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父さんは僕に大きな期待を抱いていた(と思いたい)けど、僕が非力で不器用であることもよく知っていたので、「同じ目的を持つ者に運良く出会った時は、彼もしくは彼女と協力して外界を目指せ」と助言してくれた。その後で「ただし、その者が非常に有能で、なおかつおまえを受け入れてくれるだけの度量があればの話だが」と付け加えた。
僕を受け入れてくれる変わり者の探索者は原種の本と同じくらい希少だったので、僕は一人で行動することのほうが多かった。それでも、常に一人だったわけじゃない。「原種の本と同じくらい希少」な人に出会い、一緒に〈図書館〉を歩き回ったことは何度もある。ただし、彼や彼女たちとの関係は長続きしなかった。ある者は死に、ある者は探索をあきらめて適当な区画に定住し、ある者はいつの間にか消えてしまった。
現在の相棒のカペーリヤと初めて出合ったのは一万二千時間ほど前。場所は蘭質語圏のとある集落。
その集落には火消しと呼ばれる職人たちがいて、独自の方法で火薬を作っていた(すべてを自力でまかなっていたわけではなく、硫黄の供給は司書に頼っていたけれど)。僕は彼らのところに転がりこみ、何十時間かの共同生活を送った後、集落から立ち去った。その際、一緒に集落を出た旅人がいた。それがカペーリヤだ。彼女も僕と同様に集落に滞在していたのだけれど、僕と違って代価(知識や労働力や肉体だ)は払っていたらしい。
同じ道行きになったとはいえ、カペーリヤは僕のことなど気にしていなかった。でも、僕のほうは集落にいる時から密かにカペーリヤを観察していた。誓って言うが、異性として興味があったわけじゃない。豊富な知識(僕ほどではないけれどね)と、それをさらに豊富なものにせんという知識欲が気に入ったのだ。
カペーリヤは集落で一度も名乗らなかったけど、僕には名前が判っていた。彼女の背嚢にはそれらしきものが刺繍されていたから。
『Коппелия Е Замятова』
それは西陬語の文字だった。西陬語圏のミドルネームは父称だから、彼女の父親の名前の頭文字はЕなのだろう。どんな名前なのかな――と、僕は考えたものだ。エフレーム? イノッホ? エレメーイ?
集落から百階層ほど離れた後、前を行くカペーリヤに僕は初めて話しかけた。もちろん、西陬語で。
「君のお父さんの名前はなんていうのかな?」
カペーリヤは振り返った。声の主が僕であることを知ると、目が大きく見開かれた。まさか、僕ごときの口から西陬語が出てくるとは思っていなかったのだろう。あきらかに驚いていたし、怯えているようにも見えた。その時は知らなかったけど、彼女がそんな表情を人に見せることは滅多にない。
僕は相手を安心させるためにウインクしてみせた。後にカペーリヤから聞いたところによると、それはウインクには見えなかったそうだ。
曰く「目にゴミが入ったのかと思った」。
唸り声のような音が露台の下から聞こえてくる。司書の羽音だ。
カペーリアが訊いた。
「心の準備は?」
「もちろん、できてるよ。何百時間も前からね!」
言葉の後半は怒鳴り声になったが、怒っているわけじゃない。大声を張り上げないと、司書の羽音にかき消されてしまうのだ。僕たちが言葉を交わしている間に羽音は爆音に変わっていた。
嫌な予感がした。羽音が近付いてくる速度があまりにも速すぎる。この王台が目的地であるのなら、司書はもう少し速度を落としているはずだ。
カペーリヤも同じことを考えたのか、不安げな顔をして、何かを言いかけた。
その時、露台の奥に司書が出現した。
突風が巻き起こり、カペーリヤの髪がたなびく。耳をつんざく爆音と同様、この不愉快な風の発生源も司書の羽だ。
司書の羽は半透明の円盤に見える。だけど、それは錯覚だ。円盤の正体は、高速回転している二枚の細長い刃。一枚は時計回り、もう一枚は反時計回りに動いている。この羽だけを見ていると、司書が蜂を模して作られた機械生物だとはとても思えない(ちなみに僕は原種の本で蜂の絵を見たことがある)。蜂の羽というのはもっと優美な形をしているし、もっと複雑な動きをすることもできるらしい。羽の形だけでなく、身体の大きさもまったく違う。ちょっと信じられない話だけど、本物の蜂の大きさは司書の百分の一にも満たないのだ。
では、羽と大きさを無視すれば、司書は蜂に似ているのかというと……実はそうでもない。まあ、蜂を模しているというのが疑わしく思えない程度には似ているかな。
蜂がそうであるように、司書の細長い身体も三つの部位に分かれている。頭部と胸部と尾部だ。頭部は逆三角形。大きな赤い複眼と細長い触角が二つずつ付いているけど、口は見当たらない。司書はものを食べないし、話すこともないから、必要ないのだろう。胸部の背中からは太い軸が垂直に伸び、そこに例の回転翼が付いている。腹には三対の肢がある。最前列の肢は人間の手のように五指を有しているので、「腕」と呼ぶべきかもしれない。後方にある四本の肢は長く、先端が鉤爪になっている。長円形の尾部(正確には「腹部」と呼ぶらしい)は三つの部位の中で最も大きく、最も派手だ。黒と黄色の縞模様に覆われ、先端からは針のような物が覗いている。その針が使われるところを僕は見たことがない。なるべくなら、今後も見たくはない。
赤い複眼、長い触角、一組の腕と四本の肢、悪趣味な縞模様、お尻の針……これらの特徴をすべて持っている司書は少ない。〈図書館〉の設備と同様に司書たちは疲弊し、傷つき、年老いている。今日、見ることができるのは、肢が何本か欠けている司書や縞模様が剥げた司書や複眼に亀裂の入った司書や針を失った司書だ。〈図書館〉の片隅で鉄屑と化した司書もいるし、外界で無惨な姿をさらしている司書もいるだろう。
僕たちの前に現われた司書も無傷ではなかったかもしれない。でも、それを確認することはできなかった。司書は僕やカペーリヤには目もくれず、猛スピードで上に飛び去ってしまったのだ。別の王台が目的地だったのだろう。嫌な予感が的中した。
だけど、僕は失望してはいなかった。この王台に司書が来ないわけじゃない。決行の時間が先送りになっただけの話だ。
「あの司書は――」
カペーリヤが虚空を見上げて、肩をすくめた。
「――上の集落に行ったのかしらね」
「上」というのは実に控えめな表現だ。その集落は、ここから七百三十二階層も離れた区画にあるのだから。百二十時間ほど前、僕とカペーリヤはそこに投宿した。集落のリーダーの孫娘が僕に好意を寄せてくれたので、待遇は悪くなかった。孫娘の許婚らしき男は嫉妬心を剥き出しにして僕を睨んでばかりいたけど。
「そういえば、集落の人たちは食肉と包帯を欲しがってたわね。あの司書が持ってきた物資の中にそれらが含まれているといいのだけれど……」
たぶん、含まれていないだろう。人の要求を理解できるほどの知能を司書が持っているなら、〈図書館〉はもっと快適な世界になっていたはずだ――というようなことを言いかけた時、僕は何者かの気配を背後に感じて振り返った。
すると、その動きに合わせるかのような劇的なタイミングで、三人の男が廻廊のアーチから現われた。おそらく、この男たちも召喚灯の光に気付き、やってきたのだろう。普段なら、僕は見知らぬ人間の接近を許したりしないのだけれど、今回は司書に気を取られていたので、彼らが近付いてくることを察知できなかった。
カペーリヤも背後の気配に気付いて振り返り、三人の男と対峙した。
真中にいるのは、いやな目付きをした小柄な男。武器らしき物は持っていない。だけど、その右に立っている禿げ頭の男は大きな鉈を持っていた。左端にいる頭の悪そうな大男は弩を構えている。弩の射線上にいるのはカペーリヤだ。僕は眼中に無いらしい。
武器や容貌に統一感は無いが、服装は三人とも同じだった。白いトーガを身にまとい、麻袋を腰に吊るし、鎖の長い懐中時計をネックレスのように首からぶら下げている。再生教団の衣装だ。僕は教団が好きじゃないけど、衣装に対する彼らの熱意と努力には感服している。〈図書館〉という不自由な世界で、衣装や装飾品をそろえるのは容易なことではないはずだ。
カペーリヤが足を踏み出しかけたが――
「動かないでください」
――と、背の低い男が太上語で警告した。教団の連中は太上語を神聖視しており、誰に対しても太上語を使いたがる。
「なにを言ってるのか判らない」
カペーリヤが逸史語で応じた。この辺りは逸史語圏なのだ。上の集落の人々やさっきの二人組も逸史語を話していた。
背の低い男は逸史語に切り換えた。
「貴方は太上語を知らないのですか?」
「ええ、知らない。あたしはね」
カペーリヤは口許に微笑を浮かべ、意味ありげな視線を僕に向けてきた。
僕は胸を張ってみせたけど、三人組は相手にしてくれなかった。やっぱり、僕のことは眼中にないんだ。小者扱いされるのは慣れているけどね。
背の低い男はトーガの袖から一枚の紙を取り出し、それとカペーリヤを見比べた。たぶん、彼女の似顔絵でも描いてあるのだろう。
禿げ頭が、背の低い男に太上語で尋ねた。
「この女ですかね?」
「ええ。間違いないでしょう」
背の低い男は頷き、逸史語でカペーリヤに話しかけた。
「名前を教えていただけませんか?」
「カペーリヤよ」と、我が相棒は答えた。「カペーリヤ・エウゲーノヴナ・ザミャートワ。で、この子はサバト」
「この子」はひどいな。小柄で童顔であるとはいえ、僕はカペーリヤよりも年上なんだ。彼女が年齢を偽ってなければの話だけど。
背の低い男は僕を一瞥して、薄笑いを浮かべた。
「サバトか……おかしな名前ですね」
そう、おかしな名前だとも。
サバトという言葉の意味をこの男たちは知らないだろう。なにせ、太上語圏でも僕の名前は死語と化している。日が昇ることがなく、沈むこともない――そんな世界で「土曜日」という言葉が生き残れるわけがないからね。
僕は土曜日に生まれたので、父さんにサバトと名付けられた。
つまり、父さんは曜日というものを知っており、〈図書館〉の時間を曜日に変換する術も知っていたということだ。父さんは何でも知っていた。本に書かれていることや、本に書かかれていないことを……。
もちろん、父さんといえども完璧じゃない。いろんなことを教えてくれたけど、教えてくれなかったことも沢山ある。たとえば、再生教団に関することは一つも教えてくれなかった。教えようがなかったんだ。僕が父さんの下で様々なことを学んでいる頃、教団はまだ存在しなかったのだから。教団が誕生した時期がいつなのかは判らないけど、父さんが僕を旅立たせた後であるのは確かだ。
再生教団の目的は〈図書館〉に秩序を取り戻すこと。無価値な屑本を一掃し、貴重な原種の本を集め、太古の知識を手に入れ、人々の使用言語を統一し、すべての王台を管理下に置き、壊れた設備を修復して、〈図書館〉を創設時の姿に戻す……というような理想を抱いて、教団の信徒は活動しているらしい。彼らの心に描かれた未来像は(使用言語の統一というのを除けば)素晴らしいと思わなくもないけど、協力する気にはなれない。それというのも、教団が広めている迷信についていけないからだ。
迷信の中心に鎮座されておられるのは偉大なる館長サマ。
館長は〈図書館〉の創造者にして支配者。この閉ざされた世界を生み出し、汚れた外界から人々を避難させ、原種の本や司書を作った。教団の連中はそう信じている。彼らが太上語を神聖視しているのも、館長が使っていた言葉が太上語という説があるからだ。最近は教団も理知的になり、館長の伝承を鵜呑みにする信者は減ったらしい。だけど、極端な教条主義者が絶滅したわけではない。
重症の館長崇拝者の中には、館長の受肉とやらを信じている者もいる。館長が人間の姿を借りて〈図書館〉に降臨するというのだ。もっとひどいヤツになると、「人間の姿とは限らない」なんてことを本気で言ってのける。原種の本だの壊れかけた司書だの動かなくなった時計だのに館長の魂が宿り、迷える人々に道を示してくれるのだそうだ。
館長ほどポピュラーではないけど、自動人形に関する迷信もある。司書なんかとは比べ物にならないような精巧な自動人形が〈図書館〉をさまよっている――そんな迷信だ。その自動人形の外見は人間とまったく同じだという。もちろん、その人形を造ったのは偉大なる館長サマだ。
実を言うと、僕は自動人形の伝説だけは信じている。それが迷信ではなく、事実であることを強く願っている。だからといって、「教団が広めている迷信についていけない」という先程の言葉が嘘だというわけじゃない。僕が考えている自動人形と教団の考えている自動人形との間には大きな隔たりがあるのだ。僕が信じている自動人形は館長サマが生み出したものじゃない。それを作り上げたのは一人の人間――そう、僕の父さんだ。人間と同じ外見の精巧な自動人形を作り出せる人がいるとしたら、それは父さん以外には考えられない。
〈図書館〉のどこかで風変わりな人物に出会う度に僕は相手をよく観察する。その人は、父さんが作った自動人形かもしれないから。もし、その人が自動人形だということが判ったら、僕は迷わず友達になるだろう。相手の年齢や性別や容姿や人格や使用言語は気にしない。
僕たちはきっと判り合えるはずだ。