219.意味
視界の端に動きを見つける。
立ち上がった女性が、机のそばに来る。
「香木をたくけど、甘味が強い方と、若干酸味で勝る方、どちらが好み? ……両方、暖かい香りだから疲労も薄れるわ。飲み物は何でもいいよね」
机に手を付けると、こちらに話しかけてきた。
「シルヴィナ、余計だ」
「だって貴方嬉しそうだもの。口調も乱れて、らしくない」
「何を一体……」
振り向き際の一言に、枢機卿の方が止まる。
静かに生まれた無表情を過ぎて、表情は再び険しいものに戻った。
「奇妙な。まず、私の好みに当てはまらん」
「あの子のお気に入りだから、興味はあるんでしょ」
「いや、……茶を用意してくれ」
「わかった」
机上の香台も一度触れたきり、女性は部屋を出ていく。
手元に飲み物が用意されるまで、室内に沈黙が一時続いた。
「一方的に話してもつまらん。何か、知りたい事はあるか?」
器を置いたところで、先に飲み終えていた枢機卿が話を再開する。
まず、ダンジョンの話題は出せない。
安全と分かるまでは、自分の現状を知られたくない。
容易に推測できてしまうような質問は避けるべきだ。
「洗礼印を薄める方法はあるのでしょうか?」
濃くする方法ならアンシーが話題に出していた。未だ自分の手に表れない洗礼印も見る機会は来るかもしれない。
学園で適正が無いと言われた以上、解消できるかは不明だが。
とにかく、洗礼印を薄める手段を聞くのは、異常の元を探るためだ。
適性が無いと判断される理由。仮に適性を失う手段があるとすれば、記憶に無い過去を探る事も不可能ではない。
断定できるものとは限らないが、参考にはなる。
「お前はそっちなのか」
枢機卿は、過去に似た質問を受けたらしい。
自分の質問と対称であれば、洗礼印を濃くする方法を聞いたのだろうか。
「まあ、いい」
独り言と思わせない一言を、発した本人は説明してくれない。
「仮定の話をする。腕が欠けた者の洗礼印は見えない。……まあ、手が無いのだから当然だろう」
印の有無と見える見えないは別だが、話自体は正しい。
「洗礼前から腕を失っていた場合。洗礼後に腕を失う場合。洗礼を受けた時点から魔法の行使が可能になるだけで、腕の有無は関係ない」
洗礼印を隠すだけで魔法が使えなくなるというなら、手袋もつけられない。
印が見えない事と洗礼の有無は無関係だろう。
「親が洗礼を受けたからといって、子に洗礼印が表れるわけではない。個人ごとに洗礼を受け、各々の印が表れる。洗礼の対象は受けた当人だけだ」
教会が洗礼の制度を続けている時点で、洗礼は個人が対象だ。
洗礼も受けていない内に、他人の印が表れてもらっても困る。
「つまり、洗礼印は個人の資質を示すわけだが、ここまでの話は理解できるな」
最後の一言で済む話だが、それぞれの話も納得できている。
「個人とは、どこまでを指す?」
長い話の中、枢機卿の口と腕が動く。
「まず、死人は洗礼を受けても印が表れない。表れたとしても確かめようもないわけだが、確かめるまでもない。切り分けた腕の方に洗礼を与えても、腕にも、元の本人にも印は表れない。また、洗礼を受けさせた腕を本人に付け直しても洗礼印は表れない」
変な話を言っているが、自分も洗礼という物を未だに知らない。
「腕を切り落としたところで、腕の方を本体とは誰も思うまい。都合良く、個人と思われる存在が洗礼の対象となるわけだ」
個人と思われない存在とは集団だろうか。一斉に洗礼を受けたとしても、個々が集まった形でしかない。言葉上の逆を想像しきれない奇妙な表現だ。
「ここで、ようやく、濃淡の話になる」
話の量に押し負けて、枢機卿に言われるまで質問内容も忘れかけていた。
「一般的に、洗礼印の濃淡は、魔法の資質を示すとされる。習熟次第で変わる魔法の才など実際は測りようが無いのだが、そういう傾向は見られる」
装置で計測できる適性とは別のようだ。
異なる見解であったり、必ずしも一致しないという理由で、表現を分けている可能性もある。
「その本人の体を魔法の制御に適さない状態にすれば、資質を失わせる事と同義だろう。……あるとは答えておく」
魔法を使えなくすれば、資質も何もない。
だが、いくらか説明を省かれた気がする。
「だが、魔石を埋めようとは考えるな。あれは無駄だ。異物を埋め込む程度では濃くも薄くならん。遺体に印が残るとおり手軽なものではない。おそらくだが、もっと根本的な異常を与えねばなるまい」
隣国との戦争で表れた禁忌を犯した者だったか。魔石を埋めれば魔力の保有量が増えそうなものだが、洗礼印には影響しないらしい。
「経験してみたいというなら、お前の主人に頼んでみるのはどうだ?」
「アプリリスにか?」
「そう、そのアプリリスだ。……公言こそしないが、奴なら専門外の魔法も覚えているだろう」
手軽でないと言いながら、魔法で可能だと言う。
「封印とでも言えばいいか。犯罪者の拘束にも中々用いられない特級の処置だが、あれでも色は落ちたはずだ。当然、封印中は魔法も使えなくなる。……仕組みこそ知らんが、何度も経験してよいものではないだろうな」
魔法使いの拘束には魔力を奪う方法があったはずだが、魔法の行使自体も不可能にできるらしい。
「……もう答えたな。私は出る、後は好きにしろ」
枢機卿が席を立つ。女性の後ろを通り過ぎて、部屋を出ていった。
前触れもなく、動きを追う間も短かった。
枢機卿自身で扉を開け、その背も静かに見えなくなる。
ただ、素早かった。
音の減った室内を見渡すと、残された女性と目が合う。
面会が終わり、留まる理由も無い。
最低限の警戒のために、早く立ち去るべきだろう。
部屋を去ろうとしたところ、女性がこちらに接近してくる。
「初対面で失礼な事を言うけど、許してね」
飲みかけの器を机に置くと、接触するほどの距離を詰めてきた。
「貴方。絶対、良い人生を送れない」
言い残して、女性は部屋を去った。
言われずとも分かりきった事だ。
すでに諦めている。
明らかな異質を自覚していれば、皆の常識さえ疑ってしまう。
自分みたいな特殊な例が、常識通りに生きられるのか。
疑われた時には死ぬかもしれないのだから、誰かの視界に入る事も警戒せずにはいられない。廊下を歩く聖騎士も自分にとって安全なものとは限らない。
見知った通路まで、足音を抑えて歩いた。




