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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳  20

(にょ)是本末(ぜほんまつ)究竟(くきょう)(とう)」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注に、

「第一の『相』から第九の『果』までの九つの事柄が、究極的に無差別平等であること」とある。(P.212)


唯識(ゆいしき)」については、同書において、

「あらゆる存在をただ『識』つまり心にすぎないとする見解。迷いは、ただ心の変化によるゆえ、平凡な話、の意」と解説されてある。(P.212)


 第十 (にょ)是本末(ぜほんまつ)究竟(くきょう)(とう)


 上 迷迷迷(めいめいめい)(まよ)いは唯識(ゆいしき)(しょ)(へん)ゆえ(ぼん)


 下女が「是非おいで下さい」と言うので、盗まれるようなものも無い破屋(あばらや)の気楽さに、そのまま亀屋へ行けば、吉兵衛は待ちかねたような顔をして挨拶をした後、珠運を連れ、奥の一間(ひとま)に導いた。


「さて、珠運さま、あなたの逗留も既に長くなり、あれ程あった雪も大抵は消えてしまいました。この頃の天気の(こころよ)さ、旅をするにもそれ程辛くは無いと思われます。その道の勉強のために諸国行脚をなされる身で、今の時候にくすぶってばかりおられるのは損というもの。


 それもこれも、ご自分でもお分かりだと思いますが、若い人ならしょうがないと思うけれど、あのお辰に心を奪われてしまった故。しかも取り残されたことへの恨みもなく、その木像まで刻むとは。

 昔、恋に(こま)やかで、世間に(うと)い唐土の天子さま…漢の武帝…が、亡くなった夫人の霊魂を呼び戻すため、返魂香(はんごうこう)を焚かれたが、その姿を見たら見たで、又辛い思いをしたという話があります。そんな愚かな人物と同じだと悪口を叩くのは、真にお前のためを思うからで、本当はお辰めには逢ってはいない昔に返ったのだと諦めて、奈良へ修行に行き、天晴れ名人となられて、たとえ一時(いっとき)でも知り合いとなったこの爺の耳にあなたの良い評判を聞かせてもらいたい。


 しかし、何もあなたを追い立てるという訳ではない。昨日(きのう)もチラリと窓から覗けば、像も見事に出来た様子。この上は長くこの地におられても、つまりあなたの徳にもならないと、お辰が憎くなるに付けて、お前が可愛く、真から底から正直にお前、ドッコイ、あなたの行く末にも良いようにと、昨夕しっかりと考えてみたのだが、何としても、詰まらぬ恋を商売道具の一刀で切り捨て、横道にそれず奈良へでも西洋へでも行かれた方が良い。


 婚礼など勧めたのは爺、一生の誤り。(ほか)に悪いことをした覚えはないが、これが罪になって閻魔様(えんまさま)に『悪人』の(しるし)(てっ)(さつ)に名前でも書かれはせぬかと、今朝も仏様に朝茶(あさちゃ)を上げる時に懺悔(ざんげ)したくらい。

 爺が勧めて爺が止せと言うのは、(もち)竿(ざお)を握らせて殺生を禁じるようなもので、(まこと)に言いにくい意見ではあるけれど、ここを我慢して詫びがてら、正直にお辰めを思い切れと言いたい。 


 今度こそは間違っていないと思うが、人間は生き物、杓子定規の理屈で押し通す訳にはいかず、人情とか何とか中々難しいものがあって、遠くもない菩提寺(ぼだいじ)に参って、ご先祖様の墓に(しきみ)一束(いっそく)手向(たむ)ける易しさよりも、孫娘に友禅を買って着せる苦しさの方が、(かえ)って仕易(しやす)いから不思議なもの。

 損得を算盤ではじき出したら、珠算ならぬ珠運の一身(いっしん)は、二一添作(にいちてんさく)の五も六もなく旅立ちが徳と()まるであろうが、人情の秤目(はかりめ)に懸けると、魂の分銅次第で、三五(さんご)が十八にもなるというもの。揚屋(あげや)…遊女屋…で飲む酒一猪口(さけいっちょく)弗箱(どるばこ)よりも重く、色には目がなく、ただ一筋に色道を突っ走ってしまい、身代の釣合を滅茶苦茶にする男も世の中には多いわ。


 お前の、イヤ、あなたの迷いもやっぱり人情、そこであなたの納得が行くよう、年の功という眼鏡を掛けてよくよく曲者の恋の正体を見届けた所を話しまして、お辰めを思い切らせましょう。


 先ず第一に、何を可愛がって誰を慕うのか? 調べてみると余程おかしなもの。爺の考えでは、恐らく女に溺れる男も、男に(くら)む女も、本当は皆々(みなみな)自分で作り出した影法師に惚れるらしい。

 普通の人の恋の幕開けはこうであります。梅花の匂いがぷんとしたと振り向けば、柳のような姿形の玉の顔。これは美人だと感心した所までは、西行も凡夫も変わりはない。しかし、愚者(たわけ)はその女の影を自分の瞳の底に仕舞い込んで忘れず、それから縁も手伝って二度、三度も逢うことになり、挨拶の一つも交わされると、影法師殿は段々堅くなり、愛嬌の言葉を執着の耳の奥で自ら何度も繰り返して聞き、なお一層縁が深ければ、冗談のやり取り、そして親切の受け授けとなる。


 男はちょっと逢いに行くにも『新著百種』…この「風流仏」を含む小説シリーズ…を一冊土産にやれば、女は『夏の夕陽は憎らしいほど陽射しが強うて、お暑うござりましたでしょう』と、岐阜団扇(ぎふうちわ)で風を送りながら、氷水で手拭いを絞ってくれるまでになる。

 そうなると、有り難いほど嬉しい。ご馳走の瓜と共に美味(うま)いものが胃袋の中に染み渡り、さあさあ堪らんと、影法師に魂が入って、むくむくと働き出し、ご容貌は釈尊に備わる三十二相どころか、百三十二相も揃い、お声は鶯に美音(びおん)(じょう)を飲ませたかと思われるよりもまだ清く、お心も広く、無性(むしょう)に拙者を可愛がってくださる結構尽くめ。そうなってくれば、


「もう、堪らない!」と、横車を押して、こちらから親父を勘当してでも、女房にする覚悟を決めて、めでたく婚礼。だが、一緒になってみると……、自分の妄想ほどには本物は面白くない。

 襟足は坊主のように短く、乳の下には焼き芋の焦げに似た(あざ)(あら)われ、しかも、紙屑屋と見苦しいやり取りをされては、威勢の良い声も聞きたくなく、いかさま花札で負けても平気なお心は、寛容(おおよう)なのを通り越して、最早迷惑。


 どうしてこのような(めす)配偶(つれあい)にしたのかと後悔するのが人生半ばの大喜利、幕引き。本当を言えば、一尺の物差しが二尺の影となって映るように、自分の心という(ともしび)から出た、それ程でもない女の影を天人(てんにん)じゃと思いこんだだけのこと。


 恋も、又恨みもあるお辰めも(まさ)にそれと同じ。お前の心がこしらえた影法師に過ぎず、お前が惚れているだけに、お辰の像に後光まで付けた所を見ると、天晴れな女菩薩とも信仰しておられるかも知れぬが、影法師じゃ、影法師じゃ。お辰めはそんな気高く優美な女ではない。この爺も今日悟って憎くなった。迷うな迷うな。ここにある新聞を読め」と、初めは丁寧に『あなた』と言っていたが、最後には『お前』と言っても、訂正しなくなるほど、話に夢中になり、珠運は散々に言って退()けられた。


「おのれ爺め、似非(えせ)物知りの恋の講釈。愛しい女房を『お辰め』『お辰め』と呼び捨てするとは片腹痛い」と、睨みながら、言われたことには返事を返さず、

「昨日頼んでおいた胡粉(ごふん)…日本画の白色顔料…は出来ているか」と、刷毛(はけ)諸共(もろとも)に引きもぐように受け取り、新聞を懐に入れて、止めるのを聞かず、()()立って、歩く足付きも荒く、既に慣れ親しんだ破屋(あばらや)に駆け戻れば、優然と長閑に立つ風流仏。それを見ている内に、徐々に怒りも収まり、何をさておき、色合いも程よく仮塗りを仕上げて、柱に凭れ、ゆったりと胡座をかいて暫く眺めているのは愚かというものか。


 と、吉兵衛からさっき聞かされた言葉が気になって、新聞を開くと、


              <岩沼令嬢と業平侯爵>


という見出しが眼に入り、その箇所を読み下せば……、


深山(みやま)()(ぎょく)、都に入ってからは三千もの軽石(かるいし)どもが顔色を変えて褒めちぎるくらい評判になった当代の美女、岩沼令嬢には、何人もの公子、豪商がのぼせ上がり、何とかご機嫌を取ろうと望んでいたが、かねてから『(いま)業平(なりひら)』と評判の高い某侯爵が、終に子爵の許諾(ゆるし)を得て、近々、結婚する運びとなった由。侯爵は頭脳明晰にして優雅、当世の業平と呼ばれるのに相応しい好男子であることは、人々のよく知る所であり、令嬢も侯爵も共に、愛し愛される幸せを感じておられ、この目出度い出来事は、人々の羨望の的となった」とある。

 それを読んだ珠運は、見る見る顔色が赤くなり、青くなりして、新聞紙を引き裂き、何処(どこ)とも知れず打ち付けた。


つづく

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