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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳   作者: 秋月しろう
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幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳  9

「如是作」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注に拠れば、

「諸現象の及ぼし合う作用。珠運とお辰がお互いに働きかけはじめることを指す」とある。(P.181)


なお、「而生(にしょう)()(しん)」とは、「日本近代文学大系6 幸田露伴集」の注に拠れば、

「『その心を生ず』。金剛経の中にある語。ただしここでは原義の意でなく、恋心という意に用いている」とある。(P.86)


 第五 (にょ)是作(ぜさ)


 上 我を忘れて而生(にしょう)()(しん)


 たとえ背中に暖かみを感じなくても、朝陽がきらきらとさし昇り、山々の峰に積もった雪を輝かせる景色は目も眩むほどに美しい。物腥(ものぐさ)い西洋の塵もここまでは飛んで来ず、清らかに晴れた誇らしい木曽路は、日本国の古い善さが残っている。軒近くで鳴く小鳥の声など、これも神代(かみよ)の時代そのままであると、些細なことでも面白く感じるのは、昨宵(ゆうべ)の嵐がすっかり去って、今はその跡もなく、雲の切れ間の所々に青空が見え、人々の心を悠々(ゆうゆう)としたものにさせるからであろう。

 珠運(しゅうん)は梅干、渋茶でさっぱりと夢を拭い、朝飯をいつもより美味(うま)いと感じながら食べ終え、泥を踏まないように雪沓(ゆきぐつ)を履き、心も軽く宿屋を出たが、折角自分の思いを彫った櫛を渡さずに去ってしまうのも残念だと、お辰の家を宿の主人から聞き、それは、街道の傍をほんの僅か折り曲がったところだと知れば、立ち寄って窓からでも投げ込もうと歩いて行った。やがて、聞いた通り(もみ)の木が高く(そび)え、外囲いが大きく、いかにも須原の長者が昔住んでいたと思われる立派な家の横手に、最近の風が吹き歪めたと思われる荒屋(あばらや)があった。近づくままに、中の様子をうかがえば、ひっそりとして、人がいるとも思われず、これは不思議と破れ戸に耳を付けて聞けば、ヒソヒソと囁くような音、いよいよ怪しく、なおも耳を澄ませば、それはすすり泣きをする女の声であった。

「さては人でなしの七蔵め、何をしたか」と、あちこち探して、大きな(ふし)が空いたところから覗けば、

「鬼か、悪魔か、言語道断、この珠運が当世の()()夫人(ふじん)とさえ尊く思う女を、取って抑えて何者の仕業(しわざ)」、(むご)たらしくも縄で後ろのささくれ立った柱に手を(くく)り、薄汚い手拭(てぬぐい)で無遠慮に赤い花片のような美しい唇を(おお)う非情。髪を束ねていた元結いは空にはじけて、涙の雨を伝う柳の黒髪は恨みに長く垂れて顔に掛かり、衣は引きまくれ、胸(あら)わに、その肌は春の曙の雪が今や消え入ろうとするようであった。 

 それを見るや否や、(たちま)ち身体は弾け、気持ちが高ぶり、思慮分別もあるものかと、雨戸を()(ひら)き飛び込んで、人の手がなぜ四、五本ないのかともどかしいまでにイライラして(いそが)わしく、手拭を棄て縄を解き、懐から櫛を取り出して乱れた髪を()けと手渡しながら、冷え凍った身体が痛ましく、思わずしっかり抱き寄せて、さぞや柱に背中がと、片手で撫で擦る。女はあきれて、すぐには言葉も出ず、珠運の顔をじっと見つめていたが、珠運は見詰められるのが極まり悪く、一足離れ退く途端、そこらの畳を雪だらけにしてしまった自分の(くつ)にハッと気がつき、訳も分からずそのまま外に逃げ出した。三間(さんげん)ばかり夢中に走れば、雪に滑って、よろよろよろ……。もう少しで膝をついてしまうかという所を何とか持ち堪えたが、

「しまった、蝙蝠傘(こうもりがさ)と手荷物を忘れたか」と、後戻りした時、玄関に来ていたお辰が袖を捉えて引くので無理矢理には振り切れず、今更余計なことをしたと悔やむことなく、恐れることもないのだけれど、これまで感じたことのない妙な心持ちにどぎまぎして、土間に落ち散っている木屑など、つまらない物に眼を注ぎながらも、ようやく座敷への上がり口に腰を下ろせば、お辰はしとやかに下げた頭をきちんと上げることも出来ずに、

「あなたは、亀屋においでなさったお客さま。私の難儀を見かねてお救い下さったのは(まこと)に有り難いことではありますが、到底逃れられない不仕合わせと、諦めようとして諦められなかったこの我が身、先ほど助けていただいてよかったと思った私の愚かさが口惜しゅうございます。訳も話さずにこう申してはきっと道理の分からない奴とお蔑みだと恥ずかしくもございますし、御慈悲が深いからこそ、縄まで解いて下さった方にお礼もきちんとせず、無理なお願いを申すのも真に苦しくはありますが、どうぞ私めを元の通りにお縛り下さいませ」と、予想外の言葉。珠運は驚いて、

「これはこれは、とんでもないこと。色々入り込んだ事情もありましょうが、しかしまたこれは何というつれないお頼み、縛った奴を()てとでも言うのなら、この(やせ)(うで)に豆ほどの力瘤(ちからこぶ)も出しましょうが、愛おしくて愛おしくて、一日二晩、絶え間なく感心し詰めて、『天晴れ菩薩』と信仰しているお前様を縛ることは、赤旃檀(しゃくせんだん)に飴細工の刀で彫りを入れるよりもまだ難しい。一昨日の晩に忘れていかれた、それ、その櫛を見て判って下され、大凡(おおよそ)のことは亀屋の亭主からお前の身の上、あらましを聞いて、失礼ながら何と可哀想、私が神か仏ならば、こうもしてあげたい、ああもしてやりたいと思いましたが、それも出来ませんので、せめては心ばかりにと、一日肩を凝らして漸くその彫りをしたのであります。もし、御髪に挿してくださるならば、一生の名誉、嬉しいことと、わざわざ持参して来て見れば、とても見過ごせない今のありさま。出過ぎたかは知りませんが、我慢できずに縄も手拭も取りましたが、悪いというのなら何とでも謝りましょう。しかし、元通りに縛れとは情けない。私を鬼と見てお頼みか、どんなことがあってもそんなことはご免被ります」と、心清い男が強く言うのを、お辰は聞きながら櫛を手にしてみればとても素晴らしく、よくぞ彫りも彫ったり。厚さは僅か一分に足らず、幅は漸く二分ばかり、長さもそんなにない(むね)の部分に一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷の花の眼にも見えないほどの細やかさを浮き彫りにして、匂うばかりである。一体この人は誰? どんな人ならこんな細工が出来るのかと思うにつれて、瞳を櫛から珠運に向けて、秘かに様子をうかがえば、色は黒くもなく、口元は緩まず、濃くはないけれど(まゆ)(じり)も美しく、眼には一点の濁りがないばかりか、顔形の他にも自然と品のある様子が見て取れる。そんな男が口にする親切な言葉に女が喜ばないはずはない。


つづく

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