160.人工雨
王都を離れて以降も街道の人通りは多い。向かう先が辺境といっても隣接するのは他国だ。圏外から離れてしまえば、危険な魔物との遭遇は少ないらしい。
それでも、村や都市は周囲に壁を築いている。
村に寄れば、一夜を過ごして翌朝に出発する。門から離れた端の空き地に停まる姿は他に無く、朝早く起きては開門直後に村を出る。
遠くに高い防壁を見つければ、次に停まるのは教会の中になる。
都市での滞在は比べて長い。
教会に留まる四日前後。
教会の者は忙しく動く。馬車の点検や物資の補充、馬を交代させたりと、村では行わない作業に追われている姿を見る。
自分たちは出発を待つ間、教会の施設内で暇を潰す。用の無い場所へは立ち入らず、多く過ごすのは与えられた部屋か中庭だろう。
馬小屋の隣にある洗い場は、事前に使用許可を貰っている。
屋根続きになっている部屋は洗い終えた馬が雨に濡れる心配も無い。獣魔たちが揃って入る広さの他、汚れを洗い流せるよう床の溝。道具を置く台もあれば、部屋の端にある蛇口で、人肌より冷たい水を使える。
以前の自宅でも水を運ぶ手間は少なかったが、専用の設備の有無で作業の手間は大きく変わる。宿屋でも人向けの設備は整っていても、馬相手となるとおそらく少ない。
手軽に使ってしまうが、手配する側からすれば面倒な事だ。多分、自分たちの利用後には、丸洗いが行われる。獣魔のそばで走れる教会の馬も、何も感じない事は無い。怖がらせないように残り香を消す作業があるだろう。
水浴びで済ませてくれる夜気鳥には手間が要らない。
長期の移動でも問題となるのは雨衣狼だ。三体いる彼ら同士で行う毛繕いも、道具を使う場合と比べると取り残しがある。
手櫛の後でも、毛並みに通す木櫛は詰まる。絡まった毛やごみで櫛を何度も掃除するのは、人並みに大きな体格では仕方の無い事だろう。
屈んで正面から抱く体は、人以上に厚みがある。周囲に動く気配を感じながら、肩回りを撫でる。背から腹までを整える間に、前足の内側の肉付きを確かめる。
骨格の違う肉体は評価も難しい。人間であれば見かける事も多く、職業柄に染まった人々を比較して、細かい評価ができる。
雨衣狼は資料程度しかなく、野生に生きる姿は見た事が無い。
胴体から繋がる脚でも、付け根から足首まで細まっていく筋肉は、普段の動きに反して、頼りなく見えてしまう。精々、以前の彼らと比較して、少々痩せたという判断しかできない。
野生以上に清潔さを保てるという点は、獣魔を続ける利点だろうか。行動が窮屈になるといっても、食事は安定しており、日々の義務は少ない。慣れさせてしまえば、生活を変えたいとも思わないかもしれない。
これまで走ってきた街道の歩行者向けの整備は、雨衣狼達にも影響している。小石や岩が少ない結果、爪の欠けは軽度で、土汚れも少ない。道外れやダンジョンでは、岩の地形に包まれていたり、土の粘りが強い場合もあって、日頃の掃除も大変だった。整備の手間を知っていれば、ダンジョン内で馬を走らせるような者は、まずいないだろう。
尻尾の裏まで洗えば、次は水気を拭い落とす。大きな体を冷やさないよう、重たくなった毛並みを動かしながら、肌まで空気を馴染ませる。三体同時に洗うには手が足りない。最後に腹の下、垂れた水が残っていないか触れて確かめた後、胴体の一部に手を伸ばす。
胴体で一か所。毛並みの薄い奥、肌に触れると未だに肉の腫れが残っている。毛並みを分けて覗いてみるかぎりは、生え始めが肉に刺さる様子は無い。
怪我の直後に縫い合わせてもらった、この傷は一生消えない。第一関節までの指を差し込める深さがあった。部位にも寄るが、人間であれば運動に大きな障害を残しただろう。
遠目で見る限り、わからない傷にはなっている。動きに問題も無いため、弱みとして狙われる事はまず無い。
一通りを終えて、感想を伺う。彼ら共有で嫌がる鼻先には極力触れず、人間の指が利とする、細かい動きで耳の辺りや表情筋を揉み。抵抗が少ないどころか、口のそばに手を置いても邪魔をしてこない様子を見て、不満が無い事を認める。
付いた唾液を、服の端で拭う。
「ヴァイス。交代だ」
背に手を置いて、歩いていくヴァイスを長く撫でる。
腰回りで動きを止めてきたヴァイスに対して、円を描く様に撫で返しておく。
背後にある引き戸から叩かれた音が届く。
「誰だ?」
「アプリリスです。入っても?」
「大丈夫だ」
引き戸の仮止めを外して、隙間を作る。
ラナンやフィアリスはともかく、アプリリスが来るのは珍しい。緊急や仕事の連絡でなければ、他に誰もいない状況で、会いに来る事は無かった。
教会らしくない汚れのある服装を着ている。使い古した跡から、この小屋の入ったすぐに吊してあった物だろうか。髪の留めも普段より厳しくしている。
「彼らを洗う様子を眺めてもいいですか?」
「問題無い。そばにくると水が飛ぶから、離れて見てくれ」
返事と頷きを見て、アプリリスを部屋に入れる。
机に戻って道具を持ち直す。用意してもらった石鹸も、乾いた状態では握り隠せる大きさに縮んでいる。持ち込んだところで汚れの少ない内は使わずにいたが、次回は新しい物も持ち込む事になるだろう。
「彼らの体調に問題はありませんか?」
「今のところは無いな」
食事を嫌うような事態は起きていない。残飯も作らないため、物足りなさを感じているかもしれないが、緊急の問題は無い。
移動が多い点も以前より野生の生活環境に近いだろう。狩りの欲求も、彼ら同士で補っている様子もある。本気で襲ってくる事も無いため、一応という程度に気にして、教会に留まる間も接する時間を増やしている。
彼らから不満を伝えてきた事が無いのだ。
「食事の方も大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。」
「少し調理をすれば、一緒に食べる事もできますが、いかがですか?」
「それは避けたいな」
食事の様子を見るだけなら良い。与える以前に食材を貰い、自分で試した事もある。
ただ、雨衣狼たちと違って床にある皿に盛られた状態では食べたいとは思えない。一緒の食材を同時に食べるとなると、その辺りを想像して食欲が失せるだろう。
「実際、どう調理するんだ?」
「私なら、生の状態は避けたいので焼きます。ついでに香辛料を足したりしますね」
薄味というのは本当だ。食べ続けるには足りない部分がある。
そう考えながら毎回与えているわけで、自分なら飽きてしまいそうだが違うらしい。雨衣狼は人間ほど食材を集めたりしない。知らない食材を出して警戒させるのは避けるべきという話だそうだ。
彼ら自身にも好み個性があり、人間の食事に興味を持たせてしまうと悪いという説もある。濃い味に慣れて、種族として合わない食事をしてしまう可能性は減らすべきだろう。
「忙しそうだが調理に覚えはあるのか?」
「嗜むとは言えない程度ですね。体に入れる物ですから、判断する知識が無いと不安になりませんか?」
「知らない物が怖いという事には共感できるな」
今でも光神教について、軽い話でしか教わっていない。
現状、命が脅かされる事態は無いが、今後は分からない。料理の腕も似たようなものだが、使う食材は人間共通である。自分と同じ存在は多く確認できていない。
今の環境が自分に適しているか、確信できていない。
「料理は今でも続けているのか?」
「最近は怠っています。遠出の最中ですから試す気分になりませんね」
聖者の拠点が法国の聖都というなら、そこでは練習するのかもしれない。慣れない場所に行けば、以前の生活を続けられない場合はあるだろう。
会話を止めた後も、雨衣狼を洗う作業は続ける。
三体とも済ませた後、部屋の床を掃除して、片づけも終える。
道具を鞄に納めている間も、アプリリスは部屋の端に立っていた。
「この後は中庭で走らせるつもりだが、一緒に見るか?」
「はい。私も付いていきます」
戸を開けて、獣魔たちを中庭に連れ出す。




