ギター殺人事件
Author:中條利昭
この話は拙作「伝説憧れ人 《スターゲイザー》」の裏話要素多めですが、そちらを知らなくても全然大丈夫です。
「結果、ギター殺人事件の犯人は僕っ娘Hだ、ってオチだな」
体格のいい筋肉質の男――鬼頭は『僕っ娘H』に向かって男らしく微笑んだ。
彼とは対照的に華奢な僕っ娘Hはそれを聞いてハハハと笑い声を上げ、照れくさそうに頷いた。
「ですね。殺したのは紛れもなく僕ですから」
× × × × × ×
「カレーと肉じゃがを混ぜてみろ。薄いカレーの出来上がりだぜ!」
「急になに言ってんの?」
永吉は蔑むような細い目で雄太を睨んだ。
といってもいつもの話だ。雄太は「ヒヒヒ」と無垢に笑っている。
雄太は破天荒というか、変人というか。底抜けに明るいけどちょっとだけ他とずれているのだ。
彼を語るなら中一の英語の授業でのエピソードが最適だろう。
先生が『Z』を差して「これは何と読みますか」と雄太に訊き、彼は「ゼット」と答えた。それに対して先生は半ば冗談で「ドラゴンボールの見過ぎだよ」と笑ったのだが、雄太は怒り心頭に立ち上がり、「違います! マジンガーの方です!」と怒って家に帰り、結局一週間も登校拒否したのだ。
そんな幼稚園児のガキンチョがそのまま育ったような雄太もすっかり高校二年生だ。そんなでかい幼稚園児に永吉はいつも疲れさせられている。
「オレさ、昨日すげえ発見したんだよ。カレーと肉じゃがってルーがあるかないかくらいしか違いがねえじゃねえか、って!」
「他にもいくつか違いあるけどね」
「細かいことを気にしすぎるのが永吉の悪いところだよな」
「細かくないことまで気にしないのが雄太の悪いところだよ」
雄太とは対照的というか、反面教師的というか、永吉は真面目で落ち着いた性格だ。故に昔から彼のツッコミ役として万事を尽くしている。
そんな二人組は今、ギターショップに歩いて向かっていた。近所の駅から歩いて十分程度の場所にある三階建ての小さなビルの三階にその店は存在する。あまり大きくはないがスタジオも付いており、彼らはそちらを使うのだ。
彼らは軽音部に所属しており、今からその練習をする。
楽器は二人ともギター。普段は雄太がリードで永吉がリズムなのだが、今回に限っては逆になっている。理由は今回演奏する曲がMyuzickというバンドの曲だからだ。
永吉はMyuzickの大ファンで、ライブにも何度か行ったことがある。そこでグッズを万単位かけて買ったりもする。更にギターもMyuzickのギタリスト結城春(男性)が使っている物を使っている。
雄太もMyuzickが好きだが、永吉ほどではない。普通にCDを聞く程度だ。
普段は学校で練習するのだが、この日は日曜日で軽音部は練習できないことになっている。
「文化祭が間近に迫っている今そんな贅沢をするとは、ボクらってある意味体たらくだね。他のメンバーに悪い気がする」
「練習のためなんだからいいだろ」
舞台が一週間後に迫っているのだが、彼らが披露する『THE END』という曲のギターソロの早弾きハモリパートが未だにうまく揃わないのだ。今回は主にその練習のためにスタジオに向かっている
「不安だなあ」
「鬼頭さんにきっちりしごいてもらえれば大丈夫だって」
鬼頭さん、とは彼らが今から行くギターショップの店長だ。といってもこの店は彼が一人で経営しているのだが。
鬼頭さんは昔スタジオミュージシャンをしていたらしく、その腕前はかなりのものだ。永吉たちは彼に練習の監修をしてもらう予定になっている。
歩くこと丁度十五分、ギターショップのあるビルの足元に到着した。エレキギターを背負っているからかいつもより少し時間がかかった。
「今から階段だよな、永吉……」
「うん、毎度のことだけど、ギターを背負った時のこの階段はほぼ怪談だよね」
アコースティックギターは中が空洞なのでかなり軽い。指二本で挟んでも十分に運べるくらいだ。しかし、エレキギターは中にも木が詰まっている上にエレキなので金属部品だってある。
更に、永吉は活発な雄太とは違い、あまり体力がない。
「今だけギター交換しない?」
「嫌だ。レスポール・スタンダードなんか持ってるお前が悪いんだよ」
ギターには多くのモデルがあるが、その代表的なものがストラトキャスター、テレキャスター、レスポールの三つだ。
ストラトキャスターは大手ギターメーカーであるフェンダー社の看板的ギターだ。音に癖が少なく比較的軽いため、ギター初心者はまずこのモデルを手にすることが多い。左利きのジミ・ヘンドリックスが右利き用のストラトを逆さまにして弾いていたのが有名だろうか。雄太はこのモデルを使っている。
テレキャスターは『初代エレキギター』的な古いモデルだ。ノイズを拾いやすいという弱点はあるが、癖の強い高音域には独特の中毒性があり、今でも広く愛されている。ギターを弾きながらのボーカリストはこのモデルを使っていることが多い。
レスポールはフェンダーと並ぶ大手メーカー・ギブソン社の看板的ギターだ。中低音域に甘みがあり、音が太いのが特徴。ハードロック系のギタリストはこのモデルを使うことが多い。
しかし、その分弱点も多い。中低音域が強調されて聞こえるためコードを引く時に高音が聞こえにくい、構造上高音部のフレットを抑えづらい(分かりやすく言うと「鳴らしにくい」)、重たい、などなど。中にはダブルカッタウェイというモデルもあり、高音部のフレットが押さえやすくなった上に質量が減るのだが、象徴的なレスポール・スタンダードの方が遥かに人気だと言える。
体力のない永吉の使っているギターはレスポール・スタンダードだ。つまり、既に少し疲れた体でそれを背負って階段を上るのは少々気が引ける。
「仕方ないじゃないか。Myuzickの結城さんが愛用しているのがレスポール・スタンダードなんだから」
永吉はMyuzickの大ファンであり、そのバンドに所属するギタリストの結城春に傾倒している。永吉がギターを始めたきっかけも彼だ。
ギタリストとしては不利な小柄な体で重たいレスポール・スタンダードを弾きこなすその姿に、彼は深い感動と感銘を覚えたのだ。ロックらしく髪を振り乱し、汗を吹き飛ばしながらも、頭の中は常にクールで着実に演奏をこなす。そんな姿に。
「あー、疲れた……」
「疲れたな。でも、お前みたいに倒れ込むほどではない」
雄太は最後の段を登り切った瞬間に息を切らして倒れ込んだ永吉に、息切れ混じりの溜息を吐いた。
「運動不足め」
「うるさい……嫌いなんだから仕方ないじゃないか」
雄太は一般的な高校生っぽい体型だ。握りこぶしを作れば上腕二頭筋が硬く膨れ上がるし、腹筋だって微かに割れている。
それに引き換え永吉は時々心配されるほどのやせ形で、シャツを脱げば浮かび上がった痛々しい肋骨を眺めることもできる。
汗と一緒に溶けてしまいそうな永吉は力強く拳を握った。「結城さんは、ボクと同じく運動ができないんだ……。それでもあんなにかっこいいプレイを出来るんだから、ボクにだって……!」
Myuzicckのファンクラブ会報誌で、メンバーそれぞれが「高校生の時、体育の成績はどんなでしたか?」という質問を答えていたのを先日永吉は見た。ほとんどのメンバーが「よかった」「平均よりは上だった」と答える中、結城春だけは「不動のワースト・スリー」と答えていたのだ。それを見て、彼は自分の運動の弱さに初めて嬉しくなった。胸の底から何かが噴き上がり、今ならバスケのダンクシュートを決められる、と感じたくらい。
まあせいぜいがんばれ、と微笑みながら雄太はしゃがんで永吉の手を握った。
いっせーのーでっ、で雄太は永吉を引っ張って立ち上がる。
「ありがとう、雄太」
「出世払いな。どうでもいいけど、お前の体軽すぎる」
立ち上がった永吉は目の前にあるギターショップのドアの上にある看板を見上げた。
『アンガス・マルムスティン』
それがギターショップの名前だ。察しがつく人にはつくと思うが、店名はAC/DCのリードギタリストでありシンボル的存在であるアンガス・ヤングと、早弾きギタリストとして有名なイングウェイ・マルムスティンから由来している。
「前に来たのって一週間前だったよね」
「だな」
その時もギターの練習に来ていた。
「ねえ、雄太」
「なんだ?」
「あの時鬼頭さんとなに話してたの?」
「は?」
「ボクらが帰る時にボクだけ店の外に出して鬼頭さんに話しかけてたじゃない」
すると、雄太は永吉から目を逸らした。雄太は分かりやすいやつだ。
次の瞬間、ふと気付いたように目を永吉に戻した。雄太は本当に分かりやすいやつだ。
「まさか、ボクのバースデーサプライズでも計画していたとか?」
「あっ、いや、ち、違う……」
「分かりやすいなあ、雄太は」
今日が永吉の誕生日だった。別に彼は何も期待などしていなかったが、「あわよくば
」くらいには思っていた。
「楽しみにしておくよ。さあ、入ろうか」
「……おう」
手動の扉を開いて店内に入ると、心地よい冷房が永吉の汗の一粒一粒を包み込んだ。
やっぱりクーラーって最高の発明だね。
そう彼は心の奥底からひしひしと感じた。
店内にはギターのクリーナーの独特の香りが漂う。永吉も最初は少しそれが苦手だったが、今では食欲をそそるカレーのにおいくらい好きだ。
「いらっしゃい! 待ってたぞ永吉! 雄太!」
鬼頭店長の低くて男らしい歓迎の声が、ふたりの心に夏の蒸し暑さよりずっと気持ちのいい熱さをガンと与えた。
「こんにちは」
永吉と雄太はそうあいさつをしながら鬼頭を見て苦笑いし始めた。
「何がおかしんだよ」
「そのファッションですよ」
現在の鬼頭の格好はワイシャツにネクタイに小奇麗なジャケット、短パン。すなわち、スクールボーイスタイルだ。
「今日はアンガス・ヤング意識ですか」
「おっ、分かるか?」
「その格好を見てアンガス・ヤングを連想しなかったらロック好きとして失格ですよ」
鬼頭は毎日誰かしらのロックヒーローの格好をしている。今日はこの店『アンガス・マルムスティン』の由来のひとりであるアンガス・ヤングだ。
余談だが、一週間前に彼らがここに来た時は元GUNS ‘N ROSESのスラッシュだった。
「さ、とっとスタジオに入れよ。しっかり冷房効かしてあるからな!」
「ありがとうございます!」
「もうひとつ、今日はスペシャルゲストがいる!」
「スペシャルゲスト?」
「おーい!」
鬼頭が手を振った先には、ギターがたくさん並んでおり、そこにはひとりのロングヘアーの女性の後姿があった。ギターケースを背負っている。ギタリストだろうか。
鬼頭の声を聞き、彼女は振り返った。
黒ぶちの大きな眼鏡をかけている。陶器のような美しい白い肌に浮かぶ薄ピンクの頬に永吉は釘づけになった。
美人だ、と彼は素直に感じた。
体のラインも決して細すぎず、でも美しい。Tシャツ越しに浮きあがる胸のラインも、よくできる女性を表しているような、適度なものだった。黒のスキニーパンツは美しい脚のラインを強調し、永吉を釘づけにした。
大学生くらいに見えなくもないが、凛と引き締まった雰囲気があるので年齢はもう少し上な気がする。
「はい」
彼女は店長の呼びかけに答え、ゆっくり彼らの方に向かってきた。
声はやや低め。落ち着いた印象だ。
「この子たちが、例の高校生ですか?」
「ああ、そうだ」
例の? と永吉と雄太は首を傾げた。雄太に関しては目も細めている。
「実はな、」鬼頭はにこやかに話し始めた。「こいつは、僕っ娘H」
「僕っ娘H?」
なんですかそのセンスのない名称は、と彼女は自嘲気味に笑って指摘した。「ふざけてるでしょ」
「いいじゃねえか。偶然この場に居合わせた謎の僕っ娘ギタリストってことで」ヒヒヒ、と鬼頭は焼けた黒い肌と対照的な白く輝く歯を見せた。
「僕っ娘ギタリストっですか……まあ、なんでもいいですけど」
鬼頭はうんうんと首を縦に振って続けた。「俺も自分で言えるほどギターはうまいが、この少女Hもなかなかだぞ」
「そうなんですか?」
「こいつはMyuzickに詳しいから色々と訊いてもらうといい」
「Myuzickに!」
永吉は僕っ娘Hに釘づけになった。そのキラキラした目は、初対面の彼女に「Myuzickが好きなのがひしひしと伝わってくるよ」と言わしめたほどだった。
「はい! 大好きです! Myuzickなしではボクの人生なんて十秒も語れません!」
名前と誕生日と年齢だけで十秒くらい語れるだろ、と冷たく雄太が諭した。普段は永吉がツッコミで彼がボケなのだが、Myuzickの話題で永吉が興奮すると立場が逆転するのだ。
「俺は接客があるから世話してやることはできねえが、Hは今日一日暇らしいから教えてもらえ」
「今日はアルバイトの方いないんですか?」
「今日に限っていないな」
タイミング悪いですね、と永吉は呟いた。
「全くだよ。音楽においてタイミングがどれだけ大事なことか」
「そういう話じゃないでしょ」僕っ娘Hは自然な笑顔で指摘した。「じゃあ、そろそろスタジオ行ってきます」
店内の奥にあるガラス製の分厚い扉の鍵を開け、両手で押して開けると、左右にふたつ同じような扉がある。それらの全てが防音扉で、かなり重い。永吉のように華奢な人間なら片手ではとてもじゃないけど開けられないほどだ。そのおかげでかなりの音量で演奏しない限りはギターを売っている店の方まで音は届かない。その店でも緩くBGMがかかっているので尚更だろう。
ひとつめの扉の先にある二つの扉。ひとつは楽器を演奏する部屋、もうひとつはミキサーなどエンジニア系の機材が置いてある部屋だ。後者は主にレコーディングなどに使用する部屋なので、今回は使わない。
永吉たちは右に入った。もちろん楽器を演奏する側だ。ギターやベース、ドラム、アンプなどがいくつか置いてあり、楽器を持って来なくてもバンド演奏はできるようになっている。
日曜日のこのスタジオは一人当たり一時間六百円となっている。だが、永吉たちは鬼頭さんのお気に入りということで半額の三百円。この日は三時間借りる予定なので一人九百円だ。ちなみに僕っ娘Hは今回特別講師ということでタダらしい。
「さっそく音出そうぜ」
そう言って雄太はギターケースを開いた。
彼のギターは一般的なストラトキャスターだ。初心者用のものとしておなじみのモデルではあるが、それよりもずっといいものである。
同じように永吉もギターケースを開き、ギターを取り出した。真っ黒なボディのギターで縁には白線が敷いてあり、その流線形のボディをかっこよく強調している。
「おっ、レスポール・スタンダード」
僕っ娘Hがそれを見て嬉しそうに微笑んだ。「よっぽどMyuzick好きなんだね。それ、ギター暴行事件の時のやつでしょ」
「はい!」
ギター暴行事件とは、Myuzickを語る上では欠かせない伝説の演出だ。
4thアルバム『PARTY TIME』を引っ提げたツアーの前半戦であるホール公演でのこと。このアルバムには『SATAN』という今時珍しいデスメタル曲があり(Myuzickはハードロックやオルタナティブロック、パンク色が強く、そのような曲は珍しい)、この曲を演奏した時、観客が暴れ出すということが何度か起こってしまったのだ。その時に警備員が乱闘している客をステージ前に引っ張り出し、その客をギタリストの結城春がギターで思いっ切り殴る、という演出だ。病院送りになっている人も数知れず、らしい。
ちなみにその命名はAC/DCのライブアルバム『ギター殺人事件』からもじってファンが作ったのだとか。
「ボクと雄太が行った時は誰かが暴れてくれたので見ることができました」
「あれ凄かったよな!」
当然、毎回それが起きたわけではなく、たった数回なのだ。だからこそ、それを見ることができた観客は度々それを武勇伝として語ったりする。
「実はね、僕も見れたんだ」
僕っ娘Hがそう言うと、永吉はきょとんとし、雄太はにやけた。「本当に僕っ娘なんですね」
「本当に僕っ娘なんですよ」自嘲気味に彼女は笑う。「昔から周りの女の子より男の子っぽくてね」
僕っ娘なんて本当にいるんだあ、と永吉は素直に感動していた。そういう特殊なタイプが好きとかそういうわけではないのだが、少し興奮した。金閣寺を生で見て「本当に金だ!」と指を差すのに似ている。金閣寺そのものには特に興味がない。
「それにしても、ギター暴行事件の時のをチョイスするとは永吉くんはいい趣味してるね」
「量産品の安いやつですからね。これくらいしか手が届くものがなくて」これを弾いているとすごくスカッとするんですよ、と永吉は微笑んだ。「嫌いな人を殴ってるみたいで」
「でもさ、」雄太がシールド(ケーブル)をアンプに接続しながら呟くように訊いた。「この前気付いたんだけど、ギターで人を殴っても普通ボディ飛ばないんじゃないか?」
「え?」永吉はそう漏らしながらあの日の光景を脳裏にフラッシュバックさせた。
ステージの前に三人の男が横一列に連れだされ、一番左の人がまず吹き飛ばされた。そして熱気に包まれた会場は更に湧きあがり、アドレナリンの海に沈んでいるようだった。そしてその次の男が殴られた時、ギターが折れてその重たいボディが宙にふわりと浮きあがり、観客席に落ちた。そこで結城が一言。
「それ、あげるよ」
かっこいい! 言われたい!
永吉は恋する乙女のように叫んだ。
結果として三番目の人は命拾いをしたのだ。永吉はその本人に会って「運がよかったと思いますか、悪かったと思いますか?」とマイクを向けてみたいとうずうずしている。
「どうして?」
「だって、ギターが折れたところで、弦で繋がってるんだから飛びはしないだろ」
「あっ」そっか、と口だけが動いた。
すると、「それはね」と僕っ娘Hが雑学を披露する名門大学生のように黒縁の眼鏡を輝かせた。「『SATAN』が終わった時にこっそり弦を切ってるんだよ」
「そうなんですか!」
「僕はその瞬間を見ちゃってね」
なるへそ~、と雄太はよく分からない相槌を打った。「さすがにそれは見てなかったなあ」
その言葉と共に彼はアンプのスイッチを入れた。弦を軽く指で弾き、ゼロにしてあるボリュームノブを少しずつ開いていく。すると、ギター少年の胸を高鳴らせる低音が部屋を包み込んだ。
同じように永吉も音を鳴らした。「そろそろ始めよっか」
「あー! むずい!」
うにゃー! と指を痙攣させながら永吉と雄太はスタジオに倒れ込んだ。「『THE END』難しすぎる!」
この曲はMyuzickの中で最も、というほどではないがかなり難易度が高い。特に、間奏の早弾きをハモらせるところはなかなか揃ってくれない。
ハハハ、とHは愉快そうに爆笑している。「頑張れ少年よ」
「クソ! 大志を抱けない!」
彼らは今までバンドスコアとCDの音を照らし合わせながらこの曲のスコアを新たに作っていた。何故なら市販されているバンドスコアはほとんど正確ではないからだ。『参考程度に』して耳コピするべきなのである。
だが、僕っ娘によると彼らが作りだしたものも微妙にタイミングなどが間違っていたらしく、彼女の指導を受けて再構成したのだが、それが更に難易度を上げることに。元々の癖も考えると、彼らが悲鳴を上げるのも無理はない。
「別に本物通り弾く必要はないよ」僕っ娘Hはそう語る。「高校生がプロを真似して完全にできる確率は低いからね。もう少し簡単にアレンジしてもいいと思う」
しかし、こういう時だけ永吉は頑固なのだ。彼は立ち上がり、自分の気持ちを全て吐きだした。
「それは嫌です! ボクらはあの通りに弾きたいんです! 下方修正して成功しても嬉しくなんてありません!」
オレはもっと簡単にしたいんだけどな、と皮肉たっぷりに雄太は呟くが、永吉は聞いていない。
「ある意味職人だね」そこまで言うのなら徹底的にやろうか、とHは自分のギターケースを持ちあげた。
おっ、と二人はどよめくような声を揃えた。これまで彼女は自分のギターを取り出さず、口や指で指導していたのだ。
「あれこれ言われるよりも実際に弾いているのを見るのが一番だよね」
そのギターが陽の目を浴びた時、二人は再び「おおっ!」と目を見開いた。「結城さんがよく使ってるやつじゃないですか!」
大抵のギタリストもそうだが、結城春は何台ものギターを所有している。その中でも彼はひとつのものをメインにしている。
青みがかかった白銀のボディが特徴のモデルだ。その中で黒い木目が魂をふつふつと燃やしているような。
シグネチャー・モデルではないが、木本来の色を大切にしているものが多いレスポール・スタンダードではかなり珍しいカラーだ。
それが今、彼らの目の前にある。
「僕のファンクラブ会員ナンバーは一桁だから」
「うへー!」
ガチじゃないっすか、と雄太は若干引いている。一~四番はメンバーだから、残り五枠にこの人が。
僕はガチだよ、と自嘲気味に微笑みながら彼女はギターとエフェクターとアンプを繋ぎ、椅子に座ってギターを構えた。
この人、違う。
その構えを見て永吉は息を飲んだ。多分、雄太も。
構えだけでも自分たちとは圧倒的に違うものがあるのだ。それが何なのかは分からない。この人がかなりのプレイヤーだということ以外は。
「じゃあ、ちょっとデモンストレーション行ってみようか」
そう言って彼女は『THE END』をスピーカーから鳴らした。それに合わせてギターを弾くのだ。
イントロのドラムが鳴った瞬間、眼鏡の奥の目の色が変わった。そして、ついにギター・インをし、イントロのセクション2へ。
最初の一音、Gの十六分打ちパームミュート。それだけで自分たちとの違いを永吉ははっきりと感じた。うまく言葉にできない、尋常ではないレベルの迫力がある。
もちろんギター、エフェクターの違いはある。だが、それだけではないのは、音楽をやっている人間ならば歴然だろう。
自分たちと彼女の間には何があるのか。ひとつだけ分かるものがあった。
圧倒的な、経験の差だ。
イントロ・センクション2のギターリフ後はしばらくパームミュートやパワーコードを中心のプレイが続いていく。その中にアルペジオや複雑な六連符などがところどころ挿入され、いわゆる『地味に難しい』展開が間奏のギターソロまで終始続くのだ。この部分は苦戦こそしたものの、永吉と雄太は弾くことができる。だが、彼女のように決して完璧ではない。
言葉が出ない、とはこれのことか、と思った時に自分の目が乾いていることに彼は気付いた。音を伸ばすだけのところなどを狙って慌ててパチパチと瞬きをする。
ギターはピアノなどと違い、同じ高さの音を様々な個所で鳴らすことができる。それは弦が六本もあるからだ。だが、全く同じ音ではない。一本一本の弦は太さが違い、音の太さなども微妙に変わってくる。
彼女の指運びは何箇所か永吉たちとは違っていた。そちらの方がほんの少し、っぽい。
そして、ソロに入った。
雄叫びを上げるようなチョーキングから始まり、けたたましいほど速弾きが続いていく。決してイーブンで単調なメロディーではなく、ところどころスローモーションのように遅くメロディックに弾いたり、十六ばかりではなく三連、時には五連を挟み、ある意味での『憎さ』を演出している。
この部分は苦戦こそするものの、永吉にも弾くことができた。もちろん、完璧とは程遠いものではあるが。
問題はこの後、セクション・チェンジと共にハモリが入り、複雑怪奇で難解なメロディーが美しく輝きだすのだ。
間奏前半の最後に『ちょっと外すことで継続感を演出する音』を入れ、次のセクションに入った。
来るぞ、とふたりは同時に息を飲む。
彼女はメインパートを弾いた。ハモリの方もおそらく弾けるだろう。
そして、数々の難技や口ずさむことすらできない狂ったような、あるいはぐでんぐでんに酔っ払ったようなメロディーが次々と目の前で展開していく。
圧巻の一言だった。
栗ほどの実力しかないと思っていた自分が、米粒ほどだと思い知るかのような落ち込みもあったが、それ以上に感動があった。
いくつかミスはあった。だが、早い音を鳴らす時に指の押さえ方が不十分で音の出が十分じゃなかったり、間違って隣のフレットを押さえたり、といった具合の小さいものだ。永吉が見る限り、自身の体に近い部分でのミスばかりのように思えた。高フレットの太い弦を弾くのは確かに難しい。指の届きにくいレスポール・スタンダードなら尚更だ。
どんなにうまい人でもやっぱり人間なんだ、と少しだけ安心してしまう。
だが、決して見苦しくなんてなかった。永吉たちはミスをしてしまうとそこで止まったりそれ以降のプレイに悪影響を与えてしまうのだが、彼女にはそれがなかった。「これはこれ。それはそれ」と割り切って頭を切り替えているように。
総合してみると、とにかく凄かった。この人プロなんじゃないか、と思えるくらいに。いや、本当にプロかもしれない。
だが、永吉は少しだけ違和感を得た。うまく言葉にはできないが、何かがおかしい、と。
そのギターに慣れてないのか、とまず思った。いくらうまいギタリストでも初めて持ったギターでは思うようなプレイはできない。他の人を満足させることはできても、自分自身を満足させることはできないのだ。何故なら、同じギターでも弦の種類は様々だし、同じ弦でも人によってそのテンション(張り)を変えているからだ。他にも様々な要素があり、この世には一本たりとも同じギターは存在しない。それがたとえ、大量生産品であっても。
でも、それじゃない、となんとなくではあるが分かった。彼女は明らかにそのギターを使い慣れている、と伝わって来たのだ。それでもやはり、何かが違っていた。
その正体が分からないまま曲が終わったのだが、最終的にそんなことはどうでもよくなっていた。
「すげー!」彼は雄太と声を揃えて素直な感動を叫んだ。
「ちょっとミスっちゃったけどね」
さすがは会員ナンバー一桁、と二人は拍手喝采だ。
Hはそんな目をキラキラ輝かせたふたりに少し照れて頬をピンク色に染めた。照れ隠しの笑顔もかわいい。
Hさんかわいい! と雄太が囃し立てると「もうやめて~」と彼女はギターのボディで顔を隠した。
Hさんかわいい、とマジなテンションで永吉が呟くと「ぎゃー」と彼女はギターの裏で悶え始めた。
それから一時間半ほど彼らは練習を続けた。たった一曲だけを。
Hの説明は分かりやすいが、永吉の「下方修正して成功しても嬉しくなんてありません!」という叫びのせいか細かい注文も多く、やんわりと厳しかった。なかなか「グッド」を貰えない。
そのおかげか、彼女が「ちょっと休憩しようか」と提案する頃には成功率が五十パーセントほどにまで上がっていた。もちろん成功と言っても完璧とは程遠いものではあるが、高校生としては十分なレベルだろう。
「なんでギタースタンドがいつもと違うんだ?」
ジュースでも買いに行こうか、とHが手を叩き、いつも通り雄太がスタンドにギターを立てかけようとした時、彼は初めてそれに気がついた。
いつもは複数台立てかけられる大きな物なのだが、この日は三角錐型の小さなものが三つほど並べられていただけだった。高さは弁慶の泣き所くらいまでだろうか。
「前にここを使った小学生が壊しちゃったんだって」鬼頭さんが言ってた、とHはスタンドにギターを立てかけながら言った。
へえ、と雄太は呟いた。「こんなの壊れるんだな」
「小中学生のパワーは底知れないからね」
「マジンガーZのために一週間登校拒否したりするし」
「うるせえよ」
その話題を初めて耳にしたHはいかにも興味津々に目を輝かせていた。「なにその話。聞かせてよ」
「はい。中一の英語の授業で先生が――」
その耳が痛い話から耳を逸らそうと雄太はHのギターに目を向けた。
彼はまだあまりギターに詳しくはないが、それがそれなりに上等なものであることは考える前に分かった。
「プロが使ってるのと同じものだもんな」
「ん? なんか言った?」
その落ち着いたHの声に雄太は振り返り、『Z』の話が終わったことを悟った。そして、スタンドにギターを置いた。「そういえばHさんって何者ですか?」
「何者、っていうのは職業とかそういうこと?」
「はい」
雄太くんって言葉のチョイス面白いね、と彼女は微笑んだ。その隣で永吉もうんうんと唸っている。「まるで何かの犯人になったみたい」
「そうだね、僕は一応プロのギタリストだよ」
「まじっすか!」
うへー、と雄太は尻もちをついた。尻に走る痛さで初めて自分が倒れたと気付いたくらい驚いた。
驚きすぎだよ、と彼女はくしゃっと笑っている。
ちなみにその隣で永吉は完全にフリーズしていた。そして手に持っていたギターが手から抜け落ち、ヘッドがスタジオの床をゴンと鳴らした。
「ノォオオオ!」
「あー」
こうして折れてしまうギターは数多い。
今回はノーダメージで済んでいたが、永吉自身のダメージは決してノーではないだろう。すぐに彼はギターを再び握り、そそくさと三角錐のスタンドに立てた。
ちょっと床に傷ついちゃってるね、とHが気付くと永吉は再び「ノォオオオ!」と断末魔の叫びを上げた。「やばっ、どうしよう……」
傷はよく見ないと分からないくらいの凹みだったが、真面目な永吉は灰色に燃え尽きているようだった。
「そんな小さな傷なんて気にするなよ」
「その大雑把な性格がつくづく羨ましい……」
「じゃあさ」これでどう? とHは天真爛漫な少女のような笑みを浮かべた。「これは三人だけの秘密、っていうのは」
こんなかわいい人と秘密が持てるなんて、と素直に雄太はにやけた。ちなみに彼はオープンスケベだ。脳内で彼女のTシャツを脱がせてしまった。
ちなみにムッツリスケベな永吉は酷い顔でにやけている。今にも鼻血とよだれと魂が顔の穴という穴から抜けてしまいそうなみっともない顔だ。
「お前はどこまで妄想してるんだ」
「してない!」
そのやり取りを聞いてHは「?」と丸い目を瞬かせていた。
更にそれを見て、雄太は思った。
僕っ娘に純粋要素までついてきやがるとは、とんだレアキャラだぜ!
本人が目の前にいなければ口にしてしまっていたことだろう。
「鬼頭さん、ちょっとジュースでも買ってきますね」
スタジオから出て、彼らは大学生くらいの男性三人くらいにギターを紹介している鬼頭に話しかけた。手には音楽プレイヤーがあり、「この音はテレキャスターだな」と言っていた。多分「こういう音を出したいのですが」と注文を受けたのだろう。
ちょっとタンマ、とお客さんに掌を見せてから彼はこちらに目を向けて言った。「おう。スタジオの貸し出しはあと一時間くらいだから、練習時間は四十五分くらいか?」
「はい」
頷きながらHはスタジオの鍵をカウンターに置いた。この店では休憩などで外出する際、店長に鍵を返すルールになっている。もちろん鍵はしっかり閉めてある。
ちなみに、男性客三人はそろって鼻の下を伸ばしながらHに釘づけになっていた。
そんなことはお構いなしに鬼頭は雄太たちに向かって「お前ら、ちょっとは上達したか?」とウインクした。
「はい!」
「Hさんのおかげでかなりできるようになりました。本番も間に合いそうです」
そうかそうかと嬉しそうに鬼頭は嬉しそうに頷いた。だが、そのルックスはアンガス・ヤングだ。つまり、短パン・スクールボーイ。しかもAC/DCのグッズとして有名な赤い角まで頭に付けている。
「アンガスさん接客似会わないですね」
「そうか? これはこれで俺はありだと思うぞ?」
よくもこの格好でも接客なんて、と雄太はつくづく蔑視しそうになった。だが、いつものことだから仕方ない。KISSの白塗りで中学生くらいの女子にアコギを解説していたのだって見たことがある。その子たちの困惑した顔が今でも忘れられない。
多分その晩の夢にまでこぎつけたんだろうな、と変に想像が膨らんでしまう。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい!」
冷房の効いた店から出ると、コンクリートに囲まれた薄暗い階段が現れた。ここは熱がこもっており、まさに灼熱だった。
「うわっ、暑い」
「これが本当の『地獄のハイウェイ(AC/DCの曲名)』だね」
Hがそう言って笑うが、雄太も永吉もあまりAC/DCに詳しくないので「そんな曲ありましたね」としか反応できなかった。
まだ高校生だからAC/DCなんか知らなくて当然だよ、と彼女は自嘲的に笑って下り階段を一歩踏み出した。「僕は歳寄りだから」
「そういえばHさん何歳なんですか?」
雄太と永吉も彼女の後ろについていく。こうして後ろから見てみると、正面から見た時とは別のセクシーさが直に伝わって来て余計に体が熱くなる。
「女には秘密ってものがあるのよ」
自分で言って恥ずかしかったのか、そう言ってから「ごめんごめん」と笑った。本気で彼らがドキッとしたことなど露知らず、だろう。「二十代だね」
「なんかざっくりした回答ですね」
「まあいいじゃない」
さっきプロのギタリストだって言ってましたが、と永吉は訊いた。「スタジオミュージシャンですか? ライブやったりする人ですか?」
「ライブやったりする人だね。まあ、早い話が両方だよ。別にスタジオミュージシャンとかサポートギタリストとかってわけじゃないかな」
すごいなー、と二人は声を揃えた。そんな人に教えてもらってたのか、と改めて感動してしまう。
「Myuzickと会ったことあるんですか?」
「あるよ」
「まじっすか!」
ふと後ろにいる永吉を見てみると、今にも倒れそうなほど目がぱっくり開いていた。そしてこれが何かのチャンスだとでも思ったのか「どんな雰囲気でしたか!」「会話とかしたんですか!」と狂ったように質問攻めを始めた。
落ち着け永吉、と雄太は彼の口を鼻の穴を閉ざした。
大丈夫? とHは心配しつつも大笑いしていた。
階段を降り切ると、ふわりとした風が雄太の頬を擦り、Hの髪を揺らした。暑苦しい風ではあるが、コンクリに囲まれた階段に比べれば十分に涼しかったと言える。
この建物に自販機はない。ここは三階にギターショップ、二階に古着屋、一階に駐車場とトイレがあるだけの縦長のビルとなっている。このビルの両サイドにも所狭しと家や小さな店が並んでいるのだ。
自販機があるのは道路を超えた向かいの歩道。そちらにはこのビル六個分ほどの敷地面積を誇る二階建てのショッピングセンターがある。
「永吉くんは知ってるかな? ギター暴行事件で一度だけ弦を切り忘れてボディがステージに逆戻りしたことがあったって」
そこに向かうために横断歩道を渡っているとHが訊いた。
「知ってますよ」
そう永吉は頷いた。「ファンクラブ会報誌に載ってましたから」
「さすが」
やばい、ついて行けねえ。
この二人の会話を横目に雄太は複雑な心境だった。怪しい宗教に嵌まっている友たちを遠くから侮蔑するような心境に似ているかもしれない。
雄太は永吉ほどMyuzickに傾倒しているわけではない。CDなどは積極的に聞くがファンクラブの会員にまではなっていない。なので、永吉とHの深いファントークに入り込むことができないでいた。
悔しかったのか何なのか、「観客はどういうリアクションだったんだろうな」と雄太は投げやり気味に呟いた。
この演出は乱闘騒ぎが起こった時専用、つまり当の本人たちにも予期できない不定期だから仕方のないミスだろうけど。
飛ぶはずのギターが飛ばずにステージに逆戻り。「あーあ」みたいになったんだろうな。
そこまで想像を広げた時、Hはそれを見破ったのか「ううん」と首を振った。「観客の反応は他の会場となんら変わらなかったらしいよ」
「そうなんですか!」と永吉。
それは知らないんだな、と雄太。
永吉は「そこまでは会報誌に書いてなかったよ」とどこか恥ずかしそうだった。「僕もあまりいい反応じゃなかったと思ってましたけど」
「観客は成功を知らないからね」
なるほど。本当にこの人Myuzickに詳しいな。
でも、十分にヘビーなファンの永吉でさえ知らないそんなことをこの人はなんで知ってるんだ?
そう口にしようとしたが、撒き餌に食いついた魚のような永吉の方が早かった。
「Hさんが行った時がそのパターンだったんですか?」
「違うよ」
「じゃあどこ情報ですか?」
「鬼頭さん」
「そうなんですか!」
鬼頭は洋楽のハードロックを中心に様々なものを聴いていて、日本のロックも聴くが若手はほとんど聞かないと雄太は聞いたことがあった。「メジャーデビュー十年までは青二才の若手だよ」が口癖の鬼頭にとってMyuzickは十分若手に分類されるはずだ。
「若手のロックはMyuzickしか聴かない、とか言ってたね」
「結構ファンじゃないですか」
「中堅やベテランと比べたらまだまだだ、って酷評だけど」厳しいんだよなあ、とHは少し悔しそうに見える笑みを見せた。「あの人、『PARTY TIME』の時のツアー三回行ってるから」
「やっぱりファンじゃないですか」
「なんだかんだ言ってファンなんだろうね。ちなみにホールは二回行ってて両方ギター暴行事件が発生したみたいだよ」
「その片方がギター飛ばなかったやつですか」
「そう。二回目の方だね。だからあの人はそのミスをしっかり知ってるんだ」正解を知っている数少ない客のひとりだからさ、とHが言ったところで自販機に辿りついた。
そして彼女は千円札を自販機に挿入した。「さあ、何にする?」
「奢ってくれるんですか?」
「当たり前じゃないか」
男前だなあ、と雄太が呟くと、Hは「ハハハ」と苦笑いした。「周りの女の子よりは男っぽい自信あるよ」
「多分永吉より男ですよ」
「間違いない」永吉もうんうんと首を縦に振った。その表情は自虐的な笑みだ。「ボクなんて女の子と体力測定競うレベルですから」
「僕もそんなものだよ」
さあ、何でも選んで、とHが言ったので雄太は「じゃあ」とコーラを選んだ。
ふと隣の永吉を見てみると、少し複雑そうな顔をしていた。カルチャーショックにぶつかったような、難関小学校の算数の問題に首を傾げているような、そんな顔だ。
「どうした、永吉」
「いや、……なんでもない」
永吉は「ありがとうございます」と頭を下げながら一番安い水を選んだ。
「本当にそれでいいの? 永吉くん」Hは永吉の手にある水のペットボトルを指差した。
「いいんです。水好きですから。それに、なんか悪いなあ、って」
「永吉にとってはいつものことだから気にしないでいいですよ」
雄太は自由奔放で特に謙遜したりしない。その手にある三分の一ほどが既に消えているコーラがそれを物語っているだろう。
逆に永吉は奢られるのに弱い。食事でも何でも一番安いのを選んでしまうのだ。この前先輩がファミレスに連れて行ってくれた時だって頼んだのはサラダのみだった。
この話が続くのが嫌だったのか、永吉は「どうしてプロってあんなにミスらないんですかね」と話を切り替えた。
付き合いの長い雄太はともかく、Hもその流れに乗ることに異論はなかった。「プロだってミスってるよ」
「そうですか?」
「プロのプレイヤーとアマチュアのプレイヤーの違いって分かる?」
急にそんなことを聞かれたので雄太と永吉は顔を見合わせた。
まさかうまいか下手かって話じゃないよな、と雄太は永吉の目を見る。
違うと思う、と永吉の目は物話っていた。
そして彼らは同時にHの顔を見て「分かりません」と答えた。
仲いいね、とHは苦笑しつつも続けた。「アマチュアでもすごくうまい人はいる。プロでもそんなにうまくはないって人もいる。この二つの境界線ってどうもクリアじゃないんだよね。お金を稼ぐか稼がないか、って言うのも少し違うかもしれないし。だから人それぞれその答えを求めたがる。その中でもね、鬼頭さんはこんな答えを導き出したんだ」
横断歩道の信号が赤から青に変わり、彼らは再び歩き始めた。
「ミスをあたかもわざとのように見せることができるかどうか」
雄太たちは歩きながらもHに釘づけだった。
更にHは続ける。「難しいことをするわけだからミスはするんだよ。でも、そこで止まっちゃいけない。いくらミスが続こうとも決して曲は止まらないんだ。ギタリストは指を動かし続けないといけない。ミスをした時の動揺を限りなくゼロにできる人間こそ、真のプロなんだ」
横断歩道を渡りきったところで緊張の糸が切れたようにHは「ふふっ」と笑った。「ミスしても絶対に顔に出さないことだね。あとはアドリブがうまくなること」
そこで永吉が訊いた。「Hさんと鬼頭さんってどんな関係なんですか」
「師弟関係、かな」
「そうなんですか!」
ほんといいリアクションするね、とHは微笑む。「僕が高校生の時に出会ってね。徹底的にミスの対処法を練習させられたよ」
雄太の脳裏に鬼頭のムキムキな体が思い浮かんだ。
「襲われたりしませんでしたか?」
アハハ、とHは手を叩いた。「してないよ」
それにしても、と雄太は思った。「鬼頭さんが弟子をとってたなんて初めて聞きましたよ」
雄太たちと鬼頭の付き合いは彼これ二年ほどになる。一か月に一、二度しか会いはしないと言えど、雄太はお互いをある程度分かっているつもりではいた。
「あの人変なところで恥ずかしがり屋だから隠してたんじゃない?」
「恥ずかしがり屋? あんなファッションしていて?」
アハハ、とHは噴き出した。「ごもっともだね。まあ、ハードロックってそんなものだよ。ルックスは何でもいいけど心の内は見せたくない、みたいな。ギター燃やしたりプールに投げ込んだりして豪快ぶってるけどさ、みんな裏ではストイックに練習してるんだよ」
「できるかな、ボクに……」永吉は落ち込みの色に少し顔を暗くした。
永吉はいつも引っ込み思案で自分に自信がない節がある。雄太はそんな彼に少しだけ呆れてもいた。
だが、この時は真逆だった。永吉のその発言は裏を返すと「自分は少なからずプロを目指している」という意味になるからだ。
そんな、ある意味で感情を不器用に露わにしている彼を雄太は長い付き合いの中で初めて見た。そして、嬉しくなった。
彼はちょっとだけにやけてしまったが、永吉はHを、Hは永吉を互いに見つめて合っていたのでその姿は誰も見ていなかった。
「プロみたいなプレイはまだできないと思うよ」Hの優しくも真剣な微笑みは『甘やかしてはいけない』と意気込む母親のようだった。「君たちはまだ高校生だからね。僕だってそうさ。高校の時なんて一回ミスったらその後の二小節はパーになってた。でもね、それでいいんだ。だって、ミスに慣れるにはミスを重ねるしかないでしょ?」
「……うん!」
よし、いい子だ、とHは永吉の頭をくしゃくしゃと撫でた。永吉はちょっと恥ずかしそうに頬を染め、目をきょろきょろと周囲に向けていた。誰かがこっちを見ているのを発見すると、更に赤くなった。
「ところでさ、」永吉の頭から手を離したHは、楽器屋へ登る階段の前で足を止めた。「ちょっとトイレ行ってきていい?」
「あ、どうぞ」
「ごめんね」
Hは申し訳なさそうに小走りしながら駐車場の中へ消えていった。トイレはそちらにあるのだ。
ここまで三人の会話の中心には常にHがいた。その中心がいなくなったせいか、しばらく二人の間で沈黙が続いた。おしゃべりな雄太でさえなかなか言葉を出せずにいた。
その時だ。
「げふっ」コーラをハイペースで飲んでいた雄太がゲップをした。
すると、「ハハハ」といつものように永吉が目を細めた。「Hさんいなくてよかったね」
「オレのゲップは空気を読むからな」
「雄太よりゲップの方が頭いいんじゃない?」
おい、と雄太が制すると二人は一気に笑いだした。緊張の糸が途切れた、というのとは若干違うかもしれないが、よく似たようなものなのかもしれない。
おかげで雄太はためらいなく問いかけることができた。「なあ、永吉」
「なに?」
「お前、プロになりたいのか?」
「え?」
永吉は耳を赤くして目を逸らした。そのついでに周囲に目を泳がせている。
ほんと分かりやすいなコイツは、と雄太はつくづく思った。さっき彼自身も永吉に「分かりやすいなあ、雄太は」と言われたところではあるが。
昔、「お前、授業中時々あの女子に目が向いているけど、好きなのか?」と訊いた時と全く同じ反応だ。それから周囲にその子や知り合いがいないかを目を泳がせて確認し、雄太の耳元に口を近づけ、こそこそと「……ちょっと、ね」と言った時と同じだ。もちろん雄太は『ちょっと』でないことまで悟った。
この時も永吉は雄太の耳元で掠れた声を出した。
「ちょっと、ね」
すると、雄太は「……ハハッ、ハハハッ!」と腹を抱えて噴き出した。
「な、なに笑ってるんだよ人の本気を」
「いやっ、あのクソ真面目な永吉がギタリスト目指してるのかと思うとさ、ハハハ」
「いいじゃないか」
暑さなのか熱さなのか、永吉のおでこは汗でべったりだった。
雄太は嬉しかった。こうしていつも一緒にいて、気があって、打ち解け合っているのにどこか一枚半透明の薄い壁を張っているような永吉を初めて肉眼で見た気がして、すごく嬉しかった。こうして噴き出しているのも、嬉しいにやけを誤魔化すためなのかもしれない。
「永吉」
一通り腹を痙攣させた後、落ち着いたトーンで雄太は永吉の瞳を見つめた。
そんなもの珍しい彼の様子に永吉は少し戸惑ったのか、微かに眉毛を外側に曲げた。「なに?」
「一緒に頑張ろうぜ」
雄太は右の掌を永吉の頭上に向けた。
「……うん!」
永吉はそこを思いっ切り右の掌でバシンと叩いた。
手がジンジンとした。その痛みは、生きている心地のように気持ちよかった。「……ッ痛ってえなコノヤロウ」
「奇遇だね。ボクもすごく痛い」
ハハハッ、と二人は声を揃えて天に向かって笑った。
「見てろよ、オレたちの未来」
アンビエンスが数人訝しげに彼らに目を向け、足を止めることなく歩き去っていく。
そんな興味なさげな群衆をいつか後悔させてやる、と雄太の心の熱い部分が沸き上がっていた。
その熱が彼のどこにどんな影響を与えたのか、急激に尿意がひょこっと顔を出した。
「ちょっとオレもトイレ行ってくるわ」
「うん。いってらっしゃい。ボクはここで待ってるよ」
駐車場の中は日陰なので涼しいかと思いきや、湿気や熱気は十分すぎるくらいあり、ひとつもリラックスはできなかった。トイレに冷房が付いているわけでもないので「個室に入る人は大変そうだな」と雄太は思う。
「尿でよかったぜ」
しばらく歩き、曲がったところにトイレはある。そちらを見ると、女子トイレに十人ほどの列ができていた。そういう光景を見る度につくづく「男でよかった」と彼は思う。
この辺りでトイレとなると向かいのショッピングセンターになるが、あそこは規模の割に便器の数が少ないと評判だ。この周辺には他にもたくさんの店があるので、ここはいつも混んでいる。
「あっ」
その女子トイレの列の最後尾にはHがいた。
「Hさ~ん」
「あ、雄太くん」
そう答えてから彼女は少し恥ずかしそうに並んでいる女性たちに目を向けた。「Hさん」と雄太が呼んだせいだろう。
しかし、加害者の雄太はそんなことに気付かなかった。
「女子は大変ですね」
「そうだね」彼女はにっこりと笑う。「女の子はすごく大変」
本当に綺麗な顔だなあ、と雄太は改めて見とれた。多少男性的で凛々しい要素はあるが、それがむしろ美人さを引き立たせているようにも見える。
「じゃあ、オレは並ばずに入ってきま~す」
「いってらっしゃい」
雄太は小走りで男子トイレへと入っていった。その際、狭い通路でスーツを着た男性と肩がぶつかったが彼は気にしなかった。尿意の処理の方が大事だ。「すみません」とだけ言って便器に向かった。
便器は全部で五個。その内四つに先客がいてほんの少しお得感があった。雄太にとってそれは特売品の最後のひとつを手に入れたような感覚だ。
さっきまでここにいたのはあの男性だろうか。
なんでもいいか、と彼はジーンズのチャックを下ろす。
用を済ませて手を洗い、ポケットに手を突っ込む。
何も入ってなかった。
あっ、ハンカチ持って来忘れたな。
その時、シュッと布が擦れる音がした。出入り口の通路は大人の男二人でギリギリの狭さだ。
風で手を乾かすウインドクリーナーに目を向けると、ひとりがそれを使い、もうふたりが喋りながらその後ろに並んでいた。彼らもハンカチを忘れていたのだろうか。
待つのも嫌だったがこのままの濡れた手で外に出るのもはばかられたので仕方なく待つことにした。
一分くらい待っているとようやく自分の出番になり、ウインドクリーナーに手を突っ込むことができた。雄太の後に来たひとりはハンカチを持っていたようで、すぐに出て行った。
つまり、この空間には自分ひとり。
どうせだから乾ききるまで風浴びとこうか。
彼は手を様々な角度・形に変えながら次の客が入って来るまで入念に手を乾かし続け、外に出た。結局トイレには三分近くいたことになるかもしれない。
さあ、女子トイレのHさんはどこまで進んでるかな。
人の不幸を少し楽しみながらトイレから出ると、Hさんの後ろに三人ほど並んでるのが見えた。全員がおのおのケータイを触っているので、全員赤の他人なのだろう。
まだ増えるのか、アメーバかよ。
そんなかなり失礼な台詞はさすがの雄太でも口にしない。
Hさんの前にいるのが三人ほどに減っていたので「ファイトです!」と彼はよく分からないエールを送った。Hは「あ、うん……」と困惑気味に笑っていた。
さあ、永吉とアメーバの話で盛り上がろうか、と駐車場を出る角を曲がった時だった。
「ん?」
彼の中で、ひとつの疑問がふと思い浮かんだ。
……あれ?
「……ま、いいか」
――細かくないことまで気にしないのが雄太の悪いところだよ。
「それがオレだからな」
「よお。遅かったな」
アンガス・マルムスティンに戻ると、店のカウンターの奥で退屈そうにアンプに繋いでいないエレキギターを弾いている鬼頭がそう言って出迎えた。格好は相変わらず赤い角が生えたアンガス・ヤングだ。
「トイレが混んでたもので」
「なるほどな」ニシシ、と鬼頭はよく分からない笑い声を上げた。
何かを企んでいるのか、と今日が誕生日の永吉は心の中で目を細めた。
「お前ら。あと四十分、頑張れよ」
「はい!」
その時、カウンターの後ろのドアが開き、誰かが入ってきた。
「やっと来たか。遅いぞ」
「急に呼んでおいて何なんですか」
あ、アルバイトの人だ、と永吉は気付いた。「今日来ないんじゃなかったんですか?」
「元々は休みとってたんだけどな」鬼頭が答える。「これからお前らの練習に付き合ってやろうと思って急遽呼んでやったんだよ」
そんな理由なんですか! とアルバイトの青年は頭を抱えた。「『今すぐ来てくれ! 緊急事態だ!』なんて言うからデートすっぽかして急いできたのに」
「リア充爆発しろって意味だ。T.N.T!(AC/DCの曲名。爆薬の意)」
「最低な店長だ……」
「いいだろ。この瞬間だけ時給二千円にしてやるってMoneytalks(AC/DCの曲名)したんだから」
「ですけど……」
「じゃ、一時間接客頼んだぞ」
「はい……」
「ってことで、スタジオ行こうか」
ブラックだなあ、と雄太は感心するように呆れた。
ほんとにね、と永吉とHははにかんで頷いた。
そして永吉が先陣を切ってスタジオへと歩を踏み出した。「さあ、早く練習しよう」
「成長したなあ、お前」
「なんか言った? 雄太」
「いや、なんでもない」
「?」
よく分からなかったが、永吉は「それよりも練習!」とスタジオへの一枚目の扉のノブを掴んだ。「鬼頭さん、鍵」
「はいよ」
「ありがとう」
鍵を穴に差し込んで開けると、タックルするようにして扉を押し開けた。二枚目も同じように開けた。
なんだか分からないけど、力が溢れて来る。
彼はそう実感した。元気玉ってこんな感じなのかも。
だが、扉を開けてギタースタンドに目を向けた時、彼は愕然とした。
「え?」
ギターは三本立っているはず。永吉と雄太と、H。なのに二本しか立っていない。残り一本はピラミッド型のスタンドと共に床に倒れ、ネックの根元から折れていた。
それは、永吉のギターだ。
「……」
あまりの光景に、声が出なかった。
どうした、と永吉の影から顔を覗かせた雄太はそれを見て「あ!」と痛々しい声を上げた。Hも「あっ」と息を止めた。最後尾に立つ鬼頭は何も言わず、黙ってそれを見ていた。
「僕の、ギター……」
永吉は生気が抜けたようなか細い足で一歩一歩、今にもこけそうになりながら倒れているギターへと近づき、しゃがみこんだ。
ボディとネックがバラバラになっている。張っているはずの弦がたるんで無残に広がっている。誰かがギターのネックを逆に握り、ボディを地面に叩きつけたみたいに割れている。
「僕の、ギターが……」
このギターは一学期と夏休みに必死でアルバイトして稼いだお金で買ったギターだ。彼のいる学校はアルバイト禁止で、引っ込み思案の彼は校則を破りたくなんてなかったが、それでも欲しくて働いた。
Myuzickが大好きだから。ギターが欲しかったから。結城さんのプレイに憧れたから。
「なんで……」
まじかよ、と後ろで雄太は締まりなく呟いた。
彼は永吉の努力を知っている。学校から帰ってすぐにバイトへ行き、寝る間を削って学校の勉強をしていた姿を知っている。授業中思わず眠ってしまって、後で「ごめん! ノート見せて!」と雄太に頭を下げたことだってあった。もちろん、見せないはずがない。先生のものまねをしながら授業を再現だってした。
そんな尊敬する親友の落ち込む後姿に、雄太の目は弱々しく震えていた。
「僕もあるよ、こういう経験」Hは永吉の横に立ち、視線の高さを揃えて腕を永吉の肩に回した。「泣きそうになるよね」
すると永吉の目から一筋、涙が零れた。そして、ダムが決壊したように次々と流れ出した。「なんで……っ」
そして、永吉は死んだギターを抱え上げ、抱きしめた。「なんで!」
その悲痛な叫びに、鬼頭もHも何も言葉をかけられずにいた。
だが、ただひとり親友である雄太は違った。永吉を少しでも元気づけなければ……! という使命感に駆られていたのだ。
これはっ……、と彼は口を開いた。
「これは、ギター殺人事件だ!」
しん、と音が響かない作りになっているスタジオが静まり返った。
その空気をどう扱うべきか、と思ったのかHの目が鬼頭に向いた。すると、その目から何を読みとったのか、彼は「AC/DCか」と冷静にツッコんで恥ずかしげな笑みを浮かべた。
更にHも乗っかった。「殺『人』じゃないけどね」
「細かいところはともかく、細かくないことまで気にしないのがオレの悪いところだよ」
すると、永吉の口元が微かに緩んだのが見えた。
作戦成功、と雄太は永吉の反応に実感を握りしめる。やっぱり最後にものを言うのは経験と実績だ。永吉が恋した女の子がクラスメイトの男子に獲られて落ち込んでいた時だってそうだ。今よりも精神的に幼かった雄太が「これを機に、ホモになれ」とからかってみても永吉は「アホか」と笑って元気を出したのだ。
しかし、少し口元が緩んだだけで永吉は無反応だった。
あっそうか、と雄太は気付いた。
今日は特別な日だったんだ。
それを知らないHは中指で永吉の肩をトン、トン、と優しく叩いた。「永吉くんって本当にいい子だね。ギターのために、そんなに泣くことができるなんて」
「……」永吉は閉口したままだ。
Hは「う~ん」と唸った。永吉を慰める言葉を暗中模索しているようだ。
「実はですね、」少し躊躇いがちに、言いにくそうに、でも言わなければならない、と葛藤しながら雄太は言った。「今日、永吉誕生日なんですよ」
「そうなんだ……」
Hは「これは困ったな」という顔だった。
だが、それ以上に困った男が隣にいた。
鬼頭だ。
「あ、そういえばそうだったな」
「はぁ?」雄太は驚愕し、腹の底からグワッと怒りの言葉を連射させた。「まさかプレゼントとか用意してないんですか! この前今日が誕生日だって言ったじゃないですか!」
ここに来る前に永吉に言い当てられたように、雄太は先週「次の日曜日永吉誕生日なのでプレゼントとかサプライズとか用意しててくださいね」と頼んでいた。もちろん社交的で乗りがいい鬼頭は「当ったり前田のクラッカーだ!」とグーサインに加えウインクまでしたのだが、このありさまだ。雄太が怒るのも無理はない。
「悪いな」
「悪いな、じゃないですよ! 最低な人間だ! ここに最低な人間がいるぞ! みんな、逃げろ! こいつに触られると『最低な人間』症候群に感染するぞ!」
「だからごめんって。ほんとごめんって。だから人を変な症候群の患者にしないでくれ」
また永吉がほんの少し口元を緩めたが、所詮は『ほんの少し』でしかなかった。
さあ、どうすべきか。
雄太が真剣に考えていると、永吉の隣にいるHが立ち上がりながら「一体誰がこんなことを……」と目を曇らせた。
「この際うちのバイトになすりつけてやろう。これでイーブンにして給料を過剰に払わずに済むな」
「そんなことしたらとうとうあの人辞めますよ」
ウウン、と雄太はわざとらしく咳をし、「とにかく、」と続けた。「永吉のためにも、犯人が誰かを突きとめる必要がある」
鬼頭もHもそんな雄太の目をじっと見ていた。坂上がりの練習をする子供を見守る親のような優しい目にも、テストに取り組む生徒を監視する先生のような鋭い目にも見える。
「まず、ここには鍵がかかっていました。出る時にしっかりと確認したので間違いないはずです」
だね、とHは頷く。「間違いないよ。そして、鍵をかけた僕は鬼頭さんに鍵を渡した」
「鬼頭さんは誰かに鍵を渡したりは」
「してないな。仮にも店長だからそんな馬鹿な真似はしない」
「つまり、このスタジオは密室。で、その鍵を持っているのは鬼頭さんただ一人」
鬼頭は「そうだな」と呟いてから雄太に鋭い眼光をぶつけ、それから自虐的に微笑んだ。「つまり、一番怪しいのは俺ってわけだ」
「はい」
じゃあ、と鬼頭は笑顔を封じ込めた。「動機はなんだ? 一ギターショップの店長が大量生産品のレスポールを割る理由がどこにある?」
それが問題なんだよなあ、と雄太は呟く。
このギターは永吉にとってかけがえのない大切な一品だ。相棒、と言ってもいいかもしれない。ギターショップの店長としてはもちろん、人間としてそれを壊す理由もない。
となれば、残るはHか他の誰か。
「鬼頭さんは、オレたちがいない間も接客とかしてましたか?」
「ああ。さっきのエロそうな大学生男子三人の後に電話対応したぜ。五分くらいだったと思う。その間なら俺に気付かれずにスタジオ行けるかもな」
アンガス・ヤングの格好で電話対応とは、なかなかシュールな光景だ。
まあ、何はともあれ、「鍵はちゃんと管理してましたよね?」
「ああ。肌身離さずな」
「じゃあ、ここは完全に密室に……いや、」理論的思考に弱い雄太の閃きがこの瞬間、光った。「ひとりだけこの密室の鍵を開けられるぞ……」
おっ、と鬼頭は新展開を楽しむようなウキウキした声を出した。
その反応が妙に心地よかった。くすぐったくもあったが、それがむしろ快感でもある。
なるほど、刑事ドラマの刑事たちはこの快感のために推理ショーなんて無駄なことやるわけだ。
「こんな仮説はどうですか? 鬼頭さんが預かった鍵が偽物だとしたら」
「偽物?」
鬼頭がそう眉を曲げると共に、この先の展開を察したのかHの口角が上がり、白い歯が顔を出した。「なるほどね」
さっきからHと目が合わない、と雄太はふと思った。よく見ると、彼女はさっきからずっとうつむいて地面に目を向けている。
なんだ? 何か落としたのか?
考えても分からなかったので、ウウンと喉を鳴らして雄太は続けた。「オレたちは確かに鬼頭さんから貰った鍵でスタジオに入りました。出る時もです。でも、鍵を閉めたのもその後鬼頭さんに渡したのもHさん。つまり、Hさんだけはすり替えることができる」
やっぱり、と呟いてからHはうつむいたまま「今度は僕が疑われてるわけだ」と妖艶に微笑んだ。
「はい。相鍵を作る手段とかは分かりませんが、それを置いておくとできないこともないと思います」
「なるほど」
Hは『犯人扱いされるのも、また経験』とばかりに状況を楽しんでいるように見える。
雄太は続ける。「何よりHさんは怪しい」
「怪しい?」
――細かくないことまで気にしないのが雄太の悪いところだよ。
でも、気になったものは仕方ない。
「さっきジュース買いに行って、その帰りにトイレ行った時のことですよ。Hさんがトイレに行ってからオレと永吉は喋ってました。で、その後オレがトイレに行くまで三分くらいはあったと思います。オレがトイレに着いた時、Hさんは最後尾にいましたよね。おかしくないっすか、これ?」
「どうして?」
「あの女子トイレはかなり混んでいたはず。オレが小便済ませたり手洗ったり乾かしたりで大体三分。その後、トイレから出た時、Hさんの後ろには三人くらいいました。あのよく混む女子トイレに三分も並んでて後ろに誰も現れないのは不自然じゃないですか?」
ふふっ、とHは図星を突かれたように笑い、久しぶりに顔を上げて雄太と目を合わせた。
でも、認めるつもりはないようだ。「そういうこともあるよ」
「怪しい」雄太は目を細めてHの目を「離すもんか」と睨む。
その視線が痛かったのか面白かったのか、Hはにやけていた。そして、言い逃れするように早口になった。「実のことを言うと、ひとり来たよ。でも、さほど尿意なかったから譲ったんだ」
「ホントに? 人を待たせている人間が?」
そう来たか、とHは親指と中指で眉間をつまんだ。「これはミスった」
「絶対に怪しい」
何故か雄太の隣で鬼頭が「ガハハ」と笑っていたが、それについて『細かくないことまで気にしない』雄太はスルーして問いかけた。「あなたの弟子怪しいですよね?」
「弟子?」そう訝しむように恥ずかしむように鬼頭は口を曲げた。
あの野郎、そんなこと言いやがったか、と赤い顔でHを睨むと、Hは手をパンパン叩いて「アハハ」と大笑いした。
「?」そんなふたりだけの空気感に、雄太は完全に取り残されていた。
え、なにこれ。「どうしたんですか?」
「なんでもない。気にするな」
「鬼頭さんが恥ずかしがりやなだけだよ」
「おい。とにかくだ、気にするな」
気にするなと言われたら気にしたくなる。
それが人間の本望だ。
しかし、雄太は「じゃあ気にしないでおこう」と気にしなかった。
「話戻すけどさ、雄太くん」一通り笑った後、Hは眼鏡の奥から力強くキレのある目つきをちらりと覗かせた。「第一、僕にも動機がないよ」
「いや、分からない」雄太はガッと一歩Hの方に踏み出した。「鬼頭さんとは長い付き合いだから悪い人でないのは分かる。すごくいい人だ。でも、Hさんはまだ数時間の関係。もしかすると、かなり極悪非道な捻くれクズ人間なのかも!」
小学生の時に習ったぞ! 人は見かけによらないと! と彼はHを勢いよく指差す。
アハハ、と彼女は自虐的に笑った。「酷い言われようだね、僕」
と言っても、雄太は本気で言っているわけではない。真相が分からなさすぎて自暴自棄に適当なことを捲し立てているだけだった。Hがいい人すぎるくらいいい人なのは疑う余地すらないほど分かりきったことだった。
オレは頭が悪い。でも、人を見る目だけはあるはずだ。
彼は常々そう思う。顔が広いのに彼の友達にはひとりも万引きを自慢するような輩はいない。それなりにセンスで取捨選択ができるのだ。
とりあえず、雄太は考え方を変えることにしてみた。犯人がどうしてそんなことをしたかではなく、どういうポーズ、どんな感情でそんなことをしたか、だ。
犯人はこの部屋に侵入し、三本あるギターの内、一本を選んだ。でかいハンマーを持つようにボディを外にして握り、それを思いっ切り頭の上から降り下ろす。
あー痛い!
想像しただけで顔が歪んでしまう。
次に犯人はどんな心情でそんなことをしたのかを彼は考えてみた。
何かの恨みを込めて? それとも殺人鬼のように愉快的に? それとも、Myuzickの『ギター暴行事件』のように?
もしや、犯人はあの時の結城さんの気持ちになりたかったファン?
雄太はまずHに目を向けた。彼女は相変わらず地面に目を向けている。
Hさんはファンクラブの会員ナンバー一桁のヘビーなファンだ。あり得なくはない。
いやでも、Hさんはそんなことをする人じゃない。これはオレのシックスセンスに賭けて間違いない。
次に、実はMyuzickが好きらしい鬼頭に目を向ける。小柄なアンガス・ヤングならともかく、大柄で筋肉質な鬼頭は誰がどう見てもスクールボーイスタイルが似合っていない。
この人ならありえるかも。いや、ギターショップの店長ならわざわざ永吉のものを使う必要なんてない。いくらライブで実際に使っていたモデルだとは言え、大量に生産されているものだ。適当に取り寄せることだってできたはずだし、わざわざ永吉を傷つけることをするわけもない。
じゃあ赤の他人? それこそ動機が見当たらないし、そもそもどうして永吉のギターが『ギター暴行事件』のものだっと知ってたんだという話になる。ここに来るまでギターにはケースがされていたし、このスタジオは外からは全く見えないようにできているし。
つまり、また振り出しだ。
「あー、もう! 分かんねえ!」ガリガリと頭を掻き、シャカシャカと髪を摩擦させる。
今すぐ野球ボールを持って来て地面に投げつけたいくらいだった。「むしゃくしゃする!」
「どうする? うちのバイトを犯人に仕立て上げようか?」
「そうしよう! よし、永吉の分まで俺があいつをタコ殴りしてやる!」
「だからそれは駄目だって」
じゃあどうすれば! と喚く雄太からHは目を背け、再びギターを抱きしめて体育座りしている永吉の元にしゃがみこんだ。
「それ、大事なギターなんだよね」
コクッ、と永吉の首が縦に振れた。
永吉はうつむいたままだったが、Hは優しく宥めるように微笑んだ。
「ちょっと貸してもらってもいい?」
「……」
少し躊躇っている時間はあったが、すぐに彼は二つに割れたギターをHに差し出した。
「……なるほどね」
雄太が騒ぐこの部屋の中にその言葉がポツリと滴れたのに気付いたのは、息がかかるほど近くにいる永吉だけだった。
……なるほど?
久しぶりに永吉は顔を上げた。暗闇に慣れた目にはスタジオの証明とHの微笑みが明るすぎて思わず目を細めてしまう。
さっきから彼は雄太や鬼頭たちのやり取りを耳に入れていた。自分がギターを失った痛みから笑いが生じているのは、物事を考えるのが苦手な雄太が自分のために頑張ってると捉えれば嬉しかったが、何故かネガティブな感情まで思い浮かんでしまい、なんとも言えない心情だった。
そんな中、「それ、大事なギターなんだよね」という女性としてはやや低く凛としたHの声は、曇った心にほんの少し穴を開けて青空を見せたように感じた。
また、ギターをHに渡した時、永吉の右手の先が彼女の指の先に触れた。ほんの少しの面積だったのに、ギタリストらしい皮の固まった指先だったのに、まるで手全体を柔らかく包み込んでくれたみたいに温かかった。
ドキリともキュンとも言えない不思議な胸の高鳴り。じわじわと上がる体温。額ににじむ汗。
エアコンではとても抑えられない気恥かしさがあり、永吉はまた暗闇に目を移してしまう。しかし、瞼の裏に写るのは悲惨なギターではなく、Hと自分の指先が触れた瞬間をサイドから捕えた想像の絵画だった。さっきまで悲しかったはずなのに、口元が緩んでしまう。
雄太のギャグを目にした時よりも、きっと、今のボクの顔は気持ち悪いんだろうな。
彼はそう思いながら膝と腕に顔をうずめる。格好は同じだが、さっきまでとはあきらかに感情は違っていた。
「分かったよ、真相」
その声は永吉には少し高い位置から聞こえた。立ったのかな、と顔を上げてみると、やっぱり立ちあがって雄太たちの方を向いている。
永吉の顔のすぐ横には黒のスキニーパンツが位置し、思わず釘づけになってしまう。
「分かったんですか!」
永吉のドキドキなど目もくれず、雄太は自前の大声を出した。
「多分ね」そう言って彼女は一歩だけ前に踏み出した。
すると、彼女の脚に向いている彼の首は更に大きく外に回り、永吉は座りながらこけた。
何やってんだお前、と雄太が冷たい目線を向ける。
いや、ごめん、と永吉は色々な恥ずかしさを誤魔化しきれず、パンク寸前になっていた。体中の穴という穴から煙がぴゅーっと噴き出してしまいそうで、今すぐここから出ていきたい衝動に駆られる。
でも、これは自分のギターについてのことだ。逃げるわけにはいかない。
永吉はギターを床に置き、右手をついて立ち上がった。すると、Hの顔と自分の顔があまりにも近く、彼は一歩下がった。
にこり、とHは彼に微笑みかけ、言った。
「アクシデントじゃないかな」
「あくしでんと?」
「うん」事故ってこと、と彼女は続ける。「スタンドも一緒に倒れてるでしょ。誰かが握って地面に叩きつけたなら、スタンドは倒れないはず。それに、床にもっと傷が付いていてもいいはずだよ」
「確かに」
ギターを割る、と聞いて永吉は叩き割るような絵を想像していた。でも、それならどこかに大きく傷がつくはずだ。休憩前にギターを倒してしまった時でさえ小さな傷が付いたのだから間違いない。
「時々あるじゃない、スタンドごと倒れること。このスタンド、折り畳み式のあまりいいやつじゃないから勝手に倒れても不思議じゃないよ。もしかしたらちょっと狭めにセッティングしてたんじゃない?」
そう言われ、永吉は責められたような気になった。その感情を顔つきから読み取ったのか、Hは「責めてなんかないよ」と微笑んだ。
正直なところ、永吉はスタンドの幅なんて覚えてなかった。でも、言われてみればそんな気もする。「言われてみれば……そうかも」
気弱な永吉をかばうように雄太は「でも、それだけで割れるのか?」とHを見た。
「一回だけじゃまず割れないね。でも、今までのダメージが蓄積して、その結果ちょっとしたダメージで割れちゃうことだってあるんだよ。さっきだってさ」
「あっ……」
休憩の前、スタジオに出る時に不注意で自身のギターを床に落としてしまったことを永吉は思い出した。
他にも、思い出してみればギターにとってよくないダメージがこれまでたくさんあった。ギターを倒してしまったことだってこれが初めてじゃないし、メンテナンスだって今までほとんどしてこなかった。
そういう塵のようなわずかで小さなものが、積もり積もって大きな悲劇を生みだしてしまった。
そう思うと、後悔だらけだった。
何が自分で汗水垂らして買ったギターだ。その割には水分補給のひとつもさせてあげられなかったじゃないか。
永吉の目は曇りに曇り、灰色になった。さっきまでよりも落ち込んでいるかもしれない。
「ごめんなさい」
「永吉くんは悪くないよ。高校生や大学生なんてみんなそうだって」
うんうん、と雄太も噛み締めるように頷いている。
だな、と鬼頭も首を縦に振った。「学生時代、何本のギターをあの世送りしてしまったことか」
「そんな人がギターショップの店長やってるんだから世の中救いがあるってものだよ」
「何気にすごい悪口だな、それ」
そう言われると、永吉は少しだけ安心できた。
確かに悪いのはボク。でも、これを教訓にこれから頑張ればいいさ。
「鬼頭さん、学園祭の時にギター貸してくれますか?」
「当ったり前田のクラッカーだ! ただで奉仕してやるよ」
ありがとございます、と永吉は頭を下げた。その頭を上げた時、Hの微笑む顔が見えた。
「よし、一件落着だね。じゃあさ、ちょっと演奏してみようか。パーっと行こうよ!」
「うん!」
「永吉くん」
「なんですか?」
残りの時間を使ってセッションすることが決まり、鬼頭が「俺がドラムやってやるよ。雄太、お前はベースだ。ルート弾きぐらいできるだろ」と雄太にベースを渡した。彼は一瞬表情を分かりやすく曇らせたが「仕方ない。これも経験だ」とそのポジションを素直に引き受けた。
その決定の後、Hは自身のギターを永吉に向けて言った。
「これ、使っていいよ」
「……え?」
永吉に向けられたギターは彼が使っているものより遥かに高価なものだ。しかも、Myuzickの結城がよく使うモデル。
そんなレアなものを自分が使ってしまう日が来るなんて、彼は妄想でしか考えたことがなかったのだ。にやけと共に謙遜の気だって出てしまう。「ボクにはそんなもの……」
「大丈夫だよ。このギターは君によく似合っている」
「……」
「僕は雄太くんのを使わせてもらおうかな。いいよね?」
いいですよ! と返事が来ると彼女はにっこりと微笑み、優しく永吉に告げた。「さっき言ったよね。『できるかな、ボクに……』って。プロになりたいんでしょ?」
「……」
魅力的な女性に見つめられていることに、自分の本心を見透かされたような気恥かしさに、全裸で町に放り出された気分で顔が熱くなる。
でも、ここで否定しちゃ、ボクの夢までも否定することになってしまう。
彼は固く決意し、まっすぐな目で「はい」と頷いた。「プロに、なりたいです!」
「よし。その心意気があるならこのギターを使えるはずだよ。このギターはね、やる気のある人にはすごくよくなつくんだよ」
そして、彼女は再びギターを差し出す。永吉はそれを両手で握った。
すごく重たかった。物理的な重さもあるけど、それだけじゃない何かがある。
ここには、ボクには想像もできない何かが詰まっているんだ。
彼は一瞬でそう理解した。
そして、演奏が始まった。進行はC―F―G―Cのシンプルなメジャースリーコード。ドラムの鬼頭とベースの雄太は音を鳴らし続け、永吉とHは交互にコード弾きとアドリブ演奏を繰り返していく。エンドレスだ。
と言っても、永吉はアドリブなどペンタトニック・スケール九割のごくごく簡単でお世辞にもうまいとは言えないものしかできない。
でも、Hによるとそれでもいいらしい。問題は『そこに魂を込められるかどうか』だ。
一周目、まず永吉は今日ここに来たウキウキした気分を跳ねたメロディーで表現した。ところどころ音を外してしまったかもしれない。でも、それが逆にいい味を出していたかもしれない。
そして何より、
このギターすごく音がいい! 同じレスポール・スタンダードだけど、ボクの安物とは比べ物にならない!
Hにバトンタッチすると、彼女は永吉の使ったフレーズを被せてきた。そして語尾だけを変え、自分のものにしていく。すごく明るいメロディーだ。
僕も今日を楽しみにしてたよ、と伝わった気がした。
二周目、永吉はこのギターの豊潤で煌めくような音色への感動を伝えようとチョーキングを多めにゆったりと、時に自分のできる限りの速弾きを行った。
それにHは「そのギターいいでしょ。お気に入りなんだ」と答えたような気がした。
三周目、頭に「はい!」と高音のパワーコードをスタッカート気味に入れると、彼は少し不安な気持ちになった。それは、このギターを弾けるのが今だけだと気付いたからだ。Hとそんなに頻繁に会えるわけもない。
途中から少しマイナー気味の音色が響いた。そう意識したつもりなど彼にはなかったが、自然とそうなったのだ。
すると、Hもマイナー系のせつないフレーズから入った。メジャーコードでそれを弾いているせいか、不思議で独特な響きがある。
それがどういう意味なのか、永吉はよく分からなかった。
何度かギターで不器用な会話を――ところどころ微かにすれ違いながら――していると、鬼頭が最後の二周を合図するシンバルを鳴らした。
永吉は既にネタを出しつくしていた、なんならこの数分の間で何度も同じフレーズを交えている。そんな中、彼が唯一言い残していた感情がひとつだけあった。
Hへの気持ちだ。
尊敬はしている。それは間違いない。大好きだ。
でも、その大好きが「Like very much」なのか「Love」なのか、自分でも分からなかった。 とにかく、「好きです」と彼は音色に乗せて伝えた。Myuzickのラブソングに登場するフレーズも入れてみた。
最後にMyuzickがよく使うソロ終わりのフレーズを弾いてみた。全ての曲で微妙に違えど、理論的に分解していくと大体同じになるらしい。
すると、そこにHはハモリを乗せてきた。打ち合わせなしのアドリブなのに。
すごい……すごい!
永吉はひたすらに感動した。ギターを演奏していて気持ちよくなった瞬間は数え切れないほどだけど、こんなに気持ちが高ぶったのは初めてかもしれない。
好きだという感情は伝わったようだ。でも、彼女の演奏を聞く限り、「Love」の方の「好き」だとはこれっぽっちも思ってないように永吉は感じた。ちょっと悲しいような、安心したような。
それにしても……。
永吉はじっと彼女の指使いを見ていた。その中で気付いたことがある。
ライブDVDで見た結城さんの指使いそっくりだ。いや……。
HはMyuzickを研究していると言っていた。だからこそ、これだけプレイスタイルが結城さんに近いのだろうと、さっきまで思っていた。
でも、そっくりなんてものじゃない。これは、同じだ。
使っているギターも機材も違うだろうから表面的な音は全然違う。でも、その奥底、根深い所にある『個性』の部分がCDでよく聞くものを思い出させたのだ。
もしかして……。
彼はじっとHの顔を見つめた。
やっぱり、そうかも……。
永吉に最後の番が回ってきた時、彼はその気持ちを伝えた。
もしかしてあなたは……。
すると、彼女は恥ずかしそうに口角を上げ、バトンを受け取った。
そしてHは結城春のテクニック全開の速弾きでそれに答えた
「鬼頭さん、どうやらばれっちゃったみたいだよ」
「らしいな」
ドッキリの仕掛け人が被験者にネタバラシするように、ふたりは少年的で明るい笑顔を浮かべた。
その隣でベースアンプの電源を落としながら雄太は「?」と首を傾げている。永吉の全身がガクガクブルブル震えているのを見ながら。
「ほ、ほホほ、本当にですか……?」
「うん。本当にだね」
永吉は今にも腰を抜かしてしまいそうだった。後ろに倒れ、気を失い、次に目覚めた時は病院かもしれない、なんて思ってしまう。
いや、三途の川か……?
ふふっ、とかわいらしく――でも女性にしては低めの声で――笑い、Hははっきりと告げた。
「その通り。僕がMyuzickの結城春だよ」
うきゃー! と奇声を上げて彼はまっすぐ後ろに倒れていった。
さよならお母さん! 次は天国で会いましょう!
そんな謎の決意をして目を瞑った時、手が誰かに掴まれ、引っ張り上げられた。
「大丈夫?」
目を開けると、そこにはH――正真正銘の尊敬するギタリスト――がすぐ近くにいた。
大丈夫では、ない。
うキャキやゃきゃじゃきゃきゃkじゃあyかしうあぱdじふつあsでjふぃえぱー。
とりあえず座らせようか、と鬼頭が永吉を腰かけさせると、彼の視界に雄太が入った。彼は彼で驚愕している。今にも鼻水とよだれが世界で一番汚いミックスジュースを作りだしてしまいそうだった。
「本当に……Myuzickの人……?」
「うん。本当にMyuzickの人」
「結城さんって……、女装癖あったんですか!」
「ないよ!」
うわー、チョー引くわー! ギタリストってやっぱ変人ばっかだったんだー! と雄太は囃し立てるように騒ぎ立てた。
「待って! これには深い事情が!」と僕っ娘Hもとい男の娘Hが叫ぶ。その隣で鬼頭が腹を抱えて大笑いしている。
「深い事情ってなんですか?」
まだ心臓がバクバクと震えあがっている。それを少しでも抑えよう抑えようとしながら、永吉は結城春の話を聞いた。
「鬼頭さんに頼まれたんだよ。俺のかわいがっている高校生が次の日曜日に誕生日らしいから来てくれ、って」
「え?」
覚えていたんですか?
永吉が黙って鬼頭に目を向けると、彼は目線を宙に浮かせて「当たり前だろ」と照れくさそうに呟いた。「忘れてたなんて嘘ついて悪かったな」
「え、いや……」
昔からこの人はこうなんだよ、と結城がポツリとこぼすと、鬼頭は彼女、いや、彼を睨んだ。
それを見て結城は「ハハハ」と笑い、続けた。「正体を隠して練習を見てやってくれ、って依頼されて。でも、その子――つまり永吉くんはMyuzickのファンらしいから気付かれるでしょ、って指摘したんだ」
「それなら心配ない、って俺は言ってやった」鬼頭は得意げに補足を加えた。
「で、来てみたら女性服とロングヘアーのカツラと化粧品が用意してあったってわけさ」
「こいつは華奢で女っぽいし、顔も中性的だから絶対似合うって思ってたよ」
蓋を開けてみたら実際に超絶美人が生まれたわけですか。
永吉がそう呟くと、「おう」と鬼頭が答え、結城が「そんなことないよ」と顔を赤らめて手をぶんぶんと振った。その仕草がまた女性っぽい。言われてみれば声は男性だが、女性と言われれば『低めの女性』として誰もが疑わないはずだ。
それにしても、かわいいな。
Hが男であると分かっているのに、その魅力が一向に衰えないのはどうしてだろう。永吉は不思議だった。
ちなみに眼鏡は自前だよ、と結城は続けた。「僕ってさ、町中でほとんど声掛けられたことないんだよ。やっぱりうちの顔は前田一太郎だし、テレビやラジオでも基本的に他の三人ばっかり喋ってるからね。僕は影が薄いんだ」
現に永吉と雄太も今の今まで気付かなかったしな、と鬼頭は勝ち誇ったように白い歯を見せた。
言われてみればそうだった。Myuzickのラジオを聞いていても減らず口のベーシスト高木とフロントマンの前田が中心となって喋っている。大阪育ちのアメリカ人であるドラムのジェイクもそれなりによく喋り、結城は「ははは」とか相槌ばかりのイメージ。
どうりで永吉にも分からなかったわけだ。
「で、それからは知っての通りさ。君たちと落ちあって、ギターを教えて」
「ところで、」永吉はさっきから思っていたことを訊いた。「仕事とかは……?」
「今はレコーディングしかしてないから大丈夫だよ。まあ、予約は入れていたからメンバーにちょっと怒られたけどね。でも、ファンへのサプライズだって説明したら『行って来い!』っていい意味で踵返されたよ」
なるほど、実にMyuzickらしい。
それにしても、と彼は思う。
自分の誕生日のためにプロのミュージシャンが駆けつけて来てくれたって、すごいよね?
また脚がガクブルと震え始めてきた。座っているのに。
やばい、今度はちびるかも。
「でさ、」そんな永吉のピンチなど知らないのだろう、雄太が尋ねた。「なんで鬼頭さんが結城さんを連れてこられたんですか? 過去に面識でも……」
その質問に結城は口角を上げた。「言ったじゃない。鬼頭さんは僕の師匠のようなものだって」
あっ、と永吉と雄太は同時に零した。
「鬼頭さんそんなすごい人だったんですか!」
「勘違いされちゃ悪いが、こいつと関わりがなくても俺はすげえやつだぞ」
まさかこんな事件が起こるとはね、と結城は呟く。「まあ、サプライズは成功だったのかな?」
「それは永吉が喜んでくれたかどうかで決まるんじゃねえか?」鬼頭はニヒヒと笑い、永吉を見つめる。
結城も雄太も彼に目を向けた。
永吉の中で、正解は既に出ていた。
「はい。すごくびっくりしました」
よかった、と胸を撫で下ろす結城を見ると、永吉は「今日は最高の日だ」と実感することができた。
ギターは折れちゃったけど、こんなに充実した一日は初めてだ。
「最後に、永吉くんへの誕生日プレゼントを渡さなくちゃね」
「なんだ、お前そんなものも用意してきたのか」
「用意はしてないよ。でも、永吉くんのギターが割れちゃったんじゃしょうがない」
まさか、と雄太は目を見開く。
永吉は何がなんだか分からず首を傾げる。
すると、結城は自身のギターが入っているギターケースを持ちあげ、それを永吉に渡した。
「……え?」
「それ、あげるよ」
その台詞は『ギター暴行事件』で宙に飛ばしたギターをキャッチした観客に向かって結城が壇上から言った台詞だった。
「……え?」
それが、この耳に再び、更に自分に向かって届き、彼はパニック状態になっていた。しかも、あげられたのは折れたギターではなく、結城の血と汗が滲み込んだ愛用のギターなのだ。パニックになるのも仕方ない。
「……え?」
慌てるでもなく、ただただ状況が読めずに声が出なかった。思考が回らなかった。
目をパチパチさせる永吉が面白かったのか、結城は小学生にものを教えるように「これ、君への、誕生日プレゼント」とゆっくり発音した。
「……まじですか?」
「まじですよ」
彼は少しずつ状況を読めるようになってきた。でも、信じられない。
「本当に、ですか?」
「本当に、ですよ」
「いや、でも、悪いですよそんなの。これ、結城さんの大切なギターですよね……」
「うん。大切だね。でも、このギターは今、君を求めているんだ。さっきの演奏を見て分かった」
「……」
「それに、君にならこのギターを託しても僕は後悔なんてしないさ。どうせ予備にもう一台持ってるしね」
結城のギターケースを抱えていると、じわじわと実感が湧いてくるようになった。
このギターがボクのものに……。
少しずつ、嬉しさがこみ上げてくる。
この時の彼の顔はにやけていた。自分自身でもそれに気付いている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
結城がにっこり笑ったその時、鬼頭が腕時計を見ながら「さあ、もう時間だ」と言った。
結局練習の続きできなかったね、と永吉は残念そうに息を吐いた。
だな、と雄太は頷く。「でも、大丈夫だろう。学園祭までまだ一週間あるんだ。練習しまくればいい」
「そうだね。頑張ろうか!」
「おう!」
そんな二人の青春に、大人二人は子を見守る親のようににこやかだった。
「今日この後うち来るか?」
自分のギターケースを背負い、雄太は永吉に言った。「今晩カレーだからご馳走してやるよ」
「奇遇だね。ボクのうちの晩御飯は肉じゃがだよ」
「おっ、混ぜるか?」
「嫌だよ。薄いカレーになるんでしょ」
永吉はスタジオのドアノブに手をかけた。「鬼頭さん、結城さん、ありがとうございました!」
「どういたしまして」
スタジオを元気に出ていくふたりを見送ると、鬼頭は「さて」と結城の隣に立った。「お前、女子トイレ入ったのか」
「思い出させないでくださいよ」結城はうつむいて笑う。「女の子の格好してるって忘れていつも通り男子トイレに入ろうとしたらそこから男の人出て来て、変な目で見られてさ。『あっ』って思いましたよ。更に後ろの並んでいる女性たちからも冷たい目線浴びさせられて。仕方なく女子トイレの列に並びましたよ」
「そのタイムロスのせいで雄太に疑われたってことか」
「そうだね」
雄太が結城を怪しんでいたのは女子トイレの列に人が並んでくるペースに対して、彼の位置がおかしかったから。それは一度男子トイレに入ろうとしたせいだ。まあ、実際は雄太がトイレに入っていた時間だけやたら人が多く来ていたのもあるのだが、そのせいで一人分だけ時間を食っていたのも事実だ。
「女子トイレはどうだった?」
「不思議な罪悪感でいっぱいでしたね。めちゃくちゃ緊張しました」それにしても、と結城は苦そうに微笑む。「女の子って大変ですね。ギター持つと、胸で視野が変わってすごく弾きにくかった。おかげで弾き慣れてる曲も結構失敗しちゃったよ」
「そんなに変わるのか」
「鬼頭さんに無理やり詰め込まれたこの胸はあまり大きくなかったけど、プレイに影響はありましたね。環境が変わるのはよくあるけど視野が狭くなる変化なんて初めてでしたから」練習不足です、と彼は自嘲気味に笑う。
つまり、永吉が感じていた結城のプレイに対する違和感は全て女装のせいだったのだ。
「それよりも鬼頭さん」鬼頭の顔は見ずに正面を見据えたまま結城は言った。「ほんと、あなたという人は無茶しますよね」
「何がだ?」
「もうとぼけなくていいですよ」ここで結城は鬼頭の顔を見上げた。鬼頭も彼に目を合わせる。「最初から永吉くんのギターは割れてなんかなかったんですよね?」
音が響かないスタジオが結城の声を吸いこみ、しんとした。空気が張り詰め、蚊一匹ここを動こうとはしない。
そして、鬼頭は緊張の弦をはじいて音を鳴らす。「さすが。春ちゃんの目までは欺けなかったか」
「それもとぼけてますね。僕が見破るのを前提にしたサプライズ計画だったんでしょ?」
「ほう」
「何が、ほう、ですか。あの割れたギターを見た瞬間から薄々気付いていましたけど、裏面を見た瞬間に確信しましたよ。ちょっと凹んでましたからね。普通に使っていたらどうあがいてもあんなところに凹みなんてできませんから」
「人の頭を殴らない限り、な」
やっと認めましたか、と結城は肩を下ろす。「永吉くんのギターがギター暴行事件で僕がお客さんを殴ったのと同じモデルっていうのを利用してこんなことするとは、あなたらしいですね」
「春ちゃんがアクシデントだと推理した時は『俺の勝ちだ』って確信したんだけどな」
「残念。鬼頭さんが『俺の勝ちだ』って確信してたことまで僕は確信してましたよ」
可愛くない弟子だ、と鬼頭は悔しそうにも嬉しそうにも聞こえる舌打ちを放つ。「まあ、よくできた弟子だ。アクシデントなんて暴論を納得させられたんだから」
「スタンドのセッティングの狭さみたいな誰も気にしない所は『狭くしなかったか?』って言われたらそんな気がしてしまいますからね。それに、その話を昨日あなたがメールしてくれたじゃないですか。急になんだ、って思ったら、こういうことですか」
「よくできた計画だろ?」
「ですね」
それにしても、と結城は宙を見上げた。「弦を切り忘れて観客席にギター飛んで行かなかったのは今でも痛恨の極みです」
ガハハ、と鬼頭は豪快に男らしく笑う。「観客席に舞うはずのギターが戻ってバウンドした瞬間、どうだった?」
「何度も言わせないでください。超焦りましたよ。僕かっこわる! って」
「それをあたかも演出のひとつであるかのようにしれっと裏に持って帰ったお前を思い出すと、今でも笑えるよ。最高の酒のつまみだ」
鬼頭は二回ギター暴行事件が行われたライブに参加した。一回目で正解を知り、二回目でギターがステージに戻ってきたのでそのミスに気付いたのだ。「あの『成功! 決まったぜ!』みたいな顔は今でも笑える」
「僕、プロでしょ」
「ああ」
「あれを鬼頭さんにプレゼントして、まさかあんなところで再会してしまうとは。全く思ってもみませんでしたよ」
ギター暴行事件では飛んだボディは客のものになるが、この日だけは飛ばなかったので彼はしょうがなく持って帰ったのだ。そして、それを鬼頭にあげた。
つまり、こういうことだ。
鬼頭は雄太から永吉の誕生日を知り、サプライズ計画を考えた。永吉の使っているギターはギター暴行事件のもの。そして、それの実物が自分の下にある。これを利用できないか、と。
「真相は至極簡単だね。僕らが外に出た間に永吉くんのギターを隠して、あの割れたギターを置いた。それだけだよ。動機はサプライズ」
「永吉のギターを割ったふりしたらびっくりするだろうと思ってさ。まさかあんなに落ち込むとは思わなかったが。どっかの誰かさんはライブで折りまくってたから」
「僕だって本当はあんなことしたくなかったんですよ。でも、仕事だから仕方ない。お客さんも喜んでくれたしね。いつも使っているギターを折れ、って言われたら仕事でも流石に断るけど」
「だが、永吉にあげるのは躊躇わなかった」
「うん」
サプライズ計画を立てた鬼頭は弟子の結城春を呼んだ。「お前のことが大好きなギター少年が今度の日曜日に誕生日なんだが、正体を隠して練習を見てやってくれ」と。
「鬼頭さんも人が悪いですよね。『プレゼントなんて用意しなくていいから、いつも使っているギターを持って来てくれ。かなりヘビーなファンって設定にするから』なんてさ。最初から僕のギターを永吉くんへのプレゼントにするつもりで今回の事件起こしたくせに」
「悪かったな」ヒヒヒ、と鬼頭は笑う。
反省してないでしょ、と結城も笑う。「でも鬼頭さん、あれは永吉くんが自分で稼いだギターだから返してあげた方がいいんじゃない?」
「そうだな。隠したギターと、」鬼頭は床に落ちている割れたギターを指差した。「ギター暴行事件の実物を後で渡してやるか」
永吉はそのギターを自分のものと信じたまま帰っていった。自分の努力が染み込んだギターだが、鬼頭に引き取られるならそれでいいと思ったらしい。
「どうだった、僕っ娘設定は」
「助かりましたよ。おかげで口調を直さなくて済みましたし。事前に言ってくれれば尚よかったんですけどね」
「あれはその場のアドリブだよ。我ながら素晴らしいアドリブだったと思うよ」
「さすがは鬼頭さんですね」そうか、あれはアドリブだったのか、と結城は感心した。「ギタリストの鏡のようなアドリブです」
「俺はMyuzickの結城春の師匠でなくてもすげえやつなんだよ」
「よく言いますね、そんなこと、自分で」
「言うよ。何度だって言ってやる。それにしても、よく今の今までばれなかったな、正体。嘘をつけないお前が」
「嘘はついてないよ。雄太くんに『男前だなあ』って言われた時も『周りの女の子よりは男っぽい自信あるよ』って言いましたし」
「そら、男なんだから周りの女の子よりは男っぽいわな」
「なかなか刺激的な一日でしたよ」でも、二度とごめんこうむりたいね、と結城は女性っぽく笑う。「ちょっと発言失敗しましたけど。永吉くんが『ボクなんて女の子と体力測定競うレベルですから』って言った時に自分が女の子だって設定忘れて普通に『僕もそんなものだよ』って答えちゃったりしたから」
「なるほどな。動揺しなかったのか?」
「しましたよ。でも、僕はプロですから」
「ミスは顔に出さない、ってことだな」
「はい。永吉くんはちょっと引っかかりを覚えたみたいだけど、雄太くんは騙せきれたね」
雄太は単純だからな、と鬼頭は頷いた。
「鬼頭さんはどういう気分ですか? 自分の弟子のファンが自分の店に来てる気分は」結城は少しいやらしく質問をぶつけた。
「別に」表情を硬くして鬼頭は答える。もちろん、不自然な硬さだ。「俺はハードボイルドなロックマンだからな」
「嘘ですね。ハードボイルドなロックマンはよっぽど嬉しくない限りスタジオを安く貸したりしませんよ」
「お前、確信犯だろ」
「さあ、どうでしょう」
嫌な弟子だよ、と鬼頭は顔を赤くして溜息を吐いた。そしてその逆襲のつもりなのか結城に言及した。「ダメージが蓄積してギターが割れる、って話の時にお前さ、『さっきだってさ』って言ってたが、なんかあったのか? まさか、床傷付けたりしてねえだろうな。うちの規約では傷をつけたりした場合は弁償なんだが」
「なんのこと?」
「お前がとぼける時は図星の合図だって曲あったよな」
「ないよ。まあ、永吉くんを傷つけたのとどっこいどっこいでいいんじゃない?」
「それもそうだな。で、その発言は認めたって白状したと捉えていいな?」
「いいえ」僕たちの秘密だからね、と結城は小声で呟いた。
その言葉はすぐ隣の鬼頭までも届かないほどだった。「ん? なんか言ったか?」
「いや、なんでもないですよ。それよりも、カレーと肉じゃがって混ぜると薄いカレーになるんですね。初めて知りましたよ」
「やってみるか?」
「よい子は真似しちゃ駄目だけど、永吉くんたちを騙した悪い大人たちならやってみてもいいかもしれませんね。あと、バイトの子に迷惑かけた」
そのバイトが今頃、昔のMr. Bigのようなロン毛集団に店先で絡まれているなんて彼らは知る由もない。
「じゃあ、今から久しぶりに飯食いに行こうぜ」
「え? でも営業中ですよね?」
「あのバイトに任せればいい」
「最低な店長だ」
噂をすればなんとやら、重いはずのスタジオの扉がガチャッと勢いよく開いてバイトが倒れ込んできた。「店長!」
「なんだ?」
「やたらいかつい客が『俺たちに「Addicted To That Rush」の音を再現させられるギターとベースをくれ』って迫ってきます! 僕の手には負えません!」
「ポール・ギルバードとビリー・シーンに教えてもらえ、って言っとけ」
「色々無理ですよ!」
「仕方ねえな。今からビリー・シーンのカツラ被ってくるから待ってろ」
「そんなことしなくていいから早く来てください!」
「うるせえよ。俺の金言を教えてやろう。『急がば回れ』」
もう駄目だこの店長、とバイトはふにゃりと倒れ込んだ。
そんなバイトを見降ろして「ハッハッハッ」と鬼頭はたくましく笑う。「いいか、バイト。どんな社会においても経験は大事だ。自分のギターを折って凹む経験も、わけの分からない客にわけの分からない注文を言われることもな。それを自分の力で乗り越えた時、人は初めてもう一段高い景色から物を見ることができるんだ。お前は全力を尽くしたか? 逃げてきただけじゃないのか? そこで闘って打ちのめされて、そこで初めて誰かを頼りにして、一緒に乗り越えろ。そうすると二段上に登れるぞ」
「いいこと言ってるつもりかもしれませんが、鬼頭さん今アンガス・ヤングですよ」結城が笑いながら冷静に指摘する。
「クールだろ」
「ある意味ハードボイルドなロックマンですね」
僕は全力を尽くしましたよ、とトホホな様子でバイトは渋々起き上がった。「だから、店長と一緒にもう二段高い景色を見たいです」
「そうか。じゃあ、ビリー・シーンのカツラだけ被って来るから外で待ってろ」
「結局そこは譲らないんですか!」
はあ、と背中を丸くして彼はスタジオを出て行った。
懐かしいなあ、と結城は呟いた。高校生の時に鬼頭と出会い、その時からむちゃぶりの嵐だったから。でも、それが今の自分に繋がっていると、彼は身に染みて実感していた。
「そういえばさ、春ちゃん」
「ビリー・シーンのカツラ被らず僕に質問してていいんですか?」
「いいんだよ。前から思ってたんだが、ここは日本だ」
「今頃気づいたんですか。頭が悪いですね」
「そういうことじゃねえよ。日本人は滅多にライブで暴れねえ、って話だ」
「それが?」
「『ギター暴行事件』で暴れていた客たちはサクラなんじゃねえの? 訴訟とかになってねえし」
「さあね」
「確か、お前がとぼける時は図星の時だったよな」
「さあね。でも、その日じゃないはずの日に起きたことはあったね。あれは焦ったよ」
「認めたな」
「なんのこと?」結城はにやにやと続ける。「まあ、殴ったけどね。この事件の裏にはとてもとても偉い方から口止めされてるトップシークレットがあるから言えないけど」
「ほう。それは興味深い話だな。じゃあ今日、度数の高い酒でも飲みに行こうか」
「確信犯ですね」いいでしょう、行きましょう、と結城は歯を見せた。「その前に女装だけ解かしてくださいね」
「それ、似合ってるけどな」
いやいや、と結城は恥ずかしそうに手をぶんぶんと振った。
その仕草に「かわいい弟子だ」と笑いながら「そろそろカツラ取りに行くか」と鬼頭はスタジオの取っ手に手をかけた。しかし、一度手を離し、結城の方に振り返り、言った。
「結果、ギター殺人事件の犯人は僕っ娘Hだ、ってオチだな」
ハハハ、と結城は笑い声を上げ、照れくさそうに頷いた。
「ですね。殺したのは紛れもなく僕ですから」
僕って大量殺人鬼ですね、と結城が自嘲して微笑むと、鬼頭は大口を開けて豪快に笑った。
前書きで述べたようにこの話は「伝説憧れ人 《スターゲイザー》」の裏話要素が多めのお話となっています。もしよければそちらもどうぞ、と言いたいところのなのですが、この話は『人間観察家』シリーズというものの最終作で、全てを読まないと意味が分からないことになってしまいます。
ですが、その全てを読まないと意味が分からないことになってしまう部分は話の後半、この「ギター殺人事件」の裏話要素は九割方前半に位置します。なので、もしよければ前半だけどうぞ。あわよくばシリーズ全体をよろしくお願います。
「伝説憧れ人 《スターゲイザー》」
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『人間観察家』シリーズ
http://ncode.syosetu.com/s5764b/
***The Next is:『パラドックス=ライフ』