183.地中に咲く
学園の廊下。正面の窓は学園の内側を映している。
離れて見える建物の奥では夕暮れに黒が増している。
「アケハさん」
隣から届く声。ロジェの他には誰もいない。
長椅子に並んで座り、肩は触れている。
普段より近い気もするが、乱暴に拒絶すべきではないだろう。
ここに来た経緯を忘れている。
図書館の前でロジェと会った。慌てて駆け寄る姿が珍しく、周囲を見回していた様子は覚えている。
こうして廊下で休んでいるなら、一緒に移動してきたはずだが、道中の会話を思い出せない。
「付き人の二人は、どうしたんだ?」
距離を置くように言ってきた女学生がいただろう。対立派閥に属する相手とロジェの接触を警戒した。この数日は図書館で出会わなかったのも、あの二人が関係していただろう。
ロジェといえば、首を傾け、再び名前を呟いただけ。
困ったような表情をされても、答えてもらわないと状況が掴めない。
「先ほども似たような質問をしていませんでしたか?」
いや、記憶は無い。
表情を読むように視線を合わせてくるが、答えられない。
諦めてもらうまで待つと、ロジェは窓の景色へ顔を向けた。
「しっかり、書き置きは残しました。けれど、二人を困らせたかもしれませんね」
直接話したところで、許可が貰えない事を確信していただろう。
ロジェは付き人の監視を抜け出てきたらしい。
「……もしかして、緊張していますか?」
脈は平常より少々高く、体に熱がある。
椅子に触れている背や足、ロジェと接している肩にも汗が出ている。
「かもしれないな」
ロジェが嬉しいと呟いた後には、再び静かになる。
周囲に物音が無く、隣の吐息さえ聞こえそうな空間だけがある。
ロジェは遠くを見たまま、膝上の両手に落ち着きが無い。少しの間、緩く揉み合っていれば、違う仕草に変わる。こちらに近い側の膝へと登ろうとして落ち、元の位置に納まった。
「あの!」
言葉は短く止まる。
「どうした?」
ロジェを促す言葉が見つからない。
「いえ……」
髪が揺られて、風が起こる。
ロジェが視線を下げ、互いの手を見比べる。
次に持ち上げれた顔は、涙が浮かび、火照ったように赤く染まっていた。
視線が合うと、すぐ顔は背けられる。
下を向いたロジェが、こちらの手を握る。
「私も緊張しています」
「そうみたいだな」
直後の握りは、緩まるまで自分の指が骨を感じるほどだった。
「本当ですよ?」
ロジェは体を寄せると、捕らえた片腕を抱きしめる。
訓練の時なら体が当たる場合もあるが、今は違う。極端に対応を変えた理由があるだろう。
「何か、あったのか?」
同意が返る。
「学園を去る事になりました」
「俺と関わった事が関係するのか?」
首を横に振られる。
「いえ、最初から終わりがある事は分かっていました」
ロジェが立ち上がると、長椅子の正面に来る。
「でも、アケハさんに会えなくなるのは嫌なの……」
窓を隠して、なおも迫り、こちらを掴む腕から重みが伝わってくる。
「貴方と生きたい。私の手を握って離さないで」
ロジェが全身で抱き着いてくる。
「できない」
今の自分は聖女の従者だ。
去る人間を追う事はできない。
「ロジェの事情は分からない。……ロジェはこっちに来れないのか」
来てくれるなら、生活水準は平民並みに下がるとしても、一緒に過ごす事は難しくない。
「それじゃ駄目なの!」
生活を捨てられないのは同じ。
妥協が見つからない以上、諦めるしかないのだろう。
まだ、教会にレウリファがいる。
獣魔も預けている。ダンジョンコアも保管してある。
今、帰る場所は教会なのだ。
教会に帰る。……外では日が落ちようとしていた。
本来、学園に留まる時間は夕暮れまで、迎えを待たせているはず。
教会に帰らなければならない。
なぜ、迎えの存在を知りながら、ロジェの誘いを途中で断らなかった。
ロジェの事情も複雑で、聞くに期限が短い。
会えるのは本当に最後で、判断できるのは今限りかもしれない。
それでも情報が足りないのだ。
「頼む。事情を教えてくれ」
真剣に思ってくれたのは分かる。大事に思うからこそ、隠さず伝えて欲しい。
「お願い、一緒に来て。何でもするから……」
ロジェは離さない。
涙を流して、こちらの頬に触れてくる。
「ロジェ。……悪いが力になれない」
今の自分は捨てられない。
「私は止まれない。安らげないよ……」
耳元で呟く、言葉には震えと詰まりが混ざっていた。
抱きしめたまま、音は止む。
ロジェの手は、こちらの体を掴んだまま、密着を放さない。
視界を埋めるロジェの体には、嗅ぎ続けたい熱い匂いがある。
ロジェの意思を縛り付けて、全てを奪いたい。
覆い隠す服を剥いで、匂いの元を探りたい。
きっと、これまで経験した事の無い、味と感触がある。
この場所なら誰にも気づかれない。事を起こすくらいの猶予はあるはずだ。
抱きしめてくるロジェの顔は見えない。
悲しませただろう。
精一杯の気持ちを伝えて求めて、叶わない。
話したくて話せない心境は、ロジェも自分も同じかもしれないのだ。
置き去りにする側の自分が、全力で抱きしめるわけにはいかない。
「アケハさんの事が好きなの……」
「俺もロジェが好きだ」
「だから……」
重なっていたロジェと間が生まれる。
「――”俺”と来い。アケハ」
強い口調。零れる涙の源には、鋭い眼光があった。
即座に、視線は外れる。
目前の体が立ち退き、風が生まれる。
絡みつく熱が解かされ、暮れの光が視界に戻り、寒さで身が震える。
魔力の流れが撃ち出された元へ振り向くと、廊下の奥にアプリリスとリーフがいた。
足音を空想させない歩みで、二人が近付いてくる。
「夜遊びは、そこまでにしておきなさい」
間近まで来たアプリリスの視線は、進む先に向けられている。
「よぉ、アプリリス~」
癖のある抑揚で、ロジェが言葉を返す。
魔法を当てられて吹き飛ぶでもなく、体勢を保ったまま距離を取った。
アプリリスからの攻撃に対応したらしい。
ロジェは直剣を盾にした構えを解く。
手にある剣に見覚えは無い。実用性を残した装飾と色合いは、聖者の持つ剣と似て、光神教と無関係とは思えない。
「ローリオラス……」
「手紙は気に入ってくれたか?」
確かな事といえば、剣が隠し持つ大きさでない事だろう。
ロジェの質問に返事は来ない。




