろう。手に入れた都市の復興にも、限られた金と力を差し向ける必要がある。今は民衆から支持が必須なのだ。
「数日は、飲み食い騒ぎで、楽しいんだろうなー」
今頃、ラナンは人混みの大通りを行進している頃だ。
皆も聖者としての活躍に期待が持てる。他国とはいえ、人間の住む場所に魔族が入り込む事態があり、それを討伐したという事実がある。
個人で対処できない危機から守ってくれる存在を、冷遇する必要もないだろう。
応援の声を出した後には、皆それぞれに特別な日を楽しむのだ。
最近、ラナンやフィアリスが忙しかったのも、祭りの準備が含まれていた可能性はある。行進を終えた後も重役への挨拶回りなどで、今日一日は顔を合わせないだろう。
「ねえ、アケハ。二人で見に行かない? 屋台だって飲食以外も並ぶから、楽める場所は沢山あるでしょ。誰かに贈るような掘り出し物も見つかるかもしれないよ」
振り返ったロ―リオラスの視線が隅に留まるレウリファを示してくる。
魔物である獣人を避けない点は、一緒に過ごす上で助かる。
聖女は貴族層や地位の高い人々にも顔が広い。獣人を持つような相手と出会う機会があるなら、いちいち嫌悪感を示さないだろう。
レウリファは人の視線を嫌う事もあるため、何かを買ってくる方が喜ぶのも事実だ。
「混雑する場所を聖女が自由に歩けるわけがないだろ。警備を連れてどう歩く。連絡もしないといけないぞ」
「そこは隠れて向かうの。抜け出して、一日楽しんで帰ってくる。お手軽でしょ?」
派閥対立が収束したわけではない今は、祭りだろうと不穏な状況に変わりない。
人混みの中など犯行の狙い目だ。男神派だけが危険行為をするとも限らず、ロ―リオラス自身の安全も分からない。警備を外して隙を差し出す真似はできない。
捜索する事態にでもなれば、祭りで忙しい警備側に、さらなる負担を強いる事にもなる。
「酷い迷惑だ」
同一視するつもりはないが、民衆の応援に応じる聖女がいる中、他の民衆に混ざって催し物を楽しむ思考は分からない。
「紛れ込むための服装はあるから、準備は万全なんだけどね」
「どこか間違えているよな」
祭りという状況では、規則を気にする者も減る。
案外、馴染んでしまうのだろうか。
「……まあ、同行はできない。一人で行くと言っても止めるからな」
「アケハが捕まえにきてくれる?」
「力負けするから、警備を呼ぶに決まってる」
聖女を自分一人で対処できるとは考えない。ロ―リオラスも、公衆の前では衛兵や聖騎士に逆らわないはずだ。
「分かった、行かない。それで良いんでしょ?」
「頼むよ」
「しょうがないね」
この場でお菓子を食べる暇があるなら、祭りに行こうという提案も嘘だろう。
賛同してしまうと本気でされかねないため、冗談でも断る。
菓子に触れていたロ―リオラスの手は、机の手拭いを摘まむ。
もう一方の手で飲み物を運び、会話に間が空く。
「ね」
「なんだ?」
正面の窓を見る中、膝へ降りた手の向きはこちらにある。
「私の事、呼んでみて」
「どうして……」
「もう! 早く、ほら」
応対に不満を抱いたのか、振り向いた体が距離を詰める。
「ロジェ」
待つ一方という表情するロ―リオラスに答える。
見つめ顔がほころぶ。
傾けられた体が持ち上がり、顔が真横を通り過ぎる。
「ん……。アケハ、結婚しよ?」
呟き声の後、抑えた息づかいが耳に届いた。
祭りに行く提案の次は、結婚なのか。
「突然だな」
両肩を押すと、素直に距離が開いた。
「良いでしょ?」
言うとおり、良い手段ではある。
人並みの暮らしを得たいと言いながら、危険を取り除く事ばかり考えていた。
すべての安全を追い求めるなんて無謀だろう。都市の住民でさえ、ちまたの犯罪に遭遇する。危機の度合が異なるだけで、考え方は変わらない。
自分の求める安全が、この社会で実現できる確証も無い。
何にも侵されない存在がいると言うなら見せてほしい。実現できれば今より良い状態だろう、という推測でしかないのだ。
危険が判別できても、危険が排除された理想を今になっても明確にできない。
個として生存したいという前提とは、分けて考えるべきだろう。
ダンジョンを操れる時点で人並みでないというなら、人の生活を真似るくらいが、まずまずの目標だ。街中で通りがかった暴漢に襲われる事さえ、おそらく、それは人並みに追いついた事になる。
結婚。
一緒に生きる。協力して生活を豊かにする関係。
庶民が個人とするなら、貴族は血族単位の繋がりだろう。
望めるものなら、あってほしいものだ。
だが、相手はいない。
ダンジョンを操れる事を知って共にいてくれる相手など、今はレウリファだけだ。
密告すれば主従関係から解放されるかもしれないのに、こちらの怪しい点を口外せずにいる。獣人とは結婚はできないが、関係としては結婚した相手に相当するかもしれない。
雑な捉え方でいいなら、共存したいのは社会そのものだ。
普通の人間なら、社会と共存できているかなど疑問に思わない。
自分は犯罪者とも変わらない立場と言えるだろう。
だが、自分の前提が犯罪者であるとするなら、対処は見えてくる。
償うか、隠すか、裁きを受けない立場になるべきなのだ。




