幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 18
「如是果」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注に拠れば、
「諸現象における、因に対する結果にあたるところ。珠運の心の中のお辰像という因が、恋の挫折という縁によって、風流仏という果に至ることをいう」と解説されている。(P.207)
また、「未得安心」とは、同書において、
「『いまだ安心を得ず』。『安心』は、信仰や実践により到達する心の安らぎ・不動の境地」とある。(P.207)
第九 如是果
上 既に仏体を作りて未得安心
自ら気力、勇気を奮い立たせて仏道修行に精進し、心身を清めることを怠らず、『南無帰命頂礼』…仏を礼拝するときに唱える言葉…と、真心を凝らし、心を尽くし、三拝しては一鑿振るい、九拝しては一刀を振るって刻み出された木像。
「有り難や有り難や、お釈迦様の三十二相を見事に写したそのままの仏様、拝めば御利益疑いなし」と、生臭和尚様が語られたが、それに深い意味などない。これはただ優鈿大王…家臣に初めて仏像を作らせた王…とか饂飩大王とやらに頼まれて行った仕事。
仏師もやり損ねては大変だと額に汗して、眼に木片の飛び込むのも構わず、ただ恐れ惶んで作っただけ。
仏像をひたすら敬い慎むのがそんなに面白いものではないのは、『ご本尊様の前で朝夕読経するのはくたびれるものよ』と、愚痴を言いながら、そのくせ、夜が更けるのも厭わずに、妻の傍で下世話な雑談をする坊主がいることでも分かると、そんな風にあれこれ評するのは、両親を寺参りさせて、その間に『鬼の居ぬ間に洗濯する命じゃ、しゃぼん玉の泡のような儚い夢のような世の中では、楽をしなければ損だ』と、帳場の金を攫み出して遊郭で遊ぶ息子だという。
まあ、そんなことはどうでもいいが……。
珠運が少しずつ平面板に彫り浮かべるお辰の像は、元より誰に頼まれたものでもないので、これを彫ったからといって金を取る訳でもない。ただ、恋しさが募ってのことである。一刀削っては暫く茫然と目を塞げば、『花漬はいかがでございましょう』と艶めかしい声を洩らす口元の愛らしさが浮かんで来て、『オオ、それそれ、その口元』と、その影を捉えるように又一刀。また、一鑿突いては後ずさりして眺め、幾日かの恩愛を思い出す。
助けたり、助けられたり。熱に汗蒸れて、臭い身体を嫌な様子も見せず、柔しい手でもって介抱してくれた嬉しさは、今はもう風前の雲と消えて、思いは徒に都の空を駆け巡ることこそ悲しい。
なまじ最初、お辰の難を助けてこの家を出たその時に、留められた袖を思い切って振り払っておいたなら、これほどまでに切ない苦しみにはならなかったものをと、恋しさを恨む恋の愚痴。
自分でも自分がよく分からなくなって、ぼんやりする所へふっと現れるお辰の姿、眉付きも媚かしく、生き生きとした瞳は、どんな情を含んでか、自分が与えた櫛をじっと見とれる美しさ。『アア、ここだ!』と再び幻を写して又一鑿。
漸く二十日を超えて、最初に思った通りの意匠が出来上がった。花漬売の時の襤褸も着させなければ、子爵令嬢の錦も着せず、梅、桃、桜、菊という色々の花を綴った衣装を麗しく引き纏わせれば、全身像は惚れた眼から見れば、観音の化身かとも見えて、誰に遠慮することもなく、後光輪まで付けて、天女のように見事に出来上がった。
我ながら満足してほれぼれと眺めて過ごし、その夜の夢での逢瀬はいつもより嬉しく、胸に抱いた有り丈の思いを濃に、
「恋というものを知らなかった珠運を煩悩の深水へと導いた笑窪が憎いぞ」と伝えれば、
「可愛がられて喜ぶというのは、まだまだ浅うございます。あなた様に口惜しいほどに憎まれたからこそ、誓文に移り気のない真実を命かけて打ち込んでお見せしたものを」
「や、それはどういうこと。お前を一生可愛がって暮らそうという男なのに」
「アレ、そんな嘘を。さっきは『憎い』と言われたのに、今度は『可愛がって』とは、後先が揃いませぬ。どうも殿御はお口上手」と、笑みを含みながら睨んで、ちょいと打つ真似をして手を上げる。珠運はその華奢な手首をしっかりと捉えて、柔らかに握りながら、
「打たれるほど憎まれてこそ、誓文に命懸けて移り気はないという真実を」と、早速の鸚鵡返し。流石に可笑しかったので、お辰は笑いかけながら、身を縮め声を低くして、
「この手を……」
「離さないのが悪いか」
「ハイ」
「これはこれは、実に失礼」と、珠運はそのまま離して拗ねた真面目顔。それをお辰が心配そうに横から覗き込めば、じっと見られてすましてはおられず、すかさずお辰の眼を強引に両手で蓋をすると、お辰はそれを握って、
「離さないのが悪いか」と、男言葉。後は二人揃って笑い転げる睦まじさ。
だが、そうしている中に、
「娘、娘」と、子爵の錆声……。ふと目覚めれば、昨夜開け放した窓を掠めて飛ぶ烏が。
「憎らしい、あの烏が鳴いたのか」と、腹立たしさに振り向く途端、彫像のお辰は夢の中のお辰と較べると、まったく見劣りがした。その身体を掩う数々の花がうるさく思え、何処の唐草の精霊かと嫌になった心に、悪口さえも浮かんでくる。とすれば、
「今は何を着せるべきか」
しかし、何とも思い付かないまま、あれこれと思案しながら刀を研ぐのであった。
つづく