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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳  15

(にょ)是報(ぜほう)」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注に拠れば、

諸現象の報いとしての結果。お辰がけなげに生きてきたことの報いとして、父との再会がかなったことをいう」とある。(P.196)



他化(たけ)自在(じざい)天宮(てんぐう)」については、同書に、

「仏教で、衆生の世界を六道に分けた時、その一つ天界のうちの欲界の最上層、第六天のことをいう。父岩沼子爵の住む上流社会にお辰が入ったことを示すが、仏法における第六天は魔王が集まって仏道の妨げをなす天である。この天にあるものは他の楽事を自由に己の楽事となし、また欲を行うには男女互いに視るのみで婬を成すといわれる」と、記載されている。(P.196)


 第七 (にょ)是報(ぜほう)


 (われ)(とび)()他化(たけ)自在(じざい)天宮(てんぐう)


「オオ、お辰か!」と、抱きつかれたお方は、見れば髭麗しく、顔清く、衣装も立派な人であった。

「ハテ、どこかで会ったような……」と、思いながら、身を縮め、恐る恐る振り仰ぐ顔に、落ちてくるその人の涙の熱さは骨にまで浸みるようで、

「アア、五日前、生涯一の晴れの化粧をするためにと、鏡を覗いた時の自分の顔と少しも違わない。さては、(とと)(さま)か」と、早くも悟って(すが)少女(おとめ)の利発さ。


 そういうところにも(むろ)()の名残の風情が忍ばれて、気丈夫な子爵も二十年の昔、

「ご機嫌よろしゅう……」と、言葉の最後も弱々し気に見送られた時、後を振り向いて今一言言葉を交わしたいのを無理矢理唇を噛みしめて、誰のためにか、女々(めめ)しくないような風を装い、急がなくてもいい足をわざと早めながら、後ろを見ることの出来ない眼を恨んだ別離(わかれ)の様子まで胸に浮かんで切なくなった。


「娘、許してくれ、今までそなたに苦労させたのは我が誤り。もうこれからは花も売らせぬ、襤褸(ぼろ)も着せぬ、吹き(すさ)ぶ風をその身体にも当てさせぬ。きっと俺の仕業(しわざ)(いぶか)ってもいるだろうが、まあ聞け、お前の母と別れてから、二、三日の間、実は張り詰めた心も恋には(ゆる)んで、深夜に一人月を眺めては、戦場で人知れず軍服の筒袖では拭いきれない涙を淋しく流し、また、全軍の出陣の折りには、馬蹄(ばてい)の音高く、朝霧を蹴って勇ましく進む時にも、刀の(こじり)…鞘の末端部…が引っかかるように、気になって心が揺れ動いたが、一封(いっぷう)の手紙を書く間もないくらい(あわ)ただしい中、次第に『去るもの日々に疎し……』と言うが、それは情愛が薄れたからではない、(いくさ)(はげ)しかったからである。


 江戸に乗り込んでも、そこに留まることもなく、奥州までひた押しに押すほどの勢いで、自然と焰硝(えんしょう)の煙に馴れて、白粉(おしろい)の薫りも思い出さず、喇叭(らっぱ)の響きに夢を破られれば、愛しい(ひと)の寝乱れた髪の艶っぽさも目前にちらつく(いとま)などなかった。恋も命も共に忘れて、敵の敗北に気持ちは励まされ、我らの凱歌(かちどき)の気勢に乗じては、明けても暮れても肘を(さす)り、(きも)を焦がし、餓えては敵の肉を食らい、渇いては敵の血で喉を潤すまで、激戦の巷において阿修羅となって働けば、功名(こうみょう)が一つあらわれ、二つあらわれして、総督の御覚(おんおぼ)えもめでたくなって、徐々に出世するようになった。


 それで、指揮を任されるようになると、責任はいよいよ重くなり、必死に勤めたところ、幸運にも弾丸(たま)を受けることもなく、戦はすべて勝利して凱旋の暁に、

「その方、器量も学問も見所あり、(なにがし)大使に従って外国に行き、何々の制度をよくよく取り調べよ。帰朝の折には重用(ちょうよう)しようぞ」とのお言葉を頂戴し、室香との約束は違ったが、今こそ男子が立派な志を抱く時であると、特に血気盛んな頃であり、大喜びして米国から欧州に前後七年の長逗留。


 アア、今頃室香はどうしているか、生まれた子は女か男か、我は我が子の顔を知らず、我が子は我の顔を知らず。早く(ほお)()りして膝の上に乗せてやり、ゴム人形とか空気鉄砲など、珍しい玩具(おもちゃ)の数々を家の土産(みやげ)として持ち帰り、喜ぶ顔を見たいものだと、足をつま立て、三階、四階の建物から日本の方角を(いたずら)に眺めたことも度々(たびたび)であったが、岩沼卿と呼ばれる尊いご身分のお方が、これもご用があって欧州にご滞在中、取るに足らない身分である自分をお引き立てになり、御子がおられぬ家の跡継ぎになれとの有り難いお言葉。再三辞退申し上げるも、お許しにならず、それ以上辞退することもしかね、承知をして共々嬉しく帰朝すれば、それこそ軽からぬ役を拝命するだけではなく、(つい)に岩沼姓を継ぐようにもなった。しかし、人に尊ばれることになっても、そなたの母、室香の情けを無論忘れることなどなかったぞ。


 家来に申し付けて調べて行くと、段々と情況が明らかとなり、(はかな)くも、もう我とは楽しみを分け合うこともできないままに、この世を去ってしまったと聞く辛さ。アア、何年かけた、何のための苦労か。


 一つは国のためではあるけれど、もう一つは古ぼけた小袖の着物を着、塗りの剥げた大小の刀を差した見所もない我を思い込んで、女として棄てがたい外見(みえ)も棄て、(そし)りを構わず、危ういのも(いと)わず、世を忍ぶ我が身を隠匿(かくま)ってくれたその(こころざし)、我はいつまでも忘れられず、官軍に馳せ参じようと決心した自分ですら、曇り声で言い出した時も、愛情の涙は(まぶた)に溢れながら、義理の言葉も(しっか)りと、『(かね)てのご本望、(わたくし)めまで嬉しゅう存じます』と、無理な笑顔を作るのもそれなりの道理ではあるけれども、明日をも知れぬ命の男、それを(なお)も大事にして、『御髪(おぐし)があまりに乱れております』とて、髭や月代(さかやき)を人の手にはかけさせず、後ろに廻って、髪を束ねる細い紐である元結(もとゆい)も、締める力のない悲しさを奥歯で噛んで、きりきりと、見苦しくないよう結ってくれたばかりか、自分の頭に挿した金の(かんざし)まで引き抜いて、その(ぬく)みもそのままに直ぐさま売って退け、我が身の回りの品に代えてくれた大事な大事な女房に、きっと満足させて、今までの辛さを楽しむように語りたいためであった。


 しかし哀れにも死なれてしまえば、かつて二人で見た、牡丹(ぼたん)が花園に広がった麗しい眺めも、細口の花瓶にただ二、三輪の菊を古流…生け花の流派…しおらしく室香が活けたのを誉めて、室香と二人、微笑みが四畳半に籠もっていた時と較べ、今はぼんやりと影法師を相手に一人見ることのつまらなさ。


 今の栄華を誰と共に過ごせばいいというのか、世もこれまでと思い切って後妻(のちぞえ)ももらわず今までやって来たが、それにつけても、我が子は何処に? と、様々尋ねたけれど、漸くそなたを里子として預かっていた(ばば)から、信濃の方へ行かれたという噂だけは聞き出したものの、その筋の人に頼んでもどうしてか分からなかった。


 我は外に子はいなければ、歳を取れば取るだけ益々恋しくて、信州にだけは三人も家来を遣って捜させたところ、辛うじて田原が探しだして、七蔵という悪者からそなたをもらい受けようとしたのだが、どういう訳か邪魔が入って、間もなくそなたは珠運とかいう詰まらぬ男に、身を救われたという義理や、亀屋の亭主から迫られたような格好で急に婚礼をするというので、一旦帰京(かえっ)て、二度目にまた丁度行き着いた田原がそれを聞いて狼狽し、我が書き捨てて室香に紀念(かたみ)として遺した歌を、恐らくそなたは知っているだろうと手紙の末に書き留めるという頓智(とんち)でもって連れ出し、それから無理矢理に訳も聞かさずにここまで連れてきたという次第。


 さぞかし驚いたでもあろうが、少しも恐がることはない。亀屋の方は又々田原を遣って始末をつけさせるので、これからは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々(おいおい)覚えさせて、天晴れな婿を取り、初孫の顔でも見たら、夢の中でそなたの母に逢っても言い訳が出来ると、今からもう嬉しくてならぬ。


 それにしても、髪を整え、衣装を着替えさせれば、先ほどそっと戸の隙間から見た時と違って、これほどまでに美しいそなたを、今まで木綿の綿入れなど着させておいた親の恥ずかしさ。小間物屋も呼んでいるので、追っつけくるであろう。(くし)(かんざし)、何なりと好きなものを選べ。着物も越後屋に望みのものを言い付けるので遠慮なくお霜を使え、あれはそなたの腰元だから、さっきのように丁寧にお辞儀などしなくてもよい。芝居や名所も追々に見せてやろう、舞踏会や音楽会へも、もう少し都会に馴染んできたら連れて行こう。書物は読めるか? 『消息(しょうそく)往来(おうらい)』や『庭訓(ていくん)』までは習ったか? アア嬉しいぞ、よしよし。学問も良い師匠を付けさせよう」と、慈愛は尽きない長物語。


 これは、まさしく珠運が望んだ通り、この(にょ)菩薩(ぼさつ)、果報めでたくなられるという結構づくめである。が、しかし、これは何としたものか。


つづく

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