霞み
Author:藍郷田ゆか
〝もしもし? こんな遅くに、どうかした?〟
〝あぁ。実は、どうしても伝えたいことがあって〟
〝伝えたいこと? わたしに?〟
〝そう、お前に〟
〝へぇ、なになに? もしかして、告白?〟
〝まぁ、そう先読みするなって〟
〝そっちが焦らすからじゃぁん。で、なになに?〟
〝実は俺さずっと黙っていたんだ。お前の――〟
〝わたしの?〟
――お前の弟は事故死じゃなくて、俺が殺したって。
◇ ◆ ◇ ◆
蝉の声が反響する、暑い夏。
俺は半袖半ズボンの涼しい格好をして、自転車のペダルを漕いでいた。向かっている先は、数年前に大きな火事によって潰れたとされる、廃病院。今では、心霊スポットとなっている。
噂によるとその廃病院には、病気を治してくれる医者を待つ患者の霊が沢山いるらしく、霊感のない人でも「医者はまだか……」という霊の声を聞けることで人気なのだそうだ。
その人気を証明するかのように、毎年この時期になると、心霊場組を作るために大きなカメラをもった人たちが数人やってきたりもしている。
それでも、俺は廃病院にさほど興味はなかった。
心霊なんてどうでもいいし、そんなことでワイワイするくらいなら、友達を集めて鬼ごっこでもしている方が楽しいからだ。
それなのに今こうして廃病院へと向かっているのにはワケがある。……長いこと想いを寄せている幼馴染の優花に、自分をアピールするためだ。
下心が見え見えすぎて恥ずかしいけれど、特にこれといった特徴がない自分を格好良くみせるには、心霊スポットにもなっている廃病院が最高の舞台だった。だからこそ、興味の欠片もない廃病院に優花を誘ったのに――。
目的の場所に到着し自転車をとめる。
そして、先に到着していた優花を見つけて、手をふった。
「ごめんごめん。少し遅くなったよ」
「少しじゃないよ、遅すぎぃ。これは、帰りにかき氷を奢らせても文句は言えないね」
「厳しいなぁ、優花は」
苦笑いをしながら、優花の全体を見る。
心霊スポットには似合わない白いワンピース姿。けれど、とても可愛く、穢れを失くすような清潔感がある。
「それにしても、相変わらず可愛いよな優花って」
「嬉しい事言ってくれるじゃん! どうせお世辞だろうけど」
「お世辞じゃないよ。本当に可愛いって」
「ふぅん、ま、それならそれでいいや! あんたには似合わないセリフだけどねぇ」
「うるせぇやい」
「うわぁ、反抗期だ反抗期だ!」
言葉に反して楽しそうに騒ぐ優花の姿に、俺は思わず笑ってしまった。そんな俺の反応に、最初はなんとなく頬をふくらませていた優花だったけれど、そのうち一緒に笑いはじめた。
気分が上がってきてだんだんと楽しくなってきた時、その気分を一気に崩落させる声が邪魔をしてきた。
「そろそろ、僕の姉と仲良くするのをやめてもらえるかな?」
俺のすぐ右隣。そこには声の主である、一人の少年の姿がある。
少年の名前は優斗。姉の優花を溺愛している、シスコンだ。今回、俺が優花を心霊スポットに誘ったと聞いて、ついてきたらしい。
「いやぁ、悪いな優斗。優花は俺の幼馴染なもんだから、自然と仲良くなっちまうんだ」
「ふん。なにが幼馴染だ。そういう関係を使って姉を誘い出すようなクズは、廃病院内で悲鳴でもあげているのがお似合いだと思うよ」
「はいはい。アドバイスありがとさん」
恋敵だと認識した相手に対し、無駄に口が悪くなる優斗を適当にあしらいながら、俺は優花に向いた。
「さてと、メンバーは揃ったしそろそろ行こうか」
「…………」
「どうかしたのか、優花?」
「えっとね……」
「ん?」
「ここまで来ておいて今さら言うかって感じなんだけどさ、実はわたし、怖いの苦手なんだ。ものすごく」
つまりは、どういうことなんだ?
「だから、悪いんだけど……わたしだけここで待っているわけにはいかないかな?」
…………。
「いや、でもなぁ。ここに一人残るのもそれはそれで怖くないか?」
「それもそうだけど……」
本当に怖いのか、優花からいつもの笑顔が消えて、不安と恐怖が入り混じったような表情になっていた。
いつも明るい部分ばかりをみているため、怖がっている優花はとても新鮮味があり、可愛かった。
しかし、これは困ったものだ。
怖がっている優花を中まで連れて行くのは、正直気が引ける。かと言って、優斗と二人で入るのもなにか違う気がした。
どうすればいいものか。
次の行動を思案していると、優斗が優花の隣に立った。
「姉さん、怖いなら無理をしないで帰ろうよ。どうせこいつからの誘いなんだしさ、一人で入らせておけばいいって」
「でも、誘いにのったのはわたしだし。帰るのは悪いよ」
「それならさ、僕が姉さんとここで待つって言うのはどう?」
「え?」
意図の掴めない優斗の提案に、俺と優花は同時に首をかしげた。
この場所に優花と優斗の二人が待つとして、俺はどうすればいいんだ?
まさか……。
「お前はどうせ、姉さんに格好いいところを見せたくてここに連れてきたんだろ? それなら、一人で入ってみせなよ」
やっぱりそうきたか。
「それとも、誘った本人が怖がっているのかな?」
「…………」
俺の心情を察したうえでの挑発だとは分かっている。それでも、優花の目の前だ。格好悪いところは見せたくなかった。
「分かった、俺が一人で入ることにしよう。それで、きちんと病院内を巡ったという証拠は、どうやって示せばいい?」
「ほ、本当に入るの? 優斗の言ってることなんだから、別に本気にしなくてもいいんだよ?」
「いや、いいんだよ。どうせ、俺はこの病院に入りたくてここに来たんだからな」
心にもないことを言いながら、優花に笑いかける。
「無理しちゃって。ま、僕としてはどうでもいいんだけどね。……それで、病院内を巡った証拠だっけ? そうだなぁ」
顎に人差し指を当てながらしばらく考える素振りを見せた優斗は、顔を上に向けた。
「それじゃあ、屋上から僕達に向かって手を振るっていうのはどうかな? 聞くところによると、病院内はかなり荒れているらしい。上に行って下に戻ってくる、というだけでも時間がかかるだろうし、お前が恐怖にやられて飛び出してくるには十分そうな広さがあるからな」
言わせておけば、口が止まらない野郎だ。
「ああ、それでいいさ。で、俺が出てきたら次はどうする? お前が入るか?」
「お前が屋上までいけたら、僕も入るよ。なんだか負けたようで悔しいからね」
こいつもこいつで優花にいいところを見せたいようだ。まぁ、どれだけ優斗が頑張ったところで、優花の弟だという事実は変わらないのだけれど。
「さてと、色々と決まったことだし、俺は中に入るとするよ。じゃあ優花、ちょっと行ってくるな」
さりげなく手を振ってみせると、優花は笑顔を返してくれた。その隣では、嫌なものを見るように優斗が俺を睨みつけてきている。可愛くないやつだ。
病院内に入ると、電気が通っていないせいで奥に向かうに連れて暗くなっているのが確認できた。ところどころにガラスを通して外の光が差し込んでいる部分もあるようだが、全体的に薄暗さが包み込んでいる。
場所によっては、懐中電灯が必要になりそうだ。
後ろを向くとガラス扉の向こう側で、優斗が手をひらひらとさせていた。早く先に進めと伝えてきているのだろう。
「そんなことされなくても、先に進むさ」
年下のくせにあまりにも態度が悪すぎる優斗に苛立ちを覚えながらも、俺は方向を転換し、二階へと上がる階段を目指す。
それにしても、ここは本当に病院なのだろうか。
人の手によるものが大半だと思うが、想像していた以上に中は荒らさていた。至る所に壊された椅子があり、蛍光灯の破片がそこらじゅうに散らばっている。素足で歩けば怪我は確実にするだろう。
ほとんどの扉は壊されていて、部屋に入っていく覚悟をする以前に中が丸見えの状態だ。
「とは言え、荒らされているだけで怖さは微塵もないな……」
見えにくいところを懐中電灯の光で照らしながら進んでいくが、これといって恐怖を煽ってくるものはない。
心霊番組では、序盤から物が崩れたり、変な音が耳をかすめたりしているようだが、実際に来てみるとなにもかもが嘘であると確認できる。それとも、俺の運がないだけか?
そんな事を考えながら、思っていたよりも速いペースで階段を次々と上っていくと、いつの間にやら、屋上に出ていた。
「おぉい! 屋上についたぞぉ!」
柵を乗り越えて、下に落ちないようにしながら、地上にいる二人に手を振る。優斗の方は悔しがっているのか顔を上げるだけだったが、優花は手を振り返してくれた。
さて、下に戻るか。
柵を再び乗り越えて、屋上から階下へと繋がる階段へと向かっていると、鳥肌が立つような気味の悪い風が肌に触れた。まるで俺の体に張り付いてくるような、そんな風が。
「ここに来て、幽霊の登場か? 参るね」
馬鹿にするように呟いて、階段へ一歩踏み出した――
…………っ⁉
――瞬間、気がつけば俺は飛んでいた。目下にはたった今下りようとしていた階段がある。
一体なにがおきたんだ?
長い長い混乱。しかし、それが秒速であったと脳が認識したのは、俺の顔面が床と接する直前のことだった。
揺れる。揺れる。脳が揺れる。
目の前は霞みがかかったようにぼんやりとして見えて、自分が今どこにいるのかさえも分からない。
そもそも、これは現実なのだろうか。夢じゃないのか?
現実の俺は、まだベッドの上で眠っていて、廃病院へ向かう時間を待ちわびているているんじゃないのか?
だとしたら、早く起きて支度をしないと。
優花を待たせてしまったら、かき氷の他に何を奢らされるか分かったものじゃない。夏はまだ長いんだ。小遣いは貯めておきたい。
だから起きろよ。……起きるんだよ、俺!
必死に自分自身に呼びかける。
何度も何度も呼びかけて、やがて、その声に応えるかのように目の前の霞みがなくなった。
「…………」
しかし、目の前に現れたのは自分の部屋ではなく、一人の少年だった。……それも、顔をよく知っている一番身近な少年。
「どうして……俺が?」
目の前にいたのは、何者でもない。俺自身だった。
まるで、鏡を通して自分の姿を見せられているかのようだ。だが、今の自分との違いが、そこにははっきりとある。
目の前の俺は、高笑いをしながら、不気味な言葉を発し続けているのだ。
『殺す! 殺すぞ、優斗を殺す! 優花は俺の女だ! 優斗を殺す! くけけけけけけ!』
俺の見た目以外、何もかもが対照的な俺。
それなのに、俺である俺は、自分の心の内を吐き出すように汚い言葉をまき散らす。
『なにが弟だ、くそったれがぁ! 優花の一番近くにいるからって、調子にばっかのりやがる。あんなの殺して当然だ! だから殺す。ぶっ殺す!』
「(それは俺の意思じゃない)そうだ殺そうぜ」
『お? お前、話が分かるじゃねぇか』
「(俺はそんなこと思ってない)だよなぁ、あんなやつこの世にいる方がおかしいんだ」
なんだ、何が起きている……。
『だよなぁ、あんなの、この世から消えるべきなのさ』
「(やめろ、なにも言うな俺)話が合うなぁ、お前。なぁ、優斗はどうすれば殺せると思う?」
『簡単だよ、そんなの』
俺が何かを思うたび、自分の意思に反した言葉が口から出てくる。
「(聞くな、耳をふさげ!)ほぅ、教えてくれよ」
『世界にとっての真を、自分にとっての真にすればいいだけさ』
「(やめろ、やめろ、やめろ!)あっはっは! そりゃあいい! けど、それは俺だけの力じゃ難しいだろうなぁ」
『……もちろん、力はかすさ』
目の前の俺が近づいてくる。
『優斗を消すためなら、力くらい、いくらでもな』
「かはぁっ……はぁはぁはぁ。なんだよ、今の」
嫌な夢から逃げたくて、いうことを聞かない自分の内側でもがいていると、勢いをつけて俺は目を覚ました。体中から変な汗が吹き出していて、服が肌にべっとりと張り付いている。
自分の居場所を確認するために周りを見てみると、ここは階段の下であることが確認できた。
体の節々が痛むところから察するに、階段を転落後、しばらく気絶していたようだ。
俺は力なく立ち上がる。
脚や腕がところどころ擦り切れているが、大した怪我はない。変な夢から与えられた疲労感のせいで歩くのが大分怠いが、歩けないことはないみたいで安心した。
「結構時間経っただろうなぁ。早く出ないと」
外で待っている二人の姿を思い浮かべながら、俺は足を動かした。
「はぁ、屋上についてから一体どれだけの時間が経ったと思ってい……どうしたんだ、その怪我?」
外に出ると、案の定、優斗が文句を言ってきた。
ただひとつ予想外だったのは、文句の言葉を途中で止めて怪我について尋ねてきたことだ。しかも、「階段から落ちた」と教えると、「気をつけないとダメだろ」と言ってきたのだ。
顔を見れば悪口ばかり言ってくる優斗の中にある、以外な一面を垣間見た気がした。
それでも優斗は優斗だ。
すぐにいつもの調子に戻ると、
「姉さんはずっとお前の心配をしていたんだぞ? 女性に心配をかけさせるなんて本当にダメな男だよなぁ、お前は」
「はいはい、悪かったよ」
「それじゃあ、次は僕の番だな。姉さん、行ってくるよ」
優花に向かって嬉しそうに手を振って、廃病院の中へ入っていった。
はぁ、これでようやく優花と話せる。
二人きりになれるこの時をずっと待っていた俺は、さっきまでの疲労を喜びで吹き飛ばし、優花に向いた。
何を話そうか。
自分の中で会話のシミュレーションを少しだけして、いざ声をかけようとすると、頭上から少年の声が降ってきた。
まさか、と思い顔を上げる。
廃病院の一番上。
俺が数十分前にいた屋上で、今度は優斗が地上に向かって手を振っていた。……あり得ない早さだ。これがシスコンの力なのか? いや、そんなことあるわけがない。
「いくらなんでも、早すぎるぞ……」
電気が通っていないため、当然エレベーターは使えない。
足元は破壊された物で溢れていて、とても走れるような場所でもなかった。それなのに、どうして優斗はあんなにも早く屋上に?
中の様子を知らない優花は、優斗の足が早かった、としか思っていないのか「優斗はやいねぇ」とだけ呟いて、俺に笑顔を向けてきた。
あまりにも不可思議な出来事に頭の中をクエスチョンマークで埋め尽くしていると、さらに俺を混乱させることが起きた。
廃病院内から悲鳴が聞こえてきたのだ。
「お、おい。今のって……」
「優斗の、ひ、悲鳴?」
「だよな……」
そう、あれは優斗の悲鳴。悲鳴なんだ。優斗の……。
「って、何立ち止まってんだよ! 俺は!」
突然のこと過ぎてフリーズしかけた自分に活を入れると、俺は優花をその場で待たせて、再び廃病院に飛び込んだ。
「優斗! おい、どこにいるんだ? いたら返事しろ!」
一階、二階と上っていき、現在三階。
優斗の返事はまだない。
「ちくしょう、一体何があったんだよ」
自分でも驚くほどに焦りながら、病院内を歩く。走りたい気持ちはやまやまだが、床に散らばる残骸のせいで走り回ることが出来ない。……よくもまぁ、ここまで荒らすことができるものだ。
物と物の合間を縫うように進みながら、一つの階を細かく探す。
すると、少しだけ離れた場所から、物が崩れるような音がした。
積まれた残骸が崩れたのだろうか、とも思ったが、誰かが物を動かしているような音も継続的に聞こえてくる。
もしかすると、優斗かもしれない。
そう思って声を出そうとしたが、俺は口を閉じた。気絶中の事を思い出したのだ。
可能性は低いが、もしかすると、この病院内には俺と優斗以外にも人がいるのかもしれない。
そう考えてしまうと、慎重にならずにはいられない。
俺は足音をなるべくたてないようにしながら、音のする方へと歩いてゆく。少しずつ、少しずつ……。
物を動かす音が大きくなるのを耳で感じながら、すぐそばまで来たことを確かめると、懐中電灯の明かりを点けて音のする方へと向けた。
「うわぁああっ!」
物を動かす音が止まった代わりに、男の悲鳴が病院内に反響する。
悲鳴に驚いて一瞬目を伏せてしまったが、顔を確認するために光射す方を見ると、そこには優斗の姿があった。
「お、お前。こんな場所でなにをやっているんだ?」
「それは僕のセリフだ。お前こそ、姉さんはどうした?」
「優花なら外にいる」
「外にいるだと? ふざけてるんじゃないよな。怖がっている姉さんを外に一人置いてくるなんて、どうかしているんじゃないのか?」
光を顔から外したせいで顔色は分からないが、激昂のあまり真っ赤になっているに違いない。
「おい、そんな言い方はないだろ。せっかく心配してさがしに来てやったってのに」
「心配? 僕はお前に心配されるようなことは何もしていない」
「おいおい、嘘つくなよ」
二回も大きな悲鳴を上げたことが屈辱的なのか、見え見えの嘘を吐かれてしまい、俺は思わず鼻で笑った。
「何が可笑しい? 僕は嘘なんて言っていないぞ!」
「ムキになるなって。もう、俺も優花も外で聞いてるんだよ。お前の大きな悲鳴をな」
「悲鳴?」
「ああ、悲鳴だよ。外まで聞こえてくるほどの、大きな悲鳴を上げただろ?」
俺の質問に優斗は首をかしげた。
おい、なんだよ。その反応は……。
「僕は今はじめて悲鳴を上げたんだ。何かの勘違いじゃないのか?」
「はじめてだと? 嘘つけよ。お前は屋上で俺たちに手を振ったあと、下におりてくる途中で何かが起きて、悲鳴を上げた。そうだろ?」
「屋上? おい、お前はさっきから何を言っている。姉から僕に対するイメージを下げようって考えなら、許さないぞ」
「ち、違う。そんなんじゃない……」
話が噛み合わない。何かがおかしいぞ。
これはもしかすると、マズい状況に追い込まれているのかもしれない。
「そんなんじゃないなら、なんだよ」
「いや、そんなことより優斗。今は外にでよう!」
「は? 何言ってるんだよ。僕はまだ屋上についてないんだぞ?」
「それはもういいんだよ! とにかく出るんだ!」
「いい加減なこというな! そうやって変な作り話をして慌てたふりを見せれば、僕が外に出ると思っているんだろ? ダマされないからな!」
優花を愛する気持ちの強さの現われか、どうしても屋上に行かなければ気が済まないようだ。
このまま先に行かせれば他にどんなことが起きるのか分かったものじゃない。無理矢理にでも外に連れ出せば、あとは優花が説明をしてくれるかもしれないが……。
ちらりと優斗を見る。
怒りを隠さないまま、俺を睨みつけている。
無理矢理引っ張ったところで、腕を振り払われて逃げられるのがオチだろう。こうなったらもう仕方がない。
「そこまで言うなら、俺も屋上についていく」
「はぁ? 僕は別についてきてくれとは言っていないぞ?」
「いや、とにかくついていく。お前が何を言おうとな」
「ちっ……そこまでして邪魔をしたいんだな」
「確かに邪魔はしたいけどな、今は違う。まぁ、お前がそう思うなら勝手に思っておけばいいけどさ」
だんだんと面倒くさくなってきたのか、優斗は俺のことを完全に無視すると、前へ向かって歩き出した。しかし、進みがかなり遅い。どうかしたのか、と思い優斗に懐中電灯を向けてみると、左足を引きずっていた。
「お前、足に怪我したのか?」
「…………」
「おい、なんとか言えよ」
「……はぁ。すぐそこで、落ちている物に足を引っ掛けて挫いただけだ。屋上に行くのにはなんの支障もない」
「いや、あるだろ。すぐにでも――」
「すぐにでも外に出て医者に見てもらえ、って言いたいんだろ? 嫌だね」
「どうしてそんなにムキになるんだよ」
「姉さんに認めてもらいたいからだよ!」
優斗は叫んだ。
「お前は気付いてないかもしれないけどな、姉さんは、既にお前のことが好きなんだよ!」
「え。嘘、だろ?」
「嘘なんか吐いてどうする。意味ないだろ、そんなの」
「でも優花は、俺が思いを寄せていることぐらい知っているはずだ。どうして何も言ってこない?」
「僕が知るかよ……」
優斗は、俺に向かってはじめて哀しそうな表情を見せた。
「僕は確かに優花姉さんの弟だ。でも、それに何か問題があるのか? 周りではシスコンだとか言ってくるやつがいるけれど、姉を一人の女性として愛することの何が悪い? 家族という名のついた箱の中にいる者に対して恋心を抱くのが、そんなにもダメなことなのか?」
「それは……」
「お前はいいよ。どれだけ姉さんを愛していようが誰にも責められはしない。むしろ、人によってはお前を応援しさえするだろうな。けど、僕の場合は違う。責められるだけだ。だからこそ、僕自身が頑張って認めてもらうしかないんだよ!」
胸の内を吐き出すように叫び続けた優斗は、左足をひきずりながら屋上を目指して再び歩き出した。
俺はもう何も言えず、ただ、静かに後ろをついていくことしかできなかった。
「危なっ……!」
足元に落ちていたまだ新しい鉄パイプを危うく踏みかける。誰だよ、こんなところに鉄パイプを持ってきたのは。
ここは、屋上前にある階段の下。俺が気絶をした場所だ。
優斗からの要望により、俺はここで待つことになっている。
どうしても、一人で屋上までやってきた、ということにしたいようだ。まぁ、優斗からずっと抱え込んでいた想いを聞いたあとでは、俺も一緒に屋上へ出よう、なんて言い出す気にはなれなかったわけだが。
それにしても遅いな……。
まさか、身を乗り出しすぎて屋上から落ちたなんてことないよな? いやいや、あいつに限ってそんなこと……。いや、でもな。
階段の上を見る。優斗が下りてくる気配はまだない。
きっと喜びに浸っているだけだと思うが、さすがに心配だ。
「よし、行ってみるか」
口に出しながら自分に動く意思があることを認めさせると、俺は階段に向かって一歩を踏み出した。その時、俺の足音に重ねるようにして、屋上からも足音が聞こえてきた。
もう一度階段の上を見る。そこには優斗の姿があった。だが、何か様子がおかしい。
「くけけ、くけけけけけ!」
目を見開き、口角を上げ、頭を前後左右に揺らしながら、奇妙な笑い声をあげているのだ。
「くけ、くけけけ。くけけけけけけ!」
呆気にとられてその場に立ち尽くしていると、まるで操り人形のように体をかくかくと動かしながら、優斗は階段をおりてきた。そこから、腕に勢いをつけるようにして、俺に殴りかかってくる。
拳にあたる寸前でなんとか避けることが出来たが、体勢が崩れて優斗から顔を逸らしてしまった。
「くけけ、よそみしてて、くけけ、いいのかなぁ?」
「え? ――うぐっ」
前を向くと、顔面に向かって拳が飛んできていた。あまりにも突飛な出来事のせいで今度は避けられず、俺はそのまま顔面で拳を受け止めることになってしまった。
「くけけ、一発殴った。くけけ、お前もかえしてこい。これは、ちゃんす。くけけ、こいつを殺す、大ちゃんす!」
「ち、チャンス?」
どう考えても取り憑かれているとしか思えない優斗の言葉を聞きながら、俺は身震いした。優斗が今こうなってしまっている原因が俺にあるかもしれない、と気付いてしまったからだ。
《もちろん、力はかすさ。優斗を消すためなら、力くらい、いくらでもな》
ずっと夢だと思っていたあれが、実は現実だったとしたら。
もしも〝俺〟の言葉が、この病院にいる心霊のものだったとしたら。
「くけけ、さぁ殺せ!」
気味の悪い動きをしながら、優斗が近づいてくる。
だんだんと、だんだんと、だんだんと。俺の目の前に!
「く、来るなっ」
「くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!」
軽く突き飛ばしたつもりだった。それなのに、優斗の後ろにあった鉄パイプが、死へと誘導してしまったのだ。
鉄パイプを踵で踏んだ優斗は、背中から床へと倒れこみ、運悪くそこにあった瓦礫に頭を打ちつけて……死んでしまった。
いや、運が悪かったんじゃない。
〝俺〟が仕組んだんだ。優斗を、この世から消すために。
◇ ◆ ◇ ◆
病院内に入ってこなかった優花だけが知らなかった事実を全て電話で話しきると、俺は耳元から携帯電話をおろす。そうして、電柱の陰に身を隠しながら、自転車の傍らで携帯の画面を見つめる優花を見た。
優花の表情は画面の明かりに照らされているが、距離が空いているせいで、泣いているのか怒っているのか分からない。
俺は、優花のすぐそばで電話をしていた。
優斗が死んでから約三年。ようやく事実を伝える心構えができたのだが、面と向かって話すのは正直難しかった。……何度やろうとしても、優花の笑顔に邪魔をされた。だから、セコいやり方だと分かっていながらも、俺は携帯電話を使うことにしたのだ。
ただ、謝りの言葉だけは面と向かって言おう、と心に誓っていた。
それなのに、いざ優花の前に出ようとすると足が動かない。
携帯をポケットにしまい、空いた手で必死に足をさする。動け動けと呟きながら。
動け、動け、動け、動け、動け――
「――くけっ」
く、け?
なんでその声が? あり得ない。だってここは廃病院じゃ……。
「くけけけ、そこで、くけ、なにしてるの? くけ、くけけけけ!」
「うあっうあぁあああああ!」
俺は、両手を前に向かって力強く突き出した。
○ ● ○ ●
「あれ?」
目が覚めると、俺はベッドの上で横になっていた。いつもの感触。自室のベッドだ。
体を起き上がらせると、ちょうど目の前にある時計で時間の確認ができた。何時から寝ていたのかは忘れてしまったけれど、現時刻である朝の六時までぐっすりと眠っていたようだ。
はぁ、ものすごく嫌な夢をみたような気がする。
とても長くて、とても気分の悪くなる夢。
けど、俺はしっかりと目を覚ました。いつまでも付きまとってくるような悪夢から、ようやく逃げることに成功したのだ。そのお陰か、やけに気分がいい。
「うぅん、はぁ」
もう一度ベッド上に寝転がる。もう一眠りしたい気分だ。
次こそは良い夢が見られるはず……。そう思いながら横を向くと、そこには画面から明かりを放つ携帯電話があった。
なぜだろう、嫌な予感がする。
不意に家の電話が鳴った。
母が通話相手と会話をする声がする。
「……はい。……え、そ……はい……すぐに」
途切れ途切れにしか聞こえないが、随分と驚き、慌てているようだ。
受話器が置かれる音がして、同時に駆ける音もする。音が近づいてくるところからして、俺の部屋に向かってきているようだ。
仕方がなく、体を起こす。
その時に、携帯の画面に表示されているものを見てしまった。
どんっ、と勢い良く扉が開かれ、母が飛び込んでくる。
「い、今ね! 優花ちゃんのお母さんから電話があって…………」
母の言葉が途中で聞こえなくなるほどに、俺の目は携帯画面に釘付けだった。そこに表示されているのは、通話履歴。その一番上には、昨晩、俺が優花と通話をしていたという証拠が表出ている。
そうか、夢じゃなかったのか。
でも、良かったんだよこれで。内側が汚れた俺なんかより、内側が綺麗な優斗といる方が優花は幸せなんだ。
話し続ける母の声が耳に入ってくる。
「それでね、優花ちゃんも――」
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