幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 12
「如是縁」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注には、
「諸現象が生ずるための間接的・相対的な関係ないし条件。風流仏創造に不可欠な、珠運のお辰に対する恋情とその挫折までをいう」とある。(P.189)
「種子一粒が雨露に養わる」については、同書に、
「恋の種が、亀屋の亭主の厚意(雨露)によって保護されるさま、の意。以下、第六における上・中・下の副題はいずれも、珠運のお辰への恋情を植物の成長になぞらえる」と記載されている。(P.189)
第六 如是縁
上 種子一粒が雨露に養わる
自分は妾狂いをしながら、息子の女郎買いを責める人の心は、浅ましい中にも一応の理屈は通っていて、七の所業を誰もが憎んで、七蔵が酒を飲んでいても、『ほれ、彼奴よ、娘の血を吸って生きておるのは』などと、陰口される始末。
流石の悪党もここにいるのは面白くなくなり、荒屋一つと、米、塩のツケを払えない言い訳を遺して、家主の亀屋に迷惑を掛けたまま、どこかに行ってしまった。
珠運も思いがけなく色々の始末に七日余り逗留し、この宿に馴染むにつけ、亭主にも心安くなり、お辰も可愛く、囲炉裏の傍には極楽国があるようで、極楽に住む迦陵頻伽の清らかな笑い声が溢れるような睦まじさ。
客あしらいされないのがかえって気楽。鯛は無くても玉味噌の豆腐汁を気持ちの通い合う者同士で心穏やかに団欒して食う旨さ。或いは、粗末な山茶も一時の出花で美味しく感じられるものである。
長い夜の徒然を慰めるように、蓄えていた栗を出して皮を剥いてやる、その一粒に籠められた思いやり。楽しそうに味わいながら、お辰が剥いた栗を自分に呉れるうれしさ。本当に山里も人情の暖かさがあれば都にも劣らないものである。
とは言うものの、指折り数えれば、もう既に何日も過ぎてしまった。珠運は奈良に行かねば、ということを思い起こしては、こうして空しく遊んでなどいられないと、ある日支度を整え、勘定を促して旅立とうとするのに亭主呆れて、
「これはこれは、婚礼も済まないのに」と。
「ハテ? 誰の婚礼?」と珠運。
「知れたこと。お辰との婚礼よ」
「誰と?」
「冗談は止めて下され。あなたで無くて誰と」と言われて、珠運、カッと赤面し、緊張のあまり渇いた舌で早口に、
「ご亭主こそ、冗談はおよし下さい。私は約束した覚えはなし」
「イヤ、これはけしからん野暮なことを言われる。都の方とも思えぬ言葉。今時の若い者はそれではいかん。何とまあ、百両投げ出して、七蔵にぐうの音も言わせなかった捌き方と違って、何とおぼこいこと。それはまあ、誰しも恥ずかしいから、そのように紛らすものだけれども、何も紛らせる必要もなし、爺のこの身はお見通しじゃ。チャンと心得て、あなたの思惑、図星の外れないようにいたしますので、大人しくお待ちなされ」と、何やら独り呑み込みの様子。
珠運は納得がいかず、
「これこれ、ご亭主、勘違いされますな、お辰様を愛しいと思ってはいても、女房にしようなどとは一厘も思わず。見かねて難儀を助けただけのこと。旅の者に女房を授けられては甚だ迷惑」
「ハハハハァ、何が迷惑? 器量美しく、学問、琴、三味線の嗜みは無くても、裁縫は出来、女の道も自然と弁えて大人しく、殿御を大事にすること請け合いのお辰を迷惑とは、伊弉諾、伊弉冉の両柱の御神以来、聞いたこともない話。そういうお前の言うことは表面のこと。本当は、お前の取った行いもお辰に惚れられたいという思惑があってのことだと察したのは年の功というものじゃ。チョン髷を付けていても、文明開化の時代の若者の気持ちは分かる粋な男じゃ。本当のところは、お前がお辰に心底惚れて、お辰もお前に心底惚れたと、当世の惚れ様の上手なのに実際俺も感心しているからこそ、媼とも相談して支度ができ次第、婚礼させるつもりじゃ。コレ珠運、年寄りの言うことと、牛の鞦…牛の尻から鞍にかける紐…は外れそうで外れぬものじゃ。お辰を嫁にもらってから奈良へでも京へでも連れ立って行きなされ。儂も昔は見栄を張って、脇差しの選り好みをしていた若い頃、媼も鏡を懐に入れて、よく顔を覗いていた。そういう時代に、一世一代の贅沢と、滋賀の義仲寺を経て、京都六条にある東西の本願寺様参りを一緒にしたものだが、旅ほど嬶が可愛くて面白いことは無いぞ。いまだにその頃を夢に見た後の話で、この間も媼に真夜中頃、入れ歯を飛び出さして笑ったぞ。コレ、珠運、オイ、いやコレは失敬、孫でもないのにのぅ……」と、罪のない笑い顔をして、綺麗な禿頭をつるりと撫でた。