第七話 花發多風雨人生足別離(さよならだけが人生だ)
「願いは,私の叶えられるものならば,何でも三つ.私には無理でも,私が頼める奴が叶えられるなら良い.ただし,願いの回数は増やせない.そして――」
はっきりとではないが,少し相手のことが読めてきた.広路は思い切って,まだ続けようとしたところを見計らって口を挟む.
「仁志純のいるところに連れて行ってください.無事を確認したい」
何の褒美なのかくらいは聞くべきだろうが,くれるというのだから貰ってやる.
「――そして,願いの理由は聞かない」
井路端が言い終えると,広路の体を拘束していた透明な何かが外れた.
透明人間か触手か,あるいは鎖か.何にせよ,捕まるまで全く分からないのはどうしようもない.厄介だな.
広路が対策を練り始めたところで,井路端の時間差回答が来た.
「いいだろう.仁志純,といってもコードネームだが,彼女のところに連れて行こう.サム,荷物を置いて戻ってくれ.焼鎌君には車を向かわせる.五分待て」
「了解」
老人は無線を切り,小脇に抱えたままだった荷物を玄関において出ていった.バイクは何故かパンクが直っていた.
広路は道路に出てバイクが走り去ったのを確認してから,刀を置きに戻る.何か仕込もうか迷ったが,役に立たせられる気がしないのでやめておいた.その代わりと言っては何だが,少し食事をとっておく.小径が作っていたビワのゼリーを一杯.ただただ甘い.
お茶で口をすすいでから玄関に戻ると,探索に全くかからなかった車が門の前に止まっており,先ほどと同じような老人が運転席で待っていた.車の見た目はただのハイヤーだ.吉原に一日中通っているのに,どこのかはわからなかったが,フェンダーミラーのくたびれ具合から年季ものだとは思った.
近づくと後部座席のドアが開く.乗り込むと老人は被っていた制帽をくいっと上げ,ゆっくりと車を発進させた.カーナビが見当たらないが,指向性のHUD方式だろうか.
「あの,聞いてもいいですか」
広路はすぐ,まだ国際通りにも入らない内に聞いた.
「それは許可されていませんな.私はただの案内人だ」
老人は事も無げに応えた.
「いえ,さっきの人にです」
わざとそれを省いて言ったので,老人の役割を引き出せた.細かいことだが,負けっぱなしなのでは気が済まない.
「少々お待ちを」
老人は表情を変えずにラジオの調整を行った.すると,スピーカーからまた井路端の声が聞こえてきた.
「何だ」
「質問はできますか? 願いと区別されるのかどうか,教えてください.区別されないなら答えなくてもいいです」
返答はない.
しばし沈黙が続く.
下谷の高速入口で信号につかまったところで,ラジオから井路端の声が聞こえてくる.
「ああ,すまん.少し用があって席を外していた.質問は『質問は可能か?』だな.もちろん願いと問いは区別する.問いには,答えられても答えないということがある」
「どうも.では続きは後でお願いします」
それだけ言って,思考回路をフル稼働させる.考えて,考えて,考え抜かなければならない.
「――着きました」
突然の声で考えが止まる.
辺りを見ると,いつの間にか上野の山のようだ.ここは……国立東京博物館の西門だったろうか.博物館動物園前駅は使わないし,正門からしか入ったことはないが,周辺の状況的にはそうだ.月曜日で休館のはずなのに門が開いている.一般向けは閉まっていても職員はいるだろうから,これは普通か.でも詰所には誰もいない.やっぱり普通じゃないな.
薄闇の中,辺りを見回しているうちに,入って左手の坂を登ったところの玄関前に車は停まった.
「降りて下さい」
老人に言われるままに降りる.
辺りを探ると,カップラーメンのような安っぽい醤油の匂いが漂ってくる.範囲内には隣の文化財研究所の人間しかいないようだ.道の反対側にある国立図書館も休館日のようだ.
老人の後について館内に入ると,入り口近くだけ電灯が点いている.窓口にも誰もいない.奥の方に見たことのある講堂がある.こんな風に繋がってたのか.
「私について来なさい」
老人は,玄関のそばの階段を降りていく.降りた先は少し開けていた.大型のエレベーターなどがあるので搬入用通路だと思う.過去の展示に使われたらしき器具が脇に積まれていて,その間を通って進む.途中で直角に曲がると,その先も荷物だらけだ.
これで国立のフラッグシップ博物館なのか,と余計な心配を思ってしまった.
高い天井の白い通路が続く.途中に金庫のような大きな扉があったが,老人は一瞥もしない.良く見ると燻蒸室と書いてある.さらに進むとT字路に突き当たった.左は上る階段と木の壁が見え,修復室と書かれた部屋などが並んでいる.右はさらに下る小さな階段と,西門そばの資料館方面に続く通路がある.正面には,さっき見たのと同型の機材用エレベーター.歩いた距離などから考えると,ちょうどこの辺が本館の中心か.
老人は,正面のエレベーターを操作した.微かな振動と駆動音がしてから,ドアが開いた.顎で先に乗るよう促される.
ここの階では呼び出しボタンが昇る方しか見えなかったが,後から乗った老人は自然に降りる方のボタンを押した.そして,当たり前のようにドアが閉まり,下降する感覚が生じる.
秘密の通路がこんな簡単でいいんだろうか.どうせ,他に何かあるんだろうけど.
体感的に四,五階分くらい降りてから,エレベーターは停まった.そして,ドアが開いた途端に,周囲の気配が全く別のものに変わる.
大きな大きな呻き声.鉄と血の匂い.錐に刺されたような鋭い痛み.
それまでなかった仁志の冷たい気配も感じられるようになった.他にも何人かいるようだ.そいつらの強さは,平均すると隣にいる老人の倍くらいだろうか.自分との差は計る気がしなかった.
あのモデルさんみたいな運び屋もいて,こちらに殺気を向けて遊んでくる.何故かとても嫌われているようだ.
蛇に食われたカエル状態になっているうちに,老人は一人で先に行ってしまった.すると,置いていかれたのを確認したかのように,蛇の口から吐き出された.慌ててついていくと,老人は仁志の冷たい気配がある部屋の前で停まっている.
余裕が戻ったので,辺りをよく見てみる.建物の様子は,病院と研究所の中間といったところ.ほとんどの壁に手すりがあり,所々には酸素吸入器のようなものも見える.エレベーターで降りただけなら上野の山の中にあるのだろうが,あの切り替わる感覚からすると全く別の場所かもしれない.この辺は地下鉄が沢山あるはずだし.
そこから思考を進める暇もなく,ノックもされず,目の前の扉は開かれた.
部屋では,仁志が全裸にガウンを羽織った姿でベッドに腰かけ,暇そうに足をぷらぷらさせていた.訪問で診察が中断でもされたのだろうか.
こちらを見て固まる仁志をよそに,老人がいつの間にか手に持っていた無線端末から井路端の声がする.
「さて,無事を確認したな.なら一つ目の願いは叶えた」
その声に反応したのか,仁志はガウンとシーツで体を覆い隠してから,顔だけ出してくる.何がなんだかわからないという顔だ.
実のところ,広路もよくわかっていない.なので聞いてみる.
「お前は,なんでそこでそうしてる?」
「彼女との会話は禁止だ.手話もな」
これには時間差が無かった.
「聞きたいこと,あるんですけど」
「なら,私が答えよう」
「あなたが仁志の何を知ってるんですか? 」
「大体のことは.何を考えているかとか,学校で何があったかとかでも,人の力を借りればすぐわかる」
借りるのに偉そうだ.借りられるから偉いのかもしれんが.
「なら,仁志は俺のこと覚えてますか」
「仁志純の記憶はいじっていない」
つまり,仁志から情報が引き出せれば,何があったかわかると.学校で何かあったというのは,井路端が語るに落ちたのか,どうか.
「無事といいますが,前側の身体にけが……怪我が見えなかっただけですよね.他がわかりません」
「それもそうか.愛生,立って返事を.それから,後ろ姿を見せてやってください」
仁志はその指示に一瞬たじろいだ様子をみせたが,すぐに返事をしてベッドの上に立った.そして,後ろを向き,羽織っていたものを落とす.
ただ時間稼ぎなので思考に集中する.
「結構です.どうもありがとう」
仁志は急いでガウンを羽織り,またシーツにくるまる.なんなんだこの生き物は.
「気分は悪くないのか」
仁志は広路の問いにこくりと頷く.学校,高校の方にいたときはこんなんじゃなかったな.こっちが本性なのか?
「愛生」
井路端の嗜める声に,仁志はびくりと体を震わせる.
悪いな,と広路は素直に思ったので,仁志へ頭を下げる.
「二つ目の願いは? その前に,場所を替えようかね」
井路端は仁志に聞かれたくないようだ.ならここでけりをつける.
「俺を縛っている,この『お前はやりなおした人間だ』という呪詛を,消し去ってください」
井路端は十秒以上沈黙し,大きく息を吐いてから感情の起伏を感じさせない声で言う.
「そうか.そんなことになっていたとは」
答えを聞いた瞬間,辺りが真っ暗になった.停電とも異なる,月の無い夜より闇だ.そして,気配が隣の老人のもの以外なくなった.さらに,隣の老人が別人になっていた.いや,正確には別人の気配になっていた.ううん,それも違う.前の老人,サムのように目の前にいるのに気配が感じられない人間になった.
「許しを乞うわけにはいかないだろうから,謝ることもできないな」
さっきまで端末を通して聞いていた井路端の声が直に聞こえる.
空間の広さは,さっきの部屋からベッドの分を引いたくらいか.
「私,井路端大九はおよそ十八年,いや十四年前か.ひょんなことから『三つの願い』を叶えることになった.そのうちの一つがそれだ.人生のやり直し.正確には,別の人生のかな」
うっすらとだけ見える老人だった顔は,青年と壮年の間くらいの顔に若返っていた.というか輪郭も変わっていた.黒塗りの暗さで表情までは全く見えない.
「その時の願いは『俺に人生をやり直させたい.素晴らしく幸せな人生をだ.俺の魂をコピーして,奇跡のように恵まれた環境に産まれる……男として生まれ変わらせてくれ. 先天的な病気とかはなしで,とにかく元気なやつ.顔のつくりも素晴らしくいい感じに.進路が制限されない程度に裕福で仲の良い円満家庭.どうせだから歴史のある家がいいな. かわいい幼馴染みってのも欠かせない.それも複数だ.その他の恵まれ具合の細かい調整は任せる.あくまで大事なのは奇跡のように恵まれた環境であることだからな.そして,やり直し前の記憶は要らない.ただし,本人にだけは自分がそういう存在であることを伝えてやってくれ.これが最後の願いだ』だ.今でも一言一句覚えている」
広路はその時に自分が何を考えていたか覚えていない.嘘じゃない.
「最後の部分が曖昧過ぎたんだろうな恐らく.でかい山を越えた後で気が抜けてたんだ.願いを叶える精霊任せになってしまった」
広路は何とか思考を整える時間を稼ぐため,質問を挟んだ.
「十四年前?」
「ああ,自分の年齢と合わないって? 色々とあって,私は四年分若いんだ.だから暦の上では十八年前でいい.君の人生に関係はないから,そういう細かいことは気にしなくていいよ」
何があったか気になってもこういう切断をされるととてもストレスがたまる.自分はやらないように気を付けよう.
「とにかく,君の魂は間違いなく俺のコピーだったものだ.俺にはわかる.あと,俺の相棒,君を殴り倒した娘にもわかったみたいだ」
殴り倒されたらしい.あの夢みたいにだろうか.だとしたらそれにも意味や裏があるんだろうか.
考える時間が足りない.横やりを入れ続けないと.
「人間に魂なんか,ない.あるのは五蘊で成り立っている仮想の私だけだ」
風祭のお坊さんに教わった知識を垂れ流す.マブイは一人の人に七だか九だかあって,尸の虫は三匹らしいが,向こうに話させることができれば何でもいい.
「人生やり直す理由なんか,誰にもない」
そしてこれは全くの計算外の発言.
「うはははは.今の反応はいいな.よし,サービスだ.答えてやろう.理由はあるさ.それはな……」
もったいぶって言葉を切る井路端.闇の中に浮かぶ笑顔を消す為に広路は目を閉じた.
「秘密だ」
殺意を隠すのはもう無理そうなので止めた.広路は湿った気配を剥がれぬように井路端へと思い切り叩き付けた.
井路端は微動だにしない.
「それも良い.よし,理由を一つを教えよう.私は孤独だった.大学三年生の時,喋ったのが『袋いいです』と『レシートください』と『お箸一膳ください』と『すみません』の四種類だけだった.死んでほしい人間がそうでない人間より多かった.というか,死なないで欲しい人間はいなかった.きっとそうなったやつは死ぬべきだ. この時までに青春というのをできなかった人間は,一生幸せになれないと思ってた.これ,わかるか?」
井路端は昔を懐かしむ様子とは違う,ただ思い出す用に言った.
「わかりません」
わかるはずだが,わかりたくはない.
「そうだろうな.神性の采配で恵まれているのだから,そうでなければならない」
「違う.恵まれた環境というのは,あくまでもあんたにとっての,というだけで,他人にとっては違う.きっと,全然,恵まれてなんかいない.俺みたいなのが周りにいたらどう思う? つくられた,怠けることができない天才がいつも視界にいたら?」
周りが感じているであろう不満が口を衝いて溢れていく.もう止まらない.
「それに,恵まれるのは産まれた時点での話であって,その後の保証は何にもない.例えば姉だ.あいつはただ,俺と遊びたかっただけで,武術に興味なんかなかったんだ.今だってそうだ.それくらい家族なんだからわかる」
わかるさ,俺にだって.小径がお兄ちゃんを望んでないことはわかっているんだ.でも仕方がなかったんだ.
「そうだろうな.だから,その呪詛以外に君が今でも苦労してるのは,君のせいだ」
このことに気付くのに,時間はかからなかった.何せ二十四時間三百六十五日休むことなく,やり直しを教えられていたのだから.
だから.
「次の願いです.俺たちを,具体的には,俺と,俺の家族・親戚と,俺の幼馴染みたちとその家族,そして通っている学校関係者,芸の師匠たち,俺の手が届く範囲の人たちを,あなた方のいざこざに巻き込まないでください」
「ふむ.今回のことは完全に俺たちのミスだ.別に願いを使わなくても,そのつもりだし,この願いもそのお詫びを兼ねている」
「いいえ.お願いします」
「いいだろう.叶えたというのに時間がかかりそうだが,受け付けた.叶える」
「具体策は.それがないと納得できません」
「悪魔の具現化は防ぐ方法がある.仁志による観察とは別に地域警ら担当をつける.観察担当との情報交換は頻度を固定する.私も不定期で周辺を回ろう.ついでに,今ある他の火種も取り除いてやる」
仁志は何かの観察担当なのか.これまでで情報がある程度そろっている.よし,間に合った.これで行くぞ.広路は考え続けていた策の一つを使うことにした.
「それでは続きまして,最後の願いです」
「願いは三つだといったはずだ」
「俺の呪いの由来については,あなたが自分で語っただけです.そして,願いは叶えられなかった.俺の中の呪いは消えていない」
順番がずれたけど,ここが勝負.どうだ.
「確かに.君の願いはまだ一つしか叶っていない.二つ目は,俺には叶えられない.君の体を治したとき,ついでに呪いの類も消すようにしてあってな,それで消えてないんだから,恐らく,全てに刻みこまれてるんだろう.科学技術でも魔法でも呪術でも超能力でも奇跡でも時間でも回復できない.願いとはそういうものだ.消すなら同じく『三つの願い』で叶えるしかないはずだ」
広路は次の策へ移る準備をしていたが,今の回答で頭が真っ白になってしまった.
この呪縛が消えない.
「でも,残念ながら,もうこの世では,何者も,神によって願いを叶えられなくなってしまったんだ.十六年前からな.『三つの願い』に限らず全ての願いがだ.神によっては,世界をやり直したり,変革したり,乗り換えたりすることも,もうできないんだ.これは君の人生にとっても端切れではないが,もう,誰にもどうしようもないので,気にしない方がいい.私がこうしてるのは,その罪滅ぼしみたいなものだ」
「そうですか」
一瞬息が詰まって膝から崩れ落ちかけたが,気取らせないように慎重に言葉を選んで続けた.
「いいですよ.もう.鍛えてますから」
「そうか」
「みなと騒いでいれば気になりません」
「そうか」
「嘘です.目の前が真っ暗です」
「真っ暗なのは私がそうしているからだ」
殴りかかる気力は一欠片も無かった.その分は今,全部頭に回している.
「では,三つ目,最後の願いです」
そう言った直後,辺りの黒いのが消え,元の病室に戻った.仁志は退屈そうにベッドに伏せていたが,こちらに気づいて正座する.さらに,井路端に気づいて,敬礼する.慌ててやったので肌が露わになるが,それには気づかないようだ.
「愛生,それはいい.横になっていろ」
仁志は言われた通り横になったが,首だけでこちらを見ようとしている.
広路の方は仁志どころか勝負の結果を気にすることもできず,淡々と予定通りの言葉を紡ぐ.
「仁志の役割を組織内で留め置いてください」
「……理由は聞かないといったが,一つだけ聞かせてくれ.仁志でいいのか?」
「答えますよ,俺は.理由は,他の観察を気にしなくて済むからです.もちろん,元から仁志一人だけじゃないのかもしれないけど.あと, お互いに事情を知っている訳ですし.あと,仁志が転校二日目にしていなくなるというのも周りにいろいろありますし.みんなの記憶をどうにかされてもいい気はしません.ついでに,かわいいからです」
かわいいといいながら,仁志を見る.表情は読めない.
「そうか.わかった」
望んだ答え.勝ったのか?
「だがその願いを叶えることはできない.なぜなら,君の言う組織なんてものは存在しないからだ」
予想できた範囲に収まった.後はもう一つ.最後の問題はここからだ.
「わかるな?」
「わかりません」
広路は間髪入れずに答えた.
「ん? どういう意味だ」
「じゃあせめて,観察に至った理由を教えてください」
「それは答えられないと知っているはずだ」
広路は内心ガッツポーズをできるほどに気力が回復した.
「ではなぜ,それが答えられないと,俺が知っているのを知っているのですか?」
この件はずっとダメ元なんだ.ここで攻めるしかない.
「それに,やり直しの呪詛ことを知らなかったというのに,やり直しは知ってる.仁志は明らかに治療が終わったばかり.いつ知ったのか.最中だ」
広路は溜めて言った.
「あんた,仕組んだな?」
言い終わる前に,また辺りが黒く塗りつぶされる.気を効かせてやったんだ.ちゃんと聞かせてもらうぞ.
「合格,といったら失礼か.よく見逃さなかった.これならいいだろう」
「何かもらえますか?」
「事実を」
今度は一瞬で黒いのが消えたと思ったら,仁志のベッドだけが黒く覆われていた.よく見ると,金属のような光沢がある.
井路端の表情が良く見える.
「君は恵まれていたか?」
「ええ」
即答した.
「君は幸せだったか?」
俺は恵まれていた.これだけならきっと,幸福だ.
でも,俺と俺の周りにあるものは,何者かの作為によると,作り物なんだと,知らされ続けてきた.そして,そのことだけが自分をつき動かしてきた.こんなものが幸福であるものか.あってたまるか.
それでも,俺が作り物だとしてもなお,俺は恵まれていたのだから,幸福ではなかったと言うことはできない.言ってはならない.
「まだわかりません」
即答は不可能だった.これからもずっとそうだ.
「では,気付かなければ隠しておくつもりだったことを明かそう」
「その前に聞かせてくれ.俺にはあんたの本心が全く分からない」
一矢報いなければ気が済まない.
「あんた,何で自分でやり直さなかった? あんたは,自分がモーツアルトになっても幸せになれないと思ったんじゃないか?」
井路端は無表情で頷いた.
「そうだ.私には四つの選択肢があった.何もかも覚えてやり直すか,やり直しだと覚えてやり直すか,何も覚えずにやり直すか,やり直さないか.いや,最後のやり直さないというのはなかったか.どうやり直すかだけだ」
それが間違いを生んだんだよ.
「もし,やり直して,それでも幸せになれなかったら,私は幸せになれないということだろう.かといって,引き継がずにやり直すにはいかなかった.他に叶えた願いの都合でね.そこで,比較することにした訳だ.やり直しと続きの」
表情はよく見えるが,何も読めない.
「あんた,願い叶えて幸せか?」
「ああ.願いを叶えて手に入れた力で道を切り開いた.道中,色々なものを手に入れた.一昼夜語り明せる友がいる.背中を任せて信じ合える相棒がいる.技と力を競い合える強敵がいる.命を賭けて愛し合える妻がいる.出来のいい子どもたちがいる.二人,大切な人たちと別れてしまったが,一人とは再会し,見守ることが出来ている.幸せだ」
「なら,俺はもう要らないだろ.結果は出た」
井路端は初めて感情を表に,その全身に見せた.強く硬い何かの意志だというのは確信できる.
「残念ながら,そうじゃない.なぜなら,まだ死んでいないからだ.私もまた,願いの代償を負っている.君と同じではないが」
井路端は意志を宿しながらも淡々と,末期がんをドラマで告げる医師のように言う.
「願いを叶え終えた人間は,幸福の絶頂で死ぬ」
広路は唸り,息を止めた.
「ちなみに,これを知るのは願いを全て叶えた後だ.ついでに,そのことを知らされ続ける.幸せに近づくにつれ,はっきりとな」
「それで鐘か……」
広路は掠れた声で呟いた.
「そう.それがあったから,私は確信を持てた.君だということを.四つめの願いを叶えた人間とは,私だけなのかという問いの答えも」
「俺にも代償を払えってことか」
「いや,どちらかだ」
井路端は宥めるように両手で抑えるジェスチャーをする.
「そんなのわかるのかよ」
「証拠はない.が,確信はしてる.願いと同じく,代償も一度きりだと.根拠といえるほどではないが,手がかりもある」
じゃあ,どっちかに死ねってことか.
「私は,やり直しの私,すなわち君が幸福に生きられることを願ったつもりだった.が,運良く失敗した.不幸中の幸い.まだ君は生きている.だから代償は私が払う.そのために,これから君が幸福ならないよう,不幸を与える.君が道半ばで死なずに済むように.そのための監視を仁志純にさせる.あの一件は,君が仁志純を異物のまま受け入れるための儀式のようなものだった.極力それを意識させないための書き換えも含めてな」
井路端は一息挟んで,犬猫も認識するであろう悲しさしかない表情で言う.
「残念なことに,君は,これから私が最も幸福になるまで,不幸に生きなければならない.でもそれは難しいだろう.だから不幸を確実にするために,もう一つ秘密を教えよう.恐らくこれがある限り,君は幸福になれない」
広路は耳を塞ぐこともできなかった.
「一ノ二愛生,つまり仁志純は元精霊だ」
それでもベッドに跳びかかることはできた.そして,振り下ろした拳は阻まれた.
「彼女が君をそうした共犯だ.そのころの記憶はないがな」
井路端は広路をまっすぐ見ながら続ける.
「正確には,元人間の前精霊の今人間でな,私が願いで人間に戻した.今から十八年前」
広路は肉が裂けて血が噴き出た拳を振り下ろすのをやめた.
「幸せになりたかったんだ.なのに」
「言うな.もう遅い」
まだ,全部ひっくり返す方法はある.
「君が幸福で死なないためにできるのは,私の幸福を願うことだけだ.一つことのために他の全てひっくり返すなんて,君にはできない」
井路端に抱えられ,広路は黒い塊から降ろされた.
「そこが私との決定的な違いだな」
完敗した上に情けまでかけられた.
黒いのは消え,混乱した表情の仁志がベッドから起き上がった.血まみれの拳の広路を見て,声にならない声であたふたしている.
「そろそろお帰り願いたいのだが? 怪我くらいは治しておいてやろう」
「願い忘れてた.仁志純に,通学用自転車をプレゼントしてくれ.きっとあった方が良い」
「ああ,叶えるよ」
その後,広路は治療とはっきりと記憶を戻す処理を受けることになった.
そして,待っていた運び屋に連れられて地上に戻っていった.この時は全く殺気が刺さってこなかった.むしろ憐れみが前面に出ていて,頭を撫でられた.
送りの車は手前の路地で降ろしてもらう.午後七時半.いつもなら合気の稽古からちょうど戻ってくる頃で,今日は夕飯の準備をするはずたった.
玄関前で仁王立ちしていた小径に問い詰められた.
どうにか切り抜けて部屋に戻ると,窓に端切れでつくられた小物袋が貼られてあった.中身は運び屋と八の字の車に仕込んでおいたGPSロガーと領収書だった.
「運送料金三○万円は井路端の預金口座より確かに頂戴しました」