パラドックス=ライフ
誰もいなくなった保健室でミルクティーを飲み干した後、帰宅しようと保健室から出ようと扉をスライドさせると、
「見つけた! かーなん!」
何か前方に両手を広げ、俺を確保しようとしている物体が見えたので背後にステップして回避。だから、部活で培った運動神経なめんな。演劇部だけど。
「なんで避けるのー」
ポニーテールをぴょこぴょこして可愛らしい怒りを露わにする。
「ごめんね、ベアハッグされるかと思って」
「べあはっぐ……?」
俺も良く知らないプロレス技なので解説はシカトして話を進める。
「それで、どうしたの? 伊瀬」
「かーなんが部活に来ないから探しに来たんだよ! まったく! 不良かー! ヤクザか! ヤンキーか!」
ヤクザはちょっとレベルが違う。
「それで入れ違いになったことが前あっただろ。探し回るの止めろって」
「でもかーなんは二日連続で部活に来たことないから」
「なんという分析力。感嘆するよ」
「ふふんっ」
そしてこの得意げな表情である。
「でも、もうこんな時間だし、俺はそろそろ帰ろうかと思ってるんだけど。最近物騒だし」
その物騒な中を寄り道しようと思ってるんですけどね。
「じゃあ一緒に」
「帰らないよ」
俺の早押しクイズ並のフライングに彼女の表情は不満の意を示していた。
「なんでー!」
「だから、なんでもない男女が二人で一緒に帰ったりするのはおかしいって」
「なんでもなくないよー。かーなんと私は恋仲だよ」
「……いいかい、条約っていうのはね、両国が同意して初めて結ばれるものなんだ」
「急に何の話ー?」
「常識を分かりやすい例でたとえたんだ」
「それ逆に分かりにくいと思いまーす」
……確かにそうだね。特に暗記科目が苦手な彼女に対してはやさしくなかった。
「大体さ、付き合わないよって何回も明言してるじゃん……」
「そだねー。かーなんは何回もそう言ってるね。だけど、諦めるの……よくないって……」
「携帯小説かよ」
「もー! かーなんはちょっと自意識過剰なんだよ! 二人で帰ってもカップルとは限らないじゃん」
そうかもしれないけどさ。もしかしてもしかすると、伊瀬の実家に行くことになるじゃん? それはちょっと避けたいじゃん?
「ともかく俺は一緒に帰らない。ずっとそうでしょ」
俺がそう言うと伊瀬は少し上方を見て考える。
「……もう、しょうがないなぁ」
毎回こんな話をされる俺の身にもなってください。だったら普通に一緒に帰っちゃった方が労力使わないんじゃないの、とか思ったりもするけど、そういう問題じゃない。これは、バランスでもあるんだから。俺と伊瀬の、関係のバランス。
「それじゃ、いつも通り玄関までねー」
「はいはい」
俺が承諾すると、彼女はにひーと笑う。俺はそれを見て見ぬふりをして、不機嫌そうに鞄を抱え直した。
「かーなんはツンデレだからなー」
俺はツンデレというか。時にツンツン、時にちょいデレって感じで好感度を保って……なにそれツンデレじゃん。
俺ってツンデレだったのか!
衝撃の事実を知った。まぁでも俺男子だし。男子のツンデレなんか需要ない……よね。と、信じる。
こうして並んで、隣から彼女を見てみて。乙黒さんの言葉を思い出す。
一体彼女のどこが異常だというのだろうか。
もともと普通ってなんだよ。
それは、ただ、自分の中の常識を押し付けてるだけだろうが。
普通っていうのが、大半っていうことなら、アンケート取って半分以上の票を取ってから普通と宣言しろって。……まぁ、そんなこと微塵も思ってないけど。
俺は、普通だ。無論、俺の中での基準だけど。
世の中、皆が普通である。
ただ、論理が、意味が、目的が分かりにくかったりして伝わらないだけで、きちんと本人の中では当然の行いをしているんだよ。ちゃんと筋通ってんだ。
それを一言『異常』で終わらせることを俺は良しとしない。
ただの理解の放棄に他ならないじゃん、それって。
うん……だからと言って、行動が正当化されるわけじゃないんだけどさ。
つまるところ。
皆には理解されないかもしれないけど、放火犯はそれなりの理由をもって、放火を続けている。断定である。
そして、その罪は理由に関係なく、きちんと責任取らなきゃいけないよってことだ。
***
何だか、いけないことをしたかなあと思った。部屋を覗いちゃったから。
お母さんがお家にいない日に、前のお父さんが今のお父さんに会いに来た。
前のお父さんは前よりもずいぶんと痩せていて、たくさんたくさん泣いてた。それを今のお父さんはにっこり笑って「任せて」って言ってた。
前のお父さんは繰り返し繰り返し「幸せにしてやってくれ」とか「愛を与えてやってくれ」とか言ってた。
大丈夫だよお父さん。ちゃんと幸せだから。愛されてるから。
***
今日も無事に街の徘徊を済まして、部屋に帰り米を炊き、さんまの味噌煮の缶詰をおかずにして食していた。はふはふ、コストパフォーマンスすごいっす。おいしいし。明日はさばの照り焼き。明後日はツナ。もちろん缶詰。
あー、料理できねぇ。というかする気がないんだな。
まず六階っていうのがいけない。このマンションから出るのにどれくらい時間かかると思ってるんだよ。たかが一分くらいですねすいません。
俺は割と面倒くさがりだからなあ。労力の全てを人とのバランスに使ってしまっている。
食事は缶詰、コンビニ弁当、パスタあえるだけ、で構成されている。昨日はハンバーグ弁当食べたなぁ。
あ、そういえばハンバーグの下にパスタ敷いてあるけど、あれってハンバーグから出た脂をパスタが吸収するからなんだって。へー、すげえ。だからあの少量のパスタはすごいカロリーなんだって。今度からあのパスタは食べないようにしよう! 脂肪フラグかよ。
なんて脳内会話を繰り広げて楽しく一人暮らしを満喫していると、
ピピピピピピピピンポーン。
チャイムが鳴った。しかも連打だ。一体だピピピピンポーン。
やめろって。うるさピピピピンポーン。
「うわー! なんだよ、もう!」
俺が玄関を開け放つと、そこには。
「………………」
誰だろう。
「何で私の部屋に来ないのよ。ちゃんと報告しなさい」
「なぁんだ、八七橋かぁ」
「なんだとは何よ」
そう不機嫌に言いながら、彼女は玄関に侵入してくる。
「え、あの、ここ俺の部屋なんですが」
誘拐の次は不法侵入ですか。両方共、別に俺はそんな嫌がってないからいいんだけどさ。
ただ、多くの人はいきなり男子の部屋に入らないと思いますが。
……いろいろ、片付けといてよかったー。いや、ああいうのじゃないよ?
「缶詰って……日向井くんどんな食生活送ってるのよ」
「ハンバーグの下のパスタ」
「は?」
「いや、なんでもない」
「……どこ座ればいいの?」
俺の部屋にはデスクとこたつとベッドとテレビがあって、普通にこたつに設置してある座椅子に座ってくれればいいんだけど。
「ベッドに座って」
「殺すわよ」
うわぁ、物騒だな。
とか言いつつ、こうやってツンケンしている人をからかうのは好きである。だっておもしろいし。言っておくが、俺はMではないし、殺される欲求があるわけでもない。
彼女は結局何も言わずに座椅子に座った。最初からそうしなよ。
でもまぁ、気を遣っているのだろう。ここ、俺の部屋だし。俺とは、昨日知り合ったばかりだし。
いいね、こういう遠い距離感。お互いがお互い、固い殻から顔だけ出して会話している。やどかりみたいに。自分が一体どんな姿かたちをしているのか、相手に教えないし、相手も知ろうとしてこない。
俺と八七橋は、ただの犯人を捕まえるための協力関係なのだから。
いや、俺は犯人を捕まえようと思っていないので、彼女が一方的に俺を利用している関係、の方が正しいな。
俺も彼女の正面に座す。
「みかん食べる?」
「頂くわ」
「ごめん、なかった」
「殴られたいの?」
彼女は汚物を見るような視線を俺に向けてくる。一応言っておくけど、俺が一瞬にして汚物になったわけではない。
このやり取りは、バランスが非常に良い。
「飲み物何が良い?」
「……何があるの?」
くそ、先手を取られた。
「ミルクティーと、イカ墨スパゲティのもとがあるよ」
普通はイカ墨スパゲティのもとは飲料ではないのだが、乙黒さんが以前箱でくれて、その量を見ると、なんだかもうこれは黒い飲み物なんじゃないかと思う。何が「好きな人とは好きな物の良さを共有したいんです」だよ。……面倒くさがりな俺には非常にありがたい品物です。
「はい、ミルクティー」
市販されている一・五リットルペットボトルのミルクティーを冷蔵庫から取り出し、コップに注いだだけのものを彼女に出す。
エアコンが点いているしこたつもあるので、冷たいものを飲んでも大丈夫だろう。
黒髪をなびかせてこくこくと出されたものを飲む彼女を見ながら思う。
一人暮らしで女の子を部屋に連れ込むなんて一般的男子としたらすごいことなんじゃないか? まぁ正直言って、俺は俺であって一般的男子に漏れなく当てはまっていないのでまるでどっちでもいい、本当に。
彼女はコップをかつんとこたつの天板に置き、口を開く。
「それで、今日は何か見つけたの?」
「……あのね八七橋。毎日何か発見できるわけないから」
「一応約束と思って聞いただけよ、蹴るわよ」
大体あれだよね、放火現場に出くわしたりしたら、悠長に八七橋の部屋訪ねてる場合じゃないと思うんだよ、一般的に。なんて、彼女の最後の一言を聞かなかったことにして考える。
「というか、日向井くんっていつも西公園周りしか調査してくれないじゃない」
「いいだろ別に」
「使えないわね……」
そうそう、俺は使えないよ。使おうと思うこと自体が間違っている。俺が誰かのために動くような人に見えたのだろうか。そんなこと、するわけないのに。
俺が動くのは、最低限のことばかり。自分のためでさえもあまり行動しない。どこか、自分が遠いから。自分が自分という意識が人より弱いのだと思う。おーい、戻ってこい自分。やっぱいいや。
だからさ、そんなこと言うんだったら、
「どうして自分で探しに行かないの?」
前に、たまに自分でも探しに行くと言っていた。でも、俺のお散歩の結果を毎日せっつくくらいに犯人を捕まえたいと思っているのなら、毎日自分で探しそうなものだけど。
彼女は言葉を詰まらせる。目を合わせようとしたら、もっと逸らされた。
「あんまり、外に出たくないのよ」
どこかいつものような覇気がない。
「どうして?」
話を進めるために、一応定型文句として述べてみる。
「なんだか、学校の人に会うような気がして」
……ほう、学校の人とな。
「あのさ、あそこに掛かっているブレザー見れば分かるかもしれないけど、俺も君と同じ高校なんだよね。そして二年。君も二年だよね?」
彼女を責めるように早口でまくし立てる。一体、彼女はどんな反応を示すのか、それが知りたくて。どこか現状を認めたくなくて。
「でも……私、あなたのこと知らないわよ」
案外普通でつまらなかった。別に彼女も俺のために発言しているわけじゃないんだけど。
「そうだろうね、俺は転入してきたばかりだから」
「あぁ、そうなの……」
視線を落とす彼女に尋ねる。はいはい、知的好奇心ですよ。
「どうして学校の人に会いたくないの?」
「…………」
彼女はさっきのように即答はせず、一拍置くように飲み物を口に含んだ。
それなりの、整理が必要な話なのだろう。
「あなたがこっちに引越して来たのはいつ?」
「ん? えーっと、一か月前くらいかな」
「そう言えば……一回目の放火事件の時はまだいなかったって言ってたわね」
そりゃそうだ。どうして俺がこっちに引越して来たと思ってるんだ。……どうしてだろうね、分かんないんだった。
「その一回目の放火事件で」
彼女はそこで言葉をぶつ切りにして放置する。
ただ一点を、おそらくただぼんやりと焦点を合わせずに眺めているんだろう。
そうやって回想し、回覧した後、回転させ、着地。
「一回目の放火事件で、私以外の家族、三人が――死んだの」
「え?」
い、っ、か、い、め、の、ほ、う、か、で、し、ん、だ。
区切ってみたら余計に意味が分からなくなった。誰か俺に納得できる形に変換して頭に突っ込んでくれ。
いや、まぁ、分かるよ。一回目の放火で死者が出たって意味だろう。そのまんまだな。
「その後、私が学校に行くと、みんな白々しい態度をとってきた。気を遣ってくれているのか、それとも……ただ避けているのか……!」
あーあー、やめろって。あんまり大きい声出すなよ。
「そんな疑問が頭の中を支配したのよ。だって、昨日まで友達だった皆が急に冷たい態度を取るのよ⁉ なんでよ。そっちの方がよっぽど辛いわよ……」
それで、不登校ですか。そういう、ことなんですか。
俺と彼女は似たような境遇で、だからこそ乙黒さんは俺と彼女を隣の部屋にしたのかな? 違うね。もっと根本的な理由で隣にしたんだ。
八七橋の面倒を見ろ。そういう意図で隣の部屋にしたんだろう。
「私は……私は! 犯人を許さない……」
涙が出ているのだろう。完全に俯いてしまって俺には表情を窺い知ることは出来ない。
「絶対に! 許さない!」
「………………………………」
放火。
それは全てを奪い去る。命が助かったとしても、財産も、思い出も、未来も、全てを踏むにじってゆらゆらとゆっくり等しく、灰に変えていく。
リセットだ。
歳だけパラメータが戻らず、精神値はマイナスで、そこからという不利な強制リセット。
それが火を放つということ。
その罪、事の大きさを知っている。人から何かを奪う最悪な方法だと理解している。
そして、その分だけ強く恨まれるということも。
放火犯だって分かっているんだよ、その辺。
「分かったよ、八七橋。無理に話させてすまなかった」
とりあえず謝る。俺が本当に申し訳なく思っていたかは分からない。誰にも分からない。
まぁきっと、申し訳なさなんてないのだろう。
人が死ぬ? そんなんよくある話だよって、勝手に浮かんできたのだから。
「こっちこそ………変な話してごめんなさい……」
「いいよいいよ」
俺は、どうすればいいのだろう。
何もしないなんて、もうそんなことは良い加減、言ってられないんじゃないか。バランスを取るには、常に動いていなきゃいけないんじゃないか。
「……」
強い感情が荒ぶっても、壁を破壊するには至らない。繋がることはないようだ。
だからこそ、なのか。
追う人と追われる人、その両方の架け橋は、俺なのだろうか。
俺が繋げって。乙黒さん、そういうことなんですか?
俺が目を覚ましたのは、再びの連続チャイム音であった。何このデジャヴ。くそうるせぇ。
「ふあーい」
寝ぼけた頭でもそもそと、離れたがらない布団と別れを告げて玄関に向かう。
あー、だめだ。頭が働かない。
昨日はどうしたんだっけ。……あぁそうだ。普通にあの後、彼女は申し訳なさそうに帰宅したんだった。「報告は、何かあったときだけでいいから……」と言い残して。
なんだよ、最初からそうしろよ。
分かるよ? 通信講座を「何⁉ 一日十分でいいのか! これならできるぞ」と思って頼んで、いざやろうとしたら、まぁやらない、みたいな感じなのだろう。ちょっと違うか。
「どちら様ですかー」
俺が重い鉄の扉をぎぎぃと開けると、そこには少女がいた。何このデジャヴ再び。
制服の彼女は、目を細めて俺をじりりと見つめている。
「おはっすー」
某テレビ番組風。眠さは伝わっただろうか。
「かーなん。おはよう」
うをう、なんだよびっくりした。
「……えっと、それで? 今何時? というかなんで伊瀬がここにいるの?」
「今は七時半だよ! お迎えに上がりました!」
ちなみに俺はいつも八時に起きている。徒歩区域で割と近いのでそれくらいで十分間に合う。
「なんでお迎えなんか」
伊瀬は俺の言葉を無視して部屋に……ってどこまでデジャヴなんだよ止めろ止めなさい。
「すんすん。すんすん」
そして彼女は部屋をぐるぐる旋回しながら鼻を鳴らす。
「むむ。女の匂い! 浮気だー!」
「待てよ。いろいろおかしいって」
「おかしくないよー。成宮茜子ちゃんが、『伊瀬さんの夫は浮気者ですぜぇ』って教えてくれたんだー」
あいつのせいかよ。今の伊瀬に話かける人物なんてそうそういないしな。っていうか成宮、変なところで出てくるな。噂好きは噂集めるだけに集中しろって。流すんじゃねえよ。
「土佐藤さんと形中さんのことは知ってたけど、まさかこの超魅力的な伊瀬様と付き合っても浮気するなんて……お盛んなんだね、かーなん。かっこいい人はみんなで共有しなきゃ!」
嫉妬なんて概念、彼女にはないのであった。浮気云々言っていたのは、なんとなくテレビの真似っ子でもしたのだろう。
「だから待てって。浮気も何も、俺らはまだ付き合ってないだろ?」
「お?」
「ん?」
彼女が驚嘆の表情を浮かべて俺の顔をくまなく見まわす。
「今かーなん、『まだ』付き合ってないって言ったよね?」
……知らない知らない。
「言ってない」
「言ったよー! もう素直じゃないなぁ。私のこと好きってもう態度で出まくりなのにー」
どこがだよ。それはただ単に伊瀬が自意識過剰なだけだ。
「あ、そういえばさ」
軽く、彼女に聞いてみよう。心の準備にもならないだろうが。
「不登校の生徒がいるらしいんだけど、知ってる?」
「不登校? うーん……知らないなぁ。私、そんなに顔広くないし。不登校ならなおさら学校にこないわけじゃん。知らないよー」
「そっか。なら、いいんだよ」
こんなんじゃ心の準備も何もないような……。
とにかくまぁ、こんな感じで彼女は初めて俺の家を訪れたのだった。本当朝から騒々しい。彼女が俺のベッドで寝始めた頃に俺は様々な支度を終え、彼女を起こして一緒に登校した。
……いや、目指す場所が一緒なので、たまたま同じ道を歩いていた。
学校に着くと、多少いつもより皆の視線が集まる。
一緒にとう……朝から隣を彼女が歩いているのは物珍しいからだろう。
昼食の時もそうだが、周りに人がいる時は、彼女は告白してこない。一応恥じらいがあるからだろう。だから教室で話したりするのは特に苦痛じゃない。関係のプラスマイナスも、彼女は単順なのでコントロールしやすいし。
俺は席に着いて、周りの友人と多少話をしながら、伊瀬を見つめる。目が合って、手を振られた。俺も軽く振りかえす。友人が少しだけ不機嫌そうな顔をした。
だから当然のように俺は謝って、彼との好感度を回復させることに努めた。
伊瀬は、一般的な女子だ。少しだけ積極的なだけ。他のクラスメイトの女子と大差ない内面を持っている。
きっと一か月半前まで、誰もが皆、伊瀬のことをそう見ていただろう。
彼女が一般的な枠から外れるとき。それを皆が目撃してしまったから、危険だと思われ。皆が異質なものだと思ってしまったから、止めどなく噂は巡り巡って。
だから、演劇部は皆、退部していったんだ。
彼女は一人ぼっち。決して悪い子ではないと思うのだが。普通だよ、普通。
でも、一度壊してしまったものはなかなか戻らない。壊すのは簡単だし、一瞬だ。
まるで、放火のように。
極端に嫌われたり極端に好かれたり、俺が壊れそうになったとき、全てを燃やしてしまえば、関係は、――最初からやり直せるのだろうか。
なんて、ね。
二階で寝てると、下から大きな大きな声が繰り返し聞こえた。何かが割れる音も。
だから、わたしは目が覚めちゃった。明日は水族館だからたくさん寝なきゃだめなのに。
隣のかなたくんはまだぐっすりだった。
でも、暗い中一人で怖かったから、かなたくんにも起きて欲しかった。
わたしは、かなたくんをぶった。ごめんなさい。
でも、そしたらかなたくんも目が覚めたみたい。よかった。一人より二人の方が安心。
「何の音?」
わたしは聞かれても分からなかった。一応かなたくんの方がお兄ちゃんなんだから、物知りのはずなの。お兄ちゃんが知らないこと、わたしが知るわけないんだよ。
「見に行こう」
いつも優しいかなたくんは、見たこともないような怖い顔をしていた。
「多分ね、ぼくのお父さんのせいだよ」
二人で階段を下りながら、ひそひそ声で教えてくれた。
もうこの頃になると、なぜか一階は静かになってた。
「やっぱり見にいくのやめない?」
わたしは、悪い気持ちがした。これって、また覗くことなんじゃないかって思ったから。
多分、お父さんとお母さんはわたしたちをびっくりさせるために何か、準備してるんだって思ったから。
びっくりできた方が、わたしもお父さんもお母さんも幸せになれる。
「だめだよ。見にいかないと」
かなたくんの顔はまだ怖かった。だから、わたしは黙ってついていく。
リビングのドアは少しだけ開いていて、中からは光が見えた。
かなたくんがゆっくり近づいて覗く。
「いいって言うまで覗いちゃだめだぞ」
かなたくんはそう言ったけど、いつまでたってもいつまでたってもわたしと代わってくれない。ずっとずっと何か聞きなれない音がするリビングを覗いてる。
わたしは気になった。後でかなたくんに怒られるかもしれないけど、しょうがない。なかなか代わってくれないかなたくんも悪いんだから。
そっと近づいて、かなたくんが覗いてる下の隙間から中を覗いた。
なんだろう。お父さんが、何か赤いタンクみたいのを逆さにして中の水をまいてる。
あんな飾りつけがあるのかな。わたしの誕生日会の時、お父さんがリビングをきれいに飾ってくれた。だからきっと今回も××××お×××もおお××××××××お母さんがあ×××××たおれ××頭か×血×××血ああああ××××てってて×××て、ぴくりと動いて××××そしたら×好きなお父さんが×××頭を蹴××動かな××。
目を開けると、なんだかあったかかった。何かあった気がするけど、よく思い出せない。とりあえず、エアコンつけて寝ちゃだめだって言われてたから、リモコンを探そうと思って起き上がった。
そしたら、顔がとっても熱くて、ここは見慣れた二階の寝る部屋なのに、ところどころ火がついてて、ぱちぱちと音を立ててた。
「大丈夫か⁉」
急にかなたくんの顔が目の前に現れる。さっきから肩を揺らしてたのはかなたくんだったのかー。
「どうしてお部屋に火がついてるの?」
かなたくんはすごく苦しそうな顔をして、そのまま立ち上がった。
わたしに背中を向けて、何か考えてる。
ふと、棚の上を見てみると、
「写真! たいへん! 写真が!」
わたしが大事に大事にしていた、皆の写真がたくさん入ったアルバムに火がついて半分くらい黒くなってなくなってた。
「しゃしんっ! 皆のぉ‼」
わたしは急いで立ち上がって、棚の上のアルバムをとろうとする。だけど、がりがりって音がして、棚がひしゃげて、ばりばりして、ぐらぐらして、あ、倒れるなって分かった。
その大きな棚が倒れる先にはかなたくんがまだ立ってて。
アルバムは、もうだめかもしれない。
わたしは、かなたくんを助けようとおもって飛び込んだ。
写真はまたとればいいから。
わたしとかなたくんとお父さんとおか××………ぁぁぁぁああああああ‼
俺はその日、西公園のベンチに座っていた。学校へ行くつもりが、街のところどころに散らばっている思い出を集めていったら、ここへ行きついた。
ぼーっとして、時間を浪費している。本当、無駄な時間である。
だったら早く帰ればいいんだけど。吸い込まれるように西公園に召集されてしまう。なんだろうね。
俺はコンビニで買ったしらたきで体を温めていた。……案外うまい。
公園はほとんどが枯れた茶色の芝で埋め尽くされていて、右側に遊具群がある。ブランコやすべり台、何やらごつごつとした城のようなもの。俺が遊んでいた時よりもペンキの色が塗り替えられたのか、新しく感じる。
公園全体が、異色な空間のように感じた。
……あぁ、どうして思い出すんだろう。
ぱらぱらぺりぺり景色が剥がれて、がりがりがつがつ記憶が発掘されて、目の前に転写される。
俺と伊瀬と両親。偽物の家族が偽物の思い出を演じている。
きぃこきぃこと金属が擦れる音が俺の耳に纏わりついた。
目の前で、伊瀬がブランコを立ちこぎしているが、膝を曲げるタイミングがズレているせいでうまくこげていない。父と母はベンチに座って仲良くお喋りして、時折笑い声をあげていた。
昔の俺は、伊瀬の隣のブランコに座って、空を仰いでいるだけだ。
何を、見ているのだろう。俺は、一体何を考えていたのだろう。
俺は俺を見ながら思う。
あの時の俺はきっと全てを予想していた。最悪、こうなってしまうことを理解していた。それなのに、何の手も打たずにのんびり生活していた。どっぷりと麻薬に浸っていた。
まだ伊瀬が、偽りの幸せの日々に埋もれていた頃。
まだ俺が、大切な何かを持っていた頃。
そして、目の前の景色。突然全てが爆発するように燃え上がった。俺も、父も、母も、そして伊瀬も。苦しむ様子もなく紙のようにただ燃えていく。
「………どうにもならんわ」
そうだ。これは、決して逆行しない時間の流れに焼却された過去の話だ。
俺の父は、離婚した後、俺を引き取った。しばらくは二人で生活していたが、ある日「紹介したい人がいる」と俺をファミレスに連れて行った。外食は嬉しかったので覚えている。確かイタリアンのお店でドリアを食べた。
そのファミレスには、温かそうな女の人と、俺と同い歳の女子がいた。まだ、彼女達の姓が名取だった頃だ。しかし、それも時間の問題で、それから一年以内に向こうは離婚して俺の父と再婚した。ちなみに向こうの子供、伊瀬は母が引き取ったらしくて、結局お互いバツイチ子連れ同士の結婚となったのだった。
少しの間上手くいっていた、全てが順調のように見えていた。もちろん、俺はそんなこと微塵も思っていなかったけど。俺の父がまたいつ暴力を振うのか、そんなことばかり考えていたけど。……知ってて何もしなかったんだ。
そしてある夜、父は喧嘩の末、母を殺害して、自宅に火を放った。父は逮捕された。
淡々と、出来るだけシーンを思い出さないようにして流す。
それらが、九年前の話。
いわゆるセンセーショナルな事件であったため、この街では皆が記憶の片隅には留めている事件である、と思う。
そして今。父が壁の中から戻ってきた瞬間、再びの放火事件。しかも今度は連続だ。
「俺の、父」
普段はとても優しかった。俺にだって暴力を一度も振るったことなんてない。いつもにこにこしていて、俺のことをいつも気遣っていてくれた。
それが、父さんとしての顔。
だけど、本の順番が交換されてたり、写真立ての位置が変わってたり、コルクボードが傾いていたりすると、たまに暴れた。部屋の物のほとんどを破壊してしまうほど暴走した。
それが、犯罪者としての顔。
それら二つを合わせて、初めて俺の父が出来上がる。
人には様々な顔がある。皆が皆、時と場合によって使い分けている。当然だ。
たとえば、伊瀬。
クラスメイトとしての伊瀬、同じ部活の部員としての伊瀬。俺の元妹としての伊瀬。
いろいろある。同じ相手にだってこんなに使い分けちゃったりするわけだ。面倒くさいよね、本当。
だけど、必要があるから、役ができるんだ。
そういうのって需要と供給のバランスだから。
俺みたいに、必要性がなければ、一つの役で全てを処理できる。自分に対してさえ、この役で接している。自分は一人なのでこれは矛盾している。
俺は寒さで固まった脚がまだ自分の物であるか確かめるために膝を伸ばす。ぐーっと。足の甲からすねにかけて筋が伸びて気持ちが良い。
「あらあら、まさか愛しの奏汰さんじゃないですか~?」
声のした左方向に首を回すと、真っ黒のウィンドブレイカーにお腹の中が真っ黒な乙黒さんがいた。
うわ、やばい人に見つかった。
「奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
「運命ですかね~?」
俺の隣に座って顔を覗き込んできた。
「あ、しらたき気に入ったんですか?」
「そんなことないです。コンビニにこれしかなかったんです」
「あらら~? 結構コンビニにしらたきのおでんって売ってないんですよ?」
「……知らないです。行ったコンビニにたまたまあったんです」
「そうですかー、ふ~ん」
「顔近いです」
「ちゅーしますか?」
「口にしらたきつっこみますよ」
「あーん」
……仕方がないので、俺は彼女をそのまま放置した。
「ちょっと、ちゃんと食べさせてくださいよ」
「いや、間接キスとかも無理ですから、俺」
なんだよそれ。潔癖症かよ俺。
別に潔癖症じゃないんだけどさ。潔癖症っていうだけで、何か父が思い出されるよまったく。
「恥ずかしがり屋さんですね。……あ、ちょっと失礼しますね」
乙黒さんはそう言い、ポケットから携帯電話を取り出した。
いろいろな顔、ね。
たとえば、乙黒さん。ある時は校長先生の娘。
携帯の通話ボタンを押すと同時に、乙黒さんの表情から笑顔が消えた。
「もしもし、若葉か? 丁度良かった。西公園付近のパトロールも頼む。私は少し用事でそこの区域のパトロールから外れる。あ、いや、そういうのはいい。いつも通りにやれよ。うん、じゃあ頼んだ」
ある時は、優秀な刑事。
「あ、ごめんなさいねー、せっかく二人でお話ししていたのに電話なんてしてしまって」
そしていつもの目が線になる笑顔に戻る乙黒さん。
この人は、一体いくつの顔を持ち合わせているのだろうか。
「いえいえ、大丈夫ですよ。それより、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ~。私、丁度暇だったんです」
いやぁ、聞き間違えじゃなければ、乙黒さんはパトロールの真っ最中だったと思うんだけどなぁ。
まぁ、俺の知った話でもないか。
「その後、あなたのお父さんから何か連絡入ったりしましたか?」
乙黒さんが事情聴取を何気なくしてくる。
「入ってきませんよ。俺の父は俺の携帯番号を知りませんので」
それに多分……ねぇ。
俺の父は壁の中からこの前出てきた。そしてすぐに失踪。
「分かってますよ。念のためです」
じゃあ俺も念のため、質問してみよう。
「俺の父が連続放火犯だと考えてますか?」
「そうですね。今回の連続放火事件。一連の最初の事件は、あなたの父宅のアパート放火でした。九年前の放火も、あなたの父は自分の家を放火しましたね。これは大事な共通点です」
そんなことで、そんなことだけで、俺の父が連続放火犯だと考えているのか。
「………………はぁ」
九年前、父が何故自宅を放火したのかその理由を理解していないから、今回の父のアパートから火が出たのを、「また自分で火をつけたに違いない」なんて思うんだ。ただ事実を並べて表面の共通点を見て同じものだと見なす。
これは、思考の途絶だ。犯罪者は犯罪者、狂人、自分とは違うもの、だから理解する必要がない。それをただ捕まえればいい。脅威は消し去ればいい。それだけの、もはや思考とは呼べないプログラム。
……まぁ、普通の人は理解できないのかもしれないし、それが正しいのかもしれないけど。
でも、俺には理解できる。
息子だから。
犯罪者の血を引いて、俺は呼吸をしている。思考パターンを共有している。
要するに、俺も犯罪者だから。
だから、今回の連続放火が父の仕業でないことも分かる。
あ、そう言えば。
「すいません乙黒さん、少し聞きたいことがあるんですけど」
「おやおや、どうしました? 恋のお悩みですか?」
乙黒さんが俺の顔を覗き込んできた。冗談は無視して話を続ける。
「父の失踪って、父のアパートが燃やされて、その中に死体がなかった事から始まりますよね?」
「そうですよ。それがどうかしましたか?」
「あ、いえ。俺も俺なりに事件を考えようと思って、参考までに聞いてみただけです」
「あらま~、そうですか。奏汰さんに先を越されないようにがんばらなくちゃですね」
「それともう一つ、アパートから火が出たということですが、他の部屋とかは大丈夫だったんですか?」
「大丈夫でしたよ。皆が寝静まる夜中の一時でしたが、あのボロボロのアパートには他に住人がいませんでしたので」
夜中の一時。形中さんの家と土佐藤さんの家が放火されたのは休日の昼間だ。
「何か分かりましたか?」
「いえ、全然ですね」
全然、分かる。日本語の乱れですかね、それとも日本語の変化ですか。
俺の返答に乙黒さんは黙って思惑する。
「…………寒いですね」
冷めた空気に耐えかねてそんな一言がこぼれた。
「とか言って、いつも伊瀬さんにあっためてもらってるんですか~?」
「ええ、もちろんです」
そう笑顔で答えてみたものの、伊瀬とのそれらを……想像するだけで悪寒が走った。
「あらあら、笑顔が引き攣ってますよ? そんな態度じゃ伊瀬さんに失礼ですね」
俺のことは、乙黒さんには悟られているようだ。
「別に伊瀬だからどうこうじゃないですよ。人に触れるのがアウトなんです」
「ええ、でしょうね。奏汰さんが奏汰さんであろうとする限り」
「……? なんですか、その意味深そうで実はあまり意味のなさそうなセリフは」
「間接キスもだめ、なんですね。拒否ですか」
「何がです?」
乙黒さんは顎に人差し指を乗せ、首をかしげる。
「掌の傷ってまだ痛んだりするんですか?」
突然話題を変えてきた。俺以上に話の幅が理解できない。
「いや、そんなことはないですね」
これ、九年前の傷だし。そんなのが今も痛むなんてそんなわけないじゃんいやだなぁ。
「でも、その傷を見て当時のことを思い出したりするんじゃないんですか? そしたら、当時の記憶が蘇りますよね、痛みと一緒に」
「………………」
何故彼女はそんなことまで知っているのだろうか。俺は俺であるから俺の心を一番に理解しているはずなのに。乙黒さんの方がよっぽど俺を分かっている。
「だから奏汰さんはあまり自分の掌を直視しないようにしていますよね?」
「……もう、このただれ痕も含めて俺の手ですから。見慣れましたよ」
乙黒さんは俺のずらした答えに対して返事はしない。
代わりに俺の方に少し寄って距離を詰めてくる。俺はそれ以上に彼女から離れた。これが俺の、あなたとの心の距離だから。
彼女は俺の行動を一瞥し、少し顔を引き締めてから語り始めた。
「昔、あなたの父が起こした事件で、伊瀬さんとあなたは精神を病みました」
俺の父が起こした事件で、ね。プツリ、と自分の心に異物が刺さったのを感じる。周りの肉を巻き込んで組織を崩壊させる。
「精神を病むというのは自己防衛のためです。何かを大きく損傷して、それを守るためや補うために精神を病む。自分の命を繋げるための最終手段です」
それは確かにそうだと思う。ただ、病む、という表現は嫌いだ。なぜならその言葉には、その一言で全てを済ませてしまう力があるから。
俺と伊瀬はただ単に少し皆と違うだけなんだ。少し、ズレているだけなんだ。
伊瀬が、昔の俺のことを覚えていないのも、単なるズレ。
「で、そんな分かり切ったこと確認してどうしたんですか?」
いつになく、乙黒さんはふんわりと微笑んだ。
「愛、なんですよ」
「はあ……」
いきなり俺とは無縁な人類のテーマについて触れてきた。
愛というのは人と人の間に生まれるもの。人と最低限な関係しか持たない俺には関係ない。
「人間の子供と言うのは、親に世話をされないと生きることはできませんよね? 鹿とかはすぐに立ち上がって自立しますけど」
ふむふむ。
「だから、人間の子供にとって、愛されるということは死活問題なんです。最も重要な事なんです。愛を学ぶ時期なんです」
「あはは、何を言い出すんで――」
「その時期に、あなたたちは愛を汚された」
乙黒さんは俺が話を変える隙を与えない。
「だから――」
そして、容赦なく続ける。
「愛が怖いんですよね? 奏汰さん」
ぽきん、と壊れた音がした。
「愛が、怖い」
反芻してみる。俺の心を分かるために。
「愛することも愛されることも怖い。執着されるのもするのも怖い。人と触れ合うのが嫌いなのは、愛に直結するからです。あなたは愛がいかに壊れやすく、偽物であるかということを学んでしまった。あなたの中での愛は最初からズレてるんですよ」
愛。一緒にいて身の危険を感じず、相手に愛着があるということ。俺が暫定、定義付けした意味だ。
しかし、これって愛なのだろうか。……分からない。嘘だ。分かる。自分で暫定と言ってしまうあたり、違うんだ。何もしっくりとこない。
愛。愛おしく思うココロ、慈しむ、愛でる、大切に思う。
辞書の意味を暗記してみても分からない。理解には及ばない。本心である俺でもこれだけは分からない。ズレてるから。
「愛の裏に裏切りが透けて見えるんですよね? まるで必然のように、そこに裏切りが構えているんですよね? 無関心でいれば、裏切りも何もないですから、だからあなたは全てに無関心を装っているんです」
裏切り。
愛したものが燃える。
愛してくれていたものが燃える。
……それは知っている。
「あなたは愛を歪められ、伊瀬さんは愛を壊されてしまった。それが、二人のズレです」
知らない。俺は、何も知らない。知りたくもない。人間に関わりたくない。
全部、嘘だ。
「だけど、あなたたちは同時に知っている。本当の愛があるらしいということも。お互い決して裏切ることなく、二人が二人、お互いを愛し合う、そんな素晴らしい関係があるらしいということを。それを求める心の動きがあるのに、あなたの歪んだ無意識がその心の声を無理矢理遮断しているんです。矛盾している。だから、苦しい」
矛盾。ちぐはぐ。辻褄が合わない。ズレている。間違っている。
「素直になりたいのに、いなくなってしまいそうで怖いんですよね? でも、安心してください。私は、裏切りませんから。私が愛を教えてあげます」
「嫌です」お願いします。
声が思いのほか震えた。きっと寒さのせいだ。
乙黒さんが一歩近づいてくる。
「私を、信頼してください」
「無理です」信頼してます。
俺は立ち上がり、乙黒さんと距離を取る。しかし、膝が左右に震えて、尻餅をついてしまった。
「何があっても、どんな奏汰さんでも理解します」
「止めてください」ありがとうございます。
がちがちと歯が鳴った。
俺は震える腕をついてようやく立ち上がる。
「どうしてですか? 私が奏汰さんを裏切ると思うんですか?」
「来ないでください」思いません。
足が震えてうまく走れない。
俺の手は乙黒さんに捕まれて――。
「離せ!」離さないで。
俺の拒絶も虚しく、強く引っ張られる。
バランスが崩れて、体が半回転して、手が前に出て――
ダkしmられた。
ネツ。人の熱。三十七度の体温。
イヤだキモチワルいウソだセスジがぞっとするトリハダがタつキンニクがコウチョクするメがトじないカラダがアツいシンゾウがハジけるオエツのようなコキュウになるダエキがトまらないスっぱいカアさんトウさんイセボクカゾクイセアイボクコワれるごめんなさいイセごめんなさいカアさんごめんなさいカタナカごめんなさいトサトウごめんなさいごめ―――。
寒い。自分の震えで目が覚めた。
「あら、起きましたか?」
俺はその声を特に気にも留めずに起き上がる。どうやら俺はベンチで寝転んでいたようだ。周りは明るく、さほど時間が経ってないことを俺に教えてくれる。
「おはようございます」
ベンチの隅には乙黒さんが笑顔で座っていた。今日も変わらずに、白いジャージに赤のラインが入っている。
「私の膝枕、どうでした?」
体の震えが止まらない。……ふむ、どうしたものか。
っていうかどうしてくれるんだよ、もう。
「あの、乙黒さん。俺の記憶違いでなければ、あなたは俺を襲ったと思うんですが」
「あらあら、襲ったなんて人聞きが悪いですね。愛してあげたんですよ」
「なるほど」
人の嫌がることをすることが愛なのか。違う。それは既に学んだ。
「それで、体の震えが止まらないんですけど、なんでですか?」
「さあ、どうしてでしょうね」
俺の心が何でも分かっていそうなのに、こういうことは教えてくれない。
「奏汰さん、少しは素直になれましたか?」
そう言い、俺にすり寄ってハグしてくる。
「あんまり、くっつかないでください」
「おやおや、さっきの拒絶とはえらい違いですね」
「…………」
乙黒さんはいちいち分かっていることを言葉にして発してくる。分かっていても言葉にするとしないでは天地の差だ。言葉にした途端、曖昧さが消え去り、それと向き合わなければいけなくなる。だから、言葉はキを付けて使わなきゃいけない。強力な武器だから。
確かにそうだ。どうして、そこまで嫌じゃないんだろう。さっきのことも不思議と許せるような心境である。
……これは、致命的な何かが、俺の生き方に関わる何かが――。
「おりゃー、ぐりぐりぐりぐりぐりぐり」
乙黒さんは俺の頭をぐりんぐりんといじくり倒す。止めてください、気持ち悪くなるでしょうが。
「あれ、そういえば俺のおでんはどこへ消えたんですか?」
「それはあなたが私から逃げるときにこぼしてしまいました。と、そうやって話を逸らせるとでも思ってるんですか? 下手くそですね~、話の逸らし方。うふふ」
乙黒さんはようやく俺を解放した。しかしまだ俺の体の震えは収まらない。
「私の愛を受け入れたってことですよね?」
いきなり物事の核心を突いてくる。このままの調子だと埒が明かないと判断したのだろう。
「んなわけないじゃにゃいでひゅ……」
乙黒さんが俺の頬をつまんで弄ぶ。
「ほらほら、触りたい放題ですよー!」
俺はとりあえず彼女の両手を掴んで離させた。
「俺は動物園のパンダですか」
「ともかくともかく嬉しいですね~! 片思いの恋が叶うってこんな感じなんですね! あ、それじゃあ私のこと下の名前で呼んでください」
「嫌です腹黒さん」
悪い冗談だ。
「そうですか~、それはもうちょっと後のステップですね! 恋愛は階段を上るのが醍醐味でもありますから」
「心にもないこと言わないでください」
「えへへ。でも嬉しいですね、私の好意を素直に受け取ってくれるというのは。つまり、私のこと、好きってことですよね?」
好き? どうだろう。無関心、とはもう言えない。彼女のハグを受け入れてしまっているんだから。彼女と関わってしまったのだから。
俺は、彼女のことを大事に思っているのだろうか。
無関心以外の、何かを持っているのなら、もし彼女に何かあったのならショックを――。
「…………………………………………っ!」
気が付いた。
以前の俺は、大丈夫だった。誰が傷付こうが、それが俺じゃなければ痛くない。それだけだった。
だけど―――、
リリリリリリリリ。
その時、携帯の着信音がナり響いた。俺はいつもマナーモードにしてあるから、乙黒さんのものだろう。
脂汗が俺の鼻の頭に滲んだ。
「あら、なんでしょう。私のいちゃいちゃタイムを邪魔するなんて」
彼女はしぶしぶ携帯電話をポケットから取り出し、電話に出た。
その知らせは、彼女の心を揺らして、もしかしたら揺らし過ぎてもう治らないところまで壊してしまったかもしれない。
四件目の放火の被害に遭った家は、乙黒叶の家であった。
火が出たのは四時間も前で、小さく燃え広がり、もう手遅れとのこと。
そう言えば、俺は四時間目、乙黒さんの家付近にいたなぁー。
ほら、乙黒さん。こんな俺を、愛すんですか? 無理ですよね。無理でしょう。
俺はあの日から少しおかしい。いつも以上に意思と行動が矛盾していた。
体の震えも止まらない。おかげで全身筋肉痛だ。それでも震えは容赦してくれない。体の内側からこみ上げてくる。体育座りで体をきゅっと固定しても、震えは収まらない。
これは、どう考えても乙黒さんのせいだ。
乙黒さんの家が放火されてから、落ちつかない。カップ焼きそばの麺をぶちまけるし、玉子を割って黄身をゴミ箱に殻を皿に入れるし、なんだかもう面倒くせえと思ってご飯食べてないし、携帯がどこかいっちゃったし、学校にも行こうと思わないし、全然寝れないし、本読もうと思っても気付くと放火のこと考えてるし。
何なんだろう、この憂鬱感は。どうしてこんなに意思と行動にギャップが出るのだろう。
「俺は、なんなんだよ」
「んなこと知らない。それより、このタオル洗濯でいいんー?」
廊下から声が聞こえる。俺はベッドで布団にくるまっていた。
「いいよ。ありがとう」
「いいってことよー」
ピッピッ、と洗濯器を操作する音が聞こえ、続いてうぃんうぃんドラムが回り始めると、彼女が部屋に戻ってきて、部屋をぐるりと見渡した。
「ウチが来たときよりも大分ましになったなぁ。ねぇ、ニートくん」
「へいへい、ニートですよ、俺」
「何言ってんよー、何だか元気ないなぁ」
俺が連続して学校を何日も休むものだから、成宮茜子がプリント類を届けに来てくれたのだ。保健室で最後に別れたとき微妙な雰囲気だったことはもう気にしていないようで、俺のたまりにたまった家事を全部やってくれていた。なにこれ、将来ヒモになりたい。
彼女は続いて台所に立つ。
「あー、成宮。俺はお腹減ってないから料理は作らなくていいよ」
「大丈夫。ウチが二人分食べるから」
「大食いの女の子はポイント高いよ」
俺は何を言っているのだろう。
「別に他人の評価を気にして行動してるわけじゃないってーの」
ごもっともな生き様だ。俺は他人と自分の評価ばかり気にしておどおどしているから。
「それで、成宮はどうして俺の家に? プリント届けるなら伊瀬が来ると思うんだけど」
ミノムシに成り切った俺は、難しい寝返りを決行しながら尋ねる。
「伊瀬ちゃんもずっと学校休んでるんよー。むしろ奏汰の家に居て二人で愛を築き上げているのかと思ったんだけど、違うみたいだね」
「俺も彼女も、お互いのこと好きじゃないからね」と言おうとして舌の先まで出かかったが、またまた不機嫌になられると困るのでぐっとこらえる。
「違う違う。一度も伊瀬は顔を出してないよ」
「ふーん。意外だねー。学校の皆は絶対二人で何かしてるって言ってたんだけど」
学校で噂されてんのか。……まぁ、二人がそろって連続して休んだらそうなるよね。
「じゃじゃーん。イカ墨スパゲティ二人前」
そう言って、俺の家にある一番大きい皿に盛りつけられたイカ墨スパゲティを片手に成宮が帰還した。そしてそれをローテーブルに置き、正座をする。その途端に「あ、箸忘れた」と台所と居間を一往復した。
そして再び正座。
「いただきます」
礼儀正しく少し頭を下げて、がっついた食事を始める。おいおい、そんなに食べると乙黒さんみたいにお腹の中真っ黒になっちゃうよ。
「イカ墨スパの元、あとどれくらい残ってた?」
「ぬー、あと十袋くりゃいかにゃ」
喋りながらも食事行為を止めない。
俺は、ミノムシ状態からそれを覗いて腹の虫が鳴くのを必死に抑え――、
ぎゅるるるぅ、と情けない音が部屋の隅々まで響き渡る。うわああああ、テレビでもつけておけばよかった。
「ほほーう。さてはニートくん。何日もご飯を食べてないな?」
「食べてない」
正直に申告する。腹減った。
「では、イカ墨スパを一口あげようではないか」
「ありがたき幸せ」
「…………………………」
「…………………………」
しかしお互い一歩も動こうとしない。あれ? おっかしいなぁ……。期待させてから落とすのか。何かの思考回路と酷似していて鳥肌が立った。
「…………ほら、早く食べにきなよ」
「ちょっと布団がまとわりついて出られそうにないんで口元まで運んでくれたら嬉しいな」
「二人だけの時にちょっと甘える男子はポイント高いよ」
「なにそれ嬉しい。俺は他人の評価の上下をすごく気にするから」
彼女は箸を置いて、立ち上がり、ベッドに向かってくる。
んん? 食べさせてくれるならスパゲティが必要ですよ。手ぶらじゃ意味ないですよ。
「さて、ニートくん卒業!」
「おい、ちょっ」
彼女は布団をわっし、と掴むとそれを力任せに引っ張る。俺は突然のことでもあったので抵抗できずに身ぐるみを剥がされた。ぐすん、お婿にいけない。
「…………布団返して恥ずかしい」
「服着てるじゃん。何を恥ずかしがることがあるんよ。ってか何それ、……なんで震えてんの? この部屋あったかいけど」
「あー、いやー、なんて言うかさ、ぶるぶる運動?」
「意味分かんないよ」
大丈夫。俺も分からないから。
「何かあったの?」
成宮は俺を心配そうな瞳で見つめてくる。
「あー、まぁ……………うん」
さて、何て話そうか。
……言い訳をいろいろと考えてみたけれど、自分でもいまいち原因が分からないものに対してどうこう言うことは出来ないことに気が付いた。
「正直よく分かんないんだ」
俺は起き上がり、壁によりかかりながら答える。
「だろうね。何かそれ、半端なさそうだし」
彼女はとりあえずローテーブルのイカ墨スパを持ち、それをベッドで食べ始める。何これ、つまり話を聞く体勢ってことでいいのかな?
「はい、あーん」
目の前にはイカ墨スパゲティ。なんだこれ、箸をフォークにしたら完全に一致するぞ。
俺が無言で口を開くと、口の中にそれは放り込まれる。もぐもぐもぐ……イカ墨臭い。
「あれっ、普通に食べちゃった。ウチのスパゲティ……」
「なんでちょっと残念そうなんだよ。今の、俺にくれたんじゃないの?」
「いや、そうだけど、叶ちゃんが『奏汰さんは間接キス嫌がりますよ~』って言ってたから食べないかと思ったんよ」
…………おや?
確かに俺が今間接キスのことを何故か忘却して拒絶反応が出てこなかったのは謎だけど。それよりも――、
「どうして乙黒さんのこと知ってるの?」
「知ってるも何も、保健室で良く話してるから。奏汰が昔仙台に住んでたことも知ってるよ。私の話、叶ちゃんから聞いたことない?」
ねーよ。というか年上にもちゃん付けなのね。
俺の反応を見て、彼女はにやにやしている。なんだよ。
「どうして成宮がそのこと知ってるの?」
俺は生まれてからずっと山梨に住んでいることになっている。それは、俺が学校の人に放火犯容疑者の息子だとバレないようにとの配慮だ。実際バレてないし。
だから、刑事である乙黒さんは俺に関する情報をもっと丁重に扱うはず。それなのに、どうしてあっさり成宮に情報を渡しているのだろうか。
別に、俺は自分が犯罪者の息子だとバレるのは構わないんだけどさ。……進んで言おうとは思わないけど。
「ほら、ウチって学年首位の成績だし、学校の人間関係についても詳しいから。捜査協力って感じかねー」
学年首位だったのかよ。初めて知った。というか、あの乙黒さんが一目置いてる人物ということか。どんだけ超人なんだこの人。ただのスケベ女子ではなさそうだ。
「それで、自分の犯人予想を教える代わりに奏汰のこと教えてもらったの」
「…………………………………………」
へえ。「犯人予想を教える」ってことはわざわざ教えるような内容。つまり、街の大半が思っている、俺の父が犯人だとは予想していないということだ。
成宮、君は誰が放火犯だと思ってるんだよ。
「だから、知ってるよ。日向井信吾の息子だってこと」
父の名前、嫌な響きだ。俺は多分あからさまに顔をしかめたと思う。
「あ、人に言ったりはしないから安心してー。叶ちゃんにもそういう約束で教えてもらったから」
「そりゃあ、ありがたいね」
で、だよ。
「平日の昼間から、わざわざ学校を休み、プリントを届けに来たなんていうぼろぼろな言い訳まで用意して、俺に何の用?」
成宮は顔を多少歪めた。
「奏汰の物言いってなんだか嫌味ったらしいよね。遠回しで」
……あれ、乙黒さんのがうつっちゃったかな、もしかして。
「ウチが一人暮らしの男子の家に来るって言ったら一つしかないでしょ?」
彼女はいつの間にか空になった皿をテーブルに置き、脇に置いてあった鞄をがさごそと漁り終え、俺に近寄ってくる。
「ねえ?」
おおっと、どうしてそんな優しそうな笑みで俺の顔を覗いてくるのかな? しかも四つん這いで俺を追い詰めてくるし。
「ウチと、そういうことしたい?」
顔が近い。正直、こんなセリフを言われても俺の心は動かない。重さ三トンだから。ミサイル落とすぐらいしないとだめですよ。
「もちろん」
だから俺は相変わらず無表情に、快諾を口にする。俺の拒絶はいつも顔に出てしまう。乙黒さんとは真逆だ。だからこそバランスを取るために口では承諾するのだ。
「そっか。でもごめんね。今日はウチ、自信ない下着だから」
知らんがな。
「代わりってことで。はい、これ」
彼女はベッドの脇に置いてあった、書籍を俺に渡してくる。恐らく先ほど鞄から取り出したものだろう。
「……………………あの」
そこには肌色が惜しむことなくふんだんに使用された写真が掲載されていた。たゆんたゆん……ではなく、ぺちゃぺちゃであった。なにこれ、俺の要求に応えたってことですか。
「プレゼントフォーユー」
「あぁ、うん」
ほら、せっかく女の子が俺にプレゼントしてくれた物を無下に突き返すなんてことできない。僕にはそんな残酷なことはできないよ。だから仕方なく受け取ろうかなって。好感度のバランス的にね。本当、仕方ないなぁ、まったく。
「ウチがここに来たのは、この前否定したことを認めてもらおうと思ったからだよ」
「え?」
何のことだろうか。俺が、否定したこと。
「で、奏汰が貧乳好きなのって伊瀬ちゃんが貧乳だから?」
「ぶふっ」
横隔膜が爆発した。
「好みの女性のタイプっていうのはね、大体初恋の女性に左右されるんだよ。つまり、奏汰の初恋の人は伊瀬ちゃんだよね?」
「いやいやいやいや、俺と伊瀬が出会ったのは高校――」
「あぁ、もうその辺の事情も全部知ってるって。伊瀬ちゃんが奏汰のこと覚えてないことも」
「………………どれだけ乙黒さんお喋りなんだよ」
再び彼女はにやにやしている。だからさっきからなんなんですか。
「仕方ない仕方ない。これも放火犯をより正確に予想するためだからねー」
彼女の含みのない表情を見ていると、伊瀬に関してどうこう思っているわけではなさそうなので安心……安心したのか? ボクが、伊瀬のことで? ……まぁいいや。
「俺は生まれてこの方恋愛なんてしたことないよ」
彼女はまた苛立ちを露わにする。
「あんねー、奏汰。ウチは自分の気持ちを正直に言わない奴が嫌いなんよ。ウチは知的好奇心の塊なの。それを阻害するものは嫌い。そっちにだっていい事ないんだよ? 自分に正直じゃないって言うのはさ、結構心を披露させるから」
「んなこと言われても、本当だし」
彼女は分かりやすいため息をつく。
「奏汰は、矛盾してるよ」
俺が、矛盾している。そんなことは自分が一番分かっている。
俺の最大の矛盾。それは、自分が分からないことだ。
自分は自分なんだから、自分が今どういう気持ちで何を思っているかなんてことは分かるはず。それなのに、俺には分からない。
だから、俺の意思と行動には差異がある。ズレている。
母が殺されてから、ずっと。
「じゃあさ、奏汰」
「何?」
「どうして仙台に引っ越してきたの?」
指先の震えが増した。
「それは、この街が懐かしくなってね」
「そんな曖昧な理由で、祖父母の反対を押し切ってきたの? 奏汰らしくもない」
一体、俺の何を知っているって言うんだ。乙黒さんから全てを聞いたかもしれないけど、それは聞いただけに過ぎない。……いや、だからこそ俺を冷静に分析できるのかもしれないな。あれを知らないから。あの実感がないから。
「それと、どうして演劇部に入ったの?」
足先の振れ幅が大きくなる。
「人が出来るだけいない部活に入りたかったんだ」
「でも、叶ちゃんから聞いたけど、奏汰って伊瀬ちゃんと二人きりになるのが苦手らしいじゃん。部活行ったら二人きりでしょ?」
「入部した時は別に伊瀬と二人になることが嫌じゃなかったから」
「……それじゃあ、どうして一緒にお昼ご飯食べてるの? 奏汰にはまだ普通に友達がいるのに。彼女に誘われても断ることもできるよね? それを、友達の方を断って、わざわざ伊瀬ちゃんと食べてる。どうして?」
彼女が質問を一つ重ねるごとに俺の震えは激しくなる。
「………………………………………………なんとなく」
俺は、矛盾している。
その矛盾点を一つ一つ突きつけられて、俺は――。
「奏汰」
成宮は俺の目をしっかりと見つめてくる。
「仙台に引越して来たのは、連続放火事件が起こり、父が行方不明になったこともあって伊瀬ちゃんのことを心配したから。演劇部に入ったのは、伊瀬ちゃんを孤独にするのがかわいそうだと思ったから。一緒にお昼を食べてるのは、伊瀬ちゃんのことが、好きだから」
ぞわりぞわりぞわぞわぞわぞわり。
ボクのオモさサントンのココロのカラがハカイされる。言葉という平気によって。中身がむごたらしく晒されている。だっせえ。
言葉にしたことによって全てが鮮明に、俺に事実をつきつけてくる。
「奏汰……大丈夫? 手がすごい震えてるけど」
ふざけんな大丈夫なわけないだろ。
「だぁぁぁあああぁぁぁああああああ――――‼」
「あ、ちょっと、奏汰。どこ行くん?」
ちっくしょう。
だからイヤだってイってんだろうが。
ボクはスきなヒトがいるんだよ。ダイセツなヒトがいるんだよ。
『いないいない。認めなきゃいいじゃん。俺は人に無関心だし』
うるせえ。そうやって演じて、何も分からないふりをしてる俺の役目だろうが。
俺はな、好きだよ。伊瀬が好きだ。それが本心。
『知ってるよ。でも、好きな人がいなくなるのはもう嫌だろ? 伊瀬がぼくのこと忘れた時、すげえショック受けてたし、俺』
だからよ、それを表面で加工すんのがぼくだろ? 役割ちゃんとやれよ。そうしないと俺もぼくも死ぬぞ。
『分かってるけど、言葉って強いからさ。仮面であるぼくは容易く壊れちゃうんだよ。頑張って修復するけど』
どうすんだよ。ぱっぱとしろよ。俺はただでさえ乙黒さんが悲しんでるの想像してへこんでんのに、ここで伊瀬になんかあってみろ。
致命的だぞ。どうやって心、守んだよ。
『でも、俺はぼくじゃん』
知ってる。
『だから、俺ももう、伊瀬のことが好きだって認めてることになる』
そうだな。
『もうどうしようもない。一度認めてしまったものは都合良く撤回できないんだ』
だねぇ。だったら、もう。
『大事な物を守るしかないよね』
開きなおったな。守れるの? 本当に? 父さんが偽の家族ごっこを演じているときだって、いずれ来ると分かっていた危機に対して何の対策もしないで、伊瀬を壊した俺が。
『余裕だね』
俺に対してまで偽ってんじゃねえよ。
『ごめん。本当は不安だよ。うまく出来るのかって。だけど、やるしかない。伊瀬のことが』
好き。
『なんだから。俺は、彼女を守る。彼女が一秒でも多く笑っていられるように、がんばる』
だな。そんなもんだ。
『で、ぼくは今どこに向かって走ってるの?』
警察署だけど。乙黒さん励まそうかと思って。
『あぁ、なるほど。だからさっきコンビニに寄ったんだね。……お、そろそろ落ち着いて来たな』
ボクは、ぼくは、俺は、っと。よしよし。変換完了。
俺は平日の昼間から部屋着で街中を走り回る変質者になっていた。
街の皆さん、心配しないでね。向かう先は警察署だから。別に自首するわけじゃないんだけど。
全力ダッシュ、十分程で警察署に到着した。部活の成果だな。演劇部だけど。
警察署の自動ドアをくぐる。
腕や足が細かく、時に大きく振動しているから、周りからは変な目で見られる。
ほらほら、カウンターの女性がすごい形相で俺を凝視してるよ。何これ、帰りてえ。
しかし、せっかくここまで来たんだ。俺は意を決して、カウンターに近づく。
「あの、何か用事でしょうか?」
カウンターに行きつく前に、入口に待機していた警察官に話しかけられた。やっぱ俺不審者じゃねえか。まぁ震えてる人いたら変だもんね。寒いからって言い訳で突破できるレベルじゃないし。中毒患者並みだよ。
「すいません、乙黒叶さんがいると思うんですけど。数日前からホームレスになって、ここに寝泊りしてるはずです」
警察官は目を細める。まずい、すこし不謹慎すぎたか。何やってんだ俺。冷静になれよ。
「あ、えっと。日向井奏汰が来たと言えば分かるはずです」
「………分かりました」
それから、待合の椅子に座って待っていた。両手両足でビートを刻みまくっている俺は、外の歩道を歩いている子供からも注目を集めるんだぜ。どうだ、人気者だろ。すぐに目を逸らされたけど。
数分、完璧な不審者となっていると、先ほどの警官が再び俺を呼びに来て、休憩所に通された。
そこの扉を開けると、
「あ、えっと。乙黒さん?」
机に突っ伏している乙黒さんの姿があった。机の上の灰皿にはたばこが要塞のように所せましと突っ込まれている。なにこれ、珍百景。
「おーい、乙黒さん」
「………なに?」
顔を伏せたままで答える。
「はい、イカ墨スパゲティ買ってきましたよ」
俺はコンビニの袋ごと乙黒さんの隣に置いた、が、しかし。
「…………………………」
無反応。意味分かんねえ。せっかく買ってきたのに。
「俺が、乙黒さんの、ために、買って、きたん、ですよ?」
言い慣れてない言葉ばかりで、ちゃんと文が意味を成しているかさえ心配になってくる。
……俺、意味不明。なんで、人のために買い物なんかしてんの? これ、俺の金じゃん。いや、もともと親父の金だけどさ。
それを、どうして他人のために使うの? おかしくね? 何、どういうことなの。
なおも沈黙を続ける乙黒さん。
元はと言えばあなたのせいですよ。俺の一番中心にある無意識が顔を出したのって。
だから俺は今、すごく気持ち悪い。水と油が混ざっているから。そのうち、分離するだろうけど。
何重にも覆い過ぎて凝りかたまり、ぱさぱさになった心にひびが入った。そして隙間から中身が徐々にしみだしてくる。
俺は、なんだ。何がしたいんだ。どんな目的でどんな意図でどんな狙いで、うるせえ。
理由なんかないって前から言ってるだろ。そんなのは脳が勝手に後付したもんじゃねえか。
したいことをする。俺は脳からさえも自由なのですよ、と。
俺はかたかたとふるえる足を駆使して乙黒さんの隣に移動する。
そして、突っ伏した彼女の頭に、手を手、を……伸ばす。
ゆっくり、と。秒速一センチくらいで。
腕が凍ったように重い。乙黒さんに近づくたびに震えも激しさを増す。
俺は、愛を知らない。知っているのは偽物だ。そんなこと、なんとなく気付いてた。
だけど、世の中、「そんなもんだよな」っていうのが真実っぽくて、俺の愛に対する認識も、どこか妥協した「そんなもんだよな」臭がして。
ドラマや映画でよくみる愛なんてものが、現実味がなくて大嫌いだった。そう、無関心じゃない、嫌いだったんだ。
あと、カップルとか。夫婦とか。バカじゃないの? って思って。結局、お互い傷付くだけだし。長い目で物事が判断できない人たちなのだと、どこか達観したように思っていて。
こんな、十七年しか生きてない俺が、何を悟ってんだか。黒歴史だわ。
じゃあ今はどうかって。相変わらずそのまんまだけど、正直よく分かんない。
ただ、一つ分かったことは、俺が普段取ってる行動と気持ちにはギャップがあるってことだけ。
きっと、そのギャップを埋めたら楽になれるだろう。だから、理由も理屈も理論も考えず、全部燃えるゴミの日に放棄して、ただ思いつくままに行動することにした。
だからくそめんどくせえ学校とか行かないし、乙黒さんに会いたいから来た。
会って、励ましたいから、来た。
そして、――俺の手は、彼女の頭に触れる。
その瞬間、体全体の震えが、風が止むようにぴたりと止まった。
「ひぇ⁉」
誰かの変な、年に不釣り合いな声が聞こえるけど、俺は続ける。
まず、掌を頭のカーブにあわせてゆっくりまんべんなく触れるようにする。そして左右にゆっくりと振り子のように動かしていく。
さらさらとした髪の手触りが気持ち良い。人の髪ってこんなんなんだ。自分のしか知らないからなぁ。
「ちょ、と、奏汰、さ、ん……」
頭を起こそうとする力を右手で抑え込む。なんとなく、そうしたかったから。特に意味はない。
「もおおお! なんなんですか! 奏汰さん!」
俺の腕をぬっと掴み、横にずらし、顔をオこした。
その顔は……うん。ひどかった。これ以上形容したら部下がもう二度とついてこないくらいひどかった。
「元気になりましたか? 乙黒さん」
そう言うと、隣にあるイカ墨スパゲティと俺を交互に眺めたり、自分の頭をぽんぽんと叩いたりした後、俺から微妙に視線を外して言う。
「……もうちょっと撫でてくれたら元気になります」
はい? 口にしらたき突っ込みますよ? と言いたいところだが、まぁ、今日はサービスデーだ。しらたきもないし。
「仕方ないですね、乙黒さんは」
俺は、さっきよりもすんなり頭を撫でることに成功した。と言っても、秒速二センチくらいだけど。二倍だぜ、すごい進歩速度。
「………………」
「………………」
しばらくまったりとした空気が流れるが、実際全くそんなことはなく、俺の心臓は高鳴りっぱなしだった。ゼンシンを血液が高速で巡っているのが実感として分かる。今五十メートル走したら絶対タイム縮む。
「乙黒さん、これで元気になりましたか?」
「また、撫でに来てくれたら」
あらあらあらあら。
「欲張りはいけませんよ。俺にだって予定があるんですから」
さて、では、情報を仕入れようか。
俺が、この街へ来た目的を果たし、
全てを終わらせるために。
「傷心中のところ、非常に申し訳ないんですが、犯人像はどんな感じですか?」
今回の新たな放火によって、また何か調査が進んだはずだ。
「えー、もっといちゃいちゃしましょうよー。仕事の話はしばらくしたくないです~」
どんなキャラだよ。俺と共にキャラ崩壊を迎える気ですか。もう何が何やらですよまったく。
「そんなこと言わずに、教えてくれたらまた来ますから」
「………なら仕方ないですね」
あー、それで納得するんだ。随分と乙黒さんもアツカいやすくなったものだ。まぁ、今のうちだけだろうけど。
「今回の放火も、死傷者は出てないです。犯行の手口、時間帯などから、ほぼ百パーセント同一犯の犯行と思われますね。灯油を持ち運んでいることから、ある程度力がある、男というのが一般的ですね~」
「そうですか。分かりました」
きっと、乙黒さんは敢えて言わなかったのだろう。
過去に犯罪に巻き込まれた人が、似たような犯罪を行って加害者になる確率が高い、と。だってそれはすなわち――、ねぇ?
「じゃあ、ボクはもう行きますね」
「ありがとうございました奏汰さん。また来てくださいね。愛してますよー!」
はいはい、今日は愛のバーゲンセールですね。超お買い得です。何たって無料配布ですから。
続いて俺はその足で学校に向かった。糞ダサい私服で。おらおらー、不良だぜー。
今日だけ体力が尽きることを知らない俺は、ダッシュで警察署から学校まで走りぬいた。その間、約五分。すげぇ、俺って案外体力あったんだな。ヒビの街の徘徊が功を奏したのかな。
無防備な玄関から入り、土足のまま下駄箱を通過。そのまま盛大な足音をまき散らしながら二階に駆け上がる。気分は風です。ウィンドブレイクと呼んでくれてもいいですよ。
目指すは二年三組。
ここでふと思い出す。そういえば成宮が、伊瀬が学校に来ていないと言っていた。しかし、今まで安定して長い期間ああだったことはないし、今日あたりは来ているだろう。なのこの希望的カン測。いや、ちゃんと根拠あるんだけどね。今走って戻って下駄箱覗いて来たから。どうやら彼女は学校にいるようだった。
どりゃー。
俺は疾走する。父は失踪した。誰が上手い事言えと。うまくないし。
面倒くさいしがらみを吹き飛ばすように。絡まった何かを引きちぎるように。
一組と二組の前を通過する時、何人かが窓越しに俺と目を合わせた。取り敢えず苦し紛れに微笑んでおいたけど、なんか向こう真顔だったな。
そして二年三組の扉の前、俺は息を整える。
すーはー、
すーはー、
すーはー、
す――――、は――――。
よし。よしよし。勢いを殺すなよ。かつ慎重にだ。何も考えるな。ただ、思ったことを言えばいいんだって。それで分かるし、伝わる。だって相手はあいつでもこいつでもない。
伊瀬だから。
ガラリ。
堂々と前の扉を勢いよく開ける。
国語の教師と目が合った。情けない顔をして、俺と視線をかち合わせている。
「どうも、こんにちは。遅れてすいませんね」
堂々遅刻者風。なにこのそのまんま感。何も伝わらないね。
クラスを一通り眺めるが、皆時が静止したようにぴくりとも動かない。
そんな中、伊瀬を発見する。伊瀬も驚いている人の一人であった。こういうとこ、常識人なんだから。今から盛大にぶっ壊すつもりだけれども。
「伊瀬!」
びくっと教室の皆が動く。……そんなに俺が大声出すの珍しいですかそうですか。
俺はすたすたと、席の間を縫って伊瀬の元に辿り着く。
「ど、どうしたの、かーなん……?」
困惑しているようだ。
「お、おい、日向井」
今更なんだよ、うるさいぞ国語教師。俺と彼女の心情でも考えてろ。
「伊瀬、ちょっと立ってくれる?」
「な、なんで?」
「なんでも」
「……分かったよ」
もはやクラスの皆がオーディエンスだ。もちろん教師も含まれる。
伊瀬、今日もポニーテールが良く似合っている。大きな目に透き通った瞳、鋭利なまつげは多少の水分を含んでいるようだ。昼寝でもしていたのだろうか。
俺は、彼女の手を握る。
「え、え?」
「伊瀬、好きだよ」
「うへ⁉」
どんな声だよ。彼女は眉をひそめて困惑した表情を浮かべている。
「だから、好きなんだよ。伊瀬」
「な、ななな、なんなの⁉ どうしたの? なんで?」
「いや、うん。なんでって言われても……好きだから好きなわけで」
俺は、握っていた彼女の手を離す。
そして、
腕をかちりこちりとゆっくりと動かし、歪な形で彼女を――
抱き寄せた。
体の細部まで彼女とぴったりとくっつき、体で彼女全体を感じ取ることができる。
それがまるで、お互いの裸の心をぶつけているみたいで、怖い。この目の前の彼女がいなくなってしまうのが、怖い。彼女のことが好きだ。そう、言葉にして言ってしまった。もう逃れることはできない。俺は、彼女のことを大事に思っているんだ。
ずっとそうだった。
彼女のことが好きで、どうやって後から無関心だと取り繕うとしても、彼女が俺を助けた九年前の事実は変えられなくて、一緒に過ごした痛みは忘れられなくて、俺は、彼女を意識してしまって。
壊れてしまった何かを、歪んだ俺が補おう。そしてもっとぐちゃぐちゃになって、丁度ぴったり当てはまる地点を見つけよう。
きっと出来るはずだ。彼女の痛み、それは俺も知っているはずだから。片隅にくちゃくちゃに丸めて追いやってしまったけど、長い時間をかけて探せば見つかるはず。
……いいじゃないか、お互いの傷のえぐさを見せつけて、それを舐めるような、そんな関係。
友達、悪友、知り合い、コイビト、夫婦、兄妹、親子、師弟。
様々な関係を表す言葉があるけれど、そのどこかに当てはまろうなんて考えるのは間違っている。十人十色。それぞれの人の前で、まるで違う人間を演じるように、関係だってその当事者同士でまるで違うものになる。
そのうち、俺たちの関係にも名前が付く。
「ちょっと、ねえ、え、ね、え、かーなん……」
彼女の背中を撫でるように腕を上下させる。その小さくか弱い女の子である背中には、彼女の純粋を汚すようにぼこぼことした火傷痕がしっかりと刻印されていて、俺の掌のそれと合わせて凹凸を丁度良く被せて平らにしようとしているみたいだった。
平らになんか――人並みになんか、今更なるわけないのに。俺はそれを必死に求めて、彼女の背中をどうにかきれいな柔肌に戻そうとする。
「ゴメン」
俺の意思を計測したかのように勝手に発せられる声。
彼女を人並みにしよう。ねじれた全てを引きちぎって再構成しよう。
俺はそのためにこの街に来た。そのためにあの場所に引越しさせられた。そのために西公園に行っている。
君をきっと大事にしたいから。俺はここにいる。
これが愛かはまだ分からないけど、きっと悪いものじゃない。
体の震えが、俺の不安定さを秩序立てて整理するようにぴったりと止まった。俺の覚悟が決まったってことなんだろう。
「かーなん……私も……うっ……かーなんのこと、好き……だよ」
なんで泣くんだよ。君の中に愛なんて存在しないのに。
まぁ、俺だって分からないんだけど、そういうの。分からないはずなのに、心から何かがじんわりと漏れだす。
何故だろうか。思い当たるような感情はいくつか検索に引っかかったけど、それが実感を伴わない。俺は感情と理性、完全分離しちゃってるからね、たぶん。
だから、自分が一番分からないのだ。
ぼくは、またいつ顔を見せるだろうか。ブレンドしちゃってる今はそう長くない。そのうち全部がまた俺になっちゃって何も分からなくなってしまうだろう。
でも、それでもいいのかもしれない。
ぼくのために俺がいるのだし。一番良いのは、俺が徐々に変化してぼくになることだ。
そんな器用なこと、俺に出来るかな。
……まぁ自分のことはいい。
今は、彼女を幸せにすることだけ考えよう。
だから、そのために、連続放火事件を終わらせなければいけない。
***The Next is:『パラドックス=ライフ』




