6.アデルの試練 2
「アデル!その顔どうしたんだい」
孤児院に帰ると、院長先生がまず私の腫れた頬に気付いた。私は苦笑いを浮かべながら、何でもないように言った。
「同級生とちょっと喧嘩したの。でも大丈夫、先生に迷惑はかけませんから」
「あんたは賢いけど馬鹿な子だねえ!先生は親なんだから、沢山迷惑かけていいんだよ。ほらおいで」
院長先生は少し屈んで私と視線を合わせ、頭を撫でた。それがキャロラインだったころに、キャロラインのお母様がそうしてくれたのと似ていて、涙が溢れた。
「おやおや、どうしたんだい。ゆっくり話してみな」
院長先生にぎゅっと抱きしめられると、嗚咽が漏れ始めた。
ゆっくり、今日の話をしていく。まずは就職のことで落ち込んでいた話。ジョンとオリバーが喧嘩してひとりぼっちになった話。トイレでケイティに叩かれた話。それから、マグナスに賭けの対象にされていた話を。
全部話し終わると、涙が止まらなくなった。
「子供は迷惑かけるのも仕事のうちだからね。…先生がそのケイティの親とお話しして来ようか」
「でも先生」
「ケイティの家だってうちと暮らしぶりはそう変わらないよ。ケイティの親だって、マグナスの家の果樹園で働いているのさ。昔から見栄っ張りの大嘘つきでねえ、私もよく難癖つけられたよ。マグナスのことは、ちゃんとマグナスとお話ししておいで」
それを聞くと、ふふっと笑い声が漏れた。
「先生、本当にもう大丈夫。聞いてもらったらすっきりしたの」
「あんたは年の割にはしっかりしすぎているから、心配だよ。何かあったら先生に言うんだよ」
「はあい」
院長先生に薬を塗ってもらって、私は院長先生の部屋から出た。
「アデル!その顔…っ」
廊下に出るとすぐにオリバーと出会った。オリバーは私の顔を見ると眉を吊り上げて私に詰め寄る。
「アデルにこんなことしたのは誰だ」
「オリバー、もういいの」
「良くない!俺が離れていたばかりに…っ」
「ちょっとケイティともめただけだから」
オリバーは後悔しているのか、自分に怒っているようだった。オリバーがいても女子トイレで絡まれたんだから、どうしようもないと思うんだけど…
「それよりジョンと仲直りはしたの?」
「……それは、まだ」
「何があったか、私には教えてくれない?」
オリバーは観念したように肩を落とした。はあ、とため息を吐き出し、私から目を逸らす。
「…就職のこと、なんだけど」
「就職?」
「俺、実は入隊を考えてるんだ」
入隊。…ということは、軍に入りたい、ということだろうか。
「軍というか…治安維持のほうなんだけど…学校卒業していたら、ちょっと待遇もよくなるし…俺は頭使うより身体動かすほうが好きだから。商会は向いてないな…って思ってて」
「そっか…オリバー、向いてると思う。正義感が強いもの」
血の気も多いけど。
オリバーは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、アデル。アデルにそう言ってもらえると、頑張れるよ」
「でもどうしてそれでジョンと喧嘩になるの?」
「ええっと…俺たち昔からどちらかは必ずアデルの側にいるって決めてるんだけど」
「……つまりジョンもキャンベル商会じゃないところに就職したいわけね?」
「そういうこと」
そんなこと気にしなくていいのに。オリバーは気まずそうに目を逸らす。
「ジョンはどこに行きたいの?」
「…サン・マドック商会」
「ちょっと遠いわね」
隣の領の商会だ。支店が沢山あるし、キャンベル商会とは深い仲だから全く交流が無くなるとは思わないけれど。
「アデル、離れ離れになってもこれまでと同じように遊んでくれるか?」
「勿論よ、家族だもの」
「…うん」
オリバーは納得しきらない顔で頷いた。
「アデル、俺」
「アデル」
意を決したようにオリバーが私の手を握った瞬間にジョンの声が割り込んだ。オリバーはよそよそしく私の手を離し、ジョンと目を合わせないようにそっぽを向いた。
「どうしたの?」
「その顔…どうしたの?…あと、マグナスが来てる」
「オリバーに聞いて。マグナスには…会わないわ。追い返してくれない?」
ジョンは小さくため息を吐き出した。
「出てくるまで帰らない、って喚いてた」
「…分かったわ。ね、2人とも。私が帰ってくるまでに仲直りしておいてね。そしたら私とも仲直りしましょう?」
ジョンとオリバーはやっと目を合わせて、困ったように頷いた。
孤児院の玄関先でマグナスは待っていた。こほんと咳払いすると、マグナスは私に走り寄る。私は一歩退いて、距離を取った。
「何の用?」
「俺…君に嫌われるようなこと、何かしたか、ずっと考えてた…けど、こんなに急に、」
「よく言うわね。私知ってるのよ」
「知ってる?」
マグナスは聞き返して来た。
「知ってるって、何を」
「賭けのことよ」
「賭け…?」
「惚けるつもりね。別に構わないわよ。孤児如きが男爵様の名誉を傷つける訳にもいかないものね」
自嘲すると、また悔しくて涙が出そうになった。マグナスは私の両肩を掴んだ。
「アデル、君らしくないぞ」
「…っ」
「今日の君は卑屈だ」
「どうせ金につられる卑しい孤児よ。何も間違っちゃいないわ」
「アデル!」
「何よ!」
マグナスは私の肩を揺さぶった。私が怒鳴ると、マグナスはまた揺さぶる。
「ちゃんと言ってくれないと分からない」
「…貴方が、私たちの友情を、台無しにしたのよ」
「絶対にそんなことするものか」
「だって、私のこと、夢中にさせる、賭けなんて…ッ」
「はあ?!」
マグナスが大きな声で叫んで私の肩から手を離した。ぽろっと目から涙が溢れて、指で拭う。マグナスには背を向けた。こんな顔見せたくない。
「俺はそんな詰まらない賭けはしない!俺はアデルのことが本気で好きなんだ!だからそんなふざけたことは」
「へ」
「あ」
振り返るとマグナスの顔が真っ赤になっていた。自分で言ったことが理解できていないのか、自分で驚いている。私も事態がうまく飲み込めない。
マグナス、本気で私が好きなの?
「ば、馬鹿でしょ…昔の私の姿と性格を知ってるでしょ…」
「…っ、こういうのはもっとデートを重ねてスマートに言うものなんだ」
「それにっ、ケイティさんが、」
「ケイティは関係ないだろっ」
「自分はマグナスの本命だって」
「あの嘘つきッ」
マグナスは赤い顔で吐き捨てた。
「昔からあいつはそうだ!俺の周りでウロチョロして…俺の本命がアデルだってみんな知ってるのに!」
そんなに熱心に言われるとこっちの身がもたない。顔に血が上って、熱い。とっても熱い。ぱたぱたと顔を扇ぐ。
「…失礼、感情的になった。ケイティには奴の親を含めて俺から話をしておく。君の顔の怪我はケイティだな」
「私、密告はしないし、権力者に泣きついたりもしないわ。自分の喧嘩は自分で後始末つける」
「それは賢くないぞ。俺が理由で喧嘩したなら、俺に後始末くらいさせてくれ」
マグナスにじっと顔を覗き込まれて、つい頷いた。小さな声で「2度打たれた」と告げると、マグナスは頷く。
「それから、昨日のことは済まなかった」
マグナスは綺麗な動作で頭を下げた。私は戸惑いながら、声をかける。
「頭をあげてよ。マグナスは悪いこと何もしてないでしょ?私が…世間知らずだっただけじゃない」
「でも、真剣にキャンベル商会を目指す君にとても失礼なことを言った」
「言ったけど」
マグナスはゆっくり頭を上げた。代わりに今度は私が頭を下げる。
「マグナスに確認もしないで勝手に怒ってごめんなさい。…ここまで来てくれてありがとう」
「友情は続行?」
「もし…許してくれるなら、そうしてくれる?」
「俺としては、ダサい告白かましちゃったから、これからはもっと、友情を超えるように真剣に口説くけどな。『貴方に夢中よ』って本心から言ってもらえるように」
「もう!」
顔を真っ赤にしてマグナスの背中を叩く。べぢっと大きな音がしたけれど、マグナスは笑っていた。
「改めて、これからもよろしく、アデル」
「よろしくね、マグナス」
お互いに手を出して、握手をした。
「ちょっとは俺のこと気になってくれてるってこと?」
「やだもう、マグナスうるさい」
「冗談だよ!それじゃ、夜になってしまうからお暇しよう。…また明日」
マグナスは繋いだ私の手にキスをして、紳士的に帰って行った。顔に血が上りすぎて、ついへたり込む。
「…仲直りしろって言ったのにどうしてこうなるのよ」
結局ジョンとオリバーはまた掴み合いの喧嘩になり、ぼっこぼこにジョンが殴られて終了した。無傷のオリバーに背を向けて、ジョンの顔に消毒薬を吹き付け、薬を塗る。奇しくも私と同じように頬が腫れ上がっていた。
「また就職のこと?私のことなら気にしなくて良いのよ、みんな好きなようにすれば」
「違うよ」
ジョンがぶすっとした顔で否定した。切れた唇に薬を塗り込むと、痛そうに眉を寄せる。
「アデルが怪我したこと」
「『俺たちが付いてなかったからだ』って言いたいわけ?」
「…まあ、そんなところ」
本当に、この2人は。いつまでたっても私のことを子供だと思っているんだから。
「因縁つけられたのは女子トイレの中よ?どうやって助けにくるつもり?」
「…でも」
「確かに、とっても心細かったわ。でもいつまでも2人に守られているだけじゃ、大人になれないでしょう?あと何ヶ月かで離れ離れになっちゃうんだから」
2人は顔を見合わせた。
「それに…マグナスが、何とかしてくれると思うし」
「いや待て、その喧嘩俺が買った」
オリバーが強く言った。
「買った、って。売った覚えはないわよ」
「じゃあ盗んだ。良いから俺に任せろ。そこのへなちょこも、良いな」
オリバーはジョンにそう言った。ジョンは吐き捨てるように答える。
「好きにすれば」
「あーあ、可愛げもへったくれもないな」
また喧嘩しそうな空気になり、私は慌てて薬箱をばたんと閉じた。
「喧嘩は終わりよ。オリバー、怪我させたことちゃんと謝りなさい。ジョン、過ぎたことをくどくどと怒らないの」
「…悪かったよ」
「ごめん」
2人は煮え切らないようだったけれど、一応頭を下げあった。だから私は2人に頭を下げた。
「心配かけてごめんね」
「アデルは謝るなよ」
オリバーが拒否を示し、ジョンが頷く。
「でも、2人が私のことを妹みたいに思ってくれてるのは良く分かっているもの」
「妹ね」
ジョンが嘆息し、立ち上がった。私から薬箱を取り上げ、棚に戻す。
「とにかく明日、今日守れなかった分は取り戻すからな」
「オリバー、無茶はやめてね」
部屋に帰って行くオリバーの背中に向かって大声を出すと、オリバーは片手を上げた。
「僕、アデルと一緒にキャンベル商会に行くよ」
「ジョン…本当に好きなようにすればいいのよ?」
「違うよ。僕がそうしたいから、キャンベル商会に行くんだ。アデルから離れたくない」
「妹離れのできない兄ねえ」
「今はね」
腫れた顔でジョンは微笑っていた。
元気そうだからこれはこれで良いのだろう。お互い腫れた顔を見合わせて笑った。
翌朝、3人で仲良く登校すると、元気のないケイティが取り巻きたちに励まされていた。それを見るとオリバーはつかつかとケイティに近付いていく。止めようとした私の手をジョンがひしっと掴んだ。
「おはよう。…ジョン、その顔どうした」
マグナスが取り巻きを置いて近寄り、さりげなく私の手からジョンの手を引き剥がす。
「ただの名誉の負傷だよ」
「アデルは顔の腫れが引いたな。ところでオリバーは」
マグナスはオリバーを探してきょろきょろとあたりを見回した。ケイティたちの集団に単独で突っ込んでいったオリバーを見つけ、珍しいものを見る目をする。オリバーが自分から女の子に話しかけるのは初めて見る光景だった。
「なんだあいつ」
「さあ…ケイティと私の喧嘩を買ったとかなんとか…」
「あ、俺は昨日のうちにケイティとケイティの親に『アデルにまた迷惑かけたら承知しない』って言っておいた」
「ありがとう」
対応が早いし、誠実で安心できる。マグナスはいつものオリバーの位置について、オリバーの動向を眺めていた。
オリバーはケイティと壁際で少し話をしていたが、取り巻きたちに囲まれてあれやこれやと言われているように見えた。女の子たちの口に勝てないオリバーは段々口を開かなくなってく。
ケイティが勝ち誇った顔をした瞬間に、オリバーがドン!と壁に両手をついてケイティの逃げ場を奪う。
「えっ」
「うわ」
「…オリバー」
ジョンが頭を抱えた。オリバーの赤い髪が見えるだけで、2人のやり取りは聞こえない。ケイティの顔ももちろん見えないが、取り巻きたちがきゃあ!と声を上げた。慌ててマグナスとジョンと共に近寄ると、オリバーの怒鳴り声が聞こえた。
「好きな子が虐められてて黙ってるわけにはいかねえだろうが!」
空気が固まった。
女子たちの視線が私に向き、マグナスとジョンが口を開いてオリバーを見る。
ケイティは返事をしなかった。オリバーは低い声で「わかったな?」と言って、ケイティを解放する。オリバーが振り向いて、私と目が合う。オリバーの顔は髪と同じくらい真っ赤になった。
「なっ、ちょ、聞いて…!」
うわぁぁぁあ とオリバーは情けない声を上げて走って校内へ駆け込んで行った。私も昨日マグナスと別れた時くらいに顔に血が上っていた。そこまで鈍くない。流石にこれは、気付く。
オリバー、私のことが好きなんだ…!
「…はうぅ、」
さらに驚いたのは、残されたケイティがオリバーより真っ赤な顔で蹲っていたことだった。嘘でしょ、ドMかよ…
「オリバーにあって俺たちに無いものは?」
「強引さ、かな」
しみじみとマグナスとジョンが言った。そんな場合じゃない…!
私は蹲るケイティの側にしゃがみ込み、手を貸した。ケイティは私の手を掴んで立ち上がる。
ケイティのことは嫌いだったけれど、この騒動でなんだかどうでも良くなってしまった。
「え、えっと、とりあえず…なんだかオリバーが無礼なことをしてごめんなさい。…私たち、仲直りできないかな?誤解とか…行き違いとか、あったけど」
「…え?あ、ああ…はい、そうね。話したいこともあるし…仲直り、しましょう?」
「その、よろしくね」
「ええ…」
ケイティと私はぎこちなく仲直りした。ケイティは真っ赤な顔をして、私の顔を見ていた。
「オリバーと付き合うつもりはないわよね?マグナスがいるものね?」
「へ?わ、わかんないよ!だってオリバーはオリバーだし…」
背後でマグナスとジョンがハイタッチした。ケイティはそれを煩そうに眺め、また私に視線を戻す。
「しょ、正直戸惑ってるっていうか…」
「じゃあやっぱり仲直りはなし!出直してらっしゃい!」
「そ、そんなあ」
せっかく女の子の友達ができると思ったのに。
ケイティはつんつんしながら取り巻きを引き連れて校舎に入っていった。
「あーあ…」
「仕方ないよ」
ため息を吐き出すと、ジョンが私の背中を叩いた。
「俺とオリバーがスタートラインだな」
「好きにしてればいいさ」
マグナスが楽しそうに笑い、ジョンがぶっきらぼうに返事をした。
「なんの話?」
「アデルの話」
「全然伝わらないんだけど」
私の問いかけに、マグナスは笑いながら答える。ジョンが私の手を取り、いつものように歩き出す。マグナスは紳士的に腕を差し出し、私はその腕に捕まった。2人のエスコートで歩きながら、ふと思い当たった。
「…こういうことしてるから女の子の友達ができないんじゃない?」
「卒業直前に気付いてももう遅いよ」
「やだもう!離してえ」
ジョンは私の手をぎゅっと握り、マグナスは腕の上に乗せた私の手を掴む。
日常に戻ってきた、そんな気がする。
卒業まであと少し。