132.残留物
入浴を終えて更衣室から居間に出る。浴室の掃除と換気を行う間に、肌の湿気が失せた身体は布の着心地も良い。
寝台にいるレウリファが顔を向けてきた。日課の手を止め、袖が縮まったままの腕が下ろされる。洗う順を交代してからは、毛繕いをする姿を離れて見ていた。
会話が戻って、ようやく、レウリファとの接し方を確かめられる。
「手伝った方がいいか?」
レウリファが頷きを返したため、以前と変わりないように寄る。
身体が冷えないよう横たわらせた後で布団をかけ、触れる部位だけ布団から出させる。伸ばされた腕を持ち上げて、櫛を流すと布に抜け毛が小さく落ちていく。
次第にレウリファの目は閉ざされ、動きも無くなる。緩んだ指先の揺れが残り、次の部位を告げた時だけ身体が反応していた。
「おやすみ」
身体は冷えた頃に作業を終える。最後に差し出された足が自ら動く気配はしない。足まで届くまで布団を動かして、レウリファの呼吸も妨げないよう整えた。
反対側に回り込んで、寝台を広く使って寝転ぶ。明かりも消えて、記憶にしかない天井の木目を眺めて、気付けば寝ていた。
朝食を済ませ、家事も区切りがつく。普段の慣れた作業は、硬化魔法を試す余裕がある。
アンシーの教育で続けていた訓練もまともになりつつある。手を動かす、水に触れた、だけで乱れていた頃と比べれば、成長はしただろう。
実戦で扱う技量が欲しいため、定まった日常では足りず、可能な限り、戦闘に合わせた利用に慣れておきたい。
レウリファに頼んで、休憩の後は庭に向かい、久しぶりに訓練をする事となった。
昼という事もあって、普段より暖かく、視界は明るい。空模様が大きく関わっているだろう。
武装はダンジョンでの活動と同様に整えている。
こちらを視線で捉えているレウリファは兜を付けない。獣人特有の耳を現して、尻尾も見せている。
刃を潰した剣と鉄の盾を構えた相手は、さほど劣らない背丈を持つ。単に魔物相手なら雨衣狼に頼むべきだろう。自分の異常が発覚した場合の、人間を敵と想定した戦いを含めている。易しすぎる想定だ。複数を相手取る実力など持っておらず、包囲された時点で逃げる事も叶わない。レウリファ自体も戦いに長けた者ではない。今の自分には十分すぎる環境だ。
こちらに進み寄ったレウリファは、丁寧に弱点を付いてくる。筋力、柔軟性、平衡感覚。反応速度も勝てない。近い体重でも性能が異なり、押し負けるのは自分の方だ。唯一、自分が部分的に優れている要素は耐久性の高さであり、不安定なそれを全面に押し出して対処する事になる。
戦闘訓練というより耐久試験だろう。形勢が傾いた後の押し負けていく状況で、どこまで耐えられるか試すと言い表せる無様さだ。こちらが足取りを誤って転がると、レウリファが場所を選んで蹴ってくれる。操作に自由が利くとしても、頭部を狙われると硬化に失敗した場合の損害が怖い。
体勢を崩される手前で復帰はできる事は少ない。レウリファとしても隙を見逃すほど怠慢ではなく、代わりに要所で手加減をしてもらっている。
一度仕切り直して、呼吸を直す。次に盾を重ねて下がるのは、当然自分の方だった。
何度も転がり、何度も剣で突かれる。
硬化魔法の範囲も日常生活の内に、腕以外に、胴体も守れるようになったのだ。踏み付ける場合でも硬い物ほど衝撃は強い。急に硬さを変える事で、蹴る側の足にも負担を与える事は可能だ。蹴ろうとした水袋が水瓶になったら、蹴り足が革靴でも多少は痛いだろう。
現状は魔法の操作も遅く、レウリファの加減を難しくさせているだけ。実戦には向かない小手先の技でしかない。剣だけを使う相手なら思わぬ衝撃も手で逃がせる。
だが、硬いという利点は損なっていない。部位同士をぶつけ合う単純勝負ならレウリファに勝てる。人間より優れた獣人でも、壊れるには壊れる。強度があるといっても刃を通す肉であるため、人間で対処は可能だ。でなければ、個人で魔物を狩る探索者など存在できない。
考えがまとまらない。
転がされて今度は、両腕を取られて押さえつけられる。
盾を付けた腕も内側を見せてしまえば、攻撃を防げない。剣は転がる以前に離れたところで落とされた。残った盾も抵抗むなしく、奪い取られ、放り捨てられた。
胴体を暴れさせても相手を退ける事もできず、蹴ろうにもこちらに前傾になった頭部には届かない。
頭突きは怖い。
遠距離武器であれば、一方的に攻撃できる間は扱えるだろう。
残念ながら探索者が持つには不適だ。ダンジョン内は視界や音の通りが悪い場合もあり、仲間ならまだしも同業者に被害を与える可能性がある。組合でも使用は大きく制限されている。
壁外かつ認められた地域であれば、魔物相手での利用は許される。ダンジョン最奥の施設は例だろう。他を知らないが、視界が開けた空間にある防壁の維持に弓が採用されていた。
襲撃者が侵入前に仕向けた大量の魔物も、職員たちは弓で死体の山にしたのだ。魔物にも人間に対しても、有効な武器だが大きく制限されている。
残念ながら、硬化魔法と組み合わせる方法は思いつかない。
「ご主人様」
倒れている自分の上に乗るレウリファが顔を寄せてくる。
「悪い」
勝てない言い訳に怠けて、レウリファの時間を奪う形になった。
「……休憩にしましょう」
言い終えると、上から退かれた。
起き上がる際には手を貸してもらい、立った後も、体の汚れを落すのを手伝ってもらう。
何度も転がっていれば、砂利が敷いてある地面でも細かな汚れは付く。脱いだ後で丁寧な掃除をするため、ここでの整備は雑で構わない。
背後から伸びてきた両手が、胸と腹を撫でている。大きな汚れを落としてしまえば、残りは布や水で洗う方が早い。
「もう大丈夫だから、手を――」「――嫌です」
何度も触れている手を上から押さつけえる。動きを止めた後も離れる気配が無い。背後から抱きしめてくるレウリファの呼吸音が届く。
嗅ぐにしても臭いだろう。染み着いた血と泥も含めて、革本来の臭いがある。臭いを抑えるために塗った脂も無臭とはいえない。自分でさえ気付く。獣人の嗅覚なら想像以上かもしれない。慣れたり無視するにも限界はあるだろう。
待っているとレウリファの腕が離れる。足音も無い背後。気になって振り返ってみると、レウリファが好悪の見えない表情をしていた。
訓練を終えて自宅で武装を外すと、レウリファから替えの服を渡される。入浴するまでの間に合わせの服であり、使い古した汚れ自体は気にしない。
ただ、レウリファが差し出すそれは、前回使った服ではない。雑巾に加工すると決めたはずの服だ。取りやすい場所にあった本来の服を避けて、わざわざ、持ち出す意味は無いだろう。
ニーシアが去った事で生活の基準も変わるとは思っていた。服として長持ちさせるという判断は、節約のためかもしれない。
「ご主人様、着替えてください」
汗が染みたままの服では冷える。違和感はあっても破れは無い。着替えた後は、お湯が出来上がるまでの間に使用した武装の手入れをした。
お湯を浴室に運んで入浴の準備が終わる。更衣室には着替えも用意して後は順番が来るまで待つだけになった。食卓の席に座っていると、先に利用するはずのレウリファがこちらに寄ってきた。
様子が普段と違う。こちらの手を弱く引っ張ってくる。レウリファが何かを求めてくる機会は珍しい。加えて、見える表情は弱々しく。眉は下がり、目つきも落ち込んでいる。
「問題があったのか?」
否定する仕草が返され、言いよどむような動きがある。
椅子から立ち上がって、レウリファと顔を寄せる。見つめてくる目に潤みがあった。
「大丈夫なのか?」
視線を外さない小さな動きで首が振られた。視界の外で腕に触れられた。腕の途中から下がっていき、手を握られる。
「お願いします。……一緒に入ってください」
レウリファの細かな指が手の表面を撫でてくる。




