ヘンペルのカラス
Author:六車むつ
視界中、ずらりと長方体に切り出した石が並ぶ。古代の遺跡を彷彿とさせる、寒々とした石造りの地下牢獄。
通路に点在する松明が時折爆ぜる音と、染み出した水滴が落ちる音以外に、鼓膜を揺するものはない。
罪人を隔てる格子の向こうには、もはや死臭さえ漂わないほど古い骨やぼろ布が転がるばかりだ。
そんな場所に、微かな足音が聞こえてくる。少し慌ただしいリズムを響かせるのは、革製のブーツ。深い紅色のローブを纏った人影が、牢獄の最奥へ駆け込んでいく。
早足にはためくローブの裾に施された金糸の刺繍が、ちらちらと炎を反射する。
幅の広くない通路の一番奥にある重厚な木戸には、赤い塗料でバツ印が記されている。
それが何を示すのか知らぬ訳ではないであろう見目麗しい青年は、迷わず扉を引き開けると、瞬く間にその身を翻し、背を押し付けるようにして木戸を閉じた。
「……また貴様か」
荒々しい開閉音に、部屋の奥で椅子に腰掛けた人影が舌打ちをする。
青年とは纏う雰囲気が正反対。痩せこけた不健康そうな体を黒いローブで覆った影は、濃い隈の上に収まる目玉を不機嫌そうにギロリとへ向けた。
「いい加減にここを避難所代わりにするのをやめろ。迷惑だ」
「あそこは窮屈過ぎるんだよ」
肩を竦めローブを脱ぎ、石畳に放り出した青年は影の拒絶も意に介さずそこへ腰を降ろす。
「ここもよほど狭いと思うがな」
影は椅子から動かない。口以外で青年を追い払うような仕種もない。
鉄製の簡素な椅子に取り付けられたおびただしいまでの拘束具が、影にそれを強いている。
「僕は自由になりたかったのに……。今が一番窮屈なのは、どういう訳だろう」
椅子から延びるパイプを視線で辿り、青年がぽつりと零す。
深く溜息を吐いた青年の視線の先で、影はやはり身じろぎの一つもしない。
「自由になりたかった。だから壊して奪って捕まえた。なのに、ひとつも報われない」
椅子のパイプが地上の神殿に通じている事を、そしてパイプを通じて吸い上げた「力」を神官達が政治に利用している事を知っている青年は、淡々と呟く。
「食べたい時に食べたい物が食べられる、雨風を凌ぐ以上の家もある……でも、毎日息苦しくて仕方ないよ」
静寂。時折、水音。
「……もうそろそろ、最低な奴だと罵ってくれてもいいんだよ」
立ち上がり、影へ顔を寄せながら静かに口を開く。
「貴様がその言葉を望むうちはくれてやらん。それが私の抵抗だ」
影は、長い黒髪の隙間から覗く隻眼と、口角を嘲笑に歪めてあっさりと一蹴した。
「抵抗、ね。――ぷっ、ははっ、あははははははははっ!」
口元を抑えるだけでは足らず、腹を抱えて笑い出す。できるのか、できるものか、そんな色の乗ったトーン。
「君もそろそろ馬鹿らしくなってきただろう? こんな腐った世界を支えるなんて」
「……黙れ」
ひとしきり嗤った青年の声は一気に、甘美さを帯びた。
それは、影を影として縛りつけておく為の楔。
「僕と君の意思次第で世界はどうにでもなるのに、僕らが世界のために苦しむなんて間違ってる」
「黙れっ!」
影は青年を睨めつける。憎悪のこもった視線には、悪名高い盗賊さえ竦み上がらせそうな気迫がある。
「貴様か私が一人堪えれば世界は平穏に廻る。その責務を放棄した貴様に、世界を好きに扱う権利はない」
自分自身の言葉が一番自分自身を逆境に縛りつける。
青年はそれを身をもって知っている。
「…………そっか、」
俯いて首を振る姿は、淋しげにも見えた。
「――なら、せいぜい抗えよ。勇者サマ」
顔を上げた青年は、村娘に微笑みかけるように爽やかに吐き捨てた。
地上の人々は青年を勇者と呼び讃え、影を魔王と呼び畏れている。
二人の本質など知ることなく、長年に渡って築き上げられた先入観によって本能的にそうしていることに気づかないまま。
【合わせ鏡】という儀式は、悪魔を呼ぶ。
鏡が鏡を映し続ける奇妙な空間の間から出で来た悪魔は、現れた途端世界中に災厄をばらまくのだという。
***The Next is:『僕は愛を持たない』




