冷たいデザート
Author:珊瑚
――今日もまだ、君にその言葉は届かない。
「……まだやるんですか」
「まだまだ足りねーんだよ在庫。こんなんじゃあっという間に売り切れるだろ? 去年の売れ行きを思い出せ」
「去年は居ませんでした、私」
「……そうだったな」
夕方、日暮れの迫る家庭科実習室。彼は手元から目を離さずに冷たく返事をした。
私もそのぶっきらぼうなやりとりには馴れたもので、別段ふりかえってほしいなどと思うこともなく、エプロンの紐をきつめに縛り直し彼から見て右側のシンクの前に無言で立つ。目の前には洗い物の山がそびえている。液体のままの生クリームがついているボウルやら大型のピッチャーやら、フードプロセッサーの刃やら。使い終わると同時に洗えば手間も時間もかからないものを、といつも思うのだが、彼が極度に洗い物を嫌うためにこの状況が毎日出来上がるのだ。男の人ってその辺雑だよね、と思いつつそれらを片付けるのが私の仕事……になってきているのであった。
お互い無言のまま、水道の音、シンクとボウルたちがぶつかる鈍い音だけが響く。
拭いた洗い物を使っていない作業机の上に置こうとしたら、「第八十五回晴海高校総合文化祭 出し物一覧」と太字で銘打ってあるプリントと目があった。今年の文化祭の出店計画書だ。
わが校では毎年、クラスごとに教室を使って出し物をする。お化け屋敷だったり、メイド喫茶だったり、その辺はまあご想像にお任せするが、ただひとつ、料理研究部だけは去年の文化祭から例外として別に一店、店を出すことになってしまった。
理由はただひとつ。目の前のこの男……将来はパティシエになると意気込んでやまない彼の作ったロールケーキが、信じられないくらいおいしかったから。
それはそれは大好評だったらしい。ご父兄がたは家族への土産に持ち帰り、生徒たちは分けあってでも食べ、教員の中には涙を流している人もいたとかいないとか。
同時この学校の生徒ではなかった私は、中学時代のクラスメイトの兄が女装するというのでそれを見るためだけに友人に駆り出されて文化祭会場に連れてこられた。予想外にその女装が似合いすぎていて逆に引いたのでそこからはさっさと足を遠ざけたのだが、途中で友人とはぐれてしまい、ふらふらしているうちに料理研究部の屋台にたどり着いたのである。
「去年の様子など知らない」と先ほどは言ったがそれは嘘だ。
私は目にしていた。残暑残る中庭で、この時期にはあまりふさわしくないロールケーキという商品を売る先輩を。
たまの汗を額に浮かべながら、爽やかな笑顔でそれを手渡す彼を。
ロールケーキは中のクリームが溶け出さないためか一度冷凍してあった。暑さで半解凍になったふわふわスポンジの甘過ぎないロールケーキは、私を気だるさと人混みへの嫌悪感から救ってくれた。
でも先輩は、覚えてなんていないだろう。
ロールケーキを買った時、わずかばかり手が触れただけの女の子のことなんて。
「よし、これでいっか」
ようやく彼は目をあげて首を回した。今まさに出来上がったところらしい。しかしボウルに入っているのはロールケーキのスポンジのもとでも、中身の生クリームでもない。今年はロールケーキに加え、もうひとつ、冷たいデザートを用意するのだそうだ。
彼いわくロールケーキを作って包装までしておくのがめんどくさいそうで。その場でよそうタイプのものにしたらしいのだ。ちなみに「お前は作る行程のタイミングをことごとく間違えそうだからダメ」という先輩のありがたいご配慮により私は当日によそう係りをさせられることとなった。そんなに作るのが難しそうなメニューには見えないのだが。
集中力を使いきったのか、どっかりと腰をおろして座った彼に向かって、思わず口から言葉がこぼれた。
「好きだな」
時計が、止まる。
投げ出した先輩の足が、ぴくりと跳ねた。
あのときの笑顔と、この瞬間の真剣な眼差しと。同じものには見えないのに、なぜか、吸い寄せられるのだ。
「先輩のつくるデザート」
私は視線を彼から外し、手は先程の洗い物にのばしながら窓の外を眺めてぽつりと続きを呟いた。
緊張がふわりと溶けた。先輩は何も言わなかったけど、肩の力がぬけて空気が和らいだのを感じた。
「期待させんな、ばーか」
直後、今度は私が凍りつく。
「また配合いちから考え直しじゃねーかよ……」
続けられた言葉に、ゆっくりふりかえる。
あろうことか、このたった数秒間で先輩は椅子を二つくっつけて眠りに落ちていた。
「なんだ」
緊張が走ったのも、空気が和らいだのも、全部勘違いか。
一人になってしまった家庭科室であきれながらため息をつき、私は食器拭きとボウルをそっともとの位置に片付けた。
「ほんとに、好きなんですよ」
今日もまだ、君にその言葉は届かない。
いったい、先輩は何をつくっていたのでしょうか。
そして先輩の本音やいかに。
***The Next is:『トラブルランチ』