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1.私はアデル


「ステファン、こっちよ!早く来て!」

「キャロラインお嬢様、走らないでください!お嬢様!」


お父様とお母様にお願いして連れて来てもらった春の花が咲き乱れる湖畔。眩しい太陽が水面に反射して瞳に突き刺さる。走る私の後ろにはお兄ちゃんのようなステファン。私の眩しい太陽。

3つ年上のステファンは、私の付き人だ。私の世話役であり、父の古い友人であり部下だった男の息子。夫婦揃って早々にこの世から去ってしまった。ステファンは伯爵家の一人娘の私の面倒を見てくれている。私と同じように育てられ、この先もずっと、ステファンが望む限りは一緒にいることになるだろう。今は我が家の家業である商会について学んでいる最中だ。


「捕まえた!キャロラインお嬢様!」

「きゃあっ!捕まってしまったわ」


くすくす笑って、私はステファンの手を握る。

ステファンが大好き。ステファンがいない人生は考えられない。ステファンは兄のような存在だけど、それだけじゃない。きっとこれは恋で---これからずっと大切に温め続ける感情になるだろう。


「ステファン!私の太陽!」

「俺の妖精、キャロライン」


キザったらしい台詞は絵本を読んで覚えた。2人でそう呼び合って、笑い会うのが日常だった。




私はキャロライン。キャロライン・キャンベル伯爵令嬢。今年で10歳になる。親譲りの金髪に青い瞳を持つ女の子だ。ピアノを弾くのが大好きで、学校に入るのを楽しみにしているごく普通の伯爵令嬢。


伯爵令嬢として、幼い私にも仕事がある。

それはお母様やお父様と一緒に様々な施設を周り、領の人に顔を売り、時には勇気付けることだ。


今日は孤児院の慰問だった。

様々な理由で親を無くした子供達が住まう場所だ。お気に入りの桃色のドレスを見に纏い、さらさらストレートの髪を綺麗に結い上げてステファンと馬車に乗って数十分、目的の孤児院に辿り着いた。馬車からステファンのエスコートで降り、外で大きく息を吸う。見上げた孤児院は想像していたより小さかった。


ここはステファンが数日を過ごしたところでもある。

両親を亡くし、私の両親が見つけるまでステファンは孤児院に預けられていた。それ以来、我が家に迎え入れられてからもステファンは度々この孤児院を訪れ、子供達の面倒を見て来たらしい。


「足元気を付けてくださいね」

「ありがとう、ステファン」


前日の雨でぬかるんだ地面に気を使いながら、ステファンの腕をしっかりと掴む。

院長の先生が出迎え、両親に挨拶をした。両親は私とステファンを院長に紹介する。


「ステファンはご存知ですね?こちらは娘のキャロラインです」

「キャロラインお嬢様、初めまして。院長のデボラでございます」

「よろしくお願いします」

「まあ、とても良くできたお子様ですこと!」


綺麗に礼を取ると、院長は手を叩いて褒めてくれた。照れ臭くてステファンを見上げると、ステファンもにこりと微笑んでくれる。両親が私の頭を代わる代わる撫でた。


「キャロラインは私たちの天使ですもの」


お母様が私に微笑みかけ、お父様が私を抱き上げる。


「いつかお嫁に行ってしまうのが残念でならないよ」


お父様が私に頬擦りした。私がくすくす笑ってやり返すと、父は眦を下げて喜んだ。


「どこにも行かないわ、お父様!」


だって離れたらお父様もお母様も悲しい顔をなさるもの。キャロラインはずっと2人と一緒にいる。


「素晴らしい家族愛ですわ」


院長がにこにこ笑って歩き始める。お父様が私を下ろして、またステファンのエスコートで歩き始める。院長に続いて大きな部屋に入った。


中には20人を超す、年齢も様々な子供達が遊んでいた。積み木、絵本、人形等、少し古ぼけているが基本の遊び道具は一式揃っているように見えた。子供達はみんな痩せていた。

遊んでいた子供達は院長を見ると一瞬萎縮したような表情を浮かべる。

部屋の奥には、他の子達がこれほど痩せているのにも関わらず、1人だけ肥満体型の子供がいた。目を凝らすと、私と同い年くらいに見える。海藻のような黒い長い髪をもつ少女だった。


「ステファン…っ」


少女は私たちを見るや否や、目をハートにして大きな身体を持ち上げた。急いで走ってこちらへ向かってくる。どすっ!どすっ!と足音が響いてステファンに向かって突進してくるように見えた。

ステファンは私を守るように一歩退き、笑顔を辞めて言った。


「止まれ」

「やだぁ!ステファン!会いに来てくれたのね!」


彼女は拒否するステファンに飛びついた。とっさにステファンに手を離された私には被害は及ばなかったが、ステファンは思わず尻餅をついていた。彼女が走った後に異臭。これまで嗅いだことのない臭いだった。ドロドロの脂ぎった髪をステファンに擦り付けながら、彼女は澄んだ緑色の目を輝かせる。


「アデル!おやめ!」


院長が怒鳴るとアデルはぴたりと動きを止めた。のそのそと立ち上がり、院長のすぐ後ろに隠れる。ステファンが私の隣に立ったが、アデルの臭いが移っていた。


「…ステファン、臭い」

「すみません」


ステファンが3歩離れた。


「ここは子供達の遊び場です。天気が良い日は外で遊んでいる子もいますが」


院長が説明を始め、アデルが私を睨みつけた。なんだか怖くて、ステファンの後ろに隠れてステファンの手をぎゅっと握った。


両親が熱心に院長の話を聞き、子供達に語りかける。子供達は与えられた台詞を読むようにすらすらと答えていく。なんだか可笑しな光景に見えた。アデルは院長にぴったりくっついて、私たちをずっと追いかけている。


「ステファン、ねえ、」

「何です?」

「…アデルって」


私がそう聞くと、ステファンはちらりと院長の背後にいるアデルを視界に入れた。


「とても小さな頃からここにいます。…ただ、あの通り清潔さに欠け、人間関係の構築も下手で馴染めてはいません」

「清潔さに欠ける」

「風呂に入らないのです。人に裸を見せられないと」

「…人間関係の構築も下手」

「自分が誰よりも上でなければならないと思っています。孤児院の子供達は彼女を…ここのボスと思わされています。たまに出るデザートは全て彼女に貢がなければならないし、普段の食事でもアデルが欲しいと言えば譲らねばなりません」


すごい。来年から入る予定の貴族の学校のようだ。貴族ならさすがに清潔感はあるだろうけれど、上下関係の徹底はよくあることだと母から聞いている。幸い私は伯爵家の娘だから、上すぎず下すぎずな位置に居られるだろうけれど。


「ステファンのことが好きなの?」

「そのようですね」


ステファンは何でもないように言った。


「アデルのこと、好き?」

「まさか」


ステファンはそう言って私の頭を撫でた。


「俺はずっとお嬢様の物です」


それってどういう意味、と言おうとした瞬間、アデルが叫んだ。


「あぅひあばはぁーーーーー!!!!」


全く意味を成さない言葉だった。まるで赤ん坊の癇癪のよう。それでもあまりに大声だったので、私もステファンも驚いてアデルを見つめた。アデルは私をじいっと見ていた。


「ねえぇぇええ、あなたのお部屋にはぁぁ、大きなベッドはある?」

「あ、…っ、あるわ」


アデルはゆっくり歩きながら私に問いかける。私は驚いてステファンに寄りかかりながら答えた。


「綺麗なドレスは?何着あるの?ねええ」

「わ、わからないわ、数えたことがないもの…」

「召使いは何人?何でもしてくれる?」

「侍女は2人…何でもはしてくれないわ」

「宝石は?お部屋はどれくらい広いの?お菓子は?」

「な、何なの…?」


アデルの臭いが迫る。アデルの巨体が私の目の前にやってきて、がしりと肩を掴んだ。ステファンがアデルを引き離そうとしたが、アデルはそれより強い力で私をぐっと引き寄せた。ひどい口臭がする。長い間取られた形跡のない目ヤニや、脂ぎった頬、数え切れないほどの吹き出物がすぐ目の前にあった。生理的嫌悪が私の顔を歪めた。


「いいなぁぁああ?」

「ひっ」

「アデルもお姫様になりたぁい」


アデルの緑の目がじいっと私を覗き込んだ。


「アデル、やめろ!」


ステファンがアデルの手を引いた。その瞬間にアデルがバランスを崩して転んだ。転んだ瞬間こちらに倒れこみ、私とアデルの脂ぎった額がごちん!とぶつかった。


ぶつかった瞬間、目に星が飛んで、目の前が真っ白になった。







「キャロラインお嬢様!キャロライン!」

「キャロライン!起きて!」

「キャロライン!」


ステファン、母、父の声が右隣からした。私はぱちりと目を開ける。先ほどの孤児院の天井が見えた。あらなんだか体が重い。ゆっくり身体を起こして隣を見ると、ステファン達が誰かを必死で揺さぶっていた。


「私は平気よ」


と言うが、声が可笑しい。自分の声ではない。

ステファンがキッとこちらを睨んだ。


「ああ無事だろうよ」


冷たく言われて、わけが分からなくて驚いた。ステファンの手元を見ると、そこには私がいた。

キャロラインが目を開けると3人は大喜びでキャロラインを抱きしめる。


「ああキャロライン!無事でよかった!痛むところは?」


お父様がそう言ってキャロラインを撫で摩る。キャロラインは不思議そうな顔をして、こちらを見た。

キャロラインは、あっ、と声を上げた。キャロラインが自分の身体を見下ろし、満足そうに微笑む。私もつられて自分の身体を見た。


私の体は巨体になっていた。

黒い海藻のような長い髪が腰まで伸びている。

---言うまでもなくアデルの身体だった。


「お、お母様、」


私は縋るように母に手を伸ばした。母は恐ろしいものを見たような顔をして私の手を振り払う。


「私の娘に手荒なことをしておいて、よくも母と呼べましたね」


吐き捨てるように言われて、伸ばした手は引っ込めた。父をじっと見るが、キャロラインに夢中でこちらに気付きもしない。


「わ、わたし、キャロラインよ。キャロラインなの!これは、違うわ!」

「院長…家族が恋しいのは分かりますが、これは如何なものでしょう」

「申し訳ございません。強く言い含めておきます」


院長は深々と謝り、私は院長に頭を押さえつけられた。強制的に頭を下げさせられ、それでも私は縋った。


「お父様ぁ、ステファン!」

「おやめ、アデル!」


院長に怒鳴られ、私は涙を流しながら声を上げた。


「キャロライン…もう帰りたい」


キャロラインがそう零すと、3人は頷いた。


「院長、キャロラインが退屈してしまったよつなのでもう帰らせていただきますね」

「この度はお嬢様に大変失礼なことを…なんとお詫びすれば良いか」

「怪我はしていないようですから」


お父様、お母様、ステファン、置いていかないで、ひとりにしないで。

私は喉が張り裂けそうなほど大きな声でそう言った。3人はもう振り返りもしなかった。誰も私がキャロラインだとは気付かない。


3人は馬車に乗って、帰ってしまった。




あり得ない、こんなこと、あり得ていいはずがない。

私の生活がそのままアデルに乗っ取られてしまった。アデルが私の中に入ったまま、私がアデルの中に取り残されたままになっている。こんなことが許されていいはずがない。孤児院は私の家じゃない。私の家はキャンベル家のお屋敷。大きなお屋敷で大きなお部屋があって、白いベッドが---


私はふらふらと馬車を追いかけて外に飛び出した。院長がアデル!アデル!と怒声を上げているのは聞こえてすらいなかった。




孤児院を慰問した一行が帰ったのはまだ朝のうちで、アデルの足でもお屋敷までは夕方までかければ辿り着いた。アデルは体力だけはあるのか、これほど歩いてもへっちゃらだった。もちろん草臥れはしたけれど---歩けないほどではなかった。


「こ、こんな姿では分からないかもしれないけれど、わたし、キャロラインなの。おねがい、通して」


門番に必死でお願いしたけれど、門番は胡散臭そうにわたしを見下ろしただけだった。


「いいか嬢ちゃん。あんたはここに入れるような人じゃないんだ。わかったか?」

「でも、わたしはキャロラインで、ここはわたしのおうちなの、」


必死で頼めば頼むほど、門番は可哀想なものを見る目をしていく。


「わかるよ?俺もここが自分の家だったら、って何度思ったことか。でも、世の中にはどうにもならないことってのがあるだろ」

「ちが」

「ほらほら、早く帰れよ。ママが待ってるぜ」


ママはここにいるの。泣きながら頼んでも、門番は取り合ってくれない。

そうしていると、屋敷の中からステファンに連れられたキャロラインが出てきた。キャロラインとステファンは私の姿を見ると駆け寄ってきた。


「お前!何しに来たんだ!」


ステファンは私に詰め寄った。後ろにキャロラインを隠す。キャロラインはこちらを見て仄暗く微笑んだ。


「だって、わたしの家…ステファン、どうして、分かってくれないの?」


ぼろぼろと涙を流しながら訴えかけるが、ステファンは胡散臭そうに私を見下ろし、私の肩を突き飛ばした。


「きゃっ…!」


ずざ、っと転び、額を地面にぶつけた。ぶつけた先に小さな石があったのか、額から血がじわりと滲み始める。


「ステファン、離れて?」


キャロラインが楽しそうにそう言って、私に近寄った。そっと私のハンカチを差し出し、額の血を拭う。そして私にこっそり語りかけた。


「ねえ、どんな気持ち?私はもうキャロラインなの。大金持ちの貴族の甘やかされた娘よ。貴女はデブで汚い孤児のアデル。一生このままよ。もう2度と会うことはないでしょうね」

「どうしてこんなことを…っ!」

「どうして?私にもわかんない。でも気が付いたらこうなってたんだもの。受け入れたら?」


キャロラインはふふっと笑って、私にハンカチを押し付けた。私が涙目で睨み付けると、キャロラインはステファンに抱きついた。うっとりとステファンを見上げるキャロラインを見るのは空恐ろしいものだった。


「怖いわステファン。私は優しくしてあげたのに…」

「キャロラインお嬢様に近付くな、アデル!」

「ステファン…」


キャロラインの言葉が脳を過ぎる。


---受け入れたら?


できるはずがない。私はキャロラインで、伯爵令嬢だった。それがほんの一瞬で孤児になんて、受け入れられない。何かの間違いなのだ。


でもステファンは私をゴミのように見ている。消えて欲しいと思っている。こんな目をされたことがない私に衝撃とともに、心を砕くほどの悲しみが襲った。


よろけながら踵を返し、ぐすぐすと泣きながら歩き始めた。このまま消えたい。このまま死にたい。アデルのまま生きていくことなんてできない。


「…アデル、旦那様が孤児院まで送ってやれと言うから送ってやる。乗って」


キャロラインが喚く声がして、ステファンが私を追いかけて来た。キャロラインはお父様の腹を叩いて反抗していた。今まで私がそんなことをしたことがないからか、お父様は首を傾げていた。

ステファンが私を馬車に乗せ、自分も向かいに座った。そして窓を全開にした。


がたがたと馬車が動き始める。

今朝この馬車に乗った時はこんな気持ちじゃなかった。もっと輝かしい気持ちでいっぱいだった。お父様、お母様、ステファン。みんな一緒だった。

なのに私はいまひとりぼっち。


「お前が可哀想なのは認めるが、キャロラインお嬢様に手を上げたのは絶対に許せないからな。…でも、その傷はごめん。跡が残らないといいけれど」


ステファンはそう言って窓の外に顔を出した。

よほど私は臭いようだ。


「自分じゃ感じないのよ」


この臭い。わからない。鼻が曲がっているのか、自分のものだからこそなのか。ステファンはわけのわからない顔をした。


「もう孤児院には行くなと言われた。これが最後だ。お前に会うことももう2度とない」

「…そう、本当に、本当に最後なのね」


ぽろ、と涙がこぼれた。母にも、父にも、ステファンにも、もう会うことはない。


運命として受け入れなればならないのか。

こんな理不尽を。こんな苦しさを。


学校を楽しみにしていたのに。まだ見ぬ舞踏会や、社交界を。煌びやかな世界で生きて行くことを望んでいたのに。

私は孤児になる。アデルになる。アデルとして生きねばならない。どう足掻いてもキャロラインの身体にはもう戻れない。


今朝と同じ時間をかけて、馬車が孤児院に着いた。孤児院は薄暗く見えた。ここが私の家になる。ステファンは私を馬車から乱暴に降ろすと、扉をばたんと閉めた。閉まる扉に向かって私は言った。


「さようなら、私の太陽」


ステファンは窓から私を一度だけ振り返って、もうこちらを見ることはなかった。




---受け入れたら?



そうするしかないなら。

そうしなければ行きていけないというなら。




さようなら、私の太陽。私の眩しい太陽。

私の世界。キャロラインとしての私。



私はアデル。

孤児のアデル。醜いアデル。


私は、アデル。


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