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六乂六乂(むかむか)  作者: 枝野メル
第一部 何日是歸年
7/14

第五話 此恨綿綿無絶期(この恨み晴らさずにおくべきか)

 広路は一人,特別教室棟の一階廊下に腕を組んで仁王立ちしていた.

 真っ直ぐ前を向いた険しい顔の視線の先.仁志を追っていたであろう怪人が,黒いもので覆われた渡り廊下を通ってこちらへ近づいてくるのが見える.

「どうも怪人さん.俺の名前は焼鎌広路.どうやら上帝候補の一人らしい.で,一緒にいるのは『帝国』の人だ.相手に間違いはないか?」

 やや大きな声で稚気を含ませず問いかける.

 今更だが,エグゾスケルトンが女性的なフォルムをしていることに広路は気付く.股間の部分にある影は玉門か地獄門か.どっちにしろろくなもんじゃない.

 怪人は問いかけを意に介する様子もなく,歩みを止めない.コンクリートの床でもずんずんと足音が近づいてくる.

 広路は腕組みを解いたが,その場に留まった.重心を調整してすぐ動けるように踵と膝へ力を貯めておく.

 大きな足音とかすかな振動.とうとう怪人は目の前にやってきた.それでも止まろうとはしない.広路は牽制のつもりで,一歩踏み出して右耳のあたりを目がけて平手打ちを放つ.

 不意の攻撃を避けるどころか,首を動かすこともせずに受ける怪人.箱を叩いたような音がボンと鳴る.続けて顎を下から右の掌底で狙おうとしたところで,怪人が歩きながら構えもせずに正拳を突き出してきた.

 腰も入っていないのに大きく風を切る音がする.速度はかわせるギリギリだ.狙っているのか?

 広路はわざとらしく大きく後ろに飛びのいてかわす.こうして跳ぶ程度のことなら今の足でも問題ないようだ.

 今度は前蹴りで股間のあたりを狙うが,横にずれてかわされた.前に出した足をそのまま曲げて,それを追う.軽くはなったが股間に踵が当たった.

 それを見て,怪人はよろけるように壁へと後ずさった.さらに,拳を無造作に振り上げ,柱に叩き付ける.コンクリートが軽い音と同時に砕け,上半身ほどの大きさの穴が空く.威嚇のつもりだろうか.当たったらやばいってことならもうわかってる.

「仁志に用があるなら,俺は帰らせてもらえないかなー」

 広路はそう言いながら一階昇降口側へじりじりと移動する.

 怪人がこちらを見たところで,手を叩いて合図をする.広路の後ろ,本校舎の方の廊下の角から,仁志が上半身をのぞかせて,グレネードを装填したピストルのようなものを構える.それを冷気で感じ取った広路は,後ろ,と思わせる動きをしてから,前へ全力で駆け出す.

 一度横切った怪人の前を再び横切って階段へ向かう.親柱に差し掛かったところで,後ろから爆発音が聞こえてくる.広路は振り向かず,三階まで一息で駆け上がる.

 仁志は一発撃った後,同じように本校舎の中央階段へ向かい,三階へと移動している.

 怪人は爆発の位置から少しの間動かなかったが,仁志の方へ向かって走り始めた.

 距離は十分にあったので,追いつかれる前に三階の渡り廊下で広路は仁志と合流した.そして,仁志の靴からゴムをはがし,広路のに巻き付ける.さらに,二人とも来た方の校舎へ引き返す.ただし,仁志は足音を大きく立てて走り,広路は音を殺して小走りで特別教室棟の二階を目指した.

 怪人は二階と三階の踊り場で立ち止まり,二階へと踵を返す.渡り廊下方面へ向きを変えたようだ.

 広路はそれを確認し,二階の理科準備室へ潜り込む.ドアは少し音を出して開閉しておいた.

 怪人が音をセンサで感知しているのはほぼ確定.そして,仁志かどうかの認識には足音の大小を使っていると予想し,さっきの嘘別行動で試した.結果はこの通り.仁志の真似して足音を消し,誘いこんだというわけだ.

 仁志はこちらから合図がなければ,ぎりぎり追いつかない程度の速度で怪人の後をついてくる手筈だ.

 怪人は少しの間をおく形で,準備室前にやってきた.簡易な鍵がかかったドアを破ろうと拳を振り上げたのを感知して,広路は跳ぶための準備としてかがむ.そしてドアが破られた瞬間,跳んで両足を大きく開いてつっかえ棒代わりにし,天井側に上る.

 怪人は室内に足を踏み入れて,奥にある古カーテンで覆われた膨らみへ向かう.

 広路は怪人と廊下の真後ろにできたわずかな空間へ降り,背中で体当たりをする.

 バランスが崩れた怪人はよろめくが,倒れない.すぐに振り返ってこちらへ向かってくる.

 廊下へ少し出たところで構えて待つ広路に対し,また構えることなく正拳を突き出す怪人.

 その踏み出た足の間接部分,装甲の隙間を目がけて,忍び寄っていた仁志がナイフを死角から突き出す.出てくるのが少し遅れたため,広路もカウンターの正拳を打ち込む振りをして怪人の意識をそらそうとする.

 だが,完璧と思われた不意打ちも,刃の届く寸前で怪人が跳躍し,かわされてしまう.

 残念,予想の範囲内だ.広路は既に真下に潜り込んでいた.とっさの回避行動でがら空きになった胴体を,足で投げるようにオーバーヘッドキックで打った.

 怪人がドアのガラスを破って放り込まれたのは,理科準備室の向かい,手芸準備室という名の実質空き部屋だ.薄い仕切りで作られた室内には窓も別の入口もない.そこに,仁志が医薬品扱いで持ってた小型酸素ボンベの中身と,資材の粉体塗料をぶちまけてある.吉原は風呂を沸かすための可燃物がそこらじゅうにあるので,建物を見ればだいたいどこにそれがあるかわかる.広路の使い道がなかった得意技だ.

 仁志はナイフを広路に放り投げてから,グレネードピストルへ持ち替え,ほとんど狙わずに横転しながら手芸準備室へ撃った.

 問題です.可燃性の粉塵の舞った酸素濃度の高い密閉空間でグレネード弾が爆発するとどうなりますか.

 はい,皆さん正解です.急速な着火により大爆発を引き起こします.グレネードなくても部分点です.

 大爆発のエネルギーは筒状の空間から収束的に放出され,反対側にある開けっ放しの溶剤塗料と二つの爆発物を設置した理科準備室へと流れ込む.

 仁志は既に離脱中.広路も既に体制を立て直している.後は逃げるだけ.

「お約束だ! 覚えとけ!」

 広路は振り向かずに全力で走りながら,連続する爆発音に負けないよう大声で叫んだ.

 が,直後に来た衝撃と熱で前方に投げ飛ばされる.秒速二百メートル以上の爆発力だ.

 ごろごろと転がって衝撃と抑えてから止まる.すぐ起き上がり,爆煙の奥に意識を凝らす.爆弾を大量投入したおかげか,壁の代わりのパネルで区切られていたいくつかの部屋は繋がって,大きな部屋になっていた.床も天井も逃げながら刃を入れておいたところが脆くなっているようだ.母曰く,「劣化したコンクリは見た目より脆い」のだ.

 薄目で煙の先を凝視すると,三十メートルほど離れたところに怪人がうつぶせ状態で倒れており,両足の部分が運良く古い空調機などの下敷きになっているのがわかる.燃えたカーテンが顔に掛かっているが,動きは見えない.

 広路は怪人の顔あたりを目がけて足元に転がっていたひしゃげた鉄棒をほうり投げた.相変わらずの甲高い音が響く.当たった部分に動きはない.

 同じく吹き飛ばされていた仁志へ手話で合図し,打ち合わせておいた場所に向かわせる.それから広路は近辺の物を手当たり次第に投げまくった.半分くらいしか当たらなかったものの,反応は全くなかった.

 数分後,広路と仁志は音楽室にいた.あの場でトドメがさせるか.広路の判断は否だった.

「やっぱり起きてきやがった」

 二人が部屋に入った直後,怪人が何事もなかったかのように起き上がったのを,広路の意識は捉えた.

「怪我は?」

「ない.そっちは?」

「問題ない」

「なら良し.これで向こうはこっちの攻めをはっきり意識しなきゃならなくなった,はず」

 その代わり,裏で声以外のやり取りが行われていたことはバレただろう.ダメージかそのせいか,怪人は歩いて移動している.

「タイミング,合いませんでしたね.私はこういう役目に向いていないのでしょう」

「そういうときは目より耳を信じるといいらしい.時間に対する認知の精度は,感覚器では耳が最も高いそうだから」

 広路は仁志の顔に手を伸ばし,顔の汚れを制服の袖で拭ってやる.あざといかもしれんが,こういうのが後で効くはずだ.

仁志も広路に同じことをしてきた.

 それを打ち切るかのように,広路は前置きなく聞く.

「上帝って,何をするんだ?」

 なぜ今そんな話を,としか表現しようのない困惑した顔をする仁志.

「走り回ってたら,高校のことを思い出した.うちの学校,一部の連中が声大きくて,トップが居なくて回ってたんだけど,それをトップがいないとあんまりうまくいかないようにつくりかえた」

 相槌は打ってくれるが,まだわからないという感じだ.

「で,こんな世界があることを知ってしまった.こんなのが当たり前以下の連中の上って,幸せなだけで何ができるんだろうなって」

 これは本当に思ったことだ.統治,いや,長の意味がわからなくなってきた.こうする前は,ただ上手くやれればいいんだと思っていた.

「せめて,鐘が鳴ればな」

 今日何度目かの溜息を吐く.

「鐘?」

 仁志は予想通り食いついてきた.

「なんでもない」

 広路はわざと誤魔化す.

「お互いの役立ちそうな情報はできるだけ開示する.約束です.私だって秘密をいくつか明かしてしまっています」

 約束できた覚えはないが,さらに手を打つまでもなく確認が取れたので,広路は隠さず答えた.

「鐘が鳴るんだ.時々,何故か,頭の中でな.それはどうも行動の正否の判断材料になるらしい.ここではまだ一回も鳴ってない.だからどうしようもない.不快で,不要で不正確な情報だから黙ってた.気をもたせるような言い方をして悪かった.鳴ったら伝える」

 広路は不意に思いついて,もう一言付け加える.

「本当はこれも話したくなかったんだけど,どうせ死ぬし」

「少々お待ちを」

 もういいかな.これ以上は面倒くさい.

「何」

「死ぬので話しても良いというのは,貴方が否定した後ろ向きそのものではありませんか」

「確かに」

「ですので,先ほどのように学校の話をしましょう.この状況を突破でき,その後の追及を逃れれば,任務は再開されます」

「そうなのか」

「恐らくは.では――」

「ダメだ.一ノ二さん,あなたは,年齢と出自を偽って生徒として高校に潜入している.任務は観察だ.その任務に一般生徒に馴染んだ学校生活は必要か? あなたの上司は,仮初の学校生活を楽しめと言ったか? 例えば,あなたが私の仲間で,学校生活に憧れていたとしたら助力する.でも,あなたは巨大な権力に遣わされた俺のストーカーだ.そんなことをする義理はない.あえて言おう.あなたは任務に必要ないことを,自分の欲求のために求めてる.配置換えでもう二度と経験できる機会がないからか? 知ったことか.現状で最も適切な俺の意識を保つ会話内容は『帝国』について,だ」と言いたいが堪える.

「悪いが,来たぞ」

 音楽室から出て,最初のように階段へ向かう.ただ,今回は中央階段だ.

 止まって懐から外しておいた腕時計とケータイを取り出すと,どちらもパネルが割れて画面が付かなかった.矢摩か葦原先輩に余りを一台貰うことにしよう.SIMカードだけ抜いておく.

 仁志が代わりに時計を見せてくれた.目を疑ったが,まだ五時を回ったばかりだ.

 広路は天を仰いでから,反対の懐から受け取っていた爆弾を一つ取り出した.

 爆弾を一挙に投入したのは,爆発した数を悟らせないためだったのだ.一発分はラムネ瓶にガスと薬品を詰めた疑似弾頭.

 残る一発はなんと,六十年にわたり最強と名高い窒素爆弾.まさか完成していたとは.日本列島とまではいかないだろうが,学校ごと消えるんじゃなかろうか.

(「バスは消滅しますが,それ以上はないです」)

 仁志は真顔で告げて,カンプピストルとナイフの鞘を渡してくる.

 広路はそれを受け取ってから,仁志を一階まで降ろさせる.自身は二階で留まり,また仁王立ちで怪人を待つ.

 仁志が下に着くのと同時に,怪人が追いついて上から降りてきた.

「今だ!」

 広路はそれを見て叫び,すぐさま一階と二階の中間あたりを目がけ,横っ飛びしながら仁志のした様に撃った.

 白い閃光,鼓膜が破れそうな轟音と腹まで伝わる振動,もわっとした熱が続けてやってくる.その情報の洪水の中で,一階までの階段が消滅して怪人が落下したことと,仁志が吹っ飛んで転がったこと,壁が健在なことを把握する.さらに,接続部分に刃を入れておいたおかげか,怪人の頭上へ三階の階段が崩壊して落下した.さっきより倍以上に大きな瓦礫の下敷きになる.

 広路は体を起こして,吹き抜けとなった部分からまだ埃でよく見えない一階へ飛び降りる.そして,コンクリートサンドイッチの具になった悪魔めがけて,右腕で瓦礫ごと寸剄をぶち込む.中身がたとえ空だろうと関係ない.

 続けて左腕.さらに左足.最後は右足.

 全身が猛烈な倦怠感に包まれる.

 痛めた足に無理させたせいか,打ち込み加減の調整が乱れてしまい,瓦礫はぱっくりと割れてしまった.これでは押し潰しっぱなし作戦ができない.

「退くぞ!」

 広路は叫んだつもりだったが,声がほとんど出なかった.それでも仁志はこちらを見て頷き,校舎端の階段に向かっていった.

 広路はふらつきながらも何とか走り,反対側の階段を上って三階で仁志と合流する.

「……ここまでタフとは.予想しててもきついなこれ」

「怪我ですか?」

「いや,体力が無くなってきただけ.そっちは?」

 答えを聞く前に,足のところどころから血が垂れていることに気が付く.

「痛みは消せます.問題ありません」

「俺にはある」

 懐から懐紙を取り出して,汚れを取ってから圧迫止血する.その上にあるだけの絆創膏を貼っておく.

 アルコールは爆破に使ってしまったから,これが限界だ.

「作戦変更.プランBだ」

「何ですか,それ」

 答える前に,怪人が瓦礫を粉砕して立ち上がったのが上から聞こえた.

 逆の階段を利用して距離を稼ぎ,辿り着いたの体育館手前の給食室.改装されていないのは確認済みだ.

 適当な大きさの保存庫を開けて,仁志に言う.

(「入って.じっとしてろ.さっきので個人の識別精度はわかった.隠れていれば見つからないかもしれない」)

 仁志は大きく首を振り,広路の腕をつかんで拒絶の意志を示した.

「いやです.私だけ生き残ったら,処分されますから.意味がない」

「そういうことゆーなよ.黙っててくれた方が格好つくのに」

「あなたもです」

「それなら別にいい.ずっと誰にも言えなかった事が言えた.すっきりした.あとは余生みたいなもんだ.なんなら上帝やってもいい」

「無理です.前例がない」

「あれ倒せたら逃亡生活くらい余裕だって」

「あれの在庫は八十あります」

「一個欲しい」

 と言いつつ,説得を諦めたふりをしながら仁志の後ろに回る.そして首に腕を回し,太い血管を狙って一気に締め落とす.

 気絶した仁志の鼻に手を当てると呼吸が感じられる.これをやるのは久しぶりなので緊張したが今度はうまくいった.

 起こさないように保存庫にしまい,そっと扉を閉める.小学校の時に隠れたことがあるので息はできるはずだ.

 さて,後はやるだけやってみるさ.勝ちたいなら自分で自分の想像を越えなければいけない.

 こんな気持ちは初めてだ.広路は一度も経験したことがなかったほどのすがすがしさを感じ,顔が綻んだ.

 途中の職員室に寄ってから,一階の元中央階段と昇降口へ向かう.

 怪人はすぐにやってきた.動きが鈍っているような印象を受ける.外観は汚れており,傷らしきものも見えるが,へこみはなさそうだ.

 話しかけることもせず,まずは煙幕を放る.続けてチャフ.また爆発させたいが,あえてそうしない.上階の鉄筋の出っ張りに職員室から持ってきたカーテンを引っ掛け,ターザンロープの要領で弧を描きながら一息に接近する.そのまま,目を閉じ,息を止め,煙幕へと突っ込む.

 一時間近くも追いかけっこをしたんだ.見えなくたって,どこにいるかははっきりわかる.

 怪人の左に降り立ち,振り返る間を与えず,鞘からナイフを振り抜く.

 引っかかるものは何もなく,ぼとりと首が落ちた.

 上手くいったとか殺したとかではなく,勝ったと思った.初めての高揚感が溢れ出る.

 すぐに,閉鎖されていた空間が広がったことを感じる.昇降口の黒い何かも無くなっていた.

 しかし,崩れ落ちた怪人を見下ろしつつ勝ちどきをあげようとしたところで,広路は固まった.

 頭が,いや,中身がなかった.

 崩れ落ちた姿勢から無造作な拳が振り抜かれる.

 広路は伏せた.

 起き上がりつつの後ろ回し蹴り.

 広路は四つん這いから跳んだ.

 回転に続けての袈裟切りの手刀.

 着地は間に合わない.

「馬鹿野郎!」

 言うより早く,仁志が体当たりで広路を弾き飛ばした.

 怪人の手刀は仁志の背中から左半身を引き裂いた.

 飛び起きた広路は,怪人に背を向けて仁志に駆け寄る.

 仁志は口から血を吐き出して咳き込む.そんな流血が気にならないほどのむせ返る鉄の臭い.左腕は根元から吹き飛んでしまっていて,辛うじて残った骨もほとんどねじ切れている.

 反射的に首の脈を測った.まだ消えてはいない.

「緊急だから勘弁してくれ」

 一応の断りを入れつつ,セーラー服を引き千切る.傷口,というより裂け目の全体像が露わになった.そして,色気のないスポーツブラ. 久しぶりに見たなこういうの,とえぐれた脇腹から目を背ける.赤黒に染まりきったブラだけ見ながら考えるが,どうすればいいかまるでわからない.

 目の前が真っ暗になる代わりに,五感の端々をやり直しの呪詛が覆い始める.

「いい.逃げて」

 仁志が絞りだした声に我を取り戻し,応える.

「うるせえ」

 手拭いだけでは到底足りない.思い付きで袱紗挟みから布巾を取出し,拡げた懐紙を目立つ傷に押し付ける.

「触らないで.私の血は毒になる」

「黙れ」

 床を温い液体が覆いつくしていく.煙草の臭いが完全に呑まれて消えた.

 どうして来たのかは聞かない.理解したくないからだ.

「おい,あんた.なんて呼んだらいいかわからないんだけど」

 広路の背に向けて手刀を構える姿勢の怪人に声をかけた.

「必要はないでしょう」

 山羊の頭のような黒い影が頭の部分に見える.

「自分を殺す奴のことくらいは,冥土の土産に知っておきたい」

「復讐の職能をもつもの,それだけです」

 職能……呼び出された悪魔の能力のことだっけ.てことはやっぱり「魔女」か.

「焼鎌」

 今度は遮らなかった.

「聞いて――」

 だが,言いかけて仁志は気を失った.いや,死んだのか? 冷たさで判断できない.

「我があるじはその肉体を失われた.そして信仰の礎になった」

 怪人は構えたまま話し続ける.合成音声としか言いようのない機械的な声だ.

「魔女が信仰する実在しない神?」

「知っていたとは」

 気休めにもならない止血の真似事を終え,立ち上がって向き直り,ナイフを正眼に構える.

「知らねーよ」

 そう吐き捨てるように呟いてから,広路は間合いに入っていく.

「遊びは終わりです」

「俺にもこいつにも,遊びじゃない.こいつは仕事.俺は生活」

 話しながら,刃を細かく振っていく.

「あるじにとっては遊びです.そうだ.では,もっと楽しめるように一つ,提案をしましょう」

 が,それまでとは打って変わって,怪人は全てをかわしていく.

 対人であれば立ち回りだけではなく,気配を発して動きを変えられるのだが,怪人は全く意に介していない.

「その死にかけにとどめを刺しなさい.そうすれば,あなたの命は助けましょう.元からそれだけのつもりなのでしたし.どうせ放っておけば死ぬのですから,悪くないでしょう?」

 死にかけってことはまだ生きてる.それを聞いて,やや深く強く早く踏み込む.

 刃が届き,怪人の腕に新しい傷を刻んだ.

「いい案だ.だが,殺さずに済むならもっといい案になる.俺と契約したいなら資料揃えて出直してこい」

 怪人は広路の上げた速度に合わせて,より機敏に動き出した.そのせいで,先ほどまでのように刃は届かなくなった.

「いつまでも人間は愚かだ」

「受け入れられそうもない提案しかできない愚かな悪魔に言われたくねえよ.そんなのでよく契約してもらえたな」

 そういいながら左手に握っていた手拭いを投げつける.

 怪人は避けようともしない.

「毒でどうにかなるとでも?」

「なら飲んでみろよ.効かないんだろ」

 山羊の表情など読めないが,馬鹿にしたような雰囲気は伝わってくる.

 広路はそれに反応した振りをして,激しく攻め立てて仁志のいる場所から大きく距離をとる.流石に呼吸が苦しくなってきたからだ.

 そのおかげで,大きすぎて気づかなかったそれに気づくことができた.それがすさまじい速さで近づいてくることにも.

 感じたのはただの強さだった.翻訳の必要がない.

 その直接的すぎる刺激で動きが鈍る.怪人は隙を見逃さず,ナイフを狙って指を突き立てた.金属の弾ける音.

「は,ははっ,あはははははは」

 広路は折られたナイフを放り出し,笑った.

「狂ったか.もうよい.済ませてしまいましょう.復讐するのなら悪魔を呼びなさい」

 広路は体を丸め,うずくまってから言った.

「復讐は自分の手でするものだ.それに,これから負けるようなやつに頼むことはない」

 天井を割って,拳が降ってきた.

 伏せた意味もなく,体が吹き飛ぶ.波のような衝撃波に押され,空中では転がって勢いを殺すこともできず,そのまま壁に強く打ち付けられる.

 空中歩法も誰かに習っておくんだった,なんて今さらだ.

 勢いで仁志の脇まで転がらされてきた.近くのセーラー服から仁志のケータイを取り出すが,電源が入らない.核爆弾かよ.

 落ちたものの方へ這い寄っていくと,煙で何も見えない穴の下から,何かがひと跳びで飛び出してくる.

 出てきたのは人.筋肉質の若いラテン系の女性だ.自分が最強です,と全身で主張する佇まい.ちらりとこちらを見たときの威圧感をまともに受けてしまい,足が制御できずに震える.さっきのがチュートリアルだとしたら,こいつは隠しボスでないと困る.

「発見.状況.四六四九四六五一番は緑.観察官は赤.輸血と完治ポッド用意」

 日本語で状況を報告したようだ.

「彼は確かに似てるかもね.見えるでしょ?」

 そういって彼女は,こちらをじっと見る.ただただ怖い.

 ほぼ左の肘だけで体を起こし,仁志を背にして向き合う.構えようにも半身は思い通りに動かないが,気持ちだけでも迎え撃つ.逃げたいけれど,逃げたくない.

「でも,やっぱり別人だ.無謀」

 彼女はこちらを見て呆れたように言った.そしてこちらから顔を背け,穴の底を覗いて言う.

「実体化してる.生け捕り? とどめ?」

 通信機が全く見当たらないが,どうせ謎の技術かインプラントだろう.

「わかった」

 返答したと思ったら,彼女の姿は消えていて,もう一度大きな音と振動.さらに振動が止む前にまた穴から飛び出してきた.そして,まばたくばかりで動けない広路に告げる.

「さて少年.よく生き延びました.今はゆっくり休みなさい」

「そうします」

 広路は応えながら,手に握っておいた仁志の血を彼女の顔めがけてかける.かすりもせず,空中に散る毒の霧.

「なぜ?」

「あなたが俺と仁志の味方である確証はない」

「でも,勝ち目がないことはわかってるんでしょ? 顔は真っ青で体はろくに動かない」

「それは,あの悪魔の時も同じですよ」

「そう.薬のせいかも.でも,もう話はいい.時間がないから,殴る」

 彼女が言い終わる前から瞬きしていなかったのに,いつの間にか鼻と前歯が粉砕される感覚がして,広路は意識を失った.網膜に焼きついたのは,汚れ一つない純白の手袋だった.

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