幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 17
「化城諭品の諫」について、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注には、
「『法華経』化城喩品第七に、悟りまでの困難を険難な悪道に喩え、疲れ畏怖する衆生を励ますために、神通力で都城を化作し、皆が一時の安息を得た後、化城を消し、最後まで悟りへの旅を続けるよう忠告する、とあるのが「化城論(=喩)品の諫」。吉兵衛の珠運に与えた忠告をいう」と解説されている。
下 化城諭品の諫も聴ぬ執着
痩せに痩せた。病気の揚げ句、恋に悩まされ、悲しみに絞られて、この身は細々として、気持ちも冴えず、浮藻に足を絡め取られる泥沼の深みに嵌まったり、露をたっぷり含んだ苔道を歩いていると、山蛭がヒヤリと襟元に落ちてくるなど、怪しい夢ばかり見て、目覚めも胸悪く、日の光りさえこの頃は薄くなって、天地までもが自分に辛く当たっているのではないかと疑い恨む珠運であった。
旅路で思ってもいなかった長居、最早三ヶ月近くになるのにも気づかず、まして奈良に向かう日課にしていた十里の行脚どころか、家の中を歩く気力さえなくし、昼はうたた寝勝ちで、時折怪しからぬ譫言を言いながら、人の顔を見ても冗談一つ言わず、ニヤリともしなかった。
季節は漸く春めいて、青空を渡る風は長閑で、木々の梢は雪の衣を脱ぎ捨てて、家々に吊り下がった氷柱もいつの間にか失せ、軒を伝う雫は絶え間なく白い雪を斑に消して、南向きの藁屋根は去年の顔を今年初めて露せば、目が霞んだ老人も、やれ懐かしいわいと喜び、水は温み、下草は萌えた。
鷹はまだ出て来ないか、雉はどうだと、終には若鮎の噂まで先走って、若い者は春の野を駈ける馬のように元気づいてくるというのに、この珠運のあるまじき塞ぎよう。たとえばこの後、がらりと早変わりして、
『さてもさても、お前様は踊りが見たいか、踊りが見たけりゃ、木曽路においで』などと、長唄『狂乱雲井袖』ではないが、珠運に乱痴気騒ぎができればいいが、そんなことなど出来る訳もないわなと、亀屋の親爺は心配して、
「泣くな、泣きやるな。浮き世は車。大八車の片輪を田圃の中に踏み込んだようにじっとしてくよくよしているより、外を歩いてみたら、又どんな女に巡り会うかも知れぬ。『柳の下にいつでも泥鰌はいない』の喩えのように、いつもの魚は釣れない代わりに、もしかしたら『思いがけなく蛤から真珠を拾い出す』という諺もあるわ。お腹を広く持て、コレ、若いの。恋は他にもあるものを」と、言葉可笑しく、禿げ頭の脳みそから古くさい『浮気論主意書』という所を引き抜いて、黴の生えた駄洒落を熨斗に添えて度々持ち出すけれど、少しも取り合わず、ずいぶん面白く意見を喋っても、劫って珠運は溜息で相づちを打つばかりであった。
これではいかんと、今度は冗談や駄洒落抜きのきちんとした口振りで、真面目に理屈も丁寧に述べ、くどくどと処世訓を垂れれば、不思議に、いかもに穏やかな人だと思われた人は、何に我慢できなかったのか、急に大声でばりばりと語気も烈しく、
「要らぬお世話。ご心配ご無用。煩くてかなわぬ」と、ひとまくりにやっつけられ、吉兵衛は敗走せざるを得なかったが、それでも
『構わずにおけば、今の時代には流行らない恋の病になるのは眼に見えたこと。どうにかして助けてやりたいが、難儀なことじゃ。それとも、いっそこの家で、死人が出ない内に追っ払おうか。いや、それも忍びがたい。なまじお辰との婚姻を勧めていなかったなら兎も角も、自分の口から言い出した以上は、自分の分別で始末を付けなければ、この吉兵衛、男が廃る』と、知恵を働かせたのは見上げた気性ではある。
歳は取るべきもので、流石、古参兵としての先行きの見分け方、見所は過たず、詰まるところ、手に何もすることがないと余計な気持ちが働いて苦しむものだと考えつき、ある日珠運に向かってこう言った。
「この日本一の果報男め、まあ聞いてくだされ。昨日儂の見た夢に、金襖も立派な御殿の中、眼にも綾なる美しい衣装を着たお姫様が床の間に向かって、何やらしておられる。その鬢付き、襟足のしおらしさ、後ろからかぶりついてやりたいほど。もう二十年若ければ、ただでは置かない者めと、腰は曲がっても、その艶なお姫様に忍び足。そろりそろりと伺い寄って、縁側に片手を付いてそっと横顔を拝めば、驚いたことにお辰ではないか。花漬売の時よりも百倍綺麗で、殊更憂いを含んでいて、凄みある姿。総毛立ちながらも良くそこら辺を見回せば、床に掛けられた一つの軸。誰だと思う? お前の姿絵だ。少し妬ましくなって、迷いの心を兆した途端、縁の下から現れ出た八百八狐が付き纏って、儂の踵を狙うから、こいつは堪らんと、逃げ出す後ろから諏訪法性の冑だかと、粟が八升も入る紙袋だとかをスッポリと被せられ、方角もまるで分からなくなって、頻りに眼玉をパチパチしたら、掻い巻きの袖に首を突っ込んでいたという訳さ。
『本朝廿四孝』の八重垣姫と武田勝頼ではないけれど、当世の勝頼様、チト自慢しなされ。アハハハ」と笑い転げて、そのまま座敷をすべるようにして立ち去れば、後は劫って淋しさが増し、珠運は今の話にまた恋しさが溢れて、そのことあのことと、もの淋しく柱に凭れながら物思いに耽る内、瞼は自然と閉じ……と、その時、ありありとお辰の姿、
「おい、ちょっと待て」と、手を伸ばして裾を捉えようとすると、儚くも幻の空に消えて残るのは恨みばかり。せめてはその面影をここにと思い立ち、亀屋の亭主に導かれたとは知らずに、自ら良い考えが浮かんだと、吉兵衛に相談すれば、
「うむ、それは尤もな望み。閑静な一間が欲しいと言うなら、お辰が住んでいた家が一番よかろう。畳さえ敷けば、細工部屋にして、精々一月くらいは住むのに不足はなかろう。ナニ、こちらから話に行くのは断ると言われるか。うむ、それも承知しました。それなら、食事を賄う以外は人を通わせないようにいたしますか。しかし、それは余りに牢屋住まいの様ではないか。ムム、そうか、それも勝手というなら仕方がない。新聞だけは時折入れましょう。ハテ、それも要らない? それはよくないよくない、気分が萎えた時などには是非世間の面白可笑しい有り様も見るのがよろしい」と、すべて親切に世話をし、珠運が嬉しそうに恋人の住んでいた跡に移るのを見て満足したが、困ったことに、立像を刻むほどの大きな良木がない。あちこち手配したが見つからないので、厚い檜の大きな古板を与えたのであった。
つづく