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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳  19

(てっ)して」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注には、

「こねかためて。粘土で形を成す(捏造)ように、珠運の妄想だけを堅くこねかためて」とある。(P.210)


自覚妙諦(じかくみょうたい)」については、同書において、

「仏教で『諦』は真実にして謬らず、万世に亙って易らぬ不磨の事実、の意。諸経諸論で詳細・厳密に説かれ、四諦の他、真俗二諦、三諦、十諦、十六諦等、様々にある。『妙諦』を教義的に位置づけることは不可能と思われ、ここでは『すばらしい真理の自覚』といった程度の意か」と解説されている。(P.210)


 下 (かた)妄想(もうそう)(てっ)して自覚妙諦(じかくみょうたい)


 腕を隠していた花を一輪を削り、二輪削り、自分が考えた花衣(はなごろも)の意匠を捨てて、人そのままの美を(あら)わそうと勤めた甲斐があって、今となっては中途半端に着せていた花衣を脱がせていくのが面白く、終に肩の辺りや頸筋(くびすじ)の辺り、梅も桜もこの(ひと)の肉付きの美しさを(おお)うほどの値打ちも美しさもないと、()ち落とし、切り落とした。


 むっちりとして愛らしい乳首も、これを隠す菊の花は香りも無い癖に小癪なとばかり、刀も(せわ)しくこれも取り払い、おかしいけれど、珠運は昨日まで自ら施していた(わざ)をお辰の敵がしたことのように憎んで、今刻み出す裸体は想像の一塊であるけれど、それが実在(まこと)のように思えれば、昨日したことが益々愚かだったと悟り、

「美しいものの上に泥絵の具で変な色を塗ってしまった」とか何とか、独り後悔、慚愧(ざんき)し、聖書の中へ『山水(やまみず)天狗(てんぐ)』…山の字と水の字を組み合わせて書いた天狗の戯画…の落書きをした子どもが、日曜の朝に、焦りながら消しゴムで消すように、慌て狼狽(うろた)え、一生懸命になって、刀は手を離れず、手は刀を離さず、必死になり、無我夢中になった。きらめく(やいば)は燈火に転がったダイヤモンドがきらきら光るようで、()ち切る音は空を駈ける矢羽(やばね)が風を切るようであった。


 一足下がって釣合を()(ただ)す時は、琴の糸を断ち切ってもなおそこに余韻のある如く、意気はきゅうきゅうと張り詰めて、気持ちは昂ぶり、これまで幾年にも渡って学んだ知識と、力一杯鍛えた腕一杯の経験修練が今、沸々(ふつふつ)と渦巻き起こって、拳の先にほとばしり、()むのも忘れ、疲れも忘れ、心は冴えに冴え渡って、一心不乱に精神を集中、骨も休めず、(すじ)も緩めず、額に湧いて出る玉の汗さえ拭い取ることもなく、そんな不退転の心境となれば、耳に世界の音も聞こえず、腹は餓えても補わず、自然と身体も命も惜しむことさえ無くなり、もう何からも自由で、自信に満ちていた。


 切り屑を吹き払う熱い息、そして吹き掛け吹き込む一念の誠を注ぐ鋭い眼光で凝視すれば、そこに見えていた仮の姿の(はな)(ごろも)を纏ったお辰の虚妄の影から解き放され、珠運はいつしか深く果ての無い境地に入っていった。

 やがてすべてを成し遂げると、そこには荘厳で、姿形も美しく整い、有り難く、言いようもないくらい美しく優れた、真の風流仏が顕れたのである。


 その風流仏を仰いで、珠運はよろよろと幾足か後ろに後ずさり、ドッカと座り込んで、飛び散った木屑の花を捻りながら、意味ありげに微笑んでいたのだが、良いことが少なく悪いことが多いこの三界(さんがい)は、いつも苦悩に満ちており、少しも安心が出来ないもの。微笑んでいる珠運に、

「珠運さま、珠運さま」と戸口で(せわ)しく呼ぶ声があった。


この部分は、露伴の描写が冴える箇所であるが、いかんせん、私の文章が拙く、うまく表現できないのが残念である。


「切り屑を吹き払う熱い息……」以降、「真の風流仏が顕れたのである」の原文は、

「切屑払う熱き息、吹き掛け吹込む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄まじきまで凝り詰むれば、爰に仮相の花衣、幻翳空華解脱して深入無際成就一切、荘厳端麗あり難き実相美妙の風流仏」である。


『仮相』と『実相』の関係を表現するのが難しい。

私の解釈、現代語訳が誤っているかもしれない。ご教示いただければ幸いである。


この章では、珠運がお辰に自ら着せた、梅、桜、菊などの花衣を削り、裸体を表現するシーンが描かれるが、実際、挿絵にも裸体のお辰が描かれている。

これに関して、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の『補注』に面白いことが書かれてあったので紹介しておく。


それによると、この時代、山田美妙作「胡蝶」の中に、渡辺省亭が描く女主人公、胡蝶の裸体があって、その挿絵が発表当時大いに物議をかもし出した由。

このスキャンダルに乗ずるかのように露伴は「風流仏」にも裸体女性の挿絵を載せたのであるが、幸か不幸か、その絵があまりにも稚拙であったため、「挿絵裸体の彫像の如き其のまづさ加減言語同断と云うべし」と切り捨てられ、たいした話題にならなかったという。(P.497参照)

興味ある方は、ネット検索すればヒットするので、ご覧いただければと思う。


「風流仏」も残すところ、「第十 上・下」、及び「団円」の三回となった。

最後までお付き合いいただければうれしいです。






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