パラドックス=ライフ
Author:瀬川コウ
黒板の隅にちょこんと書いてある日付を見て思い出した。
そう言えば、今日で俺の母が殺されて九年だ。
とても悲しい、涙が止まらないと、そう言えれば良かったのだが、そんな訳がなかった。俺にとって新しい情報なわけでもないから仕方ない。別に俺の感情が死んでいるわけでも何でもない。俺はいたって普通だから。
そんな思考で先生の話を上書きしていると、放課後を示すチャイムが鳴った。
それを合図に教室の皆が散る。全員が全員、漏れなくそれぞれの部活に馳せ参じる。
この学校は部活動が強制なので皆所属している。多方面に手が広がっていて、楽勝な部活も数多くある。例えばゲーム部とか。
なんだよゲーム部って、だらける気まんまんじゃねえか。どうせ部でやるなら大会ぐらい出ろって。なんて文句を垂れる資格は、とある撫の幽霊部員である俺にはない。
それにしても冷える。十一月といえども、仙台は凍てつく極寒である。雪とか降るし。一か月前まで首都圏にいた俺にとってはこたえる。
「……帰りますか」
ですね、と自ら相槌を打って立ち上がり、直方体の学生鞄に教科書類をごっそごっそとお引越しさせていると、教室前方扉、そこに手をかけながら覗いている一人の中年男性に気付いた。というか目が合った。何故か反射的に逸らしてしまう。別に目が合ってもバトルを申し込まれるようなことはないんだけど。
人と目を合わせることは俺には不可能だったりする。がんばればできるから矛盾してるけど。
よし、気付かなかったという方向性でいこう無理だ。逡巡の隙なく無理だ。
「日向井、今日も演劇部行かないのか?」
担任が話しかけてくる。
「行かないですよ」
俺はぼんやりと先生の顔を見やる。担任であり演劇部の顧問でもある仁人先生はいつものようにふんわりと微笑んでいる。その笑顔の効果によって、『今日も部活行かないのか?』の副音声である『今日は部活行けよ?』の力が弱まり、単なる世間話に聞こえなくもない。
「そうか、用事があるのか?」
帰ってテレビを見るのはおそらく先生の言う用事には入らないだろう。
「………ないですね」
であるからにして正直に告白。ちなみに悪びれてはいない。開き直りが俺の人生のモットーだからだ。今決めた。
「じゃあ行こうよー。それとも何か行きたくない理由でも?」
「ないですよ。心配しないでください」
「そうか。……最近、学校生活の方はどうだ?」
「順風満帆、青春謳歌ですね。毎日が楽しくて仕方ないです」
俺は先生の心配の種を減らすために微笑んで答える。
「その作り笑顔、先生には通用しないぞ?」
その間、なおも先生は笑顔。多少眉を下げるだけである。なにこの人、イケメン。
「今、演劇部で常に笑顔の役が割り当てられてしまいまして。練習中なんです」
先生の笑顔兼困り顔(矛盾している)が崩れないあたり、ただの虚偽だとばれてしまったようだ。まぁ、今の演劇部の人数じゃ実質演劇活動をしていないことくらい一目瞭然なので仕方ない。
「お前は、本当、心配になるなぁ……」
先生が少し真面目な顔つきになる。ふむ、どんな表情でもかっこいいな。
仁人先生。
顔がなかなかに良いため、女子からの人気が高い。そして親身に対応してくれるので男子からの人気も高い。つまるところ、非常に皆に好かれている。俺も先生の苗字以外は特に嫌いではない。
「何がそんなに心配なんですか?」
「……ほら、日向井って転入してきてから一か月くらい経つでしょ? でも、友達関係とかよろしくないんじゃないのかなーって」
「いやぁ、友達ですか」
別にいないわけじゃないけど。俺は、自分で自分は割かし普通の奴だと思っているし。浮いてないよ。……ないと思う。…………ないんじゃないかなぁ。
「確かに何人かと仲良くなったみたいだね。でも……最近は一緒にいるとこ見ないなー。喧嘩でもしたの?」
「あー、してないですよ。全く」
「……そうか、ならいいんだけど。でも日向井があまりクラスに馴染めてないのも事実でしょ? 先生それがちょっと気になって……」
責任感が強い人だ。教師に向いている。それと同時に精神を壊しやすい現代日本人の代表みいだ。と上から目線で評してみた。えっへんであり、様々である。
「でも日向井、伊瀬とは気兼ねなく話せるみたいじゃないか」
「――えっと」
急に伊瀬とか名前出すの止めてください。と、声には出さなかった。
このまま話を進行すると、演劇部に行かなくてはならない未来が見えたので、無理矢理に話題のベクトルを変換してみる。
「ところで先生、最近風邪流行ってますね」
うわあ、自分でも引くレベルで無理矢理だ。
それでも仁を備えた人であるところの仁人先生は、少し驚いたように笑みを浮かべて普通に受け答えしてくれる。
「そうだな。日向井も一週間のうち半分くらい休んでるし、大丈夫か?」
「俺は全然大丈夫です。それに、俺と同じくらい休んでいるやついるじゃないですか」
「伊瀬も、確かにな。心配になる」
「ですよねー、すごく心配です」
「あれ? なんでこんな話になったんだっけ? ……とにかく部――」
「あ、そういえば先生。最近、連続放火事件が話題になってますけど、怖いですね」
「え? あぁ、うん。そうだねぇ、その放火犯のせいで部活動の時間短縮で下校時間早める羽目になったしね。早くなんとかなるといいね」
「ですね」
……えっと、うーんと、
「で、日向井。今は演劇部員が日向井と伊瀬しかいないんだし、気晴らしになるから行った方が良いと思うな」
スピード負けか。今度からは話題を常に十個ストックしておこう、きっと将来の合コンでも役に立つ。唯一の問題は合コンに行くような人生を送ってないことにあって、それが全てである、まる。
「分かりました、行きますよ」
なーんて。
どうせ俺が部活に行ったかどうかなんて先生には分から――「後で伊瀬に確認するからなー、ちゃんと行くように」
「……………………………………………………」
しかたあるまじ。今日のところはおとなしく部活に行くとしよう。
俺が移動を開始すると、仁人先生は再び口を開く。
「あ、そうそう。伊瀬のこと、どう思ってるんだ?」
ぴくりと体全体が反応し、俺に移動を中止させる。どんな質問だよ。
「いや、普通ですけど」
先生はその答えを聞くと、安心したように優しく微笑む。
「そうか。伊瀬のこと、頼んだぞ」
なにそれ、先生今から死ぬんですか。
俺は先生の遺言もどきを適当に流して、部室に向かう。
それにしても、気が進まないけど。
三という数字は、人間の心を動かす数字らしい。三度目の正直とか、二度ある事は三度あるとか、仏の顔も三度までとか。一から二よりも、二から三の変化の方が人々の心を動かす。
昔テレビで見たのだが、三は人々に確信を生ませる数字でもあるらしい。灯油缶を買いにコンビニに行き、たまたま品切れで売っていなかった。こういうことが三回続くと、無意識に「あそこのコンビニには灯油缶は置いていない」と思い込んでしまうとか。ちなみにこれは実体験だ。
そして、今、街で起こっている事もどうやらその例に漏れなく当てはまっちゃったらしい。
昨日、この仙台市で三件目の放火事件が起きた。
途端に、報道は『連続放火事件』と報じるようになった。今までは『放火事件』だったのに。
ちなみに言うと、第一の放火は、父のマンションの一室である。死傷者ゼロ。燃えたのも一室だけだ。問題はない。強いて言えば、問題は、父が行方不明になったことくらいである。
しかし父が母を殺害してから、父は塀の中、僕は祖母の家と、九年間別居中だったために行方不明でも割とどうでもいい、というのが率直な感想だ。釈放されてすぐに部屋が燃やされるなんて運が悪いな、とは思うけど。
教室棟から西棟に移動し、二階の一室、演劇部と札が下がっている教室の前に佇みながらそんな思考をだらだらとだらしなく溢れ出させる。
俺の部活出席回数はとっくに『連続さぼり事件』になっているはずなのだが、彼女、伊瀬はなおも俺が来ることを期待しているようだった。昼休みに毎回釘刺されるし。
「…………」
部室の扉を見つめながら出来事に思いを馳せる。
一度連続になってしまえば、誰かが終わらせないとその一連の行為は終わらない、と思う。連続でするということはそれだけの信念や熱中やらがあるわけで。それを覆し自分で終わらせるというのはなかなかに難しい。
だから、止めてくれる他人が必要だ。
……そんな他人がいなかったらどうしたらいいんだろう。うーん、分からず。
なんて哲学ぶっていつまでも考えているわけにはいかない。ここに突っ立ってても何も解決しないし、誰かに見つかったら変な誤解を招きそうだ。
俺は一息ついてからポケットから手を出し、ノックをしないでそのままドアを開けた。
「ちーっす」
不機嫌ヤンキー風。牽制はうまく伝わっただろうか。
中の教室は、普通の教室よりも長く、一・五倍程の大きさがある。後ろに二十程の椅子と机が集められていて、前には黒板、そして真ん中に机を二つ正面にくっつけてある空間が存在する。腕相撲大会でも開くのかな。
しかし、その一つの椅子に明らかにスポ根と縁がなさそうな、か細い少女がいるので違うのだろう。その少女は開いた本から視線を俺に移して表情を明るくしている。
腕相撲したら骨折しちゃうんじゃないかな、彼女。良くて腱鞘炎。何故腱鞘炎になるかって? ほほう、知りたいか? よし、俺が説明してあげよう。せっかくの機会だしね。まず、腕――
「あ、かーなん!」
彼女の掛け声で現実逃避終了。
「部室で会うのは久しぶりだね、伊瀬」
ポケットに手を突っ込みながら不必要なドヤ顔で彼女を改めて観察してみる。
トリートメントがしっかり施されたであろう漆黒の髪は、自身が有機物であることを主張するようにしなやかに生き生きとしている。ポニーテールのせいもあるのだろうか、彼女が動くたびに毛先の艶が強調され、彼女の黒い瞳に似合っている。
「何かっこつけて言ってるのー! 来なかったのはかーなんでしょ!」
どうやらお怒りのようだ。俺の首が絞められていないので、怒り(小)くらいだと予想する。
「いや、ごめんね。何かと用事があって」
「用事? 何があったの?」
「サーフィン」
「サーフィン……?」
「サーフィンはサーフィンでも家でできるサーフィンだ」
彼女はしばらくあごに手をおいて、首をかくかく動かしていたが、やがてびくん、と首を元に戻した。
「ネットサーフィン! なにそれー! ただのさぼりじゃん! サボタージュ! 怠惰!」
彼女は同じ情報を伝えるのにも三倍喋る。どんだけ効率悪いのだろうか。しかも微妙に仲間はずれが存在するし。ちなみにサボタージュが仲間外れ。
「まぁでも……今日来てくれたから許す!」
なぜ胸を張る。……張る胸もない様子だが。
俺は「はいはい、ありがと」軽くいなしてから彼女の正面の椅子に座り、鞄を机の横にかける。
「かーなん♪」
彼女は本に栞を挟んで閉じて机の上に置き、俺の顔の鑑賞に入った。
「…………………………」
ぴょこんとしたポニーテールにふんわりとした笑顔でじっとり俺を見つめ続ける、伊瀬。
俺はその甘い視線をひしひしと感じながらも知らない振りを決め込んでいると、冷や汗がこめかみを通過した。
「ねえ、かーなん。部屋で二人っきりだね」
「さて、じゃあ部活動でもするか」
エアブレイカーである俺が背景にピンクのお花が咲き始めた空間を粉砕して、背もたれに寄りかかりながら部活動の開始を宣言する。
「え? もうしてるよー。楽しい楽しい部活動中だよ!」
彼女は目を爛々と輝かせて俺を瞳で説得する。
「はて、ここはお喋り部だったかな? 俺は演劇部に用があるんだけど」
交渉決裂。俺は説得に応じず、すくっと立ち上がる。
「ちょっ、待ってよかーなん!」
そして座る。その間約二秒。ちょっとしたエクササイズが大事なんですよ、奥さん。
「演劇部って言ったって二人じゃ何もできないよぉ………」
分かっている。今のはイジワルなんです。えへ。
この演劇部は一か月半前まで十七名の部員がいた。だからこそ、この中教室が部室として与えられているのである。しかし、一か月半程前、俺が転入してくる少し前に、部員は伊瀬を残して全員辞めてしまった。別に『なんか日向井奏汰って転入生が来るらしくて、しかも演劇部に入るらしいよ。うわあ、辞めよう』とかそういうことじゃないと思うし、そうだと信じたい。
原因は大体分かっている。
ある生徒の病気が判明した。そのせいで親の間で演劇そのものへの疑問の声が高まり、子供が次々と辞めて行ったのだ。
普通の状態なら、こうはならなかったと思う。
今。
一か月半前から連続放火事件が起こり、三件中二件がこの高校の生徒関係者の家が放火された今だからこそ、不気味が伝染し、マイナスイメージが付きまとい、連鎖して、演劇部員はいなくなったのだろう。
「かーなん、どうしたの? ぼうっとして。眠りたいの? 寝たいの? 寝転びたいの?」
「別にそういうわけじゃないよ」
「そう、良かった。元気なんだね」
「それより伊瀬は大丈夫なの? 仁人先生も心配してたよ。よく学校休むって」
「へ? 私は皆勤だよ!」
あぁ、そうっすか。…………そうっすか。
「……ねぇ、かーなん」
少し間を開けて俺の名を呼んだ。嫌な予感しかしない。
「今日、お父さんが早く帰ってきて家で晩御飯食べれるらしいから鍋になる予定なんだけど、かーなんも来ない?」
さてさて、やってきましたよ。
だから、俺は演劇部に来たくない。ゴングが鳴る。バトルスタートである。
「あはは。今日はちょっと遠慮しようかな」
「えー、どうしてー?」
小学生のような不機嫌な声を出す伊瀬。困った。
「伊瀬っていつも家族の話してくれるでしょ? 仲良し家族にお邪魔するのは悪いかなって」
「確かに私は家族大好きだよ! だけどそれとこれとは関係ないし。全然平気! 何ら無問題! 余裕綽々!」
むしろそれとこれが関係しまくってると思うんだけど。
「んー、やっぱり悪いよ。そう言えば伊瀬の家族構成ってどんなんだっけ?」
「えっと、父に母に……って話逸らさないの! かーなんの悪い癖だよ!」
「ごめんごめん、でもやっぱりな……」
「来なってー。私しらたき担当ね! かーなんは焼き豆腐担当で! しらたきもしゃもしゃ!」
これはどうやら鍋の食材を持っていく担当ではなく食べる担当の話らしい。
「いやーだって、ね? おかしいでしょ。女子が、家族揃った食卓にクラスの男子を誘うって」
あからさまな問題点を突くことで断る理由の偽装をする。
「おかしくないよ? よくお父さんも言うもん。彼氏が出来たら連れてこいって」
ぴくりと指先が反応してしまう。
「前にも言ったけど、別に俺と伊瀬は付き合ってないよ?」
「えー? そうだっけ?」
伊瀬がにやにやしながらわざとらしく言う。
なんで当人たちが勘違いしているんだ。おかしいだろ。
「しらばっくれないの」
「都合悪いことはすぐに忘れちゃうからよく分からないなー!」
まったく、都合悪い事ばかり忘れようとして。同じこと繰り返して。
でもそれっていいのかも、精神衛生的には。だからこそ、なんだろうけど。
「えーと、じゃあ……」
伊瀬が視線を散らせながら少し俯き、手を太ももの下に収めた。
来る、来るぞぉ。皆撤退じゃー。
「私は日向井奏汰くんのことが好きです。付き合ってください」
鳥肌が立ち、目が潤んでくる。心臓の下あたりの臓器が雑巾のようにしぼられた感覚に陥る。
彼女は恥ずかしそうに、俺に告白した。
「ごめんなさい」
そして俺は即答した。
「なんでー!」
「禁忌だからですー」
告白。これが、俺が演劇部に来たくない最大の理由だった。
俺は人付き合いが苦手だ。距離の取り方に少し不具合がある。
人との関係はプラスマイナスゼロにする、が俺のモットーだ。今決めたわけじゃない。
プラスマイナスは好感度のことだ。人に何か良いことをしたらその分その人に悪いことをして好感度をゼロに戻す。
人に対して無関心であり、人からも無関心に思われたい俺の生き方だ。
告白。それは無関心から程遠いものである。うまくバランスが取れずに傾いてしまう。
「そもそも俺のこと好きじゃないでしょ?」
彼女はきょとんとした後、右上に視線を動かしながら考える。
「そんなことない……と思うけどなー」
告白しといて好きかどうか今いち分からない伊瀬。なんじゃそりゃ。
「何を持って俺のこと好きだと思ったの?」
「えーっと、お喋りすると楽しいし、部活に来てくれると楽しいし、学校でよく一緒にいるし……」
「伊瀬、それは友達だよ」
「うぬぬ……そうかも……」
そうかも、じゃなくてそうなんでしょ。そうだと信じたい。俺は伊瀬と当たり障りのない友達関係を築きたいんだから。
「でも、なんか違うような気がするよぉ……」
彼女は難しい顔をして、天井を仰いだ。
そして、再び俺に向き直って、
「ねー、付き合ってよー」
どうしてそうなる。好きかどうか分からないのに付き合うっておかしい。少なくともそう俺は学んだ。
「付き合うって一人としか出来ないんだよ? 他の友達はいいの?」
と言っても、今の彼女にそんなに友達なんていないだろうが。
「一人かぁ……確かに悩むね……。二人と同時に付き合っちゃだめなの?」
「ダメだよ」
「なんでー! 好きな人が一人に絞れるわけないじゃん!」
「そういう決まりなんだよ」
誰かと付き合うということは、他の人を多少ないがしろにするという宣言なのだから。
「んー……それじゃ、付き合うのはもう少し考えなくちゃ」
適当に告白しないで欲しい。俺も大変だ。俺は俺に同情する。同情は他人の心になることで俺は俺で自分なので、この言は矛盾している。
「えーと、じゃあじゃあ、かーなんは私の事、嫌い?」
質問を変える戦法か。
不安げな表情を浮かべている彼女を俺は一瞥し、答える。
「普通」
普通。真ん中。どっちでもいい。どうなろうと知らない。無関心。仲間外れはない。
告白は断ると好感度が下がるし受け入れると上がる。真ん中を維持するのは結構難しい。
「なんでそうやって意地悪するのー? そういうとこ嫌い。好きだけど」
どっちなんだよ。
「俺は、伊瀬のこと嫌いでも好きでもないんだよ。だったら、普通って答えるのが適切でしょ?」
俺がそう言うと、彼女は少し眉をつり上げて食い下がる。
「だってだって、かーなんって結局なんだかんだ演劇部に来てくれるしさ、なんだかんだ私と一緒にお昼ご飯食べてくれるし。だから、なんだかんだ私のこと好きなんじゃないの?」
「普通だよ普通」
即答。もう即答・オブ・ザ・イヤー受賞するくらいの即答。
胸が喜ぶ、心臓が緊張する、呼吸が焦る、指先が怒る、口の中が悲しむ。
「普通だよ」
「恥ずかしがり屋さんなんだなー!」
彼女はにやにやと笑い、椅子からおもむろに立ち上がったと思ったら、両手を広げる。何かを待つように。
「……何?」
「んっ」
さて、これは何の合図であろうか。
俺はそれを数秒眺めて、彼女が何を待っているかに気が付いた。なんだなんだ、簡単じゃないか。
俺は思い立って立ち上がる。
一歩、また一歩と彼女に近づき、
ぱん。
少し腕の間隔が広いハイタッチ。小気味良い音が鳴る。いとをかし。
全く一体全体どうして何故急にハイタッチなど要求してきたのだろうか、理解に苦しむ。
「だー! 違うっう、げほっ」
興奮したかと思えば急にむせ始めた。落ち着け落ち着け。ほら俺みたいに。すごく冷静ですよ俺、ええ本当に。めちゃくちゃとってもマジでほんまもん冷静。うわ、なんか内臓が気持ち悪い。
俺はとりあえず咳き込む彼女の背中をさすることにした。
何か少しいびつな手触り。ブラの紐が引っかかるのはまぁえろいんだけど、それ以外にぼこぼこする。
どういう意図を持ってハグを期待したのだろう。
ハグ。おそらく、彼女の中での認識では『カップルがする愛情表現の一つ』、それだけの存在なんだろう。気持ちがからっぽな、単なる擬似的な行為。彼女にとって、ハグはただの皮膚と皮膚の接触に過ぎないのだ。
はぁ。気が滅入る。人の正直な気持ちに晒されるというのは緊張感が伴うから。
……あ、そういえば。結局、彼女の家族構成を聞くことは出来なかった。知りたかったんだけど。
俺は、一か月前この土地に戻ってきた。放火事件が起きたことを知って。
父が失踪していることを知って。
不幸な街仙台があり、不運な人間がいて、無の人が住んでいて、普通の俺が戻ってきた。
お世話になっていた祖母からの反対を押し切って、どうして俺は引越して来たのだろうか。
自分というのは自分が一番分からなかったりする。
俺の中に心があるから俺は俺を知ろうと思えばいつだって知れる。だけど俺はどんなにがんばっても自分の心は覗けない。矛盾している。
連続放火事件。それに伴う容疑者の失踪。
実は、もう犯人は分かっているんだ。
異常な程、学校を休んでいるのに決してそれを認めようとしない彼女。
三件の放火箇所に少なからず関係している彼女。
やったのは、伊瀬だ。
まぁ、そんなことどっちでもいい。俺は無関心だ。
伊瀬が俺を好きと言おうと人を殺そうと、そんなことはそいつの勝手だ。
この事件に了の字を飾ろうなんて思っていない。
……じゃあ、そもそも俺はなんで仙台に戻ってきたのだろう。知るかそんなこと。人間は感情生物なんだから理屈だけじゃ生きられないんだよ。
そんな、どこかがぐるりと矛盾した思考を潜ませながら、俺は彼女の背中をさすり続けた。
その後、そう言えば今日は本当に予定があったことを思い出しながら西公園に寄り道。乙黒さんに放課後保健室に来るように言われていた。すっぽかしちゃったけど、まぁいいか、明日行けば。本当は今日行って明日すっぽかすつもりだったんだけど。前後逆でもバランスは取れる。
一緒に帰ろうという伊瀬から逃げる様に学校を後にし、西公園でいつもの儀式を行っていたら、急に雨が降ってきた。天気予報を見ない俺にはそれは突然のことだった。
「さみぃ……」
そして俺は自宅マンションに帰ってきた。エレベーターが唸りながら俺を上へ運ぶ。このマンションの六〇七が俺の部屋である。
髪の毛からしたたる水滴に邪魔されながらも携帯で時間を確認すると、七時半であった。いつもならもっと西公園でぶらぶらしてから帰るんだけど、今日は雨だから仕方なく帰宅。
エレベーターが目的の階に着いたことを知らせたので降りる。ただいまの季節は冬。風も雨も異常に冷たい。雨が体の芯を冷やし、張り付いたシャツが外面の体温を奪っていく。外からと中からのダブルパンチ。体の震えは止まることを知らなかった。
早いとこ風呂に入ろう。そして今度折り畳み傘を買い行こう。そう思いながら小刻みに振動する指先でズボンのポケットから家の鍵を取り出して、ドアノブに突き立てる。
二、三回穴をはずし、ようやく挿入して回した時だった。
ガチャリ、という音が重なった。
ひとつは俺が自室を解錠する音。そしてもう一つは、六〇六、俺の隣の部屋のドアが開く音であった。
視線をとっさに隣に移す。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あぁ」
三十秒ほど考えてようやく事情を理解。
彼女の容姿を髪から形容してみようかと思ったけど、止めた。伊瀬のやつとかぶりそうだし。黒髪長髪が全部同じに見える俺にそんな何通りも形容できるはずがなかった。俺のボキャブラリーの乏しさったら本当、あれだよね。超やばいっていうか、もうやばすぎて逆にやばい。
ともかく、長い黒髪を下ろしている彼女はドアの隙間から顔だけ出して俺を凝視していた。
「……」
その瞳を見て、俺はようやく実感として腑に落ちた。なるほどなるほど。……さて、なんとなく今夜は寝られそうにない。きっと考えが頭を支配するから。俺に、眠ることを脳みそが許してくれないから。
とりあえず、あいさつでもしておこうか。
「おはようございます」
そんじょそこらの業界マン風。清爽さは伝わっただろうか。
「……んー、と?」
何か用だろうか。まさか、俺が引越して来た時、六〇八の人には信玄餅(山梨で有名な土産和菓子だよ!)をプレゼントしたのにあなたのところにあげる分は俺が食べちゃったことを今更になって蒸し返すのかな。違うか。違うね。
大体あれは、彼女が留守だったのだから仕方ない。信玄餅、早くしないと腐っちゃうし。……それに、俺も食べたかったし。これは秘密だ。
「ちょっと」
一人ツッコミで楽しい気分になっていると、彼女が睨んできた。
「あ、はい。なんでしょうか」
おどおどして答えると、彼女はドアを開けて外に出てきた。着る毛布を着用している。いいなあったかそう、それ下さい。新しいやつ自分で買え? いやいや、いつもあなたが身に着けているであろうその着る毛布が欲しいんですよ。変態か俺は。……まぁ男子なんてそんなもんだ。
「あの、六〇七の人よね?」
彼女は途端に柔らかい表情になる。この短い時間でツンデレを実践してみたのだろうか。しかし、ツンもデレも弱いな。
「はい、いかにも」
「そんなにびっしょり濡れて……風邪引いたら大変ね。ちょっと来て」
そう言うと彼女は俺の手首を掴んで百八十度回転。前進開始。
「ちょ、待って、え、え?」
意図が汲み取れず困惑する俺。
そして俺は吸い込まれるように彼女宅へと誘拐された。
うはー、超あったけー。
いやはや、暖房器具はこたつ、石油ストーブが最強だと思っていたけど、ヒーターもありだな。温風が出てくるから濡れた服を着用してても乾くし。まだ全然乾いてないけど、このヒーターの前に居れば全然寒くない。
「いや、うん。でも………」
普通に自宅でシャワーして着替えた方が手っ取り早い。もちろん彼女もそう思っているだろう。それなのに何故俺をこの部屋へ招き入れたんだ?
渡されたタオルにくるまりながら、周囲を観察する。部屋の構造は俺のそれと全く同じで、ワンルームの八畳。しかし家具が明るい系統で揃えられているのと配置がことなっているのとでまるで全てが違うように錯覚してしまう。
俺の部屋と徹底的に異なる点は、俺の通う高校の女子制服が掛かっていることと、ソファーがあること。欲しいなぁ……、もちろん後者のことである。
一緒に掛かっているリボンの色が赤であることから俺と同じ二学年であることが分かる。
うん、特に不自然な点は見当たらない。
俺を招いた理由は晩御飯の時に明かされるだろう。
丁度彼女は調理中だったらしく、「今、晩御飯作ってるの。良かったら一緒に食べましょう」と誘われたので、お言葉に甘えることにした。今も、包丁がまな板に叩きつけられる音が聞こえている。
俺の冷蔵庫は常に食糧危機だから助かる。一人暮らし、食事のことが一番大変だ。いつも晩飯を作ってくれていた祖母に感謝。
そんなことを頭に巡らせながらヒーターに向かって体育座りをしていると、後ろの戸が開く音がした。俺は首だけで振り向く。
「寒くない?」
「おかげ様で」
俺はレモン色のエプロン姿の彼女を一瞥し、首を元に戻す。手に持っているサラダが入った透明なボウルから予想するに、配膳にやってきたのだろう。何か手伝おうかとも思ったけど、寒いので止めた。
俺の後ろで皿が触れ合う音が響く。
なんだかこうしていると同棲しているみたいだな。なんて。そんな間柄になることは絶対にないのだろうけど。お互いがお互いに表面しか見せていないのだから。……しかし、そんな同棲生活も良さそうだ。さっぱりしていて好感が持てる。そう思ってすぐに、うざったいだけなのかも、と思った。
人間は他人が近くにいるだけでストレスを感じる。そこに愛が生じると違うらしいのだけど。
愛、それはつまり一緒にいて身の危険を感じず、相手に愛着があるということなのだろう、と十七年間の人生で暫定結論付けてみた。多分、相手を傷つけることではない。それを学ぶのに俺は時間がかかりすぎた。
「もう、すぐに晩御飯だからね」
俺の後ろで彼女が言う。
おや?
声が思ったより近かったので少し驚いて反射的に振り返ろうと――
「ぐっ」
瞬間、首が苦しくなって後ろに引っ張られた。その二つの事象を結びつけ、ようやく彼女が俺の首を後ろから絞めたのだと理解する。
そして目の前には包丁。それに続く彼女の右手。一通り俺にそれを確認させると、包丁は首の右側方に突き立てられた。
事象が気持ちに先行している。ちょっと待ってください。
「な、なっ……」
なんのつもりだよ、と言おうとしても声が出ない。喉仏に予想以上に圧迫が加わっているからだ。知ってるのかな、喉仏って押すと引っ込んで窒息死しちゃうってこと。
俺は反射で首を絞めている左腕を引きはがそうと躍起になる。
「抵抗しないで! 暴れると包丁が刺さるわよ!」
その言葉を聞き、俺は抵抗を止める。別に絶望したわけじゃない。「暴れると包丁が刺さる」という忠告は、つまるところ、今俺を殺す気はないと理解したからだ。
俺が両腕をだらりと垂らしたことで緊張が少し弱まったのか、首を絞める力は弱まった。
どうやら、話せそうだ。
「そ、それで……これは一体どういうことかな?」
息を荒げている彼女は、数秒息を整える。息が丁度耳にあたってこそばゆいとかそんなこと思っている場合じゃないねえよ、まったく。
そして彼女は時を熟させ、ようやく発言する。
「あなた、犯人でしょ」
………。一瞬にして様々な思考が俺の頭を忙しく駆け巡る。
彼女の声は凛としていた。別段緊張しているわけでもなさそうだ。気持ちの高揚による興奮。それが一番正しいだろう。
「それでも俺はやってない」なんてふざけた発言をすると、犯人だと断定されて殺されてしまうかもしれないので気を付けなくては。
「犯人って何の?」
とりあえず正確な情報の入手。
「連続放火事件の」
当たり前の返事が返ってきた。ひょっとすると、「昨日私の家の冷蔵庫からプリンを取った犯人よ」とかなにがしかが、あるわけがなかった。
「犯人じゃないよ。どうしてそう思うの?」
「……隣の部屋の玄関が開くと聞こえるのよ」
確かにそうだね。重い扉だし、壁伝いに直接響くし、実際俺も隣人が出掛けたり帰ってきたりするのは分かる。それで、どうして俺が犯人になるんだろう。
「あなた、平日の真昼間に帰ってくることあるし、帰りも普通の学校帰りにしては遅いわよね」
……いや、うん。正直その通りなんだけど。
「三件の放火事件のあった時刻と、あなたが出かけた時刻、距離から出した到着時間、火を放って、そして――帰宅する時間。それがぴったりだからよ」
「それはいくら何でも……そもそも俺、一件目の放火事件の時、ここに住んでないし」
前の住人はとっくに出て行っているはずであるから、一件目の放火事件の時、この部屋から誰かが出て来るなんてことは業者以外ありえない。というか、恐らく業者だろう。
そう説明すると、彼女はしばらく無言だった。
「他の二件は、どうなのよ」
「そんなのたまたまだろ? 証拠が弱すぎるにもほどがあるだろ……」
呆れるようにそう言うと、彼女はむすっとして言い返してくる。
「……そもそも高校生のあなたがどうして昼間に帰ってきたりするのかしら」
逆に高校生のあなたがどうして昼間に俺が帰ってきたことを察知できるんですか。
まぁいい。彼女の質問に答えよう。
うーむ……。適当に「部活」と言いたかったが、バレたらどうしよう、とか実際どの辺まで理解しているのだろう、とかいろんな思考が巡って止めた。
俺の必殺、適当会話術が使用できない状況。おそろしや。
真実を言う義理もないので、とりあえずは彼女の味方だということを告げようと思った。
「実はね、人に会うために出かけているんだ。なかなか会えないんだけどね。絶賛片思い中なんだぜ。健気だろ。だから学校を早退することがある」
「……証拠は?」
「学校に行けば、俺が早退したことくらい分かるはずだけど」
「今よ。今すぐ示して」
そんなのは無理だと、彼女も分かっているのだろう。しかし、納得しないと思った俺は軽口をたたいてみることにした。
「証拠はね、君の腕の力がすっかり弱まっているから、この状況から一転して君を殺そうと思えばできるのに、そうしないことだよ」
うぐぅ、急に彼女の腕の力が強まった。
殺す、という言葉を出して逆に雰囲気が悪くなっちゃったかも。
「とにかく、俺は犯人じゃない。毎晩帰りが遅いのは人に会うためだって」
彼女は、どうやらこれ以上続けても無駄だと悟ったのか、俺の拘束を解いた。俺は体に力を入れたくない気分だったので、なすがままにそのまま寝転ぶ。目玉を上に上げると、その場でぺしゃりと座った彼女が上下さかさまに映る。相変わらず冷たい表情をしている。
どうやらさっきまで見せていた柔らかい表情は演技だったらしい。デレツンですか。何それ、ツンデレよりもあくどい。
「あ、パンツ見えてる」
純白を垣間見た大罪の償いとして、顔面を踏まれる刑に処された。普通に痛い。鼻血出たし。一部の人には両方ご褒美なのだろうけど。
「いただきます」
俺はどうやら推定無罪らしく、ティッシュを鼻に詰めながら彼女の作ったカレーにありつく許可を頂いた。なんだそれ、俺は犬かよ。っていうかカレーなのかよ。
「確かに冬の雨でずぶ濡れになるなんて自殺行為を犯人がするわけないものね」
あなたの中では一体どういう犯人像なんですか。勝手にそれと比べないで欲しいね。
「あなた、名前なんて言うの?」
俺は取り敢えずスプーンを置き、咀嚼して飲み込んでから答える。
なんて名乗ろうか、少し迷ったけど、変に細工して後でばれるとちょっとややこしいことになりそうだったので正直に答える。
「日向井奏汰だよ」
「日向井くん、ね」
ほう、姓にくん付けですか。いいね、この距離感。
「そちらのお名前は?」
「私は八七橋よ」
「…………そうかい」
「ん? どうかしたかしら?」
「いいや、ちょっと眠くてぼーっとしてただけ」
俺はそう言って食事を再開する。久しぶりにまともな栄養をとった気がする。
「日向井くん、私は別にあなたのことを信用したわけじゃないのよ?」
そうっすか。むしろ、俺を犯人だと疑うっていうことがすごい。この街のほぼ全ての人が、既に犯人を、俺の父と確定させているのだから。
皆の思うシナリオはこだ。
俺の父が釈放され、マンションに住み始めた。また犯罪がしたくなり、衝動にまかせ自室を放火。それから警察から逃げつつ放火を続行。
「だから、私を信じさせるために毎日報告に来て」
報告? 一体何のだろう。
「私は犯人を捕まえるためにたまに夜、外に出ることがあるのよ。だけどあなたみたいに毎日はしてないの。だから、私の代わりにきちんと犯人を捜すのよ。そして毎日どの辺を捜したのか報告して」
「え? でも俺、西公園周りにしかいないけど」
「探して、お願い」
………。それって、割と俺のこと信用してるんじゃないのか? 俺がきちんと捜すことを前提としている。事件なんてどうでもいい俺がそんなことするわけないのに。
まぁ俺のお散歩によって一人の女性が夜歩き回るなんて危険な行為を阻止できるなら、いいだろう。社会倫理的に。そう、あくまでも社会倫理的に、ですよ。
「……それで、どう?」
俺はようやくカレーを平らげ、口が喋るために使用できるようになる。
「あぁ、ごめんね。いいよ、報告ね」
「そう、報告よ」
さて、じゃあ、いろいろさまざまもろもろの事実確認のための質問タイムにしようか。
「いいんだけど、少し気になることが」
彼女は一口カレーを口に運びながら「何?」と答える。
「どうしてそんなに犯人を自分で追ってるの? そのうち警察に捕まると思うよ」
最初に思った疑問。彼女がどういう性格で、どういう認識を持っているか確認したい。
「……それは、あなたとは関係ないじゃない」
「確かに、関係ないね」
関係ない。その通りだ。残念になるくらいに反論の余地がない。
人に深入りする必要なんてないじゃないか。俺は何を気にしているのだろう。人に対して無関心、相手からも無関心、それが、俺が理想とする人間関係。どうしてもコミュニケーションを取らなければいけないときは当たり障りのない話をして、自分を印象付けない。できるだけ自分を見せない。相手に普通と思われる。それが、俺のやり方だ。
それなのに、気付くと矛盾した行動をとっている。
……本当のところは自分で分かっているのだろう。しかし、言葉にしてしまった瞬間、それは認めたことになってしまう。だから俺は――言えない。言葉の力は侮れない。
あー、なんて面倒くさいんだよ俺。とにかく、知的好奇心、という代替の理由を使って核の質問だけしよう。「学校で俺と会ったことある?」という質問は省く。
「あー、じゃあさ、犯人はどんな人だと予想してる? これは犯人捜しをする俺に関係ある話でしょ」
八七橋はサラダにドレッシングを掛けながら答える。
「まず、放火された家が全員生徒関係者の家だったことから、学校関係者だと思うの」
「………………………………………………………………」
へぇ。全部の家が生徒関係者の家、ね。
「そうだね、俺もそう思う」
同意しておこう。
「そして、油類を撒いて放火するという手口が一緒のことから、同一犯」
模倣犯の可能性だって十分にあるじゃん。まぁ、そんな周りとはちょっとズレた人間が何人もこの街にいるとは信じがたいし、思いたくもないもんね。それが、普通の思考回路。 俺も実際単独犯だと思っている。今のは何となく論理の穴を指摘したかっただけに過ぎない。
「で、犯人は、男性」
「……根拠は?」
「単なる統計データよ。放火犯は圧倒的に男性の方が多い」
そんなこと言ったらほとんどの犯罪、男性の方が圧倒的に多いよ。とか言うとややこしくなりそうだったので黙っておいた。
今の話を聞く限り、ほとんど犯人像は掴めていないようだ。統計データは確かに強いが、例外がいついかなる時もあることを考えれば、そのような絞り方は目安程度にしかならない。
八七橋の食事も終わり、俺の体もすっかり温まったので片付けくらい手伝おうと食器を持つと、
「いいわよ。私がやるから」
と食器を奪われてしまった。
「分かった。ごめんね。おいしかったよ、ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
あら、礼儀正しい子。
彼女がお辞儀をすると、着る毛布がマントのように揺れた。ずっとこれ着てるなんて寒がりなんだな。
「それじゃ、俺は帰るね」
肩に掛けたタオルを手に持ち替え、鞄を抱えて部屋を後にしようとすると、またしても、
「タオル置いて行っていいわよ。私が洗うから」
「………あ、うん。ありがと」
俺の首に包丁を突き立てた割には普通に優しいんだな。何を考えているのかいまいち掴めないけど。放火犯のことになると、少し自分が見えなくなるのだろうか。
そもそも、世間一般で思われている失踪中の容疑者――俺の父の話がどうして話題に上がってこなかったのだろうか。……そうじゃないと信じたいから、とかかな。俺が犯人の方がましってか。
俺は微妙な面持ちで八七橋の部屋を後にして、隣の自室に帰ってきた。
うーん、彼女との関係は、見事にプラスマイナスゼロになったかな。どうだろう。俺的にはお互いがお互い、「良い奴か悪い奴か分からない」みたいな曖昧な感じで終わったと思うのだけど。
これからも彼女の関係のバランスを考えながらコミュニケーションを取ることを考えるとさぼりたくなる。
多分、さぼるも何もないんだけど。
さぼろうと思ってもさぼれないのだろう。これは、もっと俺の根底の、無意識の部分にある事柄だから。
人間としての無意識と、捻り込まれた無意識。その二つが水と油のように分離している。上にある油は、後者の無意識だろうか。
水と油は混ざらない。本来一つである部分が分かれている。
だから、矛盾が生じる。俺の本心が見えにくくなる。自分にすら分からなくなる。
たとえば、
八七橋に「俺の友達の伊瀬がやったんだよ」と暴露したらどうなるか。
何が起こり、何が変わるのだろうか。
それに少し興味はあるが、する気はまるで起きない。
こんなに歪で間違っているのに、それがあるべき姿だとも思ってしまう。
何故だろうか。
……知らんわ。気持ちにいちいち理由を求めるなよ、めんどくせーな、俺。
***
お父さんとお母さんはとっても仲良し。
お家で、お母さんはいつもお父さんの話をする。
お父さんはお母さんに「どうしても結婚してくれ」ってしつこくせまったんだって。困ったのよ、ってお母さんは言ってたけど、ぜんぜん困った顔なんかしてなくて、にこにこ幸せそう。そんなお母さんを見ると幸せでにこにこになる。
お父さんに聞いてみると、「お母さんがどうしても結婚してくれって言ってきたんだよ」って言ってにっこり笑った。どっちが本当なのか分からないけど、きっとそんなことは大事じゃないんだと思う。だって、にこにこしてたらそれでいいから。
前のお父さんと一緒に暮らしてたときは、こんな話一回もしたことなかったの。
だからお母さんはにこにこしなかった。結婚って好きで好きで愛してる人とするものだって聞いたけど、本当にそうだったのかなあ。でも、大人は間違わないからきっとそうだったんだと思う。
うーん、むずかしい。
前のお父さんと最後に会ったとき、たくさん涙を流して愛してるって言ってくれた。だから、前のお父さんも絶対に悪い人じゃあない。
でもでもきっと、愛してるにも種類があるんだと思う。前のお父さんも今のお父さんも、お母さんは愛してる。
だけど、今の愛してるの方が多分良い方。
お父さんも前より良い人だし。前のお父さんよりお仕事あんまり遅くまでかからないし。
今度、動物園につれてってくれるって。嬉しいなあ。前のお父さんと違って今のお父さんは約束破らない。時間もぴったり守るし、帰ってくる時間もいつも一緒だし、机の端もぴったりするまで調節するし、腕時計は一秒まできっちり合わせてる。こだわるのは良いことなんだって。
お父さんが大好き。お仕事行って欲しくないなあ、そしたらずっと一緒にいれるのになあ。
でも、その分日曜日がもっともっと楽しみになるからそれでもいいのかも。
楽しみだなあ。早く動物園行きたいなあ。
そしたら次は水族館に連れれてってもらうんだ。おねがいしとこ。
***
次の日の放課後、俺は部活をさぼり保健室に向かった。バランス、昨日すっぽかしちゃった約束が今日もあるのだ。
約束は乙黒さんとお話しすること。意味が分からない。どうして俺が嫌がることをするのだろう。まぁあの人はそういう人か。
教室棟の一階にある保健室の戸を叩く。「ひゃい、どーじょ」という音でしか表記できないような声が返ってきた。解読できなかったが、とりあえず戸を開ける。
入口から向かって左側にはベッドが三つ並んでいる。真ん中には大きなデスクがあり、それがほとんどの面積を占めている。壁に沿うように並んでいる薬の類が入った棚が狭そうだ。
そして中央のデスク、パソコンのモニタに向かいながらイカ墨スパゲティを食べている上下ジャージの女性、彼女が乙黒叶さんである。
「保健室でイカ墨スパゲティ食べないでくださいよ……」
彼女は咀嚼しながら口を手で押さえて喋る。
「あらあら、そんなことどこにも書いてありませんよ? 保健室でイカ墨スパゲティ食べちゃだめだなんて」
「いや、まぁ書いてないでしょうね」
「飲み物ならいいんですか?」
「……いいんじゃないですかね」
「その基準が分かりませんね。しっかりライン決めてくださいよ~」
自称十九歳、実年齢はたぶん二十代後半の女性に常識を教えるのは無駄だと悟り会話を中断した。
「ほら、あーん」
乙黒さんが、真っ黒な物体をフォークに絡めて俺の口元へ寄せてくる。一瞬餌付けされようかとも思ったが、既に人に使われているフォークだったので拒絶反応が突出した。
黒い液体が垂れそうになるのを見て、結局彼女は手を動かさずに自分が動き、俺の口元までスパゲティを食べに出張してきた。大袈裟に避けてしまう俺。仕方ないんスよ、なんて言い訳をするまでもなく、彼女はそれに対して反応を示さずにそのまま立ちあがった。
「ちょっも飲みもにょ買っれきますねー。何が良いでふか?」
その間も乙黒さんは咀嚼を続ける。……あ、飲み込んだ。
「ミルクティーでお願いします」
「分かりました。おでん缶ですね」
ぐっ。
「あれ? 乙黒さんもしかしてもう歳ですか? 耳が遠くなるなんて」
「あらあら~、奏汰さんこそお歳なんじゃないですか? 冗談が通じないなんて」
「冗談だったんですか」
乙黒さんの言葉は本気が冗談か区別がつきにくい。
「冗談に決まってますよ~。分かってます、おでん缶ですよね?」
「ミルクティーです」
「はい、分かりました。じゃあ行ってきますね~」
彼女はそう言って、俺の横を通り過ぎて保健室の外へ出る。何が分かったのだろうか。
彼女を目で追い、出て行くのを確認した後、視線を、埋まっているベッドに移した。
一体誰だろうか。話す場所を保健室に設置した乙黒さんがどう考えても悪いのだが、誰かがいると安心して話が出来ない。
そっとカーテンに近づいて、ばれないように中少し開けて中を覗く。
と。
中にいる女子と目が合った。セミショートの茶髪に寝癖が付いている。パーマのように毛先は乱れ、それでも前髪を少しは秩序立てようとしたのだろうか、ピンクのヘアピンが装着されている。
「ど、どうも」
新卒商社マン風。申し訳なさは伝わっただろうか。
どうやら彼女は起きていたようだ。
「どもっす」
軽く会釈する少女。
「失礼します」
俺は開けた隙間から入り、ぴっちりとカーテンを閉める。
「え、ちょっと」
訝しむ視線をぶつけてくる。何故女性ってこんなに視線に気持ちが出る人が多いんだろうね。分かりやすすぎて逆に困るよ。もっと隠しなって、八七橋みたいに。裸の感情は痛いから。ぶつける方も、ぶつけられる方も。
「どこかで見たことあるね」
俺はベッドに座って率直な感想をぶつける。失礼なんて百も承知。
「……そりゃあ、一緒のクラスだから」
なおも訝しむ視線を崩さない彼女。出だし好調のマイナスですね。
「あー、ごめんね。まだ転校してきたばかりで皆の名前が覚えられなくて……」
ここで、演劇部で培った演技力を発揮。一度も演劇部の活動したことないけど。
すると彼女は少し申し訳なさそうに視線を落とした。素直だな。
「あ、ごめんよ。そういうつもりじゃなくて……。ウチは成宮茜子って言うんよ」
苗字も名前も聞き慣れなくてすぐに忘れそう。多分十分後には忘れてる。百円かけてもいい。
「そう。俺は日向井奏汰」
「知ってんよ。転校生は有名になるから。それに……土佐藤ちゃんと形中ちゃんのこともあるからねー」
「あぁ、それね……」
一般的苗字の上に余計な一字が付いていると勘違いしてしまいそうな苗字のお二人は、一応元彼女である。俺が言うのもなんだけど、二人ともすごくチャラい。いじめとか筆頭してやっているし、イメージとしては一昔前のやんきーですね、ええ。そしてなんかお互いチャラさで勝負している節がある。
俺が転校してきて、二人の中で勝負が始まったらしい。「どちらが先に転校生を落とすか」みたいな、ね。
二人から告白されて、そして俺は二人共オッケーした。その後は放置。
そのおかげで俺は浮気野郎の称号と女性の扱いがひどいで賞を頂いた。全然光栄じゃない。
女子の中での評判は、普通に落ちた。自分でもこれが最善の手だったかは分からない。なんせ転校してすぐだったし、人間関係が分からなかったからうまい対応ができなかったのだ。
その好感度を取り戻すために、今からでも彼女たち二人に謝ってへこへこしてれば女子の中で良い評判が出回るかもしれない。そんなことしないし、出来ないけどね。なんせ、彼女たちは学校来てないから。二人とも家が燃えちゃったんで、学校なんて来てる場合じゃない。第二、第三の放火被害者である。一瞬、心臓がきつく締め上げられる。……まぁ、んなことどっちだっていい。俺の好感度の話だ。
そうそう。下がる一方、俺の対応があっさりしすぎていたおかげで、二人の真意を最初から知って、冷たく対応したんじゃないか、やるねぇ、なんて噂もある。こういうの助かるね、ほんと。
好感度を下げるのは容易だけど、上げるのって難しいから。
あ、ちなみに噂の類は全部昼休みに飯食ってると聞こえてくる。案外人の声って遠くまで聞こえるものだよ、皆さん気を付けて。
そんなこんなで俺はさっそくこの学校ではマイナスポイントが加算されまくっているわけであった。特に女子相手には。
しかし、彼女は最初から俺を拒絶したりはしない。普通に話ができるから。意外にこれって大事な要素だよ。
「最近では、伊瀬さんとのことでも噂になってんねー」
「………あぁ、そう」
こっちの噂は知らなかったけど、まぁ内容は聞かないでおこう。
「噂好きだね、成宮」
「噂好きっているか、知的好奇心が生きる意味のほとんどを占めてるってだけ」
それってどうなんだ。すごく頭良くなりそうだけどさ。
「あぁ、違う。こんな話じゃないよ。閑話休題といこうか」
「そうね、どうして日向井くんがベッドに侵入してきたかって話だよね」
なんだそのいやらしい笑みは。
とりあえずあれだ。彼女は噂好きな女子であるようだ。噂好き女子は少々倫理観が欠如している節があるので、期待してあの日のことを聞いてみようかな。なんて考えていると、
「おっとっと……?」
自身にかかっていた布団をふぁさ、と払いのける。
せくすぃーなポーズが俺を悩殺しようとしてきた。ワイシャツのボタンは三つ開けたら用をなさないと思いました、まる。
「ベッドに入ってきたってことはウチにえっちなことでもする気なのかな?」
「もちろん」
元気よく返事をしてみた。彼女はくすくすと笑う。
「ごめんね。ウチは風邪引いちゃって体が本調子じゃないんだ。代わりにこれ使って」
そう言い、ベッドの下の段ボールから取り出した書物を俺に献上してくる。取り敢えず受け取って眺めてみることにした。
「……………」
そこには肌色が惜しむことなくふんだんに使用された写真が掲載されていた。たゆんたゆんである。ちなみに彼女も結構たゆんたゆん。アルファベット六つ目くらいあるかも、ぱっと見だからよく分からないけど。
「どうしてこんなものが保健室にあるんだよ」
「お盛んな高校生が自宅だけではなく、保健室のベッドの下にまでえっちな本を溜めこんでいるというわけなんよ」
なるほど。しかし、「お盛んな高校生」と言うところで何故俺を凝視してきたのだろう。聖人君主のような高校生(俺だよ!)は美人が着ている毛布にくるまって寝たら幸せなんだろうな、とか全く思ったことないんだけどなぁ、おっかしいなぁ。
「だから、お盛んな高校生の一人である奏汰にこれをプレゼントするんよ。巨乳大好きだろーう?」
とんだ勘違いである。
男子が見た目で女子を選んでいるとでも言いたいのだろうか。大体、女性の体躯についてどうこう言ったりする男子は総じてクズだ。胸の大きさじゃなくて、性格を見て人を判断するべきだろう。
「ごめんね。俺は貧乳派なんだ」
ちなみに俺はクズである。
「ぶっふぇけほけほ」
彼女が笑いと同時に咳をした。そんな器用なことできる人はいないのでこの表記は矛盾している。どちらかが先でどちらかが後だ。
「風邪、大丈夫?」
取り敢えず形式的に心配してみる。円滑なコミュニケーションのための油ですよ。
「あー、大丈夫大丈夫。最近めっきり寒くなってきたからねー」
「昨日の雨とかすごかったもんね」
「そうそう、あの時外出しててさー、すんごい寒かったんよ」
「傘さしてなかったの?」
俺の仲間がこんなところにいるとは。
「あ、いや。傘はさしてたんだけど、全裸だったんよ」
「……………………ごめんね。ちょっと今から電話するから」
「待って奏汰。警察に電話しないで、冗談だから」
俺はエア携帯を止めて、彼女に向き直る。っていうかいきなり下の名前で呼び捨てかよ。距離が近すぎる。
「あーえっと、それで、結局奏汰は何の用?」
そうだそうだ。全裸の衝撃で全てがふっとぶところだった。
俺は、彼女の胸元が見えないように布団をかけながら言う。
「俺がこうしているのは、成宮さんに聞きたいことがあるからなんだ。結局、伊瀬の話にもどるんだけど」
「うんうん」
倫理観が一般高校生ちょい下くらいでありそうな彼女なら、誰よりも詳しく話してくれるかもしれないし。
「一か月半前、あの日、彼女はどんな様子だったの?」
一か月半前、一連の放火事件が始まった頃。
「……ふーん。やっぱり気になるんだ、伊瀬さんのこと」
「で、どうなの?」
彼女は「どうしよっかなぁ」と意地悪そうに笑い、俺に顔を近づけてくる。
「じゃあ情報の交換にしよう。ウチは一か月半前の伊瀬さんのことを教える。代わりに一つ質問に答えてもらうよ。それでいいなら、教える」
質問内容を何故教えないのか気になったが、早くしないと乙黒さんが帰ってきてしまうので、俺はせっついて素早く二回頷く。
「分かった。ちゃんと答えてもらうからねー?」
「おうおう、分かったよ。だから早く教えてくれ」
俺がそう言うと、彼女の顔から急に表情が失われた。
「あれは、そうだね。一回目の放火事件が起きるちょっと前だったんよ、何か伊瀬さんの様子がおかしかったらしい」
ん?
「らしいって何だよ」
「いやいやー、実はその日ウチは学校休んでてね。見てたわけじゃないんよ」
「なんだよそれ。俺だって大体の話は知ってるんだよ。大変な噂になってるからね。その日の様子を詳しく知らないなら、交渉決裂」
「ところがどっこいお兄さん。一度してしまった約束は守らねばならないのであった」
お前は誰だ。あくどい情報屋か。ひどい話だ。
「……まぁいいよ、質問に一つ答えるくらいなら」
「じゃあ遠慮なくさせてもらうよ。えへんえへん」
わざとらしく咳払いし、彼女は俺の目を真っ直ぐ見つめる。
「ぶっちゃけ、伊瀬さんのこと好きでしょ?」
「………………」
うわあ、ひどいわこれ。
「普通だよ。好きじゃない」
その答えに彼女は満足していないようだった。
「あのね日向井くん。人に対して『普通』って感想を抱くのは結構難しかったりするんだよ。もちろん顔も知らない話もしたこともないまるで噂もしらない人のことを聞かれたら、『普通』って答えるしかないんだけど。顔を知っていたり、一回でも話をしたり、そういうことをすればもう『普通』じゃなくなる。好きか嫌いかのどちらかに小さく、または大きく動くんよ」
……ふうん。じゃあなんだ、俺は今まで話をしてきた人全てに対して、『普通』以外の感想を持ち合わせていると。つまり、その人に少なからず興味を持ったと、関係していると、繋がっていると、その人に何かあれば俺の心が動くと、そう言いたいわけだ。
止めろって。そんなこと言ったら、俺が今までずっとバランスとか言ってたのが馬鹿みたいじゃんか。
「だから、日向井くんは伊瀬さんに対してきっと何か感情を抱いてるはずだよ」
「ないよ、普通だって」
「だーかーらー、普通なんてことはありえないんだって。たとえば、今、ウチは日向井くんに『普通』以外の気持ちを抱いてる」
「へえ、どんな?」
「どちらかと言えば、上の方向じゃないかな。日向井くんみたいな人、なんだか可愛くて嫌いじゃないんよ」
「……………………」
人の気持ちを操作する技術は、ある程度身につけたつもりだったのだけど、どうやら成宮の方がその技術に長けているらしい。なんてこった。
「だけど、普通なんだよ」
彼女は少し不機嫌な顔をする。
「普通ってことは、日向井くん。伊瀬さんに対して無感情ってことだよ?」
「そうだね」
「伊瀬さんが苦しんでも何も思わないの?」
「思わないよ」
「伊瀬さんが目の前で大泣きしてても何も思わない?」
「思わないね」
彼女は苦い顔をした後、覚悟を決めたように声を発する。
「………伊瀬さんの家が放火にあっても何も思わない?」
「うん、思わない」
少し不謹慎だと思いながらも、俺に実感を持たせるために意を決してした発言だったのだろう。しかし、俺に効果はない。人に関して無関心な俺には、何が起こったって無関心だ。少し、指先が震えた。
「意地っ張り、ツンドラ」
悪態をつき始めた。ツンドラはきっと気候のことじゃないんだろうね。
彼女はもそもそとベッドから抜け出て、服を整え上履きを穿いてカーテンを開ける。
「それじゃ、ウチはもう帰るから」
かかとを踏みながら俺に背を向けて歩き出す。スカートの裾が折れている。直したい衝動に駆られるが、きっと今やったら俺は痴漢野郎としてこの高校に名を知らしめることになるだろう。
「それじゃ」
彼女が保健室の戸を開ける。
「あ、待って。最後に質問」
「何?」
彼女はイラつきを露わにして振り返る。
参考に、ね。
「放火犯って誰だと思う?」
「……………」
彼女はしばらく俺の瞳をじっと見つめる。何だろう、頬にイカ墨でもついてるのかな。はいはい違うね。
よく分からないから、取り敢えず笑みを浮かべてみた。
その俺の顔を見て、彼女は目を細める。ひどい。
笑顔は難しい。使いどこによっては好感度を下げてしまうから。相手との壁を失くそうとしたつもりが、余計分厚くなってしまったりするから。
「放火犯は……奏汰、知ってるでしょ?」
「はっ」
変な声が漏れた。……むしろ、あなたは知っているんですか?
一般的に思われている、失踪中の父以外に、何か心当たりがあるんですか?
俺の心の中の疑問には答えないまま、彼女は保健室から立ち去った。心なしか戸を閉めるときの音が大きかった気がする。物には優しくしないと。公共物ならなおさら。
とにかく、彼女との好感度が下がったことが分かった。さっきまではちょっと好意を持ってもらっていたのに、何この掌返し。
というか、俺のミスなんだけどね。あそこで、伊瀬のことうんぬんかんぬんだよって肯定しておけばよかったんだ。そしたら成宮との好感度は維持されただろうに。
まぁいいか。人から好意を寄せられるのは苦手だけど、ゼロ以下ならあまり問題ないし。
俺がベッドを整え、大きな机に備えられた丸椅子の一つに座って待っていると、五分ほど待ったところでようやく乙黒さんが帰ってきた。学校無関係者のくせに振る舞いが堂々としている。保健室の先生がいない日だからって好き放題やりすぎだよ、ほんと。少しも悪びれてないところがまた俺にそっくり………嫌だわ。
「いやぁ、おでん缶が自販機になくてですね~、コンビニまで買いに行ってました」
って結局おでんなのかよ。ミルクティーはいずこ。
「はい、どうぞ~」
差し出したカップの中身はしらたきのみ。なんだよこれ。俺は焼き豆腐担当だし、しらたきは伊瀬担当だから。それは鍋の話だったか。
乙黒さんは俺の隣の椅子に座り、自分はミルクティーを鞄から取り出し飲み始めやがった。
あぁ、なんだろこれ。注文した料理が来るのが遅いファミレスで、隣の席の子供がこれみよがしにハンバーグ食べてるのを見るのと同じ気持ちだね。
「ええっと……?」
「どうしました? あなたが大好きなおでんですよ?」
彼女の笑顔は俺の担任のように崩れることがない。しかし、仁人先生が優しく微笑むのに対し、彼女の笑顔は幾分かイカ墨の黒さを含んでいて、目が線になるくらい笑顔が深いのに、まるで愛想がない。
「俺、おでん好きじゃないですよ」
「あれ? じゃあなんで私におでん缶を頼んだんですか? 矛盾してますよ」
矛盾してないって。悪意あるメッセージ伝達失敗により齟齬が生じただけ。
「………もしかして昨日すっぽかしたこと怒ってます?」
「怒ってないですよ全く。あぁ、なんだか今日はパンチングマシーンの記録を塗り替えられそうなので帰りにゲームセンターに行くことにします」
こっちの方が十分に矛盾している。
乙黒さんは顔に気持ちが出ないけど、言動に嫌と言うほど出まくる。嫌味プラスで。ラブプ○スにしてほしいね。
取り敢えず、彼女の機嫌を損ねていることはまず間違いない。まったく、誰だよ。いつも温厚な乙黒さんをこんな風にしたのは。俺だ。
とにかく、今出来る事は謝罪くらいである。誠心誠意を込めて、自分の非を認めよう。
「昨日のことはすいませんでした、腹黒さん」
あ、本音がちらりと。
「あらまあ。いけないですね、人の苗字を間違えてしまうなんて。私は乙黒ですよ。それに言ってるじゃないですか、下の叶という名で呼んでくださいと」
「あいにく俺は人を苗字で呼ぶ派ですから。全員を苗字で呼んでますよ」
どうして年上のお方を下の名前で呼べようか。まぁ、実際のところあんまり年齢は関係ないんだけど。
苗字での呼称。
それが、俺の人とのぴったりな距離感だから。心地よい関係だから。
「あら~? そうでしたっけ? 何人か名前で呼んでますよね? たとえば、あの他校にまで有名なイケメン教師であるところの仁人先生のこととか」
「……それは」
「それは、何ですか?」
「皆もそう呼んでいるからです」
「私のことも皆さん、叶さんと呼んでくれてますよ」
うわあ、すごいどっちでも良いことにそんな突っ込まないでよもう。
「仁人先生とは仲良しだからです」
伊瀬を任されるぐらい仲良しだよマジで。
「……なるほど。しかし、私とも仲良しですよね?」
いやはや、なんてこと聞いてるんでしょうね。もう決まってるじゃないですか。
「もちろんです。もうほんと乙黒さんのことアレですよ。とてもアレです」
「おやおや? アレの指す内容によりますが、中学時代国語の成績が2だった私が文脈から判断したところによると、ずばりあげあげな方の意味のアレですね?」
「そうですそうです、腹黒さん」
「あらら~? 何かおかしいですね。むむむむ~、悪意を感じます」
「とんでもない。腹黒さんと言ったのは、よく乙黒さんがイカ墨スパゲティを食べているから文字通りに腹の中が黒いという意味で言ったんです」
何の弁明にもなってない。
「それはそれは、失礼しました」
乙黒さんは両手で大事そうにミルクティーをそっと飲んで一息つく。
窓の外からは冬晴れの透き通った光が舞い込み、保健室の机を照らす。その反射光がほんわかと幻想的に乙黒さんの蒼白の肌を際立たせている。
まるで、この部屋が一枚の絵を構成しているかのようだ。
そして俺がしらたきをずるずると口の中へ這わせる音で全てを台無しにする。芸術って難しいと思いました、まる。
そんなまったりした時間を挟み、彼女は何かを思い出したように俺に話しかける。
「そういえば、私があてがったマンションはどうですか? 快適に過ごせてますか?」
「ええ、なかなか良い感じですよ」
隣に熱心な高校生探偵が住んでいるけども。
「わざと、ですかね。あの部屋は」
「ん~? わざとじゃないですよ。敢えてです」
ものすごい詭弁。アキレスと亀もびっくりだ。
まぁいい。乙黒さんは、何やら察してあの部屋にしてくれたのだろう。八七橋が隣に住む、あの部屋に。
どうやって彼女があそこに住んでいると調べたのだろうか。……乙黒さんのことだ、職権乱用くらい余裕でしょうなあ。
うむ、まぁ過程はどうでもいいし、今は結果もどうでもいい。とにかく乙黒さんは、わざとではなく敢えて八七橋の隣の部屋を俺に紹介したということで、それだけ理解できればよろしい。はい、この話終わり。
「さて、乙黒さん。それで今日は何の御用事で俺の貴重なテレビルッキングタイムを奪ったんですか?」
「いやですね~、テレビ見るより私とお話しした方が充実した時間が送れるじゃないですか。理由はそれだけですよ」
「……で、本当は?」
「例のごとく、カウンセリングもどきです」
はあ、そうですか。何言ってんのかさっぱりだ。……いや、実際ちょっと分かってはいる。
学校関係者でもないのに、校長の娘だからということもあり、この学校に侵入することを許されている乙黒さん。そろそろ彼女と俺の関係やらを説明してみようかとも思うのだけど。
うむ。難しい。
乙黒さんと最初に知り合ったのは、九年前だ。しばらく連絡取っていなかったが、最近になってまた当時のように仲良し(嘲笑)になることができた。嬉しい! ひゃっほい! なんて言う人がいたらぜひ結婚してあげてください。きっと未だに相手がいない理由が分かると思いますよ。
「お気遣いありがとうございます。でも、残念ながら俺にカウンセリングもどきは必要ないんですよ」
あなたの仕事でもないし。それとも、保健室に入り浸っているから保健室の先生にでもなったつもりなのだろうか。……仕事しろよ仕事。
「無理しちゃだめですよ~? あなたは心に深い傷を負っているんですから」
「止めてくださいそういうの。悲劇のヒーローですか、鳥肌立ちますよ」
俺が遺憾の意を表明すると、ぬっと顔を近づけてくる。その分だけ俺は姿勢を後ろに倒す。若干目元が暗がっていて怖い。
「むしろ悲劇じゃないんですか? あなたを見ていると、まるで普通の人みたいですよね」
「いやいやいやいやいやいやいやいや、普通ですからね、俺」
「伊瀬さんと同じくらい精神を病んでいます」
「ほんと止めてください、しらたき口に詰めますよ。俺も伊瀬も普通ですから」
しかし、なおも乙黒さんは口を閉じない。しらたき食べたいのかよ。
「前のカウンセリングもどきの時も思いましたが、日向井さんは普通を大事にしますし、装いますよね。はっきり言うならばそれは詐欺ですよ」
マジっすか。俺、詐欺師っすか。
「連続放火事件で皆さん多少なりともストレスを感じています。あなたはそれ以上のものを感じているはずなのですが、まるで目に見えて分かりません」
禿ればいいのだろうか。いやだなぁ、父は禿てなかったし祖父もふっさふさ(人工)なのでセーフ! え、アウト?
「きちんと認識しているんですか? あなたの父は失踪中なんですよ?」
俺の父。失踪している人。そして、今回の連続放火事件の犯人とされている人。
この一連の最初の放火事件で、自身が住んでいるアパートを放火したと思われている。しかし、その後行方不明。まだ入居して本当にすぐだったので近所との付き合いもなく、目撃情報も寄せられていない。
「もちろん認識してますよ。俺の父さんは長いお散歩に出かけました、と」
乙黒さんは、小さく息を吐く。困りましたね、と吐かれた空気が俺に語りかけてきた。
「……その軽薄さが、無理をしているように見えると言っているんです」
我、何事も意に関せず、ですよ。
「奏汰さんは最初から家庭環境が複雑ですし」
「複雑じゃないですよ。全くもって普通の一般家庭です。今時離婚なんて普通の話ですから」
「それだけならそうかもしれませんが、そうじゃないじゃないですか。親が離婚して」
「分かりました分かりましたから」
俺が一体何を理解したのかは不明だったが、まぁ乙黒さんの発言を阻止することには成功したので良しとする。
「いつからこんなになっちゃったんですか~? 昔は女の子みたいでおっとりしてて可愛かった記憶があるんですけどね~」
「今の俺にそんな要素は微塵もないのでその記憶は矛盾してますね」
ここで俺の必殺、話題転換を使用。
「大体、俺があの父のことをどうこう思っていると思っているんですか? 逆に」
「思っていますよ。少なくとも、無関心ではないはずです」
「無関心ですよ」
俺の即答に、乙黒さんの顔は引き攣り始める。
「あなたは、全ての人に無関心でいられると思っているんですか?」
「よゆーです」
続いて、ぴくぴくりと口端が滑稽なリズムを刻み始める。
数秒後、彼女は息を吐きながら背もたれに体重を預けた。そしてミルクティーをおいしそうに一口飲み、口を開く。
「………奏汰さんは、土佐藤さんと形中さんの告白を受け入れましたね。そして、その後放置。一緒に帰ろうと言われても断り、一緒に昼食を摂ろうと言われても断る。そうしているうちに向こうが別れを切り出してきた。それがあなたのスタイルですよね?」
急に何の話だろうか。まさか年上お姉さんの乙黒さんに告白されちゃうのか俺。ないか。ないね。
「あなたはそうやって関係をプラスマイナスゼロにうまく持っていこうと思っています。しかし、伊瀬さんはどうなんですか?」
今度ぴくぴくりとするのは俺のターンのようだ。
「告白を断ったのは、彼女だけですよね。しかもその後も一緒に昼食を摂り、部活にもちょくちょく顔を出しているとか。仁人先生から全部聞きました。……それって、彼女に特別な意識を持っているってことなんじゃないですか? 土佐藤さんと形中さんとは違うものを、伊瀬さんに見ているってことに他ならないですよね? ……証明終了です。あなたは皆に対して無関心なんかじゃないです」
俺が、伊瀬に持っている意識。……そんなものはない。ちょっと周りの人より顔立ちが良く、美人さんだなぁという区別の判断しか持っていない。
それは、感情には結びつかないし、俺の中では何も動かない。胃が不満を訴えるように暴れ出した。
「奏汰さんが人と微妙な距離を保とうとする理由も分かりますよ。人から嫌われるのは自分が傷付くから嫌だ。人から好かれると多少なりともその人のことを意識するようになってしまい、失ったときに自分が傷付くから嫌だ。……つまり、保身のための距離作りですよね。ご苦労様です」
俺は、この話は頭の中を通過させる必要がないと判断し、右耳から入った情報をそのまま右耳から放出しながら、しらたきをすすった。もうしばらくしらたき食べたくない。
俺が反応を示さないのことに痺れを切らしたのか、乙黒さんは立ち上がる。
すたすたと俺に近づいてきて、
「っ!」
そしてあろうことか俺の手に触れようとしたので、咄嗟に俺はそれをかわす。
「あらあら、ひどいですね。握手しようと思っただけですよ?」
もうやだ泣いちゃう。お母さんに言ってやる! あ、死んでるんだった。
「それは、俺が人に触れることを極端に嫌うことを知っていての行動ですか?」
俺のなまくらな質問に、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべて答える。
「もちろんです」
……はあ、俺って人生で初のいじめにあってるって認識でいいのかな。
「でも、もしかして奏汰さん。伊瀬さんには触れちゃったりしてるんじゃないんですか?」
「あっはっは。そんなわけないじゃないですかあ」
歪なハイタッチとかぐらいです、ええ。……なんでハイタッチなんてしたんだろうか。
ええい、深く考えても分からん。分かるかもしれないけど分からなくていいことだと思うし分かったら危ないことだからいいの!
「ほら、握手してくださいよ」
「嫌です」
「握手ですよ? どうしてもしなきゃいけない場面では避けて通れません。いくら人に触れるのが嫌いな奏汰さんだって、今までそれくらいは普通にやってきたのでしょう?」
「かもしれませんが、嫌です」
嫌、という言葉、文字、音。それは人の好感度を下げるために注意深く使用する必要があるのだが、乙黒さんには何を言っても、それが全て彼女を掠めることもなく通過するので無限弾使用可だ。
「あのですね、奏汰さん。『普通』の人は人と握手するのをそんなに嫌がったりしませんよ? 特に嫌ったりしていない限り」
「ぬぬ……」
なんですかこの論理作戦。これだから理系は嫌だ。俺も理系だけど。
まぁ別に少しくらいの握手だったら実際問題なかったりする。それは単なる社交辞令だと割り切られているから。
「ちょっとだけですよ。すぐ離してくださいね」
出血大サービスです。
俺が右手を差し出すと、その瞬間、乙黒さんは目にもとまらぬ速度で握った。
「ちょっ」
両手で。しかも離す気配がない。むぎゅむぎゅと俺の手の甲を上にしてこねくりまわしている。
「奏汰さん。手おっきいですね」
「いや、そんなことはどっちでも」
俺は体重をかけて右手の自治権を取り戻そうと必死になる。蛇に噛み付かれて腕を振っているみたいだね。
「骨ばっていますが、指が細くて綺麗です。舐めていいですか?」
「そんなことしたら舌引っこ抜きます」
そう言うと彼女は首をかしげてにっこり。
「冗談です」
と。
言うと同時に俺の手を裏返す。
掌が露わになった。
「………………………………………………」
「この、掌のただれた火傷痕、見られたくなかったんですよね?」
俺は、
「特に」
何も思っていない。
「はずなのに」
ふつふつと喉にせり上がってくるこれはなんだろうか。くそやろう。
「あ、言い忘れましたけど、これはカウンセリングもどき兼連続放火犯捜しも含んでますよ」
つまり、なんだ。俺が、それだって。そう、疑ってるって。
噛み合わせの悪い八重歯がかちかちと鳴って脳内に反響する。悪寒。最悪の記憶。痛みの感覚と共に、胃液がこみあがってきた。
「なんて。嘘ですよ」
そう言って乙黒さんはようやく俺の右手を解放した。
そして体のコントロールが戻って淡々と体中に血液が流れ平常運転開始。
ぶちまけそうになったものを気合いで飲み込む。部活で培った気合いなめんな。幽霊部員だけど。
乙黒さんは満足したのか、自分の椅子に戻り、いつもの笑顔を俺に向ける。
「明日は伊瀬さんの順番ですね」
「毎日何やってるんですか、仕事してください。保健室の先生が傷病休暇取ってるからっていい加減なことやりすぎです」
「だから、きちんと仕事はしていますって。これでも私は皆に信頼されていたりするんですよ~?」
「あぁ、そうですか」
俺は、まだ喉元に嫌なものがつっかえている気がして、つっこみに労力を回す余裕がなかった。
「じゃあ私は帰りますね」
そう言って彼女はカーテンレールにかかっているハンガーからウィンドブレイカーを脱がし、自らが着用する。なんでジャージなんだよ。スーツとか着たらかっこいいのに。
「今日のカウンセリング、終了です」
「心の傷が増えました」
「大丈夫です。あなたは、段々と解放に向かっているのですから」
「何ですかそれ、宗教勧誘ですか」
「ぜひ入信してもらいたいですね。叶教団。二十四時間体制で私のお世話をする素晴らしき奴隷になれます」
「奴隷って言っちゃいましたね」
「あ、間違えました。てへへ」
何がてへへだよ十代じゃないんだぞおい。
「じゃあ私はこれで。……少しは自分の心の声もきいてあげてくださいね」
だから宗教ですかって、ねぇ。
そして乙黒さんは鞄をごそごそとあさり、一つのステンレス缶を取り出した。
「はい、私からの愛のプレゼントです。大好きですよ、奏汰さん」
あっけにとられたので取り敢えず受け取ってしまった。
一方、「きゃっ! 言っちゃった!」と両手を頬に添えてきゃぴきゃぴしている乙黒さん。
っていうか、最初からミルクティー二本買ってたなら最初に渡してほしかったです。
……まぁ、乙黒さんだからね、仕方ないですよーっと。
もう冷めてしまったそのミルクティーは、温かいミルクティーよりも内臓に沁みて、何かを拭い去るように俺の体を循環した。
***The Next is:『パラドックス=ライフ』




