170.日没姫
他施設より離れて存在する図書館は、ひと回り低い二階建てとなっている。
周囲の庭に溶け込むような木の外壁は、人の群れを感じさせる他とは一歩引いており、丸みのある輪郭は落ち着いた雰囲気を生んでいる。
図書館に立ち入ったすぐ、受付の司書に顔を見せる。
手紙を出す必要も無くなり、出入りの際に一言伝えるだけになったのは、立場も関係しているのだろう。万が一の場合でも請求先の信用は確かだ。
受付台に背を向けて、正面奥と右手に広がる本棚には行かず、手前の螺旋階段へ向かう
閲覧用の机にいる利用者はまばらで、書物を扱う細かな音だけ聞こえる。通り過ぎる間に絨毯を踏む足音まで聞こえそうな、静寂がある。
目立たない窓から間接的に照らされる中、人工の照明は読み手を多少助けているだろう。
二階に上がっても、変わらない床。絨毯だけでも大金を費やしたはずだ。
艶を持った木の質感も表面だけなのか、金属を骨組みとした物が多い。棚や机、吹き抜けとの境界にある手すりも、意外に鉄筋製かもしれない。
緻密でない代わりに触れても構わないような模様が彫られており、図書館全体で統一されたその志向がある事で、館内を自由に歩ける安心感が湧く。
水分補給は一部でしか許されていないが、食事処に入れ替えられても通う人はいるだろう。自分は教会で昼食をとるため、入る機会は減る。
端の方へ進み、通路近くの棚に向かう。
光神教関係の区画は、二階の吹き抜け前にある閲覧場所から近い。隔てている通路には返却場所と低い展示棚が並んでおり、歩きながら脇目で見る。
おすすめとして飾られたひとつ。聖者関係の本を先に読む事にした。
聖者の歴史書には、代々の聖者の経歴が書かれていた。古い世代は、かき集めただけの粗い情報だが、近い世代は功績も年代も細かく書かれている。
どの世代も三十前後で死んでいるらしい。どれも圏外遠征時の討伐記録が多く、都市に襲来した魔物に限っては、古い年代にしか載っていない。
本に書かれている今代は、ラナンの前の聖者だ。存命中に作られたらしく、二十初めが最新になっていた。
先代聖者は、序盤こそ盗賊退治や商隊護衛といった人の近くで活動していたが、後期は魔物討伐や希少な資源を持ち帰るといった遠征による成果が多く見える。
魔族の討伐こそ少ないが、個人の功績としては最上位のものだろう。実力を備えて危険な魔物の住む場所へ進む事は、ダンジョン深部や圏外へ挑もうとする探索者たちの理想にも近い。
裏表紙を眺めたところで、感じた疲れから目を休める。
何を期待して光神教の資料を探しているのか。批判本なら別の区画にある。魔族を迎え入れる例が一つでもあれば、自分は満足するのだろうか。
死んだ魔族の呼び名ばかりが並び、取り逃がした数少ない例にも安心を抱けていない。
建国から千五百を過ぎた法国の歴史が、指の先くらいの厚みに納まった本。これより詳しい資料は棚を探せば、いくらでも見つかるのだろう。
ダンジョンを操作できる自分が安全に暮らしたいなら、魔族と決め打つより、ダンジョンの資料からも探るべきだろう。
とにかく、疲れたため別の本を読みたい。
読み終えた本を返してから場所を移る。
決まった歩みで向かうのは魔法関係の区画だ。
マギポコから随時教わっている魔法学の内容で、適性の無い自分は扱えないものである。対魔法学を学ぶために、既存の魔法は知る必要があった。
一階と別かれて存在する区画には何度も立ち寄っている。下と比べて、さらに人通りが少なく、少しの視線も気になる自分には都合が良い。
魔法を広めたのが光神教だった事もあり、遠ざけて陳列する理由も少ないのだろう。
通路を進むと、目的の棚近くから女性が現れる。
前に抱える本の積み上がりは高く、腹の中程から胸元に届く。体系が女性的だからという事でもないが運び方が危うい。
体を半ば出して周囲を伺って、不安定を気にしながら通路に進み出る。
遅い歩みの中、髪が揺れる背中を目で追った。
抜かれた箇所を確かめようと棚へ入る直前、小さな音が横で鳴る。響きからして展示棚に当たったわけではないだろう。
絨毯で抑えられた落下音は軽く、本ではない何かだろうと床を見ると、女性の進んだ跡に万年筆が落ちていた。
落とした本人は気づいていないらしく、展示棚の脇から閲覧場所に進もうとしている。
人は少なく、踏まれる可能性は少ない。放置しておくべきか。
聖者付きと周知されていないはずだが、教会が人の救いを説く立場に変わりない。関係者でありながら、困った人を見捨てて悪評が立つのはラナンにも悪いだろう。原因が何にしても、余裕がある内は手助けをして、心証を良くした方が良い。
ラナン付きの従者という表の立場には今も助けられている。
すぐ声をかけるには、相手の状態が悪い。
万年筆を拾った後は、気にされない程度に離れて追う。
女性が机に寄って、抱えた本を静かに降ろす。
椅子に回り込んだところで、話しかける。
「なあ。さっき、これを落とさなかったか」
呼びかけてようやく気付かれたらしく、女性が小さく驚きを発する。
こちらの手にある万年筆へと近寄ると、制服へ手を入れた後に再びこちらを向く。
「私のです。拾っていただき、助かりました」
受け取る途中、髪を軽く結った頭部が傾けられる。
体付きから見ると同年代か、おそらく上だが、落ち着いた言動の隙に幼さがある。
手袋は輪郭を残すように薄いながら、洗礼印を白で隠している。
女性は受け取った万年筆を、取り出した手帳と共に机に並べた。
横には、昼までに読み切れそうにない量が積まれている。
内容次第だが、図書館で一日過ごすつもりなのだろうか。積み上げるまでに違和感を覚えなかったのは、新しい本を手に取る際、近くの棚か台車にでも預けていたのかもしれない。
「台車で運んだ方が楽じゃなかったか?」
「その。……ごめんなさい」
「いや、責めるつもりはなかった」
女性が探したのは魔法の初歩的な解説らしく、積まれた本の中に自分が読み進めている本も含まれていた。
「魔法は苦手なのか」
「はい」
「同じだ」
「もしかして、読みかけの本を取ってしまいました?」
似た本ならいくらでもある。断わられても他を探せば済む話だろう。
「ああ。読まない間、貸してくれないか?」
「はい。よければ、隣に座ってください」
すぐ返すためにも傍に留まれたのはいい。
提案通り、吹き抜け側の席に座る。
紙面をめくる音は、小さな手帳と大きな本とでは異なるらしい。
時折隣から来る、違った音が自分の進捗を教えてくれる中、気付くと見下ろす大時計が昼を示していた。
半端な時間から読み進めた事は事実だが、残り数枚を読み切れなかった。
迎えが来る。時間を延ばすわけにもいかない。
席を立つと、隣が作業を止める。静かに閉じられた手帳には、魔法に関わる言葉がいくつか見えた。
「邪魔して悪かった」
「いえ、お疲れ様でした。……もう夕方ですか?」
女性の方は長く留まるつもりのようだ。
「いや、真昼だ」
「お昼ですか」
夕暮れはまだ先の話だが、館内では分からないのかもしれない。
本を返すと、三つに分かれた山のひとつに積まれる。こちらが一冊読む間に、目の前の女性なら三冊は読みそうだ。
「先に帰るが、……名前を聞き忘れていたな」
「ロジェと言います」
「ロジェか。自分の事はアケハと呼んでくれ」
「わかりました。アケハさん、また今度」
「ああ。今日は助かった。ありがとう」
見送られた後、他に誰もいない通路を進む。途中で振り返ると、視線を合わせたロジェが首を傾けてきた。




