200.相場
この都市に来て短く設定された一日の活動時間も、獣魔の世話のみを仕事とする自分に影響は少ない。
戦争を経験した聖者の疲労回復が目的といったところだろう。滞在場所が光神教と無関係な施設であるため、環境に慣れない事を想定して、朝夜の時間に余裕を設けている。夜も明かりには困らず、体調を崩すような気象でもない。
硬化魔法を平時から保つ中、他の魔法の制御も試す。ついでに行われる訓練の成果が、剣を持つ手の内側に表れている。
一定の力で振り下ろすだけなら、光球一つを規則的に動かす事と並列して行える。そんな単純な動きを続けた結果、第二指以外で、指の付け根の皮膚が硬くなった。
皮膚への負担を抑えるよう手袋でも守っているのだが、完全に防げるわけでもない。硬化魔法と合わせて、通常より進行を遅らせていた方ではあるだろう。
探索者時代に読んだ資料だが、硬い部分が大きくなると裂けた場合に下の柔らかい部分まで裂け目が広がるらしいのだ。指紋が薄れる程度なら問題無いが、重たい道具を扱う以上、極端な衝撃を受ける場合もあるため処置は必要であった。
ごみ箱の真上で、硬い皮膚を削るだけである。
個室で一人、椅子に座りながら黙々と手を動かす。棒やすりから白い粉が落ちる様子に見飽きて、削る位置の調節に集中する。三つ並んだ硬い皮膚の上部を削れば、棒やすりを広げた指の間に通して、ひとつひとつを調整する。
最後に手に残った粉を払い落として終わる。次行うとしても一ヶ月は先の事だろう。
湿った手拭いで手を整える間に扉が叩かれる。
入ってきたレウリファは近寄った後に、隣の寝台へ寝転んだ。
「もう、仕事は終わったのか?」
「はい」
靴を脱がすに垂らした脚だけは、後の夕食に備えている。
レウリファは横向きの体をさらしている。引き寄せた枕に頭を預けており、次には布団に包まって寝てしまいそうである。
以降で表に出る仕事が無いとしても、仕事着に皺ができてしまうのは悪い。
「今寝ると半端に起こされる事になるぞ」
「眠らないように構ってもらえませんか?」
ほぐすように体をくねらせたレウリファは最後に目を閉じた。
「さすがに冷えるぞ」
言っても反応が来ないため、机に手拭いを置いて、接近する。
足に触れても眠るふりを続けているらしい。冗談を続けられないよう、手で体の輪郭を走らせる。未だ眠っていない事は、手を止める度に強い反応を示す尻尾が証明している。
膝腰と来て、胸の横を通っても無視され、肩から腕に下りた。
両腕の間、胸元に見える首紐は指輪が通されている物だ。指輪は魔道具だが、作り出す小さな障壁が活躍した事は無い。
「そろそろ、爪を削るか?」
どの指も整備を急く状態ではない。仕事で問題を起こさないよう整えられている。
機嫌取りの提案に、レウリファは頷き代わりに目を向けてきた。
手入れが始まってから、目は開かれている。
「街はどうですか?」
「色々見てきてはいる」
一度目の外出で、レウリファには勧められない事だと分かった。
本人も喜ばないため、同行させる気は無い。
「危険な事はありませんか?」
「今のところ、大丈夫だ」
貧民街を歩いていたが、通訳の案内で危険な場所は避けて通っている。
「聞いた話ですが、体内に魔石を埋める手術は不特定に広まっているそうです。交渉の場で取り上げられた話題で、以前から犯罪者の体に事例に類似するような傷跡があったらしく、服の上からの接触検査をすり抜けていたみたいです。密輸の取締りが厳しくなって以降も、輪郭に隠された魔道具で、複数が大怪我を負った事件もあり、光神教の禁忌とは違った形で問題視されていたようです」
「組織だけじゃないのか」
「犯罪者自体の脅威が上がっているかもしれません。気を付けてください」
「わかった。警戒しておく」
硬化魔法を欠かさないようにしているが、周囲への警戒を覚えておく。
「アプリリスから聞いたのか?」
「……はい」
こちらが苦手としているのを知ってか、レウリファの返事は鈍かった。
情報源は限られている。
いくら光神教で働く者とはいえ、個人が所有する奴隷を公式の場に立たせる事は無い。魔物でもあるレウリファが直接立ち会ったとは思えない。ラナンの面会に来た交渉官が、親切に忠告してくれたなんて事も考えられない。
交渉には不参加だが、情報を多く扱っているアプリリスなら把握していた事だろう。
レウリファは否定しなかったが、直接伝えられなかった事には疑問がある。会う頻度も高いため、伝える機会はいくらでもあった。
追及する相手はレウリファではない。
「街でいくつか酒を買ったから、今日の夕食後に飲まないか?」
「お酒ですか」
「断ってもいい。体調が悪ければ、この滞在中のどこかで行えばいいからな」
数日で腐るような酒は無い。
「どんなお酒ですか?」
「色々。数だけ言えば、二十くらいある」
店主に頼んだだけで試飲も一部しかしていないが、極端な味は避けて、定番も含めている。どれも飲めないなんて事態にはならないはずだ。
「……多くありませんか?」
「拳ひとつ程度の容器だから携帯用だな。それぞれの量は少ないが、二人で飲み比べするには都合良い。食べ物よりかは良いと買ってきたが、どうだ?」
最初の質問では返事をくれなかったが、詳しく聞いてくる以上、興味は持たれている。だが、酒のひとつひとつを説明できないため、話せる情報は尽きかけている。
「今日の夕食後でいいですか?」
「わかった。そうしよう。……用事も無いから多少遅く来て構わないから」
「楽しみにしておきますね」
飲むだけとは言ったが、摘まめる腹休めも少量は買ってある。
「二十も集めるとなると、買う際に長く待たされませんでしたか?」
「通貨の単位が細かい分、小さな容器でも売られていたんだ。量り売りより手早く終わるから、店も複数渡れたぞ」
器を使い捨てにするなら、個人で詰め替える手間が無く便利だろう。容器の分だけ値段は上がるわけだが。
光神教が広めた通貨は、細かい買い物に不便だ。調理代を含める屋台の値段でも、土貨で一食済んでしまう事も多い。商品がひとつの店だと飽きる量だったりするのだ。
「それにしても、仕事中に私物を買うのは感心しません」
「駄目だったか。自費ではあるが、街での買い物も報告したからな」
「追及されなかった時点で問題は無いのでしょう。私の不満なのですけど、休日も不安定な従者に公私を分けるなんて難しいのかもしれません」
戦争が始まってからは休日は与えられていない。休日も無い仕事もあるにはあるため、
「アプリリス様にはお酒を分けたりしないのですか?」
「それは思いつかなかった。好んで飲む姿は思い浮かばないからな」
自分が向かった店は高級ではない。庶民が買うような品質を渡しても困るだろう。
「料理の知識は考えるまでもないですが、趣味でお菓子を作っているようなので、酒にも興味は持っているはずです」
聖女にも趣味を楽しむ自由時間はあるらしい。常に顔を合わせているわけでもないため、ある事実は疑わない。
「既に買っているかもしれないから、先に確認を取った方がいいのだろうな」
「ええ」
次に買う機会があれば渡せばいい。今回は自分たちで消費する。
「レウリファはアプリリスをどう思う?」
「仕事に誠実な事は分かります。普段から姿勢も整っていて、何事にも動じない印象でしょうか……」
「まあ、大体同じ印象だな」
他人が納得できないような行動で行える、悪い意味でも動じない。
アプリリスは聖女として平和のために、あるいは未知の意義に従って行動しているように感じる。異常行動さえ意図的で、疑念を持たれる事さえ構わないと思っているのではないだろうか。
いつまでも自分を養っている現状も、何らかの利益があるのだろう。婚約を避けるにも、出自の不確かな男を囲う以外の手段があったはず。単純に使い捨てるつもりが無いなら、雇用期間は長く続くのかもしれない。
このまま従者生活を続けられるなら、自分は満足してしまうだろう。
自分の判断は、奴隷であるレウリファの生死にも関わる。給与や生活の質は良く、生存環境として今以上を望むのは難しい。戦争に関わるなど死亡の危険は高いが、探索者時代の方が不安定だった。
ダンジョンという存在価値に頼っていたのは光神教が敵対する場合の他にも、能力的に自分が劣る事への不安があったからだ。
豊富な魔力を利用して生活できると知った今は、ダンジョンに拘る理由も薄れた。資産として言い訳ができているダンジョンコアも、捨てるだけで光神教からの疑いを解決できる問題なら軽い代償と考えてしまう。
ダンジョンを利用した殺人が発覚した場合に、交渉の余地はあるだろうか。
爪の手入れも、片付けまで終える。
首輪に触れて、レウリファの意思を確認した。




