157.出立
黙して耳を澄ます。
「契約を違える事、申し訳ない」
老いを含んだ声。
伏せている今は、空間の奥側に意識が向く。
「再三、要求していたにも関わらず、実行に移してみれば散々な始末。都市を増やすどころか、一時は失う危機にまで陥り、聖都から預かった貴重な機会を保身のために浪費してしまった」
見えるのは赤の絨毯と跪く自分の足元。
わずか隣で同じ姿勢をするアプリリスにさえ、顔を向けてはならない。
「都市の復興に追われて、遠征を新たに実行する目途も立たない。聖者の身をこの地に拘束しておきながら、本懐も成せず他用に煩わせた」
前で応じているラナンとフィアリス以外にも、謁見の間の両側には多くの者が並んでいた。
「自国の民にさえ顔向けできない、これほどの失態。いかなる処罰も、お受けいたします」
物音も響かないため、国王の言葉だけが聞こえていた。
「いえ、魔物の侵略に対処できた事は、誇れる実績です。戦力を集めていなければ、復旧すら叶わず、都市を含む広い領土を失っていたでしょう。王の先見は称える事であり、蔑むなどできません」
ラナンは普段と違い、言葉の最後まで声を響かせるような口調で話す。
「教会として、事態に対応した者たちに罰則を設けるつもりは一切ありません。むしろ、魔物の動向を読めず、対処に遅れたのは我々の方です。国ひとつに負担を強いる状況は、一番避けるべきでした」
この国と光神教は深く関わっている事は分かる。話の内容から予想する限り、光神教の方が上の立場だろう。
「諸国との交渉では、これからも仲立ちとして尽力します。今は辺境の復旧に抑えてください。人類を脅かす魔物に備えて、変わらぬ協力をお願いします」
「あいわかった。……今回の襲撃について知り得た情報はあるまいか?」
「あれほど大規模な襲撃は長らく行われていませんでした。それこそ前時代のように魔物との全面衝突、その前触れかもしれません」
クロスリエの襲撃が前触れといえるほどの事件が過去にあったのだろう。歴史に詳しくないため理解できない事は多い。
「扇動していたとみられる魔族も捕縛できず、計画の全貌は分かっていません。再び起こらないとは言えない状況でしょう。今回の襲撃も形としては大きなものでしたが、記録にある強力な魔物の姿は少数しか確認できていません。おそらく、付近の圏外からかき集めた軍勢かと」
圏外の魔物が減った内に攻めてしまえそうだが、そんな単純な話では無い。知らない場所を歩くのは時間も手間もかかる。探索者が毎日行き交うダンジョンと、限られた者だけ調査に出る圏外では、都合が異なるだろう。
「魔物が地を覆う世界か……、考えたくも無いが、今立っている場所も魔物が蔓延る事になるのだろうな」
「かもしれません。……ですがそうならないよう、人類も力を蓄えてきました。過去を繰り返すだけでなく、望む結果になるよう工夫してきたのが人類です。経験と技術、失伝せず受け継がれた物はあります。魔物に脅かされなくなる望みのためにも、私たちは抗うべきでしょう」
「国長として、外敵の侵略は防がねばならない。私が剣を取る理由はもっと単純だ。暮らしを奪われたくない」
「再び、兆しが現れた際には我らに知らせをください。未熟な身ですが、私も戦列に加わらせていただきます」
「そうか、期待しよう」
次にラナンが発した声に、国王は強く返した。
儀典官が退出を告げ、自分たちは振り返って来た道を戻る。
姿勢を戻して見えた王と護衛の姿は、光と貴色に囲まれた見慣れない空間でも、大きな存在感を示していた。
絨毯が長く続いている中央。側廊には大きな装飾柱が並び、長く吊られた旗も見える。その手前、豪勢な服で身を包む者は衛兵でなく、貴族の人々だろう。視界の脇に消えていく姿に一部の隙も見えない。顔は正面で動かさない今、視線の奥で見える天井にまで、彫刻細工がなされている。
聖者と国王の話し合いのために、多くの手間がかけられている。強い力を持つ者は、このような光景を作り上げるのだろうか。自分にはできそうにない。
謁見の間を出て、ようやく抑えていた呼吸を正す。扉が閉じた後、通路を進んだ。
馬車に乗る前に、休憩室に入る。
謁見前に預けた手荷物も受け取るまで時間もある。預けるための荷物を持ってきたのは意外だった。案内役も疑問無く受け取っていたため、普通の事なのだろう。
レウリファにはこの辺りの作法は教わっていない。王城に連れず、教会に留まっているため、今は聞けない。
休憩の間もなく、扉が叩かれて、案内役が現れる。
「サイバネ爵が来られます」
「わかりました」
ラナンが返事をして、準備を整える。
部屋にある家具には、あまり触れておらず、歩いた場所も机か窓の近くだけだ。硝子が張られた棚の中で飾られた食器は一つも、動かしていない。四人が顔を見合わせるまでの時間は短かった。
ラナンが案内役に合図が送り、扉が開かれる。
「失礼、聖者様」
部屋に入ってきた男は、先ほど見かけたような貴族らしい恰好をしていた。足の運びは緩やかで、体の揺れも無く、音も出さない歩みは、市街の人混みの中でも目立つだろう。
立って待つ自分たちの前で止まると、大して変わらない身長が、さらに大きく見える。鋭い顔つき、眉と髭が整った表情から受けた強気な印象は礼を見せた後も変わらない。
「聖女アプリリス」
「はい」
答えさせる前から男は視線を向けていた。
「その男を選んだのか?」
こちらに視線が移る。
視線を外す事は望ましくない。四人が並んだ形に近く、誰かの陰に隠れるのも無しだ。
「ダンジョン襲撃の際に尽力した探索者。王都で数少ない獣使い、遠方に生息する獣魔を持つ。収入は少ないものの、蓄えがあるのか備品は新しい。素行は平凡、借金や賭博癖は無く、王都に来て、麻薬や違法売買は行っていない。いたって健全だろう」
瞬きは見えなかった。視線に迷いがなく、一点を見ておきながら周辺にも注意を向けていそうな、焦りも油断も見えない人間だ。
男は目を細めた後、顔を反らした。
「私の息子でさえ不満があったのか。……何故だ?」
こちらに用は無く、アプリリスとの話を続けるらしい。
対峙する二人も含めて、誰も音を立てない。
「……下賤なこの身、混ぜる血にはふさわしくないでしょう」
静かな中、言葉に余韻が残る。
「身の程知らずではないようだが、まず、聖女という信用を勝手に定めるな」
アプリリスの問題行動は、すぐに思い至る。男は原因が聖女にあると予想したのだろう。こちらに責任があるなら、光神教を害した時点で罰せられて、まず、この場にいるはずがない。
「血や体など、どうでもいい。元々、貴族など替えを利かせるための制度だ。社会が認めるなら、継がせる物と継ぐ者さえあれば何だろうと構われない、部品に成り下がった者たちだ。規格の中でしか生きられない存在が、下賤でなくて何だというのだ」
怒りそうなものだが、威張らない話し方を続けている。
男が息子を勧めていたようなので、縁談の話でもあったのかもしれない。アプリリスが勝手に約束を違えたというところだろうか。
聖者の背に従っているだけの自分は事情を知らない。
「知者を継いだ以上、名を壊す真似はするな。……もう良い、手間を取らせた」
礼の後、男は部屋を去った。
休憩を終えて、帰りの馬車に乗る。
寝泊りはできそうにない広さだが、六人は十分に乗り込める。行きと変わらない、閉ざされた部屋だ。
走り出して少し経つと、
「アケハさん」
「どうした?」
「ごめんなさい。貴方を侮辱する気はありません。私の立場では嘘を言うしかありませんでした」
「そうか」
聖女という立場が残っている間は、従者として自分も動く事ができるだろう。待遇も含めて、今以上の要求は無い。
こちらに影響しないなら隠し事があったとしても構わない、……と頷けるほど信頼していない。聖女という立場は絶対でもないだろう。それこそ、聖者を裏切るような事をすれば、処罰を受ける可能性はある。
自分という部外者を連れている状態は正常ではない。事によっては自分にまで害が及ぶのではないか。
従者になった理由は光神教で魔族や魔物について調べるためであり、逃げる機会を伺う場合でも、怪しまれない範囲でアプリリスの動向も探っておくべきだろう。
「あの、何か不満はありませんか?」
先ほどの話題に戻せば、以前と同じか、新しい言い訳でも答えてくるかもしれない。今回の事を隠していたなら、嘘をつく必要もなくなったのではないか。
「休憩室で話していた内容で、聖女の立場が崩れる事はあるのか?」
「それは問題ありません」
「なら、構わない」
「……そうですか」
教会に着くまで会話は無かった。




