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六乂六乂(むかむか)  作者: 枝野メル
第一部 何日是歸年
6/14

第四話 相去復幾許(二人の距離はいかほどか)

 目の前であがった怒声と飛んできた唾に対する仁志の反応は鈍い.ゆっくりと顔を上げてから広路を見る.

 広路は,仁志の腕を掴んだまま,半ば引き摺るようにして勢いよく走りだす.

 仁志は最初こそもたついたものの,すぐに足並みを揃えてきた.

 その場の近くの階段を降り,さらに進んで渡り廊下へ続く廊下を曲がったところで止まり,スイング系社交ダンスのように仁志を振り回して奥に押し込む.一旦呼吸を整え,角から後ろの方を覗く.

 まだ怪人の姿は見えず,気配らしきものもさっきから動かない.それだけ確認してからまた走って校舎の端へ向かう.

 途中の教室は壁がぶち抜かれて一つの大きな大きな部屋になってた.壁の地や柱はむき出しなので,まだ改装途中だとわかる.場所によってはかなり工事が進んでいるようだ.

 真っ直ぐに渡り廊下も走り抜けて隣の本校舎へ.広路は仁志を引っ張りつつ,棟の端にある音楽室へ駆け込む.本校舎は板張りなので,静かに移動するよう気を付けはしたが,さすがに音は鳴らしてしまった.音楽室を選んだのは,防音で話が漏れにくいし,準備室もあって離脱がしやすいと踏んでのことだ.

 入ってまず辺りを見渡す.暗くなってきてしまったものの,まだ状況は見て取れる.運良く,こっちの方には工事の手は入っていなかったようだ.アートセンターでもそのまま残すのだろうか.在学中は不評だった音楽室だけ本校舎にある構造が,まさか役に立つとは.

 広路は昔を少しだけ思い出しつつ,真っ赤になるまで固く掴みっぱなしだった仁志の腕を離して,再び息を整える.呼吸が落ち着いてくるにつれ,汗がじわりと噴き出す.窓にぶつかった時の鼻血を拭うが,すでに乾いてしまっている.

 仁志にも呼吸の乱れ,顔の紅潮,発汗が見られる.そのことに広路は少し安心した.どうやら人間のようだ.なら,ここからは質疑応答の時間にしよう.

「あれは何だ?」

 さっそく本題に入る.会話を試みたということは,当然,何か知っているのだろう.知ったかぶりという可能性もなくはないが,その時はその時だ.

 返事がないので,広路はケータイを懐から取り出した.予想はしていたが,やはり圏外だった.

「あれには勝てない.何とかしないと」

 通知画面を仁志の方に向けてから,率直な感想を伝えた.

 さっきのは不意打ちでありながらカウンター相当で完璧に決まった.怪人は体ごと大きく吹き飛んだ.でも,そういうつもりで打ったのではない.留める蹴り方だった.恐らく自分からも跳んだのだろう.決まったけど効いてない.一撃で沈めるつもりで無茶をしたため,軸足が痛んでしまった.同じ威力ではもう打てない.

 返答を待ちつつ足の状態を確認していると,煙草の臭いで怪人が動き出したことに気づく.そのせいで広路は顔が不意に歪む.

 ついてくる間,そして,今も広路の顔を見続けている仁志も,状況を察したようだ.しかし,動こうとはしない.

「来る.時間がない.答えろ」

 肩をつかんで迫るが,こちらの顔を見るばかりで反応はない.

「お前だって困っただろ.さっき無反応で」

 相変わらずだ.いや,さっきまではこちらを見もしなかったから,変化してるのかもしれない.とにかく前向きにいこう,ここだけは.

「あれは何だ」

 広路はなんのひねりもなく,同じ質問をただ繰り返してしまった.しかも,言ってから気付いた.前向きにいこうとした矢先のことだというのもあって,これにはかなりのショックを受けた.

 恵まれた人生? だから何なのだ.

 あの秘密がある限り,こんな時が来るかもしれないのはわかっていたはずだ.それなのに,自分ではどうしようもなくなって,会ったばかりの何も知らない他人にすがっている.

 息はすっかり整ったのに,どこか苦しい.無意識に歯噛みし,拳を強く握る.なんでもいいから気を紛らわせたい,そう思った広路は,最も自身を苦しめることを口にしてしまった.

「お前は,俺がやり直す前のことを知ってるのか?」

 冷静な,いや,冷静になるつもりだったが,残響だけではっきりわかるほど声は震えていた.何の勝算もない,ただの博打ですらなかった.バレてしまった以上,この機会を逃せば二度と会えないだろうから,これだけは聞いておきたかったのかもしれない.

 ……いや,言い繕ってもしょうがない.ただ理性が衝動に負けたんだ.

 広路は文字通りうなだれた.

 それでもこの敗北は幸か不幸か,次の戦いに繋がった.

「何ですか,それ」

 初めてまともな反応があった.仁志の声は,自分がそれを知らないことに驚いているようでさえあった.

「知らない,か.いや,表現の問題か.けど,他の言い方を知らないんだ」

 なにせ秘密童貞だったんでね.

「俺は人生をやり直した.でもって,やり直す前の記憶がないんだ」

 頭を上げて言い直したのには無反応だった.仁志の感じるところが分からない.ならば,さっきの流れを追うしかない.

「お前はそのことに関わってるやつじゃないのか? だからここにいるんだろ?」

 首を振ろうとして止まるのが動きから見て取れた.少しだけ進展してる.

「あれのこと知らないのか?」

 今度はこちらを見たまま,かすかに首を振る仁志.

「そうか.お前がここで,抵抗もしないまま死ぬ気なのはわかった.死ぬのが怖くなさそうなのも何となく読める」

 さっきの,あの何もかも諦めたようなやるせない顔が思い浮かんで,今の表情に重なる.その幻影を見るのが嫌で,また何かしてしまいそうで,仁志に背を向けて言う.

「俺は死ぬのが怖い.また続くかもしれないから」

 自分は幸せ者だろう…….きっと.

 なんで言い切れない?

 幸せと判断される大きな要因には,人間関係とかの環境と本人の能力が挙げられるはずだ.でも,もしそれが誰かに仕組まれたものであったとしたら? 恵まれていても,幸せと言い切れるのか?

 何者かが「奇跡のように恵まれた環境下で,卓越した才能を有する人としての人生のやり直し」を願った結果,自らは生じたものである.このことを,人としての意識を持った時から広路は理解させられていた.そうして,生まれる前があったことだけを知った.

 そして,いや,だから,自分を鍛えた.二度とこんなやり直しなどしないように.

 やり直しというのはどういうものか,毎日寝る前に考えているように,可能性はいくつもある.

 まず一つ目.やり直しはただの脅迫観念で実際にはなかった.この場合,この植え付けられた意識を我慢すれば良いだけだ.我慢するためには鍛えないといけない.

 次.やり直しはあった.やり直したのは自分だ.やり直しは繰り返されている.矢摩がいうところのループものだ.この場合,フィクションの例を信じるなら,自分次第でループから抜けられるかもしれない.故に努力し続ける必要がある.

 三つ目.やり直したのは自分で,繰り返し無し.これも俺が我慢するだけ.どうしようもない.

 まだある四つ目.やり直したのは自分ではなく別人で,しかも繰り返しが有る.この場合が一番辛い.やり直したそいつは今も生きているのだろうか.そもそも人間だったのだろうか.この世界のものだったのだろうか.いつまたやり直させられるんだろうか.何もわからない.不安で,憎くて堪らない.何かで気を紛らわせる必要がある.

 最後の五つ目,別人のやり直しで繰り返さない.この場合でもやっぱり何もわからない.

他,以下省略.

 対策は気合と努力と根性のみ.結局のところ,なぜやり直すことになったのか,何がそれを可能にしたのか,またそれは起こるのか,何一つわからない.理解しているのは,ただやり直したという結果だけだ.またやり直させられるかもしれない.だから,死にたくない.

 けど,死んでいいとも思ってる.だって,四六時中こんなことを考えさせ続けられてるなんて,自分で想像するのも嫌じゃないか.

 それだけじゃない.やり直しのことは他人に知られてはならない,という暗黙的な心の縛りがある.ただ電波だから言えないんじゃない.口に出そうとすると,全身がそれをこばむのだ.

 さっきのみたいに口に出せるようになったのは,修行のたまものと危機的な状況だからだろう.もっとも,今まで口に出したことはなかったから,結果的に鍛錬の成果の確認ができた.

 でもこのままじゃ,無駄になる.

「俺って案外,頑張ってたのかな」

 思考に逃避したのと同じくらい長く,長い,溜息を吐く.

「なに?」

 呟くように仁志が聞いてくる.心配されてるのかこれは.

「独り言」

 もう一息吐いて,へその下,丹田に気を置く.仕切り直しだ.

 怪人の気配は渡り廊下の中央付近にあり,こちらへは徒歩のペースで向かってきている.

「さて,仁志純.俺はこの状況から脱したい.あれはもうすぐ来る.速やかな対処が必要で,それには情報が要る.知っていることを教えてくれ」

 広路は改めて言って仁志の正面に向き直る.

 仁志はただ首を振った.

 なんでこいつが幼馴染じゃないんだろう,なんて理不尽なことまで広路は考え始めた.

「死んでもいいのか」

 仁志は首を振らなかった.それを見て広路の何かが切れた.

 最大の技術を以って,予備動作なしに両手で制服の上から仁志の胸をつかむ.

 美浦の見立ては外れだったようだ.着やせするタイプなんじゃないか.ずいぶんと硬いけど気にせず揉む.

 間髪抜きに飛んできた肘打ちと金的をすんでのところで止めて,にらみ返す.

「怒ったのか? なんで? 死ぬんだろ? 別に胸くらいいいじゃないか」

 自分が知る中で最も下衆な人間の顔まねをして言う.

「怒るのは,話さないってことは,生きる気があるってことだ.お前は走れば疲れる,痴漢されれば怒る,生きてる人間だ.まだ生きてるし,まだ先のことを考えてる」

 理屈になっていないなんてわかってる.今はとにかく,感情を揺さぶるしか策が思い付かない.揺れれば揺れただけ,間違いは起こりやすいものだ.こんな手は使いたくないが,信用を積むには時間がなさすぎる.

「生きのびられたら,その時に好きなだけ殴るなり蹴るなりすればいい.そうだ,ラムネが鞄に入ってるから,それもやろう.日本に一つだけの六角瓶モデルだ.飲んだことないだろ? 炭酸と甘さが爽やかなのが特徴だ」

 睨まれたままだが,気のせいか目により力がこもったように思える.すり足一歩分くらい前進か.

「風祭矢摩曰く,少女マンガの九割は,報告連絡相談の徹底によって消滅するそうだ.言葉が尽くされてないと話が拗れるってことだ.知り合ったばかりの二人だからこそ,お互いの情報をできるだけ開示しないか? 秘密は守るし,守らせる」

 仁志の表情がフラット,というか元の無表情に戻る.例えが悪かったか.これはバックステップくらいの後退だな.

「俺は,このやり直し人生がどんなに嫌でも,俺個人の意志だけではまだ死ねない.芸を託されてるから.これは初めから贈られたんじゃなくて,後から託されただけだから,勝手に捨てるわけにもいかない.姉にその気はないし.俺が死んだら,次のが育つ前に祖父が死んで伝承が間に合わない.それこそ,最初からやり直しが必要だ」

 絶対に絶対に嫌だけどな.

「死なないために仁志と協力したい.詐欺師の論理は使わない.これが本題だ.俺の質問に答えてほしい.俺も答える.一律じゃなくていい.今できる事とできない事を分けて考えてくれ」

 床板が軋む音は,この部屋にいてもわかるほど近づいている.

「そっちから出る」

 仁志の手を握り,一気にギアをトップまで上げて準備室へ飛び込み,今度は急停止する.数秒後,怪人が音楽室へ入ってドアが自動的に閉まるのと同時に,廊下へ駆け出し,音を気にしつつ全力で走る.階段に差し掛かったところで,握っていた手を離し,慣性で流した仁志を抱える.握るのにも抱えるのにも,抵抗はない.ひとっ飛びに階段の手すりへ座り,滑り降りる.仁志が軽かったおかげか,踊り場でのターンまで久しぶりでもできた.

 そうして走り抜けて辿り着いたのは,改装が半端に進んだ元教室の一つ.確か……三年生のだ.壁に見覚えのある世界地図の切れ端が残っていた.本校舎にベランダはないが,隣の部屋への非常用扉がある.ここの黒板の左は,扉が除かれていてそのまま通れる状態だ.

 息を整えつつ,また声をかける.

「助けが要る.頼む.俺を助けてくれ.『帝国』の一二一番,一ノ二愛生」

 広路は仁志をじっと見つめる.

 仁志は目をゆっくりと閉じてから,重かった口を開いた.

「私は……『帝国』の『宮殿』で儀典庁長官官房任用部局人事部観察課玉座第七柱設置地域係に所属している上帝位推薦候補監察官です」

 表情は変わったように見えない.が,何かが仁志を動かした.何が使えるカードなのか,急いで整理する必要がある.

「なるほど.わからん.それは俺の理解力を買いかぶり過ぎだ」

 どっかの先輩みたいだ.説明を求めようとしたが,煙草の臭いが鼻をくすぐる.怪人だ.気配と足音が分かりやすいのは結構だが,ホラーとしか言いようが無い.

「また走るぞ」

 これ以降,こちらが走れば向こうは歩いて追う,少し休むと追いつかれる,を繰り返す.落ち着けないので,棟の左右,正確には中庭の運動場を挟んだコの字の両端で距離を開けて,向こうの反対に動くことにした.こちらが階段を昇ろうとすると向こうも昇り,降りようとすれば向こうも降りる.結果として,左右の二階の階段踊り場で身動きが取れない状態になった.なお,途中で見に行った昇降口と職員玄関は当然のごとく開かなかったし,入る時の通り道と屋上への扉も何か黒い金属のようなもので塞がっていた.

 怪人からすれば,体力の差で走り続けるのが正しい勝ち方なんだろう.そうしないのは何か理由があるのだろうか.時間稼ぎか道楽か.どうせ考えてもわからないので,この間に会話を集中して試みる.

「さて,『帝国』って何,からいこうか」

 本題は別だが,話しやすそうなところを選んだ.そして,それが間違いだった.

 仁志の答えのいくつかの部分については脳が理解を拒否した.言葉がわかる部分だけまとめるとこうだ.

 “元始,この世には様々な勢力があった.それぞれ勢力の中でもとりわけ強い勢力の代表は,お互いの領分を守るために,生存のために,滅ぼしあう争いを回避すべく取り決めをした.

 一つ,全てを統べる上帝を選ぶこと.

 一つ,上帝を選ぶために争わず協力すること.

 一つ,上帝に選ばれるのは幸福なものであること.

 一つ,上帝が不在の間は代表者たちが合議制の組織を運営すること.

 一つ,その組織は上帝のためにこの星を統べること.

 この組織を「帝国」という.各勢力の代表七名が上帝を支える幹部の「玉座」七柱になり,選定にかかる作業は行政部門の「宮殿」が行う.「玉座」の柱はそれぞれ,第一柱「聖人」,第二柱「夜行人」,第三柱「異星人」,第四柱「軍人」,第五柱「妖人」,第六柱「魔女」,第七柱「職人」という.”

 仁志は「宮殿」の職員.「玉座」の一人の「職人」という奴が担当する東アジア地域で,彼の下につき上帝候補を観察する役割なのだと.

 馬鹿げている.とても馬鹿げている.それ以外にどんな感想もない.

 君主がいないのに国かよ.

 今さら専制王政なんて気持ち悪い.

 どうせ誰がやったって自分を含め民衆が糞なんだからどうにもなんねえだろ.

 なんだよ幸福って.君主さえ幸福ならあとはいいのか.

「夜行人」と「妖人」と「異星人」って人間じゃなくね?

「聖人」と「魔女」ってかぶってね? あと人縛りやめたの?

「職人」だけ普通じゃね?

「軍人」てどこのだよ.

 そんな頭の大部分を占めるツッコミを全てスルーして,現状を打破することに思考を集中しようとするが,上手くいかない.

 そうだ,落ち着くためにもう一回胸を揉もう.いや,待て,落ち着け.

 邪念を感じ取ったのか,仁志は一歩離れる.続けて口を開くが,言葉が思い浮かばなかったのか,何も言わずに閉じてしまった.

「何だ?」

「『帝国』の政治体制について,現在の言葉で定型の説明があるので使おうとしたのですが,思い出せません」

「秘密組織っぽいのに何のための定型だ」

「一部の有力な臣民向けです.例えば,澁衣財閥は『帝国』の出入り業者の一つです」

 あの時の反応,そういうことだったのか? いや,末端なら知らないような.

「まあ,それはいい.それどこで知ったんだ? 必修か?」

「いえ……思い出しました.ありがとうございます」

「何の礼かわからん.いいから続けてくれ」

「はい.『帝国』は反動です.上帝による統治は不合理を保つためのものです」

「はあ?」

「まだ続きます.建国当時,発祥地の欧州都市国家では共和政治が主流でした.その後は王政と帝国の時代が続き,革命を経て現在に至ります」

「うちのテストだとそれ,点貰えないよ」

「続けます.現在のような共和制から王制に戻る可能性は低いです.なぜなら合理的ではないから.もはや,たかが王に権力を集中させる妄信などできない」

「……あ,わかった.それで反動か」

 理路は見通せたが,相変わらず馬鹿じゃねえかという感想しかない.

「まだ」

 お役所仕事.

「それでも人間たちは不合理な妄信を捨てられない.神,宗教,魔法,妖怪変化などについて語らない日はない.不合理な妄信が社会の一部,欠けがえない一部なのだ.……例えば,ラジオの干支と星座の占いのように」

 仁志もあの番組聴いてるのか?

「しかし,我ら,『帝国』のことですが,我らの元には聖人,魔女,妖人,異星人らが確かに存在する.彼らにとって自らの存在や力は合理的なものだ.彼らのことを知れば,人にとっての不合理が失われる.彼ら同士からも失われえる.存在や力に対する不合理が,対話や学習によって根絶されようとするのなら,常に意識しうる統治者を不合理のものとしてしまえば良い.統治が無害であればなお良い.お分かりなら,あとは省略します」

「理屈はわかった.それで幸福が条件なのね」

 でなければ,きっとやってられない.

「あなたは,上帝位への推薦候補者として,今日の日本標準時午前零時より観察対象になっています」

 もしかして朝の寒気もお前か.

「継承候補って,公子でも皇子でも王子でもないのになれるの? 俺はやり直しだから,だから間違いなく血縁上は両親の実子だよ」

「継承とは違う.推薦候補.世界には三〇分ほど前の時点で推薦候補が九千八百十七人いる.あなたは推薦候補四六四九四六五一号です.上帝がいたことはないから皇族もいない」

 馬鹿馬鹿しいがその理屈ならわかる.

「なるほど.ずいぶんと数が多い気がするけど,通し番号か?」

「そうです.頻繁に入れ替わりがある」

 不幸になったんだろうか? それとも?

「んー.観察しているらしいけど,俺の個人情報は網羅していると?」

 仁志は言葉でなく,こくりと頷いて答えた.なんだかかわいく思えてきた.吊り橋効果かストックホルム症候群か.どっちにしろ正常じゃない.

「じゃあ,明日の俺の放課後の予定言える?」

「午後四時終業.同一〇分頃帰宅.着替えの後に移動.四時一五分に馬家着.太極拳の稽古.五時五分,稽古修了.同一〇分,馬家から風祭家に移動.書の稽古.六時,稽古修了.移動.同五分,自宅着.同一〇分,夕食準備.同四〇分頃,夕食.移動.七時,穴師家着.柔術の稽古.七時五〇分,稽古修了.移――」

「わかった.もういいよ.ありがとう.霊媒師だったらお金払うところだ」

 他の人のことは何か知っているのかと気になったが,こんな時に聞くものでもないので話を戻す.

「ええと,何か候補に入る理由はあるのか?」

「儀典丁情報局情報部情報収集課玉座第七柱設置地域係に情報が渡り,計測された幸福値が閾値を越えていれば」

「幸福って数値計れるのかよ……って,それは別にいいか.なんかで運動量とか遺伝子と相関があるとか読んだし」

 やり直された人間がいるなら,幸福を計る仕組みがあったっていい.世界を征服してる組織があるならなおさらだ.今はそう思うことにしよう.今は,まだ.

「問題はその前だ.俺は,何かの作為で恵まれてただけで,公に目立ったことは,吉原以外じゃしてないはずなんだけど」

 それこそ,恵まれたなりの普通のつもりでいたのに.

「そうですね.特記事項はなかった.あなたが候補に入った理由は現在の『職人』による最初の直接選定.幸福値の計測は行われていない」

「何で?」

 比喩的な意味で,陰謀の臭いがしてくる.

「知りません.私の権限で選定理由は閲覧できない」

 ここまで話してくれているのだし,嘘ではないだろうと思う.しかし,何かがちぐはぐだ.

「一応,簡易計測はできる.測りますか?」

 仁志は眼鏡を人差し指でクイッとあげる.やはりそれか.

「要らない.今日の占いは百点だったから.できれば,あいつのを測ってほしいね」

「それはいい考えです.が,複数の値から総合的に判断するので,遠隔では不正確」

「健康診断みたいなものか」

「はい.やはり測っておくべき」

 仁志も気になっていたのか,言うより早く,こちらを見ながら眼鏡のフレームの角をなぞって叩いた.

それを広路は何となく避けてみる.

「ズレた.が,問題はない.総合値2/8fg+-190.観察要件をごく僅かに上回っています.ただ,誤差が見たことないほど大きい.故障か,あなたのせいか,現状のせい.非常時の簡易計測でしかないので目安程度」

「ようわからんが,俺って案外,幸福なんだねえ」

「ですから,簡易計測だと――」

「それでも結果は結果だろ」

 そう,原理はわからなくても,結果が出たのならいい.

 だいぶ落ち着いてきたので,気になっていたことを直球で聞いてみる.

「話変わるが,なんで,こんなにあっさりと仁志は俺に捕まったんだ? 調べはついてたはずだろ? 気配が読める相手にここまで近づいて尾行とか,ありえん」

「え? そのような情報はありませんでした.なぜ?」

「知らんがな」

 こっちが驚きたいほど予想外の答えだ.何だろうか,この違和感は.世界を牛耳っていると称する割に,肝心なところ,対象を観察できるかどうかにかかわる部分が抜けていたり,その抜けているということの重大性に仁志自身が驚いていたり.

「いえ,あの,なぜというのはなぜ気配が読めるのかということをお聞きしたくて」

「は?」

「すみません.ごまかしました.それはそれとして,せっかくなので,私の知っている原理であれば助言できるかもしれない」

 照れたように言う仁志.なんかずうずうしくなってないか.

「秘密」

「そうですか」

 でもつれない.仕方がない.

「家の剣術,つーか軍配術を習っているから,のはず.うちのって,自称の起源は某天孫で,鎌倉から明治まで禄を賜ったトンデモ系でさ.文書によると,鬼一,九郎,金柑, 山鹿あたりも教わってるらしい.どこまで本当だかわからんけど」

祖父曰く,当流派は「軍の大将が天守や陣から逃げるとき,または逆に,大将首を逃がさない」ことを主眼に置いており,その教えは戦術レベルでの空間掌握技術に特化している.この先祖伝来門外不出の稽古を一万時間ほど積むと,気配だの視線だのがわかるようになるのだ.一般的に気配は静電気や音だと言われてるが,自分たちのは違うようだ.感覚の鋭敏化か,戦術勘の発達か,詳しい理由は知らないし,どうでもいい.母曰く「人生は緻密な考証が求められるSFじゃない」んだから.「要は,視線や気配を読むなんて訓練すれば誰でもできる,ただの謎の技術だ.超能力なんかじゃない」と伝えた時のしまゆうの顔は今も覚えてる.

 もっとも,出来には個人差がある.小径は同じくらいやっているが,まだ四メートル程度が限界だ.祖父ですら二十五メートル.ちなみに広路は二百メートルだ.

「なるほど」

 こんな話でいいのか.楽だ.

「あ,そうだ」

「なんですか」

 つい,声が出てしまった.さっきの『帝国』云々は嘘だという可能性は? 追ってきている怪人は,現実の,今ここにある危機だ.多分.でも,仁志の話は妄想.つまり,怪人と仁志の話は全く関係ないという可能性.たまたま二つが同じ場所で同じ時に交わってしまった結果,一つの大きな出来事に見えてしまっているのでは? ありえなくはない.いや,むしろその方が自然な気さえする.これは確かめなきゃいけない.

「……えーと,仁志は何かやってるの? さっきの格闘技っぽかったけど.あと,体格に比べて動きが良いよね」

「はい.軍格闘の中級を修得しました.薬物による強化もある」

 自称ヤク中.妄想説に十ポイント.

「なんか職人てよりは魔女とか軍人だな」

「誤解しないでください.わたしは宮殿の職員.職人ではない」

「よくわからん.さっきの説明と何が違うんだ」

 また釣ってみる.

「わからなくて結構です」

 やはり掛からない.主導権はこちらにあるはずだが,判断力は鈍っていないようだ.あと,世話好きではなさそう.方向を変えるか.

「『帝国』のことはもういい.今につながる話にしよう.んで,武器は使える?所持品は?」

「基礎生存訓練は受けました.ナイフ,銃,薬品をいくつか」

「薬品の種類は何系? 毒,薬,爆発とかで」

「医薬品と爆発物です」

「クジラ動けなくする毒薬とか,バスが爆発する爆薬は? 化学式まで詳しくなくていいから,使い方だけ教えてくれ」

「どうぞ」

 制服の下をまさぐって,ホルスターごとプラスチックでできた銃のようなものと,巨大なクレヨンのようなもの,注射器のようなものを渡してくる.さらにスカートの下からワイヤーと手裏剣が出てきた.

 おへそと温もりと裏ももとパンモロも頂きましたが嬉しくはない.あと,硬かったのはこれか.なら,未遂じゃん.

「何これ?」

「閃光弾,催涙弾,発煙弾が一つずつ.威力の違う爆弾が二種類二つずつ.銃口部分に装填して撃つ.手投げでも使える.注射器は麻酔と神経毒.銃弾としても注射としても使える」

「カンプピストルと各種小型ロケット弾?」

 銃の表には何の刻印もない.

「大体はあっています」

「違いは? 型番の話までいかなくていいから」

「どちらにも魔力や妖力,祝福が加わっています」

 コミュニケーションが上手くいきはじめたようだ.驚きは最良の潤滑剤だな.

「オカルト,いやミステリか」

「魔力とは――」

「細かい説明はいい.悪いけど,背景とか体系にはまだ興味がないし,聞いてる余裕もない」

 余裕が出る前にとりあえず銃の照準を確認してみる.

「射撃の経験はないんだ,これがな」

「二年前に南洋のリゾート地で短期の射撃訓練を受けたのでは?」

「よくご存じで」

 陶芸家の叔父に連れられて滞在した時の話.ただの電波ストーカーではないようだ.

「この銃は仁志が持ってた方がいい」

 今度ははっきりと脇やブラが見える.言っておくがこれ狙いではない.

「ポエムのついでに.いや,やっぱりこれが本題か.あれは何もの?」

 遠回りにもほどがある.

「軍人に属するものです.四弾倉の黒い銃が描かれていた.『帝国』の紋章の一つ」

 銃の紋章だ? いや,またの機会でいいか.

「仕様についてもう少し具体的に聞かせて」

「人間が装着して戦闘能力などを強化する外骨格の一種です.ベースには超高温高圧化の無重力環境で精製された特殊合金を使用.間接稼働部分は妖人属の海洋種由来の皮膚素材.頭に見えた触覚状のセンサーも同じ.熱や振動,呼気,電磁気など,いわゆる気配というものを感知する機能あり.システムのコアをもたない分散型の設計.電磁波の吸収と各所の体温発電で稼働.デザインはゴキブリがモチーフ」

 よりによって人類の宿敵をモチーフにするとは,本気だな.喋りが乗ってきたようなので,ここでまた広路にとっての本来の方向に戻してみる.

「なんでそんなに詳しいの? それが当たり前?」

「いえ.前の職場が兵站庁総務部装備倉庫管理課目録係でしたので」

「地味できつそうな仕事だな.しかも,そこから最前線て」

「確かに……いえ,何でもない」

 ガードが開くのは確認したので,次は生き残るために話を進めよう.交互に攻めるんだ.甘いの,塩辛いのみたいに,合間合間のキャベツはダイエットの友.

「でもさ,なんか違和感あった.その強化外骨格? 人が着てる感じじゃない」

「なぜそう言えるのですか?」

「蹴った感触とか.偽装の可能性は?」

「着用前提です.それに『帝国』の住人以外が紋章を使うことはありえない.使えば存在を抹消される」

「消す,ね.話聞いて,仁志を見てると,そこまですごい組織に思えないんだけど」

「今ここで口で説明しきれるものでもありません.今ここでなくても言えません.緊急だから」

「ああそう.何もかも掌の上だってんなら,別に知らなくてもいいよ.話戻すけど,仁志はどこかに紋章持ってるのか?」

 早歩きで階段を上下しながらだったので外すのに手間取っていたナイフを,ホルスターごともらう.刃物自体はあんまり詳しくないが,一目でシンプルなサバイバルナイフだとわかる.

「これはオカルト? ミステリ? SF? ギャグ?」

「とにかくよく切れる,しなやかで頑丈なナイフです.紋章はここに渡されていたものが.思考と連動する刺青だそうですが,装備ではないので詳細は知らない」

 掌にじわりと,さっきまでは見えなかった青い蛇状の模様がにじみ出る.

「職人で蛇?」

「鎌だそうです」

 人食いかよ. とりあえず,仁志の話は本当であり,「帝国」と「職人」は間抜けか,どちらかが意図的に情報を隠しているということで考えを落ち着かせるとしよう.戦闘中だし.

「今まで戦う前提の話だったけど,交渉はできる相手か?」

 仁志は少し考えるように人差し指を顎に当てて,首を振る.

「理由は?」

「『帝国』住人同士の争いは法で禁じられています」

「それが理由?」

「『帝国』警察はとても恐ろしい人たち」

「それでもこうしてるからか.でも,禁じられてることをしてて,厳しく取り締まる奴がいるのに慌ててないのは,何かおかしい」

「そうですね」

 原因がわかればどうにかなるかもしれんが,情報を向こうから引き出せるとも思えない.広路が避けさせなければ最初で仁志は死んでいた.後の行動は理解できないが,あの時点ではそれがはっきりしていた.だから,怪人にとって現状は予定外のはずだ.

「うん,よし.もう質疑はいいや.んで,お願い.仁志,力を貸してくれ」

「あなたの方が戦闘能力は上です.先程からはそう理解してる.だから私では足手まとい」

「特殊な力とかないのにか.世の中には妖人だの魔女だのが跋扈してて,あれもそれの一種なんだろ?」

「でも,今のところは単独行動が最善でしょう.最善を尽くしてください」

 盗聴までしてるとは.電話もおちおちできないな,これからは.

 そういえば,怪人はどうなんだろう.気配がわかるだけでなく,話も筒抜けなのか? てか夜の営みは.

 手話を試してみる.

(「わかるか?)」)

 仁志は人差し指をこめかみに当てて首を傾げる.お前,あざといな.

「もしかして盗聴してたのか」(「触ったの胸じゃなかったから,痴漢ノーカンね」)

「はい.全ての通信・通話を」(「ふざけてるんですか?」)

 さすがエージェント.良い教育を受けていらっしゃる.

「今度からは手紙と会話でなるべくやりとりするよ」(「冗談だ.ごめん.あれは遠くの会話もわかるのか?」)

「そうですか.別に全て集める必要はないので,構わない」(「センサが多い分,集音性能自体はさほど高くない.ほぼ人間並みのはずです.集音性の高い拡張パックは外見が違います.もっとこう,触覚がこう」)

 うさ耳っぽいのか? うさ耳ゴキブリなのか?

「そうかい.やめてほしいけど言っても無駄だろうな.仕方ない.とりあえず……ここではお互いに出来る限りのことをしよう」(「わかった.念のため,行動に関しては口ではフェイクをまぜて,手では本当だけ言う.いいか?」)

「いやです」(「いいです」)

 これで万一,仁志経由で盗聴されててもなんとかなる.思考盗聴など知らん.

「なんでそうなる」

「情報は提供しますが秘密は明かせません」

 さっきのは秘密じゃないのか.

「嘘言えばいいじゃん」

「嘘はつきたくないです」

「隠匿じゃなくて自己都合かよ」

「『帝国』のことは隠しているというより,必要がないから教えてないだけだと聞いてます」

 愚民は黙ってろってことかい.

「イルミナティかよ」

「なんでしょうか?」

「ん? 『帝国』ってイルミナティじゃないの?」

「そのイルミナティとはなんですか?」

「え? 知らない訳ないだろ」

「嘘はない,と言いました」

「えっとな……秘密結社として有名な組織だ.世界規模でなんかあるとだいたいこいつらのせいと言い出す人もいる」

「そうですか.その単語は知りません」

「『帝国』はイルミナティではないということでいいのか? 職人とかそれだろ,まさにフリーメーソンだし」

「ですから,違います.そういった秘密組織は聞いたこともありません.『帝国』下の組織にもありません.そもそも,秘密なのに有名なのはおかしい」

 まさかイルミナティて存在しないのか? 三百人委員会は? 竜兵会は?

「あ,そうそう.『帝国』内の親子ってどうなの? 一緒に生活するの?」

「個人的な話です」

「じゃあ,プライバシー権はあるんだな」

「あの,こんな情報が状況の打破に必要なのですか?」

 仁志の表情が硬い.カルトの特徴を確認しようとした途端にこれだよ.

「いや,ほらさ,そう,そうだ.なにかのヒントになるかもしれないっしょ?」(「組織のことを知っておけばゴールが変わる.すごい組織なら,逃げまわってればその内捕捉されて助けがくるかもしれん」)

 倒すのではなく時間を稼げばいいなら,やりようは色々ある.

「発言が曖昧です」(「すごい組織です」)

 今一つ信用できないのは大部分が仁志のせいだと思う.

「曖昧のままのが都合がいいんだよ.誤解を招けるから」(「こっちは早ければ夕飯の時間,遅くとも明日の朝になれば,所在確認や捜索が始まるはずだ.俺は優等生だからな.連絡がつかないってことで,祖父と妹が探しにくれば,ここの異常に気づくはずだ.あとは警備員の巡回と工事の再開だな.それまで逃げまわれば向こうも撤退するかもしれない」)

「なら,正解も出してください」

「そういう頭の回し方,好きだ」(「そっちは連絡取らないでいいのか?」)

「ふざけないで下さい.撃ち殺しますよ」(「定時連絡はあります.最後は三十五分ほど前.次は二十五分後の予定.けれど,観察が優先される事態が起きた場合は後でもいいです.学校では授業もありますし.電波が届くなら位置情報は常に送られています」)

「俺はふざけてなんかない.好きだ.死ぬ前に童貞捨てたい」(「じゃあそれがロストしてれば上司なり同僚なりが動くわけ?」)

「……あそこに何かのチューブがある.私は向こうを向いているので,それで処理してください」(「はい,おそらく」)

「そんなタチコキプレイを強要されると僕は思いませんでした.興奮します」(「じゃあ,三十分から二時間くらい逃げられれば何とかなるかもしれないわけか.確証はないが」)

「プレイ? 強要? 興奮?」(「そうなります」)

「嘘です.被虐趣味ありません」

「ならば知能の問題ですね」

「どこでそんな切り返しを覚えるんだ」

「思ったことを述べたまでです」

 会話が楽しくなってきた広路だった.

「じゃ,ここを切り抜けられたら,明日から昼ごはんに付き合ってくれ」(「よし.なら攻めよう.いいよな?」)

「は? 先の事を考える余裕がおありなら,この場を切り抜ける案を出してください」(「何故ですか? 時間を稼ぐのでは?」)

「いいじゃん.同級生なんだし,ご飯くらい」(「兵法三十六計の三十四,苦肉計」)

「なぜ食い下がるのですか」(「知りません」)

「軍格闘教えてほしいから.代わりにお弁当作ってくのでどうかな.自慢じゃないけど上手いよ」(「今の主目的は時間を稼いで増援を待つことだ.向こうも遊ぶ気らしい.一気には来てない.これは俺たちにとっても都合がいい.そのことを悟られては困る.だから,主目的ではない攻めに出る.適度に攻めてから逃げるのを繰り返す.倒すつもりなのだ,戦うしかないのだと,誤解させるわけ」)

「……万一,この状況を切り抜け,後もあなたが私を覚えていて,私が任務を継続していたのなら,その時は考えます」(「そうですか.理はあるといえる」)

「よし,約束な」(「それに,攻めないと向こうに主導権握られっぱなしになるから,逃げにくくなるしな.わかった? いいか?」)

「できない約束はしかねます」(「わかった.いいでしょう」)

「真面目だねえ」(「よし.ちょっと待て」)

「悪かったですね」

「……そこも聞いてたのかよ」

 盗聴器だろうか.あの玄関の人混みで聞けるとは侮れん.

「悪かったですね.仕事ですので」

「いや,そういう意味じゃない.そのそこのそれかあらぬかだろ」

「は?」

「これは昨日の話」

「観察は今日からですので」

「お役所仕事」

「公務中の公務員ですので」

「いくらもらってるの?」

「住居衣服食事ほか日用品や活動にかかるモノとカネは全て支給です.私物の所持も許可されていますが,私は必要に思ったことがありませんでした」

「身軽でいいねえ」

 姉と話が合いそうだ.

「……そうでもないかもしれません」

 含んだような物言いをして,こちらから目をそらす仁志.

「ふーん? ……さて,もう戦うしかないな」

「わかりました」

「決断はええな」

 これまでの対応からして,もっと考えるのかと思っていた.

「私は決断などしていません.貴方に同意しただけ.私の決断は必要ない」

「それをいうなら,あらゆる決断など無意味,だな」

「なんですか,それ」

「えーっとな,時間に関する線形の考え方の一つだ」(「作戦できた」)

「話したいなら,どうぞ.私の知らない話だから聞いてもいい」

 万弓がネタで同じ言い方をしたことがあったっけなあ,と広路は場違いに懐かしんだ.

「何だその反応.うん,よし,聞かせてやろう.まず,選択肢AとNot Aの分岐があったとする.次に,Aをする,あるいはしないと決める.この決断Zは,AとNot Aの分岐点Xに置かれるのが自然だ.となると,Aの歴史でもNot Aの歴史でも決断Zは存在する」(「その名も爆弾でぶっ飛ばす作戦」)

作戦名には無反応だった.

「すると問題が起きる.決断ZによってAまたはNot Aになった,言い換えると決断Zが選択の結果の原因であるとはいえなくなるのだ.だって,選ばなかった方にも,あるんだから」

 広路は仁志についてくるよう手で促す.

 仁志は真剣な面持ちで相槌を打った.どっちのことかは分からないが,進めることにして,三階へ上る.

「でも,分岐点X以外に決断Zを置くと不自然だ.分岐の前に置けば,決断で分岐したことにならない.分岐の後に置いても同じだ.決断した後に分岐を消したら,そもそも選ばなかったのと変わらない」

 今日何度目かの三階に到着した.怪人も反対側で着いたのを確認し,広路は手すりに腰掛ける.そして,仁志に手を差し出し,隣へ座るよう促す.

(「一気に降りるぞ」)

「だから決断は無意味だと?」

 納得していない顔で仁志は言いながら,こちらの手を握る.それだけでなく,先ほどのように抱えられようと跳んできた.

 広路は驚きつつも,しっかりと受け止める.

「さあ? 別の言い方するなら,可能性と必然性は違いがないってこと.自由意志の有無にかかわらず」

「何か矛盾があるはずです」

 広路が抱えたまま動かないので,仁志は困った顔をしている.

「かもね.その時々で並行する道が見えるだけなのかも.あと,時間は線形でないとか.大森哲学的な」

「あるいは,あなたの理解に誤りがあるのかも」

「これは厳しい」

「だって……いえ,何でもありません」

「そういう言い方,よくないと思うんだが」

「ごめんなさい.何か言うことがあった気がしたのですが,はっきりしなくて」

「思い出せたらどうぞ.さて,らちが明かないから大きく動こうか」

「はい」

 尻に力を入れて,手すりに沿って滑り降り始める.前よりはゆっくりだが,今回も上手く下まで降りられた.

 怪人も遅れて階段を降り始めたのがわかる.

 仁志を降してから,「さっきので思ったけど,黄金の夜明け団とかもいないのかなぁ」と聞こえそうな大きさでつぶやく.

「それなら同じかわかりませんが,あります」

「え?」

「黄金の夜明け錬金教団.玉座第四柱の下部組織です」

 これは秘密か,それともガードが無くなったのか,確かめないと.

「へえ? それじゃあ魔術師もいるのか?」(「さて,特別教室棟まで走るぞ」)

「それはいません」

 仁志はまたこちらの手を握る.そういうつもりではなかったが,そのまま引いて走り出す.

「なんだ.錬金術師はいても魔術師はいないのか.科学だからかね?」

「魔術の使い手は,魔女との玉座の座を賭けた争いに敗れ,滅びました」

「魔術師と魔女って別なのか?そういえば魔女宗とかあるしな.そっちは薬草とか悪魔とかか.なんで負けたんだ魔術師.くじ引きだったのかな」

「ただの戦力差だとされています」

「魔女のが多いのか」

「魔術師は素質と訓練で,魔女は血脈でなるものなので」

 特別教室棟の一階は,図工室と家庭科室だったところだ.今は大きな作業場のような形に改装されているが,やはり半端な状態で,片付いていない.

「あの,聞いてもいいでしょうか?」

(「このゴムをまず剥がそう」)

 仁志からもらったナイフで壁の石膏ボードの下についていたゴムシートを切り取る.

「聞くだけならどうぞ」

「『お前はやり直したものだ』ということを『理解させられ続けている』とは,どういうことなのでしょうか?」

「なんだ,そんなことか.誰狙いか聞かれると思った」

「はい?」

 広路は反応を保留して,また手を差し出す.仁志の手を握って,棟の三階からまた渡り廊下経由で元の階段まで戻ってきた.

「何にもなかったな.マジでどうしようか」(「これ,靴に巻いといて」)

 仁志に取ってきたゴムシートを渡す.これで仁志なら足音がほぼなくなるだろう.

「体術でどうにかするしかないのでは.グレネードが当たる気はしません」(「はい」)

「だよねえ」(「終わったら今度は背負って移動するから」)

「あの,先ほどの件ですが――」(「はい.そして単独行動ですね」)

 遮るように被せて聞き返す.

「なんで知りたいの?」(「お察しの通り」)

「……記録のためです」

「仕事熱心だな」

「先のことを考えてますから」

 広路は仁志に背を向け,目を閉じた.

「人に話すの初めてだから,上手い説明がすぐには思いつかない.それに,聞いても面白くはない」

「面白くないのはわかっています.仕事なので仕方ない」

 いい根性してるよ.こういうのは,自分の周りじゃ久し振りかもしれない.もっとも,これ以上友人は要らない.

「記録しないなら教える.できれば忘れてくれると助かる」

「わかりました.記録も報告もしないので教えて下さい.お願いします」

 返事は間がなかった.意外だった.見えてはいないが,頭を下げているのはわかる.

 広路は諦めとも覚悟とも違う,意地のような溜息を吐き,大きく深呼吸してから話始める.

 これは秘密ではない.聞かれないから答えなかっただけの話だ.

「雪降ってるの見たことある?」

「えっ.ありません」

「じゃあ雨は?」

「それくらいありますよ」

 むっとしているのが声だけでもよくわかる.ういやつだ.

「外の,学校のグラウンドでいいか.想像してくれ.一歩先も見えないくらい強い雨が降ってる.でも傘がない.服は下着までもうぐちゃぐちゃで,べっとり張り付いて重いし冷たい.鼻を突くのは排ガスと放射性物質混じりの雨のにおいだけ.いや,微かに鼻の奥から鉄の匂い.そう気づいた頃,雨音に混じって,校舎から鐘の音が聞こえてくる.なんだろうと見上げる.突然,轟音と一緒に空気が揺れて,あたりが一瞬真っ白になる.雷が落ちたんだ.慌ててしゃがみこむ.あれ,息ができない.溢れた水が全身を呑み込む.苦しさに意識が遠のく.気がつくと,耳元で誰かが囁いている.声がだんだん大きくなってきたので耳をふさぐと,筋肉の動く音が聞こえる.雨も鐘も雷鳴も水流も声も,耳をふさいでるのに聞こえてくる.想像できた?」

「……なんとか」

「その時に,見えるもの,匂い,肌の感触,温度,聞こえる音,苦しさ.その全部が『お前はやり直したんだ』って言ってくる」

 味覚が無いのは例えでなく,事実だ.

「……今もですか?」

 振り返ってみると,仁志の表情が固まっている.まるで,嫌悪や失望を何一つ気取らせないようにしているかのような,強い拒絶の意志を感じさせる.何が見えているんだろう.

「今までも,今も,たぶんこれからも」

「想像できません.あなたの言った通りだとして,それでどうして,歩いたり会話したりできるのでしょう? 訳がわからない」

「努力と根性,あと気合とか気合とか気合とか」

「具体的にお願いします」

「そうとしか答えようがない.消せないから,無意識的にフィルタリングしてるっぽい.あんま覚えてないけど,二歳のころには慣れてたはず.慣れたからといっても気にはなる.だから,気にもしなくした.終わり」

 二三年あれば山の手の幼児も少年兵になれる.

「それでも,わかりません」

 広路は痒くもない頭を両手で掻く.

「えーっと,そうだな.例えば,俺が百人いたら,そのうち九割八分くらいは病んで死んでるんじゃないか? 俺はたまたま二分のどっちかだった.今話している相手はそういう場合だ,と考えてみるのはどうか」

「その例えは非現実的で,なおかつ,あなたが二分である理由が説明できません.それに,幸福計測の結果も――」

「黙れ」

 こちらが引くくらい真剣だった仁志の顔が無表情に戻る.

「失明してから音で色んなことがわかるようになったとか,そういうことなんじゃないかね.障害が発生したせいで,それ以外で補ってるみたいな」

 仁志も歯を食いしばっているようだ.お互いに歯噛みしながらの会話とか新鮮だな.

「ま,その辺は理屈じゃないからねぇ」

「理屈です」

「そうなのか? なら,無くす方法もあるのかもな…….例えば,かんむり座の星々をぶっ壊すとか」

「わかりません」

「これでも不便ばかりじゃなくてな.何も見聞きしたくないとき,ちょっと気を抜けば何もわからなくなるから重宝するんだ」

 無視して回答を終えることにする.これでよかったのかは知る気がない.

「なあ,俺からもまた質問していいか?」(「次は爆弾の加工だ.数を分けるぞ」)

「もう,構いません」(「できるのは気体燃料の二つくらいですね」)

 もう,に引っかかるが,止める気はない.

「仁志は何で『帝国』の人になったんだ? 失礼だけど,世間知らずにみえる」(「ああ.これを使う」)

「それですか」

 もしかして楽しんでいるのかこいつは.

「てっきり?」

「スリーサイズを聞かれるのかと」

 口元が上がって明らかに顔が緩んでいる.よし.

「それは見た感じで大体わかるし,どうでもいい.上から言おうか?」

 今さら体を隠すようにするとか,お前さん,貴いな.

「……気がついたら戦場にいました.そこで拾われて今に至ります」

「気がついたら?」

「記憶喪失です.名前どころか言葉も忘れていた」

「記憶喪失仲間だな」

「あなたと一緒にしないでください」

 ゆるんだかに見えた顔が元に戻る.いや,あれが元かは知らんが,自分からするとふりだしだ.

「これは厳しい」

「いえ,そういう−−」

「名前と言えば,一ノ二と仁志のどっちで呼べばいいんだ?」

 一ノ二って自分が言うのもなんだが,変わってる.

「……少なくとも,ここから出たら仁志で通してもらわねばなりません」

「じゃ,今だけ愛生って呼んでいい?」

「ご勝手に.私はこうくんとか呼びませんが」

「おお,懐かしい呼び方」

「今でも使われているはずですが」

「どこで?」

「……失礼しました.秘匿されていたのですね.なら言うことはありません」

「いや,もう遅いだろ.しまゆう以外いないし」

「私は彼女たちのプライバシーを守ります」

「専用コミュの中身なんて聞く気はないよ」

「覗いたのは観察開始前の下調べでだけです」

「で,こうくんと呼んでたわけか」

「私が関係した証拠はないので,彼女たちに言ったらあなたが犯人です」

「言わないと愛生が犯人のままだ」

「仕事です.上司の指示です.乗り気じゃなかった」

 楽しんでるようで何よりだ.

「そういえば,失礼だけど,一ノ二さんは今おいくつ?」

「解析によると肉体年齢は二一歳となっています」

 驚かないつもりだったが,咳き込んでしまい,失敗した.

「同い年ではないと思ってたけど,まさかの成人.その年でセーラー服はきついな.先生として来た方が良かったんじゃない?」

 またむっとした表情.コツを掴んだかもしれない.普段から言葉のドッジボール見てるとこういうとき楽だな.楽と怒で感情の振り幅は大きいほど良い.

「事前に『職人』直属の装飾担当官から,生徒に見えるよう外見を調整して頂きましたし,今日も指示通りの化粧・服装をしています」

「化粧って,リップとマスカラ,あと,かなりシンプルな,っていうのもあれなネイルだけじゃん.塗りが下手すぎる.それっぽいといえばそうかもしれんが」(「よし,できた」)

「下手かどうかは私にはわかりません.化粧が高校生の平均と比べて少ないのは,あなたが原因」(「こちらもです」)

「なんだそれ?」

「化粧品が苦手なのでしょう?」

「あー……そうだけど.別に気分的なものだし,そこまでするのか?」

 化粧品というより,化粧自体になんとも言いがたい違和感がある.これは秘密ではないが,何故かわからない.

「場合によっては,交際して観察する必要も生じますから.接近しやすいように,あなたに配慮している小径,穴師,風祭,八荒,澁衣,蘆原が基準設定」

 ハニートラップ宣言ととればいいのかこれは.

「彼女らは,そういうことでほとんど化粧しないんじゃなくて,家の事情とか,めんどくさいとか,化粧品代と時間がもったいないとか,スキンケア重視とかだよ」

 本当のところ,少なくとも姉と幼馴染みたちは広路に気を遣っているのだと思う.言われたことがないので推測でしかないけど.苦手だと言うべきでなかったかもしれないが,十年前には戻れない.

「そうとは知りませんでした.要報告」

「二一歳でその肌なら,別にこの仕事してない時でもいらないと思うよ,化粧.きれいだから.あ,年上なのに敬語じゃなくてごめんなさい」

「別にいいです.むしろ年上扱いは困る」

「そういやそうですね先輩.わかった.今まで通りでいくよ」

「もう無駄かもしれません」

「それはいうなよ先輩.あと,俺にも丁寧語使わないでいいよ」

「仕事ですので」

「接触は仕事じゃねえだろ」

「性分ですので」

「なら結構」(「さて,作戦を説明する」)

 仁志は大きく一回うなづく.すっかり仲良くなった,か? ならやることは一つだ.

「一息ついたところで,もう一つ質問.怒らせるかもだけど」

「聞くだけなら怒りません」

 悪いが怒らせたいんだ.

「なんで真面目に王様なんか探す仕事してんの,一ノ二は」

「王ではなく,上帝.理由は先ほど言いました.建国の理念です」

「俺が言ってんのは,王様のいない空っぽの椅子と砂の城を守り続けて,意味あるのかってことだよ」

 蜃気楼といった方が近いかもしれないな.実体はないんだから.

「話聞く限りじゃ,世界は二千年くらいの間,七分割で『帝国』に支配されてるってことになる.王様探すって名目でだ」

 平和なんだから群雄割拠ではない.七すくみとも一所懸命とも違うだろう.統治者なき分割統治とか意味が分からない.

「そんなの,一人の人間ごとき加わったところで,どうにかできる状態じゃねえだろ.そいつがいなくても,やばい連中が喧嘩しないでいるんだから,探す振りだけ続けてりゃいいんだ.そもそも,そういう安定状況のためだったんだろ? 自分で言ったはずだ.王を探すこと,それ自体が既に十分な不合理じゃないか」

 最初に抱いた個人的な感想.たとえその椅子が生け贄の祭壇でも,幸福な人間が暴力装置を使って全てを支配できる仕組みは気に入らん.

 で,次の感想.

「なのに,なんでお前は真面目に仕事してんの?」

 怒らせるつもりだったのに,仁志の表情は悲しげだった.

「喧嘩は,しました」

 仁志は目を伏せて言う.

「玉座同士の大規模戦闘は過去に一度ありました.それが……」

 言っている途中で何かに気付いたような顔をしたのに気づき,広路は目で発言を促す.

「確信はありません.あくまで可能性」

「あれの正体?」

「はい.恐らく,あれは魔女によるもの.悪魔の力でしょう」

 ようやく公式に悪魔の登場か.長かったような短かったような.

「どうしてそうなる.魔女も玉座の一柱なんだろ?」

「前の魔女です」

「代替わりするんだ」

「はい.先代であり初代,そして人類史上最強といわれた最古級の魔女.名前はモルガン.年齢は,生きていれば千五百歳余り」

「なんだそれ.アーサー王か」

「そうです.その本人」

 話のスケールが急に理解可能な範囲で大きくなった.

「本人.や,それはひとまず措いといてだ.生きていればとか先代なのは何でだ」

「モルガンは,十一年ほど前,魔女全体ではなく単独で,『帝国』に反逆した.私が拾われる直前のことなので記録を見ただけですが,一人で玉座六柱の全てを一時的に戦闘不能にしたと.私が拾われた戦場の原因でもあるらしい」

 仁志を狙った理由につながってきた.

「しかし,モルガンは現在の『職人』に討たれて死亡.単独での行動として,魔女の玉座第六柱の席は残り,今の二代目が後任に就いた」

「死亡?」

「正確には,瀕死の状態で必殺技を受け,異次元に飛ばされたそうです」

「異次元! 必殺技!」

 変な声が出てしまった.

「ええと,その,『職人』にはそういうものがあるのです.文字通り,必ず殺す技が」

 仁志は顔を赤らめている.見た目通りにかなり恥ずかしそうだ.

「しかし,死体はない.死亡確認ができないから確実ではないと,小規模ですが未だに探索がなされています」

「なるほど.仇の部下と,仇が最初に決めた候補で多分なんか関係ありそうな奴を狙ってる,って話ができるな.部下狙いっぽいけど」

 それならある程度の説明はできるかもしれない.ある程度は.

「なら――」

 それは言わせない.

「なおさら,退けなくなったな」

「あなたは巻き込まれただけで――」

 思わず爆笑する.

「あっははははは! いい.もう一回聞きたい.もう一回だけ」

「笑い事ではありません」

 語気も顔も明らかに怒ってる.すっかり馴染んだな.

「巻き込まれたってなら,生まれる前からだ.それに,さっきの話じゃ,推薦候補は何かに巻き込まれて死にそうでもほっとくんだろ?」

「でも――」

「見捨てて逃げて,その先どうしろと.やり直さないために鍛えてきたんだ.ちょうどいい.俺にはこれくらいでいい.要するに俺の事情だ」

 そう,これでいい.やっと見つけたのだから.

「あなたは,馬鹿なんですね」

 こちらの真意などつゆ知らず,仁志は言う.その言い方は,少し,優しかったかもしれない.でもどうでもいい.こいつのことなんてどうでもいいんだ.

「これまでの大半を鍛錬に費やしてきたようなやつが馬鹿でなくて,なんだと」

 俺だって,こんな呪いさえなければ何もしなかった.もっと怠惰に,努力なんて何もしないで生きていたかった.そうすれば人生を楽しめたんじゃないかって思う.

「おかしいです」

 今度は笑顔にはならなかった.人間は簡単じゃない.だから苦労してる.

「ちょっと待て」

 煙草の臭いが,野焼きの煙のような沁みる刺激に変わった.怪人の移動ペースが明らかに上がった.やはり聞いていたか.

「やばいな.急に来た.これだと二人じゃ追いつかれるかもしれない.一旦,別れよう」(「さあ,やるぞ」)

「分りました.私は下に行きます」(「はい」)

 仁志は数歩だけ,足音を少しずつ小さくしながら階段を降りて止まる.元から小さかったのがゴム巻きによってほとんど聞こえなくなっていた.

「隣の棟の二階廊下で合流しよう」

 両手で仁志を引っ張り上げて背負う.重さが足音に出ないよう気を付けて渡り廊下へ向かう.

 怪人は仁志が行ったことになった下へ向かったようだ.

 上手くいったかもしれないという安堵より,驚きが広路を支配した.背負った仁志の体が姉と比べ物にならないほど冷たかったからだ.

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