幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 16
「如是力」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注に拠れば、
諸現象の能力。風流仏を生み出す力―副題にいう「愛慾」・「執着」がいよいよ動き出す」と説明がなされている。(P.200)
「楞厳呪文」とは、「日本近代文学大系6 幸田露伴集」の注に拠れば、
「楞厳経で説かれている神呪四百二十七句をいう。これによって諸悪鬼病の難を避けることができるという」とあり(P.66)、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注には、
「この呪文によっても消せない『愛慾』が風流仏を生み出す」とある。(P.200)
第八 如是力
上 楞厳呪文の功も見えぬ愛慾
以上は、古風作者が書きそうな『めでたしめでたし』で終わる話である。味噌漉提げて買い物をしてまわるあのお辰が、庶民から遠く離れた華族の岩沼子爵様の愛娘と聞いて、吉兵衛は仰天、
「それでこそ神も仏もおられる世の中じゃ、因果ははっきりと顕れるもの。環境の良いところには良い大根が実り、身持ちの良い者には幸運の実がなるという理に叶った幸福」と、無性に有り難がり、嬉しがり、一も二もなく田原の言うことを了承して、自分が勧めて結婚させようとしていたことは忘れたように何とも言わず、物思わし気な珠運の気持ちは聞かないでも分かっていると、自分で勝手に納得し、これまで準備してきたことをすべて無いものとして、皆にも以後、貧女ではなく、令嬢と言うように取り計らった後、先日の百両を突き戻して、
「私、今時の考え方はよく知りませぬが、このような気に入らない金を受け取ることは大嫌い。珠運様への百両は確かに返しましたが、その本人にも礼をしない子爵からこの親爺が大枚の礼をもらうのは、この疎らな歯で炒豆を喰えと言われるよりも有り難迷惑、お返し申します」と、率直に言えば、
「いや、それは悪い勘違いというもの。頑固にそう言われずに、子爵からのお志、是非お取り置きくだされ。珠運様には別にお礼を申し上げますが、姿が見えないということはすでにお立ちなされたか。ナニ、奥の座敷に。そうであれば、ちょっと……」と、鞄を提げて行きかければ、亭主が案内するというのを固く拒みながら、
「ご免なされ」と、襖を開けて、初対面の挨拶を終え、お辰の素性のあらまし、岩沼子爵の昔今を語り、これまでの礼を厚くのべて、子爵からの礼の贈り物の数々、すなわち、金二百円、子爵直々の謝状、お辰の手紙を置き並べて、ひたすら低頭平身すれば、珠運は少しムッとなり、お辰の手紙だけを受け取り、その他のものには手をつけず、先日、吉兵衛を介して返された百両までもそこに投げ出して、
「お持ち帰りください。面白くもないご処置。珠運がしたことを利を得ようとする商法だと思われたか。片腹痛いというもの。少しばかり尽力したのも岩沼令嬢のためにした訳ではありませぬ。お辰が愛おしいと思ってしただけのこと。それから段々と距離が縮まるに付けて、縁というものあればこそ力にもなり、あるいは、力になってももらい、それが互いに嬉しく、心底打ち明け、荷物の多いのさえも厭う旅路の空の下、婚礼までして女房を持とうということとなったのに、その間際、突然に引っさらい、人の恋を夢に変えてしまい、貘に喰わせよとする情けもないなされ方。
これはまあどうした訳と、二、三日は気抜けするほど恨めしく思ったけれど、ただいま承れば御親子の間柄とのこと。大切な娘御を私風情の賤しい者に嫁入りさせてはと、ご家来のあなたがご心配なさって連れて行かれたのもご道理、決して私めが身分もわきまえず、岩沼子爵のご令嬢をどうのこうのとは申しませぬから、金円品物はきっちりそのままお持ち帰りくださいませ。しかし、はっきりと夫婦の約束までしたあの花漬売は、心さえ変わらねばどうしても女房に持つ覚悟。十二月に御嶽山の雪は消えることがあっても、この思いは消えませぬ。アア、厭うべきは岩沼令嬢。恋しいのは花漬売……」と、最後は取り乱しての男の独白。
『よし、ここが肝心なところ。ご主人から承ってきた所だ。仮にこの恋が諏訪の湖の氷よりも堅くても、春風のようにほやほやと説きやわらげ、凝った思いを水に流させ、その後々に面倒がないようにしなくては』と、田原は笑顔をあやしく作り、上唇を時折舐めながら、
「それは一々至極当然のお道理。しかし、そうは言っても人間を二つにすることも出来ず、また、お辰様が再び花漬売になられることもない話。それはつまりあなたの無理なお望みというもの。あなたが嫌なのは岩沼令嬢、と仰られるのをみると、まさか自ら子爵の婿になろうというお考えでもないでしょうが、夫婦の約束までなさったとといっても婚礼が済んだというのでもなし、お辰様は今の所はあなたを恋しがられておられる様子ではありますが、まだまだ思慮の足りない生若い者の感情、追っつけ変わって来るに違いないと殿は仰る。将来は相応しいご縁を求めて、いずれかの貴族の若君を婿として迎え入れられるお積もり。これも人の親の心になってお考えになれば無理なことではないと、賢明なあなたにはよくお分かりでございましょう。こう申せば、あなたとお辰様の情交を裂くようにも聞こえましょうが、花漬売のお辰様としてこそあなたも約束をなされたはず。詰まるところ成就は覚束ない因縁であります。男らしく思い切られた方が双方の御為かと存じます。しかし、お辰様には大恩あるあなたを子爵もどうしておろそかに思われましょう。そうでありますから、これらの贈り物を親御からなされるのは至極当然のこと。受け取らないと仰られてもそういうわけにはまいりません。どうかこの道理が立つようにご分別いただき、曲げても、曲げてもお受け取りを」と舌小賢しく、言い逃げるように東京へ帰ったようだが、その後音沙汰はない。
いや本当に浮世というものは……。猛々しい虎も樹の上の猿には侮られ、身分の隔たりを恨むことしきり。
「我に肩書きがあれば、あの田原の額に畳の跡を深々と付けさせ、恐れ多い言葉遣いを強いて、子爵には一目置いた挨拶をさせ、最後には婿殿と大切がられるべきであるものを、四民平等の今日と言っても、庶民と華族の違いは厳然として残っており、それが口惜しい。珠運を安く見積もって、何百円であれ、何万円であれ、札で唇に蓋をしようというような処置、何があっても忘れられぬ恨み。しかしながら、子爵は正四位何の某とあっては、仏師彫刻師を婿にはしたがらないのも無理のない人情。
どうしようもないけれど、しかし、そもそも仏師は光孝天皇の皇子、『是忠親王』等の系に出て、平安の仏師『定朝』は初めて僧綱の位を受けているなど、それ程賤しい身分ではない。西洋においては『声なき詩の色あるものを絵』と言い、『景のない絵の魂が凝ったものが彫像』と言われるほど尊ばれる技を持つ我、ミケランジェロにも劣りはしないぞ。たとえ令嬢の夫であっても何の不都合があると言うのか」
とは言え、蝸牛のような角を立てていきがっても何の役にも立たず、残念、無念と癇癪の牙を噛むが、食いつく場所がなければ、なお一段と憤懣が高じて、果ては
「不甲斐ないこの身など惜しくはない、エエ、木曽川の逆巻く水に命を洗って、お辰を知らない前に生まれ変わりたい」と、顔を紅潮させる夜もあったのだった。
つづく