プロローグ
おそらく、老齢と不安で判断が狂っているかもしれないが、しかしわたしは、人類――唯一無二の人類――は絶滅寸前の状態にあり、図書館――明るい、孤独な、無限の、まったく不動の、貴重な本にあふれた、無用の、不壊の、そして秘密の図書館――だけが永久に残るのだと思う。
――ボルヘス 『バベルの図書館』 (鼓直 訳)
夕日の残り火が燻る空から乾いた大地に向かって、赤い光が落ちていく。
それが流星でないことに気付いた瞬間、君は走り出す。
赤い光は、荒野の一角に突き出た不恰好な丘に衝突する。小さな破砕音が空気を微かに揺らしたが、君の心の耳が感じ取ったのは、大地を崩しかねないほどの激しい轟音だ。落下地点から舞い上がった土煙も君の目には実際より大きく見えるだろう。
土煙が消えた頃、君は丘にたどり着き、自分の推測が正しかったことを知る。
光の正体は流星ではなく、蜂だったのだ。
白銅と錫と真鍮で作られた巨大な蜂。その体長は君の背丈の三倍以上もある。細長い身体は地面に突き刺さり、黄色と黒の縞模様の尾部を空に向かって差し出している。見るからに不安定な姿勢だが、折れ曲がった羽が支柱の役割を果たし、倒壊を防いでいる。
光の発生源である蜂の頭部は墜落時の衝撃によって粉微塵になっている。君は安堵の溜息をつく。あの不気味な赤い輝きを放つ複眼を間近で見たくはない。
頭部と違い、胸部はかろうじて原形を保っている。だが、地面に突き刺さっている部位――頭との接合部があった部位からは血のように赤い油が流れ出し、その周辺には歯車や板バネや曲軸が散乱している。蜂を構成していた部品だけでなく、あちこちの村から献上された物品も散らばっている。泥まみれの毛布、割れた木材、ガラスの破片、砂のついた干し肉、折れた弓。もしかしたら、君が三日前に献上した(正しくは「長老の命によって献上させられた」だが)自作のナイフもあるかもしれない。
君は身を屈め、地面に撒き散らされた蜂の部品を拾い始める。手が油で汚れることも気にせず掴み取り、腰に下げた皮袋に詰め込んでいく。これらの部品を何に使おう? 加工して別の物に生まれ変わらせるもよし、そのままの形で何かの部品として流用するもよし、もちろん他の者に売りつけることもできる。
拾い集めた部品の中には、今までに見たこともないような物もある。それらの扱いを考える際には注意が必要だ。太古の技術の探究に力を入れすぎると、長老の不興を買い、工人の資格を奪われてしまうかもしれない。君の村では、過剰な知識欲は罪悪だと見做されている。いや、真の禁忌は知識ではなく、それが記された……
「……!?」
声にならない声が君の口から飛び出す。指先が異様な物に触れたからだ。
その「異様な物」は紙で構成されている。あきらかに蜂の身体の一部ではない。
君はゆっくりと立ち上がり、後退りしながら、自分が触れてしまった物に焦点を合わせる。
そして、それが一冊の本であることを知る。
本――古代人が〈巣〉に封じた忌むべきもの。何千何万もの文字を宿した呪物。知識という名の邪念を人の心に呼び起こす災厄。
君は過去に一度だけ、村の聖堂で本を見たことがある。それは書物の恐ろしさを万人に伝えるための模造品であり、文字は一つも記されていなかった。表紙を含めた全てのページが白紙だった。しかし、君が触れてしまった本は違う。開かれた状態で地に落ち、文字で埋め尽くされたページをこれ見よがしに晒している。
突然、一陣の風が吹き、本のページがめくり上げられる。新たに現われたページにも文字がひしめいている。その次のページも、その次の次のページも……。
甲高い悲鳴が君の耳を打つ。それが自分自身の悲鳴であることに気付いたのは、蜂の骸に背を向けて丘を駆け下りた後だ。
悲鳴はすぐに途切れたが、足は止まらない。
村の皆に伝えなくてはいけない。
〈巣〉から本が解き放たれた、と。