105.抑制
店を出ると、夕暮れ前の空が見えた。
まだ、街並みがあり、自宅は遠い。
通りには建物が押し合うように集まり、脇道の暗さから玄関照明が点々と浮いている。この辺りに家を持つと、住み慣れない間は迷いそうだ。見知った建物や看板さえ、隠されてしまう。
先ほど夕食を食べた店も、次来る時は探しなおす事になる。いや、探す気になれない。いつか看板を見かけた時に立ち寄る方が、まだあり得るだろう。
自宅までの帰りは、目的地が分かるだけ気は楽だ。丘に向かうだけである。少ない道は、それぞれに大きく癖があり、まず間違えない。
適した生活をする住民が少なく、この辺りの住民は望まないだろう。
「アケハさん」
こちらを呼ぶニーシアの声が、少し間伸びしている。
歩幅を整えず、酔いを漂わせるニーシアが隣にいる。
薄めた酒は頼んでいた。匂いは弱く、以前いた都市で水として提供される程度だった。水を腐らせない程度の一杯では酔えない。
ニーシアの様子に見覚えが無い。勝手に転倒する事は無いにしても、普段より気にした方が良いだろう。
落ち着きを欠いた動作で、片手を掴んできた。
「アケハさんの家まで送ってください」
「同じ家じゃないのか?」
「そうでした」
続いた、短い笑い。
「一緒の家に住んでいて、探索者を続けて……」
腕を抱え込みつつ、寄りかかってくる。
「このまま3人で何事も無く、とはいかないですよね」
「そうだな」
探索者は死に慣れている。
余裕を持って戦えるとは限らず、死因は魔物だけじゃない。ダンジョン以外でも行方不明は多い。地形や植生も侮れない。対応を誤れば死に至るなんて事は、容易に想像できる。仲間を見捨てたり、まるごと帰ってこない例は、切りがない。
おそらく厳選されたもので、事件資料が公開されている。個別の事件を読むには終わりがない量で、内訳のまとめを確認する程度だ。類似性の高い例は都市毎に保管するか、各個の保存期間が決められているだろう。
体力を理由に引退できる探索者は多い。自分が安心するには割合が少ない。
「早めに引退して質素に生活するのは、いかがでしょう?」
「生きていけるなら、それでいい」
手持ちのダンジョンコアを売れば、今すぐ引退できるだろうか。
持っている事が知られると面倒になりそうなので、下手に確認できない。入手先を明かすと、身の安全は保証されない事は確かだろう。
探索者らしく稼ぐしかない。
「まあ、蓄えが増してくると、考えが変わりそうだが」
「その時は稼げるだけ、稼ぎますよ」
「俺も同じ考えになりそうだ」
「当然です。娯楽を学んでおけば、引退後の生活に張りが生まれますから」
不安が金で解決できる確信が無い。減るだろうという予感があるだけだ。
人並みに死ぬなら満足できるだろうか。
「本でも読むのか?」
ニーシアは以前、本を書き写していた。
「その場合は、図書館か資料館通いですね。紛失すると弁償が怖いので、本を借りる事は避けましょう」
探索者でないなら、図書館の方が適した本が多いだろう。一度行くべきだろうか。
「あるいは、古本屋で数冊を買い替えて、自宅で気ままに読書なんて楽しいと思いませんか。書き写す時間も不要で、変わった本との出会いもあるかもしれません」
製本されていない本や、個人による写本であれば、安く手に入るだろう。
「図書館も古本屋も、行く機会を逃していたな。ニーシアが写した本も読み終えたから、次は興味のある本を探してみるか」
「読書以外の趣味も探しましょう」
繋いだニーシアの手は細い。
体は小さく、筋力も弱い。それでも、不意打ちをしない限り、戦って勝つ自信は無い。
雨衣狼を指揮する事ができて、魔物と戦えるようになった。レウリファとの差に比べれば、自分とニーシアの戦力差は無いようなものだ。洗礼を受ければ、魔法を覚えるかもしれない。魔道具なら簡単に扱えるだろう。
ニーシアがこちら以上の戦力を持つ事が怖い。
裏切られた場合に対処できない程度なら、気は楽だっただろう。実際、王都にいる時点でニーシアに分がある。他人に、組合や教会に言いふらすだけで済む。
行動を狭めている事を自覚したくない。獣人のレウリファには、奴隷制度がある限り、言い訳ができる。ただ、ニーシアを縛るのは、こちらの都合だけだ。
無駄な心配だと思う。
こちらの存在が邪魔であれば、ニーシアは行動するだろう。
現状では離別したり殺害するほど、悪い環境ではないという事だ。行動に必要な力を蓄えていようと構わない。そう考えたい。
見限られる事は危険だろう。相手の望みに従う必要は無い。
確かめる動きに反応して、ニーシアの指が動く。
広く肌が合わさり、小さな隙間も埋まる。
繋いだ手の内に、食事をした時の熱がまだ残っている。
「長生きしてくださいね」
「わかった」
人並みに応えられる内容ではない。生きたい事は確かだ。
後ろに振り返る。
歩いているレウリファの表情が薄い。護衛に集中して、周囲を警戒しているのか。
人通りもあり、状況の把握は難しいだろう。騒動にあった場合でも責める気は無い。手を繋いでいる時点で身動きも悪く、武器の扱いにも問題が生じる。責任はこちらにもあるだろう。
「レウリファ」
「はい、ご主人様」
レウリファが目線を持ち上げ、こちらに合わせる。
「今日は櫛を持っていいか?」
夕食も早めに終えて、時間に余裕がある。
自宅の以外では、汚れを落とす際の毛櫛と安い木櫛しか使っていない。値段の安さと効率を考えた結果だとしても、満足はできないだろう。
毛並みの調子にも影響して、重さや弾力と質感に違いがある。櫛の品質もあり、油の染み込みや毛の通りがどうしても悪くなってしまう。
可能な時は良い整備をしたい。毛を持つ本人の方が強く意識しているだろう。すでに首輪を確認する事より、毛並みに時間と思考を費やしている。気がする。
「アケハさん」
ニーシアが顔を向けていた。
「その表現は不謹慎ですよ。外では特に……」
言葉は途中で抑えられる。
「確かにそうかもしれない」
首輪に触れるという表現であっても、この場で言う内容ではない。奴隷である事を他人に示す利が無い。聞いた他人が気に留める言葉選びも悪いだろう。
他人の櫛に触れる事も普通でなく、共有しているなら聞く必要も無い。
「……お願いします」
レウリファが近寄り、あと数歩もない距離で答えた。
「ああ」
寝る直前に答えても構わない、というのは身勝手な考えだった。
周囲を見回して顔を前に戻す。
歩く前方で街灯が灯っていた。
火付け役の持つ梯子が、歩道と馬車道の境を進み、こちらに近づいてくる。馬車の通りは少ない。道を横断した人が梯子の後ろを通った。
市街の街灯は、王都中央から広がる様に火が点けられる。住民の帰り足と探索者の夜更かしを支えてくれる明かりだ。
暮らしを助ける火も深夜に消される。後の大通りには灯り持ちが浮かび上がり、その数少ない火も、日の無い早朝には消える。宿屋を利用していた頃に、進む姿を見た事がある。高いと聞く。
明かりひとつが孤立する状態は頼りない。無い方が目立たず、襲われる事を防げるかもしれない。ただ、明かりを襲った相手は未遂でも捕まる。実際に捕まったかは確かではないが。
明かりを減らされる事を恐怖するのは、探索者も都市の住民も同じだ。壁に囲われた安全も、光あってこそなのかもしれない。
丘を登る時は、街灯の明かりから離れる。自宅のある地区では灯り持ちも見かけない。それでも、展望は明るい。
王都の市街が暗くなっても、城壁の上にある明かりは消えない。等間隔に存在する光は、朝空に負けるまで続き、夕暮れ後には再び見られる。
城壁の近くでは深夜でも火が続く。魔物の警戒や不審者の監視には必要な事だ。夜は城壁の門が閉ざされ、王都の出入りは制限される。
開門時の外には、野宿の群れが整理されていく様子があるだろう。
街明かりの中、帰路を進んだ。




