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5.アデルの試練



試験まであと2週間。卒業まであと1ヶ月。


私たちは死に物狂いで勉強と曲の練習をこなしていた。耳を塞いでも頭の中に妖精と太陽神の宴の音楽が鳴り響く。目を閉じれば哲学と地理の教科書がまぶたの裏に浮かぶ。寝ようと思えば数学の公式を1つ忘れたような気がして飛び起きる。

オリバーとジョンもそれは同じようで、2人もぶつぶつと地理や歴史を呟きながら歩いている姿を孤児院で見られていた。私はテーブルに手を置くと自動的にピアノの指の動きを練習してしまう病気にもかかった。ジョンとオリバーはカスタネットとトライアングルを空で叩く癖がついた。


「ま、俺が一番なのは間違いないけどな」


放課後、毎日4人で音楽の練習をこなしている。それが終われば全員で試験勉強だ。マグナスは頭が良いだけあって、私が苦手なところを教えてくれる。逆にマグナスが苦手なところは私が教える。良い関係が構築されていた。


「ガーディン国との戦争は…え、なに?後にして」

「皇歴169年のオーランは…マグナスうるさい」

「万物の源とは…幸福とは…うっせえ今覚えたこと忘れただろうが」


模擬テストをすると、全員マグナスに負けた。悔し紛れに呪文のように呟いていた言葉と繋げてマグナスに恨めしげに文句を垂れるが、マグナスはそれでもにやにやしていた。


マグナスはかなり調子が良い。勉強は完璧だし(家庭教師にみっちり仕込まれているらしい)、音楽のバイオリンもプロ顔負けのものだ。マグナスが一番になるのは疑いようがない。


「あと1点だったのにっ」

「アデルは歴史より数学だろう。あの公式さえ覚えていたら同点だった」


それもだけれど、歴史で年号ちゃんと覚えていたらもう少し点があった。悔しすぎる。


「…お前たち、本気でキャンベル商会に就職するつもりなのか?」

「そうよ」


マグナスが心配そうにそう言った。ジョンとオリバーも本から目を上げずに頷く。


「俺はお勧めはしない、と最初に言っておく」

「どうして?マグナスだってキャンベル商会狙いでしょう?」

「俺がキャンベル商会に入るのは…誰にも言うなよ、新しく商会を興すのに、商会というものをきちんと知っておく必要があるからだ」

「…商会を興すの?」


マグナスは声のトーンを落としながら続ける。


「言っちゃ悪いが、今でもうちは既に商会の真似事はしている。…キャンベル商会が経営の悪化を理由に滅茶苦茶なリストラをしているから、職を失った人を引き受けているんだ」

「マグナスの家、貴族みたいね」

「貴族だぞ」


貴族というか、領主というか。

マグナスが心外だと言わんばかりに顔をしかめた。


「こう見えて男爵家だ。父はコネリー男爵。領地はないが」

「…本当に?だったらどうして貴族の学校に行かないの?」

「貴族の学院にど田舎の男爵家の息子が入って相手にされるわけがないだろう。ここに引っ込んでるなら、わざわざ貴族の付き合いはしなくても良いからな。社交シーズンは流石に王都にも何度か顔は出すが」


確かに上下関係が徹底されている貴族の学院では男爵家は最下層だ。…居づらいだろう。でも本当に知らなかった。マグナスが貴族だったなんて。


「…キャンベル商会、経営悪化って」


それより気になったのはそこだった。

私がキャロラインだった頃は絶好調だったはずだ。それがたった6年で滅茶苦茶なリストラが行われるほどになるなんて考えられない。ジョンとオリバーも本を閉じてマグナスの話を熱心に聞き始める。


「ここ5年の話だな。伯爵がおかしくなってしまって…変なものに手を出してしまうんだ。ただでさえ娘が金食い虫なのに、祈祷師を呼んでみたり、壺を買ったり…それで借金を作って、商会の金に手を付けているようだ。奥様も体調が良くないらしく、ずっと臥せっているし」


お父様と、お母様が。私の大切な2人が、すっかり変わってしまっている。理由は想像がつく。


聞き分けの良かったキャロラインが、急にわがままに変わってしまったからだ。それでもアデルと入れ替わったなんて信じられないだろう。

悪魔が乗り移ったとでも思ったのかもしれない。祈祷師を呼んで、それでも直るはずがなかった。壺も騙されて買ったのだろう。そうしているうちに母が病んでしまって…父も、参ってしまったのかもしれない。その間にもキャロラインは欲望のままに金を使う。キャンベル家はすっかり磨耗しているのだろう。


「アデル?大丈夫?俯いちゃって」


ジョンが優しく私の背中を撫でた。…私がうっかりアデルと入れ替わってしまったばかりに、キャンベル家が破綻しようとしている。これに落ち込まずにいられるだろうか。


「俺はこのままキャンベル家が立て直せないと判断したら、商会を潰す。うちが乗っ取るんだ。だからみんな、うちで働くのはどうだ?」

「……嫌よ。キャンベル家は私が立て直してみせるわ。マグナスに潰させたりしない」


ぎり、とマグナスを睨むと、マグナスはたじろいだ。キャンベル家は私が守る。キャンベル家の娘として、そうしなければならない。


「お、怒るなよ…それに、キャンベル家は孤児には給料はほとんど支払わないぞ。良いのか?」

「え、そうなのか?」


オリバーがぽかんと口を開けた。


「ただでさえキャンベル家は減給しまくってて…孤児は立場が弱いから、普通の人の半分も払っていないと思う。うちなら能力に応じて給金を決める」

「……それでも、私はキャンベル商会に行くわ」

「何がそんなに良いんだ?」


あくまでもキャンベル商会に拘る私に、マグナスは眉を吊り上げて訊ねた。ジョンとオリバーも納得がいかないのか、じっと私を見つめている。


「理由は…理由は、」


思い、つかない。

私が伯爵令嬢だから、なんて言えない。責任を感じているとも、言えない。ただ家族のそばにいたいとも。

しかしそれ以外にキャンベル商会を目指す理由は…思いつかない。それほどデメリットが大きい。


「……」


黙って俯く。歯を食いしばらないと、泣いてしまいそうだった。キャンベル家を否定されると、私まで否定された気持ちになる。誰も受け入れてくれないと、そう思ってしまう。


それでも私は、家族に会いたい。ステファンに会いたい。

6年も待った。ずっと恋しくてたまらなかった。貴族の暮らしよりも、家族の温もりが。孤児院のみんなも家族だけど、本当の家族じゃない。

お父様とお母様が、兄のようなステファンが、恋しいの。会いたいの。理由がなくても会いたい。家族だもの。


「…アデル、この話はやめよう。今日はもう帰ろうか」

「ごめんね…」


自分で自分が情けない。



でも、私には譲れない。





夜、孤児院のキッチンで水を飲みながらぼうっと考え込んでいた。勉強に手がつかなかったからだ。


「アデル、まだ起きてたのか」

「オリバー…」


オリバーもコップに水を入れて私の隣に座った。


「大丈夫か?」

「なんでもないわ」

「嘘つくなよ、すぐ分かるからな」


オリバーはくしゃくしゃと私の頭を撫でた。嫌だ、また泣きそう。


「商会のことだろ?昔から憧れだったもんな」

「…うん」

「それってステファンがいるからか?」


オリバーは確信めいた聞き方をした。ステファンも理由の1つだということは、正しい。でもどう答えれば良いのか分からない。


「アデルはさ、ステファンにフラれて急に変わっただろ。ずっとステファンを見返すためにそうしてるんだと思ってた。…だから、キャンベル商会がいいんだろ」

「……そう、だったわね」


キャロラインとアデルが入れ替わったことは、理由を変えて捉えられていると初めて気付いた。アデルが心を入れ替えたと言い切ったのは…ステファンにフラれたのが理由だと思われている。間違いではないけれど…


「今でもステファンが好き?」

「…分からないわ」


アデルとしては、そんなつもりで生きてこなかった。ステファンのことは、好きだった。でもキャロラインとして生きることを諦めた瞬間に…恋心は忘れたと思う。

前偶然見かけた時には変わらず「素敵だ」とは思ったけれど。


でもステファンよりもずっと、マグナスのほうが今では楽しいし、オリバーのほうが頼り甲斐があると思うし、ジョンといる時の方が安心する。


「でも、会いたい、とは思う」


素直な気持ちを口にすると、自分の中で納得がいった。好きとか、恋とかじゃなくて。ただ、会いたかった。


欲をいえばステファンや、お父様お母様にまた会うために努力してきた私を「偉いね」と褒めてほしかった。そうすればこの理不尽な運命を克服できると、そう思っていた。報われたかった。


「誰が何と言っても、私はキャンベル商会を目指すわ」

「そうか」


オリバーは水を飲み干してコップをシンクに置いた。


「俺も、考えなきゃな。…ジョンも、就職のことはよく考えたいって」


とだけ言うと、キッチンから出て行ってしまった。

1人残った私は、深呼吸して、コップを空にした。少しだけ気分がすっきりした私は、教科書をぱらぱらとめくった。




翌日は気合を入れるためにも、マグナスに買ってもらった上等な青いワンピースを着て行った。このワンピースは大切な日や、気合を入れたい時に着ている。ある意味勝負服だ。ただ、何となくジョンともオリバーとも話しづらくて一緒には行かなかった。2人も別々に登校したらしい。院長先生が落ち込んでいる私を送り出してくれた。


「アデル、今日…後で時間貰えないか?」


学校に到着してすぐにマグナスにそう誘われた。彼は取り巻きを連れたまま、私にそう言った。マグナスのすぐ後ろでケイティが驚愕に目を見開くのが見えた。


「昨日のこと、謝りたくて」

「マグナスは悪いことしてないでしょう?」

「でも失礼だった」


ケイティの手前、あんまりマグナスと話したくないんだけど…

逃げ道を探す私の手をマグナスが掴む。


「それなら…放課後に」

「わかった。練習前に会おう」


マグナスは私の手を離した。背後からマグナスの友達が口笛を吹いて囃し立ててくる。

私は逃げるように教室に駆け込んだ。



教室の中ではジョンとオリバーがお互いにお互いの襟元を掴んで今にも殴り合いが始まりそうになっていた。


「ちょ…っ!2人とも!」


既に教室にいた生徒たちは面白がって眺めていたが、私は2人の間に割って入る。2人は私が間に入ると、お互い睨み合いながら距離を置いた。


「何してるのよ!」


思わず怒鳴りつけた。2人がこんな風に喧嘩をすることは今までなかった。2人は兄弟同然で、大親友だった。オリバーは手が早くて孤児院ではよく喧嘩していたけれど、ジョンとは絶対にそんなことはなかったのに。


「…っ、アデルには関係ない!」


珍しくジョンが感情的に私に怒った。思わずびくりと2人の間に入っていた手が、止まる。腕から力が抜ける。


「…ごめん、でも、放っておけないじゃない。理由も教えてくれない?」


冷静に話すと、オリバーはふらりと足の向きを変えて、鞄を引っ掴んで歩き始めた。


「オリバー」

「帰る」

「オリバー…!」

「アデル、ごめん。明日にはちゃんとするから」


オリバーはジョンをぎり、と睨むと教室から足音を立てて出て行った。入れ違いにマグナスたちが入ってきて、去って行ったオリバーと私とジョンを交互に眺めていた。


「…アデル、ごめん。僕も今日は駄目だ」

「ジョン…」

「怒鳴ってごめん。今日は離れて過ごすよ」


ジョンはそのまま、いつもとは違う席に座った。私はそのままぽつりと1人で席についた。横に長いテーブルには、私がひとり。


アデルになって初めて自分が孤独だと感じた。



放課後、ジョンと話がしたかったけれど、ジョンは1人でふらりと教室を出て行ってしまった。こんな日に話しかける方が嫌われてしまうだろうか。


「…はあ」


1人で落ち込んでトイレに行くと、ちょうどケイティたちが屯していた。失敗した…慌てて帰ろうとすると、ケイティの取り巻きが私の前に立ち塞がる。今日は両脇固めてないから戦闘力が足りない。助けてくれる人もいない。こんな日に限って…


「どこ行くの?話したいと思っていたのに」

「こんにちは、ケイティさん」


できるだけ、穏便に…と自分に言い聞かせながら私は微笑んだ。


「ねえ、最近マグナスとはどうなの?」

「…ええっと、勉強を教えてもらっているの。1人じゃないわよ、ジョンとオリバーも」

「ふーん。孤児は大変ね。女の子なのに勉強しなくちゃならないなんて」


ケイティは茶色い髪をくるくると指に巻きつけながら、私を壁際に追い立てた。後ずさって壁にぶつかる。


「マグナスに近付くためには勉強しなきゃならないなんて、憐れよね」

「…え」

「分かるわよ?孤児から男爵夫人に憧れを抱くのは。でも貴女が相応しいと本当に思う?孤児の醜いアデルが、男爵夫人?誰が認めるというの」


ケイティが低く嗤った。


「それ、マダム・ポンテールの店の服でしょう?…あのローズだって、頭を下げなきゃ服を買えないような格式の高い店のものよ。孤児のあんたには相応しくないわ!」

「っ、」


ケイティは私の服の襟を掴んで怒鳴り、壁に私を強く押し付けた。頭をぶつけて小さく呻く。


「良いこと?孤児に似合いなのは、精々下働きか娼婦よ。学校で教育を受けることすら烏滸がましいわ。同じ空気を吸うのも嫌」

「……」

「卒業したって碌な仕事につける筈もないのに頑張るなんて、愚かね。だからってマグナスに取り入るなんて…あんな粗末な食べ物を渡したり、同情してもらおうってわけ?おかしいんじゃない?」

「同情、だなんて」

「一口食べて捨ててたわよ。あれは可笑しかったわね!でも、残念!マグナスだってあんたで遊んでるのよ!夢中にさせたら勝ちだってみんなで賭けをしていたわ」


ケイティが顔を歪めて嗤った。…そうか、マグナスはやはり私のマドレーヌなんて口に合わなかった、のか。私の方から捨てても良いなんて言ったのに、傷付いた。

それに、賭け、か。デートに誘ってくれたのも…全部、私で遊んでいたのか。


「…あは、とても…納得した、って感じ。すっきりしたわ。教えてくれてどうもありがとう」

「忘れないでよね、私こそがマグナスの本命だってことを。あんたはただの賭け。不安になった私がバカだったわ」


本当のアデルを知っているマグナスが、多少見た目が良くなったからといって私を好きになるわけがなかった。

賭けに勝つために私に贅沢をさせたのだ。私が孤児だから。金を出せば買えるような女に見えるから。孤児の女なんてそんなものだから。


「だったら私はよく理解したからもう離してくれる?」


もう嫌。なにもかも上手くいかない。苛立ち紛れにケイティを睨むと、ケイティはさっと顔を赤くした。


「なによその顔!孤児のくせに生意気な!」


スパン!と乾いた音がした。ケイティが私の頬を平手打ちした。いつもならオリバーが止めてくれるのに、今日はいない。助けはない。反応のない私に、ケイティはまた先ほどと同じように手を振り上げた。また乾いた音がして、頬に痛みが走る。口から血の味がした。歯で頬の内側を切ったようだ。


「私が男爵夫人になったら果樹園で雇ってる汚い孤児は全員解雇してやるわ!」

「……孤児だから、何よ」


マグナスの家の果樹園で働いている孤児院出身者は結構多い。彼らは私の家族で、決して汚くなんてない。一生懸命生きているだけ。なのに、どうして蔑まれなくちゃならないの。


「貴女って可哀想。人を図る物差しが、親の有る無ししかないのね」


嘲笑うように、私は微笑んだ。感情的に言い返すのは簡単なことだけれど、そんなことをしたら私はケイティと同じだ。ただ耐えるのも違う。…耐えたって馬鹿にされ続ける。


私はにこりと微笑んで、ケイティの腕を振り払った。震える足を動かして、ケイティの取り巻き達にぶつかりながらトイレから出て行く。脱出、成功…



マグナスと合流する予定だったけれど、ケイティからあんな話を聞かされてしまえば会う気にはならなかった。


でも学校の玄関で息を切らしたマグナスに行方を阻まれた。


「アデル!どうして帰るんだ」

「…マグナス」

「その顔、どうした」


頬が腫れているようだ。私は頬を手で押さえ、マグナスから顔を背ける。


「別に」

「誰にやられた」

「誰でもないわ」

「言えよ、俺がそいつに一言」

「マグナス」


馬鹿みたい。

はっ、と乾いた笑いが零れた。瞬きすると、目から熱い雫がこぼれ落ちる。情けない。情けなくて、涙が出る。


「ケイティに聞いたわ。賭けは貴方の勝ちで良いわ」

「アデル?」


マグナスは首をかしげた。私はぎりっとマグナスを睨む。


「…私、貴方に夢中よ。何なら明日、貴方のお取り巻きたちの前で言ってあげても良いわ。だからもう近付かないで」


それだけ言うと、マグナスを突き飛ばして走って逃げた。後ろからマグナスの、アデル、アデル、と呼ぶ声に耳を塞ぐ。


孤児ってどうして惨めなの。




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