Odi et amo
Author:六車むつ
◆ ◇ ◆
「火のついたマッチを基準に論じるなら、よくもっている方だと思うわ」
二〇一四年の夏、彼女は商店街の一角にある大衆向けの狭い食堂で、照り焼きの魚を口に運びながら感慨深げに呟いた。
「古民家を基準に論じるなら、脆弱極まりないけれど」
昼時を過ぎた店内は喧騒もなく、午後の穏やかな時間に寄り添っている。
それが、さして大きくない彼女の声を、僕の鼓膜が難無く拾える理由。
「家には固定資産税なんかもつくからね」
僕は、夏野菜の素揚げが乗った冷やしそばを啜りつつ言う。
彼女の皮肉めいた口ぶりに、僕が嘲笑をもって返す。
僕らの会話は大概こんなものだった。
趣味嗜好について彼女と言葉を交わしたことは、皆無だったといってもいい。
ただ、誰へともない悪口陰口を並べる時間。爪の垢程しかない良心から呵責でもあるのか、僕にはこの会話が奇妙に高揚して感じられた。
◆ ◇ ◆
僕たちの仕事は、いわゆる事務員というやつだ。
そこそこ大きな会社で日々歯車として働いている。
業務内容は表計算ソフトを使うようなデスクワークから簡単な清掃まで幅は広いが、とにかく全て地味で静かで目立たない。以前この仕事を「日陰屋」と称した先輩がいた。的を射ていると思う。
僕と彼女は社会人二年目の同期だった。
だからといって、同期会などと称して飲んだりするような間柄ではない。
お互い大学卒業までは無事こぎつけていたけれど、僕は一年間就職浪人だったし、彼女は一年間名前を聞いてもぴんとこない国で過ごしていたというから、職場の雰囲気にお互いどこか遠慮がちになっていたのかも知れない。
事務所の一角にある棚では、自動の鉛筆削り機で削れなくなった鉛筆が無造作に菓子の空箱を埋めている。
彼女はそういった鉛筆を使うのを好んでいた。
特別エコロジストという訳でもない。
冷房のきいた事務所内が寒いと未だに言い出す事なく、足元にストーブを常備している(しかも設定は常に強だ)のを横で見ている僕が言うのだから、この決めつけは九割方正しい。
どうしても削り切れなくなり、専用のキャップを使っても書けなくなった鉛筆をごみ箱へ捨てる時、彼女はいつも微笑もうとして失敗したような顔をする。
「おつかれさま」
こつん、
小さな消耗品が、ごみ箱の底に当たる音がした。
◆ ◇ ◆
ある日、グループの成果が未だに今回の目標基準を満たしていない事が、職場内で大きな問題になった。
ノルマに満たない時には、足りない分を総動員で穴埋めしなくてはならない。グループは全員、ノルマを達成するまで帰ることは勿論休憩でさえ制限される。
これをブラック企業というのかと、初めこそ面くらったが、この業界では大して珍しくない話だった。
自分の会社が関わったメディアを片っ端からチェックし、不適切な表現に是正を求めるという殊更地味な雑務から戻ったばかりだった僕は、ざわつきが大きくなる事務所の隅で、彼女が他意なく渡してくれたコーヒーに口をつける。
彼女は仕事が速い分、お茶汲みなど様々な雑用も引き受けている。自分の仕事にしか目が行かない僕とは違って、器用なのだと思う。
僕は他人に迷惑をかけられるのが好きではないから、自分のせいで職場の人間が不当に拘束されるような真似はしたことがない。
それは彼女も同じで、僕らは互いに顔を見合わせどちらからともなく溜息を吐いた。
今年に入って七回目のサービス残業決定だ。
◆ ◇ ◆
砂場とブランコしかない寂れた公園。
住宅街の真ん中にあるにも関わらず活気のないこの場所は、家に埋もれていると表現するのが適当な気がした。
空が轟々と呻いている。今にも雨が降り出しそうだ。
空から手元に視線を移し、右手を握ったり開いたりしてみる。今回も手応えは悪くなかった。
「お前には外回りの方が向いている」と今朝も上司に小突かれたが、毎日こんな仕事はさすがに気が滅入る。ノルマ三件の外回りとデスクワーク十二時間なら、僕は迷わずデスクワーク十二時間を選ぶ。絶対に。
雨粒を頬に感じたのとほぼ同時、僕の携帯電話が小刻みに震えた。
着信は彼女からだった。
「おつかれさま」
彼女は初めにそれだけ言ってすぐに通話を切ってしまった。
電話越しの彼女が今、どんな表情をしているのか、僕には知る術がない。
取りあえず、いつもの微妙な顔を想像しながら、腰掛けていたブランコを小さく揺らす。
惨めに泣き出した空は、なにへ同情しているのだろう。
◆ ◇ ◆
弱まった粒は、視界を白くぼんやりと染める。夕日を飲み込んで淡く霞む様は、夢の中のようだった。
きぃ、きぃ、と錆びた鎖が鳴く音も、いつしか耳鳴りに掻き消されて――
こつん、
小さな消耗品が、ごみ箱の底に当たる音がした。
なにかが生まれて消費され、それがなにかとどこかで繋がり分断されるという事実。
それに対して僕が抱く感情を、**だとするなら。
何度も繰り返し鼓膜について離れないこの音は、彼女の言葉そのものなのだと思う。
◇ ◇ ◇
「あ、そういえば聞いたぁ?」
間延びした少女の声が響いたのは、風情のある喫茶店の一角。
制服姿の男女四人が、夕立をやり過ごそうと入ってきたのは二十分程前のことだった。
彼女らの話題は、まず気象予報士への文句から始まり目まぐるしく変遷していた。
そんな流れの中、少女の言葉をきっかけに他の二人が明らかに色めき立つ。
「聞いた聞いた! 今年に入ってから、もう七人目だってさ」
「こわいよね、ホラーだよね」
快活そうな少年と、へらへらと笑う少女の反応に、四人の中で唯一アイスコーヒーを注文していた少年が呆れたように口を開いた。
「また【神隠し】の話? 君達ホントに好きだね」
彼のいう【神隠し】とは、マスメディアが命名したこの地域で起きている連続失踪事件の総称だ。
相次ぐ失踪者が同じ会社に勤めていたという点で、この事件は瞬く間に注目されるようになった。
「だって、ノルマを達成できなかったグループの中から一人、ある日突然いなくなるなんて、ちょっとした超常現象だよね」
「あそこは汚い仕事にも手を出してるっていうじゃないか。実際はただの口封じとか、そんなもんなんじゃないの」
テーブルに身を乗り出しへらへら笑う少女に、アイスコーヒーの少年は頬杖をついて返した。
「ちがうよぉ。あそこには美人な幽霊がいて、その娘に気に入られると、異世界に引きずり込まれちゃうんだよぉ」
「私は……初恋の人との無理心中に失敗した若者が、初恋の人の代わりを探してるって聞いたんだよね」
「今んとこ、社長の隠し子に騙された男が、会社にとって邪魔な奴を消してるって話が有力なんじゃなかったっけ?」
くだらない。
どうせこの噂話も、すぐにごみ箱行きなのに。
膨張してゆく会話を尻目に、少年はすっかり氷がなくなり、瓶の底にこびりついた粉を集めて作ったような薄いコーヒーを口に含みながら思った。
***The Next is:『殺人クイズ』




