110.衝突
持つ杭が照らす光景。
血が固まって生まれた筋や布が、肉と泥の床を繋いでいる。
貼り付いた泥の層で重たい靴底で、滑らないようにだけ、粘質が潰れる感触を足で確かめる。砂を踏んで以降、叩き落とす必要も感じなくなった。
周囲でちらつく死骸の照りは、近寄るごとに増してくる。火明かりの方が静かだろう主張を避けて、明かりを揺らぬよう腕を保つ。肌も蒸されて手汗が濃い。
足跡はどこにもある。塊は潰されて転がり、死因さえ定かでない物もあるだろう。
生ものが積もった湿りを持つ腐臭は、地面低くくに澱んでいる。血の臭いで均すために、足でかき混ぜる。
鼻に限らず、舌や喉にまで刺すような臭いは、どうにも抑えられない。生き物で煮詰まった空気に、呼吸が怠けてくる。嗅ぎ慣れてきた経験など知れていた。
ありもしない体表のざらつきを無視して、倒れ込みたい意思を飲み込む。内から沸き上がる酸味よりは、まだ金臭さの方が疲れない。
人の気配を隠せないのに、近くの魔物は反応さえせず地面を掻いている。離れた場所でも群がりが見えていた。
異質な地帯を進み、防壁までたどり着く。
盾を持つ手に杭を預けて、指を休める。
壁には擦りつけたような血の跡が黒い。手で撫でると、硬い感触が返ってくるのが良い。この痕跡を残したものも同じ考えだろうか。
「大丈夫ですか?」
否。レウリファの声に応えようとして、張っている口角で声を作りにくい事に気付く。
「少し、疲れた」
まず、正気ではないだろう。
受け取った相手も納得して頷いている。
「一緒に。落ち着きましょう」
生きた感触は心地よい。顎の辺りを撫でてくる指は、こちらの意思で動くものではない。
細めた目といい、薄柔らかい笑みが作り物めいて良い。この場に合っている。違う場でも見たいと思うほどには狂っている。
声を出さないように気を付けながら、お互いの頬に触れて、体がこの環境に馴染むまでを確かめる。というのは嘘で、すでに意味もない。
ただ、遊んでいるだけだ。
すぐに飽きるだろう。
壁に背を預けて、通り抜けた道を眺める。
行きの風景は黒だったが、こちらは酷い。近くは赤黒い輪が広がっていて、奥から暗闇が染み込んできている。
背後から放たれる光と天井の薄明かりが、整えられた比率で黒を引き立たせているらしい。空間の端に見える照明が邪魔なくらいだ。
滑らかさの欠片もない、大小の歪みが広がる庭。大地が熱せられて泡立つ様子を、誰が描いたのだろうか。
生を実感できる素晴らしい光景は、見る者すべてを感動させてくれるに違いない。
「まだ、人の声が残っていますね」
「ああ、助けられるのは良い」
都合か、良心からか、結果は変わらないだろう。
時々だが、高い音が鳴る。硬いもの同士を叩きつけた音が、手で数える種類ほど。戦闘音は同一の場所から届いてくるようだ。
一応、目的にした以上、忘れると後悔するはず。
「ルト、ヴァイス」
手を伸ばすと、頭部を寄せてくる。
「獣魔を向かわせるには、相手の了解がいるな」
向かわせて敵と思われても心外だ。
「行こうか、レウリファ」
盾の固定具に腕を通している。掴みを持たないと不安定だが、落ちる事は無い。
そろそろ、剣を持った方が良く、杭もまだ手放したくない。
「はい、ご主人様」
先ほどと声の張りが違う。
死ぬわけにはいかないし、たとえでも、気が確かなまま死にたい。
防壁の崩れたところには、数々が通った痕跡があり、他でも同じだろう。近くまで進むと小さな物音が聞こえる。他の存在が壁の内に残っている。
レウリファが顔を奥に覗かせて、問題が無いと合図がくる。剣を持つ手が反応しているため敵だ。入っていった後に音が届いて、今度はこちらに顔を出してきた。
従って足を進めて壁の中に侵入する。防壁は肘から指先までの厚みはあった。断面は石と凝固土が混ぜた物が見えている。壊れた破片は遠くまで転がっている。
防壁の中にも血は続いているが少なくなっている。
建物の入口や壁際に死体が集まっているのは、防衛の利点を考えた結果だろう。侵入を狭めて、一度に相手をする敵を減らす。防壁の裏には足場が組まれていたらしく、木の骨組みが残っている。
拠点内は良く見えている。杭を持ってきたのは余計になるかもしれない。大小の建物があり、屋根だけ組まれた場所には荷車も見えている。長期間監視するいるための武器庫や食糧庫だろう。
組合が定期的に物資の運搬が行われるため、遠くない内に最奥の状況には気づく。自分が行っているのは、廃墟荒らしとして扱われる可能性はある。
戦闘が続いているのは大きな建物だ。来る途中で一部が崩れたため、断面が見えて3階層だと分かる。頑丈なのか骨組みは残っている。鉄格子の窓といい、防壁を突破された場合も想定して建設されたものだろう。
向かう途中に死骸はあるものの、ほとんどは防壁の外で食い止められたらしい。外とは違い原型をとどめた人間の死体も倒れている。防具のある場所が守られているだけで、死んでいる事は確実だ。見たままでは、人としか分からない。
近くに寄ってくる魔物はいないため、建物の内部を優先する。
レウリファ入口の壁に張り付いて、視線を中に向ける。崩壊した部分から漏れている男の声からすると、戦っているのは人間同士だ。
「照明は十分、手前に通路が20歩、奥に格子が見えています。通路を抜けて、左右に分かれましょう」
間取りを伝えてくる。杭はここで捨てて、剣を抜く。
戦闘の場に近付いた時点でこちらは気づかれる。通路から飛び出したところで危険に大した差は無いだろう。
「レウリファは左、俺は右でいいか」
「分かりました。ルトを借ります」
「ああ」
進んだレウリファに遅れず続く。
立ち入った通路は小さな窓口と開いた扉があるだけ、通路の正面に他の姿は見えない。
曲がる途中で格子の中央が視界に映る。広く囲われた空間に見える、台座とダンジョンコアは固定具のような物が取り付けられている。あの場所だけ建物の床が消えて、ダンジョンの建材が見えている。格子にある扉も開いている。
今は気にしない。
右に曲がった奥に階段が見えて、その手前に立つ存在が振り向く。奥の階段から戦う音が聞こえる。2階で戦いが行われているらしい。
光沢のない暗めな防具を着た人間。胴にまとう短剣の持ち手が並んでいる。腰巻に他の武器も隠れているだろう。少なくとも細身の鞘は見えた。
相手の姿を調べているのは、お互いだろう。視線は合わせたまま、身動きを見せない。
組合職員なのか確かめる間もなく、後ろで戦闘音が聞こえて、対面の腕が動いた。
直後に投げてきた短剣を盾で弾く。
同時に投げたらしい球体は、自分も相手からも離れた場所に転がっている。
相手が止まっているが、目を離す余裕は無い。
異様なのはヴァイスが落下地点へ寄っている事だ。勝手に動くのは困る。球体に近づくのは危険だ。
相手は、話をせずこちらに攻撃した、敵だ。
「黒い人間を狙え――」「――止まれ」
敵が重ねてきた声に従って、ヴァイスが止まる。
話し言葉が無駄なら別を試す。ダンジョンで生み出した魔物に命令する言葉だ。
「黒い人間を攻めろ」「止まれ」
相手の変わりない指示は無視されて、ヴァイスが距離を詰める。
雨衣狼の突進をかわして下がった敵が、腰から剣を抜く。ヴァイスの隙を埋めるために自分も敵を追う。




