9.アデルと転機
超がつくほど立派な門構えの屋敷の前で私は立ち止まっていた。
今日もマグナスに買ってもらったワンピースを着ているから、品の良い感じに纏まっている。髪型もばっちり、綺麗めに結い上げた。鞄の中身も大丈夫、必要な書類は入っているし…ハンカチもある。
すう、と息を吸って、門番に声をかけた。
「すみません、アデル・ホームズと申します。本日15時から侯爵様とお約束をさせていただいております」
「アデル…アデル・ホームズ様。どうぞこちらへ」
門番がリストをチェックして、門を開いてくれた。私はぎこちない笑顔で門を通っていく。
執事と思われる男の人が出て来て、私を案内してくれた。
何を隠そう、今日は私の面接である。もちろんサン・マドック商会への就職のためだ。
手紙を送ってすぐに返事が送られてきた。文面は…キャンベル商会と同じような内容で、侯爵様がキャンベル領に所有する屋敷で面接を執り行うとのことだった。あれからサン・マドック商会については色々調べたけれど…何度調べても、キャンベル商会よりは随分待遇も羽振りも良さそうだった。
アデルとして考えれば、サン・マドック商会に就職したほうが勿論良い。
「ようこそ。わざわざ来てもらって申し訳ないね」
「とんでもないことです。お呼びいただいたこと、感謝しています」
「畏まらなくていいよ。僕堅苦しいの苦手なんだ」
首元を緩めたシャツを着た侯爵様が、私を椅子に座らせた。彼の執務室ではなくて、綺麗なサロンに招待されて戸惑う。目の前には湯気を立てるカップ、中には香り高い紅茶が注がれている。その隣には贅沢にも生の果物とクリームがふんだんに使われたケーキ。
「もし嫌いでなければ食べてみて。美味しいから」
「い、いただきます」
ケーキを一口。クリームがふわふわであまくて、新鮮な果物の酸味と混じり合って絶妙。スポンジもとても繊細。…こんなに美味しいもの生まれて初めて食べたかもしれない。紅茶を一口飲んでも香りが普段のものと格段に違う。まさに別格。
「やっぱり…所作が綺麗だね。孤児院育ちとは思えない」
「試していたのですか?」
「少しね」
孤児院育ちとはいえ…ベースは貴族令嬢。綺麗に食べるのは心に染み付いたものだった。礼儀正しく、弱き者を助け、常に敬われる人であること。それが…キャンベル家の教えだ。
「実は僕の妹に、2年後を目処に商会の運営を任せようと思っているんだ。それで、妹を支えてくれるアシスタントが欲しいと思っていてね」
「アシスタント…秘書ですか?」
「そう。ただ…彼女も社交界や様々な会へ出入りするから、そこでも手助けが必要だと思う。本当なら貴族としてマナーや教養を積んだ女性が望ましいのだけど…そう簡単にはいかない。君なら僕が望む条件を完璧にクリアしていると思うな」
「望む条件…といいますと」
「まず第一に教養があること。君は学校でかなり優秀な成績を残している。その二、マナーの心得があること。君は完璧だと僕は思うよ。足りない部分はこれから学べば良い。その三、高潔な心を持つこと」
高潔な心を持つ、こと。抽象的でわかりにくい言葉だった。
私は…貴族令嬢として、というより人として弱きは助けるものと思っている。それはアデルになってからも変わらない。漠然とそういうところだろうかと思案した。
「うちの妹は内気でね。貴族の社会なんてものに急に放り込んでしまえばたちまち自信を失ってしまうだろう」
「盾となればよろしいですか?」
「盾というより…ただ一緒に手を繋いで立ち向かってくれたら嬉しいな」
にこ、と侯爵様は綺麗なアクアマリンの瞳を細めて微笑む。
「デビュタント前ですか?」
「ある意味ね。今、19歳だから」
侯爵様は色素の薄い金髪の髪をかき上げながら言う。19歳なら社交界デビューは済ませている年だ。遅くても16にはデビューしているもの。
「妹は養子なんだ。ずっと友達にマナーや貴族としての教養の面倒を見てもらっていて…それから商会で下積みさせていたんだけど、そろそろ貴族としての付き合いもさせたくてね」
「随分遅いデビュタントになりますね」
「軽い会なら参加させているから、全く経験がないわけじゃないよ。だからデビュタントをするつもりはない。…2人で仲良く経験積んでくれたらいいなと思う」
侯爵様は…私が聞いた話では22歳。3つ下の血の繋がらない妹をとても可愛がっているようだ。
「変なことを聞いても良いですか?」
「どうぞ」
「…私に、その妹さんと…お友達になるように…と、仰っているのですか?」
「うん、そのつもり。妹は内気で弱気だから、付き合う友達は僕が選別したい、という意図もある」
侯爵様はふかふかのソファに体を沈めて言った。
「貴族の友達を見繕うにも…彼女が気後れして安心しないだろうから。下町出身の子の方が安心する。でも品のない子は困るからね。君なら丁度良い。いや、僕の期待以上だ」
「そんな風に見ていただいて嬉しいのですが…」
…本物のアデルみたいな女の子だったらどうしよう。子分にされるのも困る。
「それじゃ、君も妹を面接してみるのはどうかな。僕としては…是非君にオファーしたいと思ってる。妹のアシスタントではなくてもね」
「よろしいのですか?」
「気に入らない人のアシスタントなんて楽しくないでしょ?」
にこにこと微笑みを絶やさず、侯爵様は立ち上がった。
「妹も今日はここに来ているんだ。キャンベル商会で会議をしている。呼び戻すから暫くゆっくりしていて」
「は、はい」
「紅茶、お代わりは侍女に言ってね」
彼は軽い足取りで部屋から出て行く。部屋には私と給仕の侍女が残された。
私は暫く美味しいケーキをいただいて、ゆっくり過ごした。サロンの窓から見える庭の景色がとても綺麗だった。気を利かせてくれた侍女が、新聞を渡してくれた。孤児院では新聞を取っていないから読むのは初めてだ。読み始めるとあっという間に時間が経った。何度か紅茶のお代わりを貰い、最後のページを読み終わる頃に侯爵様は帰って来た。
「アデルさん」
侯爵様が部屋に入って来て、私は直ぐに立ち上がって出迎えた。
侯爵様の後ろには若い令嬢がいた。彼女こそが侯爵様の妹だろう。
私と同じ黒髪に、淡い色の目をしていた。
同じ黒髪でも私がウェーブがかっているのに対して、彼女はさらさらのクセひとつないストレートだ。目の色は、私が薄い緑なのに対して彼女は薄い灰色の瞳をしている。
顔立ちは…非常に端正。黒目が大きくて、小動物のような印象を与える。でもどちらかというと地味で、侯爵様の妹という華やかな肩書きは…正直似合わない。
「アデルさん、彼女が僕の妹のルース。ルース、君のアシスタント候補のアデルさんだよ」
侯爵様に簡単に説明がなされ、ルース様は淑女らしく丈の長いドレスのスカートを摘んで腰を落とした。
「ルース・サン・マドックです。どうぞよろしくお願い致します」
貴族の令嬢としては完璧な所作だった。対する私もワンピースのスカートを摘み、同じように礼を返す。
「アデル・ホームズと申します」
目線を落として、下から見上げる。背を伸ばすと、ルース様とは身長がほとんど変わらないことに気付いた。ルース様はきらきらした瞳で私を見ている。
「暫く2人で話してみて」
「侯爵様」
急に2人きりは…と言おうとしたけれど、侯爵様はくすくす笑った。
「サミュエルで良いよ。ルース、仲良くするんだよ」
「はい、サムお兄様」
サミュエル様はルース様にそう言って、ルース様が機嫌良さそうに答えるとさっさと部屋から出て行ってしまった。
残された私たちはぎこちなく微笑み合う。ルース様が先に口を開いた。
「座っても良いですか?」
「も、もちろんです」
ルース様はまるでよくできた人形のよう。笑顔のまま、サミュエル様が座っていた席に座り、侍女に用意された紅茶を片手に持った。
「アデルさん…そう呼んでも構いませんか?」
「はい」
「私のことはルースとお呼びください」
「ルース様ですね」
サミュエル様と同じようににこにこと微笑みながら、彼女は紅茶を一口飲んだ。
「私の面接をされると兄から伺いました。どうぞ遠慮なさらずに何でも聞いてくださいね」
「私…ルース様を面接するなんて烏滸がましいことは考えていないんです」
仮にも侯爵令嬢を面接なんて。ルース様はそれを聞くときょとんとした。
「ただ少し、お話してみたかったんです。それからルース様が私のような者をアシスタントとして雇ってくれるか判断していただきたくて」
私は面接されるつもりで来たのだから。ルース様は首を傾げて、きょとんとしたままだった。
「サムお兄様に聞いていたよりずっと謙虚なのですね」
「そうですか?」
こくん、とルース様は頷いてしばらく黙った。謙虚さは美徳かと思っていたけれど…彼女の反応を見るにそうでもないかもしれない。
「誰の元で働くのか決めるのは労働者の権利です。私が貴女の主人となるに相応しいかどうかは貴女が決めてください。本音が聞きたいのです。私は貴女の本当の姿が知りたいし、私のことも知って欲しい」
きっぱりとルース様はそう言って、またにこりと微笑んだ。
「改めまして、ルースです。本名はルース・カルバート。商家の出身ですが、母は流行病で早くに死にました。父も死に、後妻に商会を乗っ取られ虐待されていました。結局…彼女は商売が立ち行かなくなった責任と借金を私に押し付けて、サムお兄様に売り払いました。ですが…サムお兄様の温情でサン・マドック家の養女となりました。この通り私には貴族の気高い血は一滴も流れていません。それでも私のアシスタントとなりたいですか」
ルース様は私に飾らずに真実を伝えてくれた。侯爵家と縁もゆかりもない彼女が、それでも信用できるのかと尋ねてきたのだ。本当の姿を、本来の姿を。
ルース様の気迫に圧されて、私はぽつりと話をはじめた。ごく自然に、真実を言わねば、私の本当の姿を明かさねばならないと、そう思った。
「私はアデル…いいえ…、本当の名前はキャロライン…キャロライン・キャンベル、伯爵令嬢…。6年前に…魂だけアデルと入れ替わって…孤児になりました。家族の側にいたくて…キャンベル商会を志したけれど…お父様に、消えろと、言われて…」
アデルになって初めてこの話をしていた。誰にも打ち明けたことがなかった。兄妹同然のジョンやオリバーにも、母のような院長先生にも、言わなかった。お父様達に信じてもらえなかったことが私の中では恐怖となって胸に染み付いていたから、決して明かさなかった。だからこそ胸の内に秘めていたことだったけれど、彼女の前では何故かそれがするりと口から零れ落ちた。
真実と一緒に苦い思い出が涙とともに零れ落ちていく。
ルース様はそれが嘘だと訝しがることすらしなかった。
ただ微笑んで、涙を流す私の隣に座り直して、手をぎゅっと握った。
「お話してくれてありがとう。私たち似ていますね。全部失って、取り戻そうと必死だわ。…戻らないものですら、望まずにはいられないもの」
「ルース様…」
ルース様は体こそそのままだけれど、家族も財産も見事に全て失って、ここに拾われて居場所を作り上げた。私と、おなじ。
私の不幸とルース様の不幸は比べようがないけれど…
「…お側にいても良いですか?」
彼女の側で、彼女を支えたいと、そう思った。
彼女が気高く、平等で、…そして、私自身と似ているから。まるで恋をしたように、彼女に惹かれてしまう。
「一緒にいてくださる?」
ルース様は私に問いかけた。私はこくこくと頷き、涙を指で拭う。
「ルース様をお支えしたいと思いました」
「本当?私も貴女に側にいて欲しい…貴女のこと、妹のようにとっても大切にしますから」
ルース様は天使のような微笑みを浮かべた。こんなに誰かを支えたいと思ったのは…初めて。
「孤児院育ちとは思えない…なんて、本当の育ちは伯爵家なんだもの、当然よね」
ルース様はくすくす笑って、立ち上がった。
「お兄様を呼んできます。さっきしてくれた話は2人だけの秘密…でしょう?」
「はい、お願いします」
ルース様は微笑んで、令嬢らしくない小走りで部屋から出て行った。
何度も深呼吸して心を落ち着かせる。これで、良かったのだわ。ルース様とはきっと仲良くなれる。ここでうまくやっていける。
きっと大丈夫だわ。