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六乂六乂(むかむか)  作者: 枝野メル
第一部 何日是歸年
5/14

第三話 別有天地非人間(こんな世界もある)

"1459728000":"moveTo(35.732083,139.765456,1.0,"Gymnasium")",

"1459731600":"moveTo(35.732436,139.764879,12.0,"Room Blue-28")",

 始業式は粛々と執り行われた.何の問題もなかった.

 式の後は教科別オリエンテーションのはずだったが,教室にやってきたのは担任だった.さらに机と椅子が一組,広路の席の後ろに増えていた.どっかの武将が一番後ろに座りたくて移動させたのだと広路は思うことにした.

「突然ですが,二年からの編入生を紹介します」

 確かに突然だ.講堂で軽い打合せしたばかりの生徒会役員がそれを知らない程に.

 見るからに面倒そうな溜め息まじりの担任に促されて教室へ入ってきたのは,一人の女子.

 外見ではまず髪に目が行く.やや灰がかった黒髪で,傾斜のきつい前下がりのボブっぽい髪型.身長は平均的で,やせ気味に見える.澁衣や小径と同じくらいか.肌の色と頭の形から言うと西アジアか北アフリカの雰囲気.無表情の中で目立つ鋭い目つきがなんだか気になる.あれがジト目というやつだろうか.長濱に聞いてみよう.あとどうでもいいが,眼鏡が顔に比べて大きくて,フレームも太いから似合ってない気がする.思い入れでもあるんだろうか.

 編入生は後ろを向き,白板へ左手で名前を横向きに書き始める.その字はうまいことはうまいのだが,癖が無さすぎて広路が習っているような書道向きではない.

「仁志純です.初めまして.両親の仕事の都合で長く中国に住んでいました.なので,日本語はあまり得意ではないです.出身は東京ですが,ほとんど記憶はありません.両親の転勤に伴って,日本に戻ってきました.中国語,英語,話せます.連絡の行き違いがあって,今日からお世話になります.至らないところもあると思いますが,よろしくお願いします.趣味はラジオと動画鑑賞とサッカー観戦です」

 前を向いて一礼の後,ところどころつまりながら自己紹介をする仁志.

「あー! お前は!」とここで言い出す奴がいないのはダメだと,一部の連中なら口を揃えて文句言いそうだ.実際,周囲を見渡す長濱の態度からは不満そうな感じがする.

 担任の話を聞き逃してそんな飼い慣らされた思考をしていると,美浦が拍手もせず,ぐるりと首だけまわして話しかけてきた.

「知ってた?」

「いや.一人,中退したのなら聞いてたけど」

「欠員補充なんか? だいたいとは友達だけど,聞いたことねえな.留年か休学中のかな.しっかし,トリリンガル帰国子女か.ここでも珍しい方だな.お前いくつだっけ.日英中露独仏西亜葡希羅梵……」

 美浦も同類のくせにとは言わないが,顔には表しておく.

「そんなにできたらサッカーの監督か武器商人やるかね.まともに話せるのは美浦と同じだよ.あとは手話くらい」

「なにそれ.キモくね?」

 イイヤツダナー.

「顔怖い.子どもが泣くからやめてね.いや,マジすまん.ポリリンガルって格好いい.響きはかわいい」

 話を切ろうとするので引き留める.

「それより,何か気にならないか?」

「ポリ? 転校生? ナイチチだということ以外には特に.なんで? 好み? どこが? 俺,わかんねえ.おめーは,しまゆーどもをほっときぱなしといい,見る目あるな.初見だとちちしりにしか目いかねえから俺」

 言うに事を欠いて「放っておきっぱなし」とは.そうかもしれないと思うこともなくはないかもしれないが,そんなつもりはないし,そうだとしても他人には言われたくない.

「俺が泣くからその顔やめろ.もう二度と言わねえから」

「お前は,目より口を閉じる筋肉を鍛えたほうがいい」

「お,そこ鍛えたことねえな.噛み技は盲点だった」

「アルミホイル噛むとすごくなるらしい」

「なるほど.さっそく弁当で試してみら.で,何が気になったんだ? 喧嘩売れってか? あんなん雑魚だぞ」

 それがわからない.

「冗談でもやめとこう.気になったのは顔つきだよ.お前と同じ沖縄系かと」

「なら違げえな.あれはもっと大陸寄り,ってかアラビア半島だろ.十六才だとしたら……アラブ事変の世俗派難民のクォーターじゃね? 東から転校ってとこで,医者か学者の家かな.あとは駐在武官.世界史ABレベルの知識しかないから,勘だけど」

「いいとこ出? それ逆じゃないのか? 」

「それがな,親父の話じゃ,融和はかなり前から始まってたんだとよ.で,なんなんだ?」

「てっきり,仁志で中国と来たんで,馬かと」

「さよか」

 予定外に察しが良くて困ったが,なんとかごまかせた様子.顔つきというのは嘘で,喧嘩狂のアンテナにかひっかかるか知りたかっただけだ.全体的な印象が薄いせいで,何かよからぬ隠し事があるのではないかと勘繰ってしまった.でも,カツアゲや喧嘩を察知する度に,目鼻の穴空きビニール袋を被って乱入するほどの馬鹿が無反応なのだ.気のせいだろうし,であるべきだ.

 注視をやめると,仁志に向けられた別の強い視線に気づく.その元は隣,ではなく後ろの澁衣だった.何かをいぶかしるように見ている.もしかしてあの発言だろうか.なんとなくやめさせようとしたところで,「ええと,や,焼鎌広路さん,澁衣,け,景さん.挙手を」と担任から急に声がかかった.

「彼らは生徒会副会長です.日常生活や情報保障で困ったことがあったら,まず彼らに相談を.席は焼鎌さんの後ろです」

 振り替えって澁衣を見ると,彼女もこちらを見て首を振る.学生組織と教員の連携が形骸化している現状を考えると,文句を言う気にはなれない.今さらだが,生徒会役員二人が同じクラスってのもおかしい.編入生の席が一番後ろなのは,好意的に考えて,他の生徒を観察しやすくするためだろう.あと,いつまで前に立たせてたんだ.

「いい香り」はさせずに座った仁志へ,香港なまりの中国語で挨拶し,続けてマナー違反の手を差し出す.

 仁志は口に手を当て,驚いたような顔から笑顔へ変わる.すぐに,中国語で「話せるんですか?」と聞かれる.

 これは普通話か.笑顔が朗らかなのは印象に残った.以後は笑ってもらえるように努めよう.

「少しだけ.拳法の先生に教わってる.君の隣,澁衣も話せるよ」

 話を振られた澁衣は,こちらの手をチラ見してから,上海なまりで軽く自己紹介した.小学生の頃,世話になった人に似ていたらしい.

 放置ぎみになった手を改めて突きだし,強引に握手する.澁衣の驚いたような視線には曖昧に応えておく.

 この手は何かやってる人のではない.指が全体的にきれいだし,骨も肉も皮も普通に思える.自分のなんか酷いもんだ.

 手を離した途端,広路は倦怠にも似たうんざりする感覚に襲われた.

 恵まれた人生に,もっとお楽しみが必要なのか.日常に飽いたのか.長年の疑問が解けるかもしれないとでも思ったか.

 サプライズの余韻もなく,オリエンテーションが始まった.課題の内職たちを並行処理することで,広路は湧き出す欲望を潰していった.

"〇一時五五分":"隣の教室へ移動",

"〇二時〇五分":"教室へ移動",

"〇二時五五分":"トイレへ移動",

"〇三時〇〇分":"食堂へ移動",

"〇三時四〇分":"トイレへ移動",

"〇三時四三分":"教室へ移動",

"〇五時〇〇分":"校舎内を移動",

 予定外の人事の影響もあってか,去年の始業日より早めに終わった.今日はノー部活デー,ただし生徒会を除く.なのでしまゆうと級友たちを見送り,戸締まり確認を兼ね,澁衣と二人で仁志を案内する.現実では休み時間のたびに囲まれることもないが,昼休みに侵攻してきたしまゆうこたちとの会話の濁流で,仁志はかなり疲れているようだった.

 日本の伝統文化である学校の七不思議の話を交えつつ校内を一周し,ラウンジでジュースをおごってから職員室前で仁志と別れる.そこから澁衣と二手に別れ,残りの校内施設を見回る.

"1459746600":"moveTo(35.732083,139.765456,1.0,"Gymnasium")",

"1459747200":"roundTo(35.732365,139.765387)",

「よっつかれー」

 生徒会室前で,部室棟の戸締まり確認を終えた蘆原先輩と遭遇.周りに誰もいないのを確認してから,つかつかと近づいてきて,じっと目つきの悪い上目遣いでこちらを見てくる,というより睨んでくる.

 十数秒は経っただろうか.なんの前置きもなく,くるりと反転して,ひらひらと手を振って去ろうとする.

「……必要なことは伝えた.じゃ,迷惑かけないように明るい内に帰るから.また明日な」

「何言ってんだこいつ.これから地味できついお仕事の時間ですよ」

「これが女子力だろ女子力」といいながら,振り返って自分の腕をぺちぺち叩く.

「古人によると,用件を口に出さずに伝えたことにするのではなく,会話の流れに分割して埋め込むスキルのはずなんですけど.例えば,ファミレスで話してて,いつ帰るかとかを自然に決めるような」

 先輩は足を止めて振り返ると,「ええー.じゃあ最初は関係ない話な.三銃士って実は――」と言いながら戻ってくる.

「俺を練習台にするのはやめましょう.同性間の会話スキルなんですから」

「それを最初に言え.なら朝のは相手がお前だったせいじゃないか.陰謀力足りてるじゃん」

「しかも熊澤先輩,あのとき用件伝え終わってませんでした」

 ぽかーんとして固まった.少し考えてから腕時計のカメラで撮影しておく.撮り終わるのを待っていたかのように口を開く.

「昔,おフランスにギヨタンという――」

「話をそらす異能でもありません」

「うっせえ.黙れ,そして最後まで聞け.こんなときだけ軌道修正するなよ.お前じゃ練習にはならんことくらいわかってる」

「お役にたてず,すみません」

 また目付きが変わってこちらをじろりと見てくる.

「そうしてお前はすぐ謝る.ここは,なんだと駄女子!とか,異能高エネルギー女子体はさしすせそ連発しとけ!とか,ちやほやされたきゃ高専にいけ! とか,練習じゃなければ本番か! で返せよ.ギブミーツッコミオアノリツッコミ.もっと非現実的な言葉のドッジボールを楽しみたいんだよ」

「鉄球でいいですか?」

「だーかーらーな? ったく浅草民だからって,あたしも一瞬わかんなかったっての.墨絵同人作家の引き出しも,それをインストールされてるお前もめんどくせえよ.……はぁ,仕事しながら続きしようぜ.あと,さっき撮ったの送って元は消せ」

「仕事しながら」

 小言は無視された.ドアに手をかけたところで,こちらへ仰け反りながら言う.

「ああ,そうそう.そうなのよん.用件忘れるとこだった.性徒会長,家の事情で先に帰った.友達がいないからあたしも帰りたい」

「欠席のことなら直にメッセージもらいました.それより,性門開帳とかはしたない.小径に言いつけますよ」

「誰も下ネタなんて言ってない.下ネタだという奴のIMEがエロいのだ」

 今度はのけぞった状態から頭の位置を固定するように回転し,お辞儀の形になる.

「エロついでに,言いにくいんですが,さっきのとその体勢だと――」

 聞くが早いか,葦原先輩は胸のあたりを腕で覆ってまくし立てる.

「殺す! じゃなくて,えーと,んだっけ,み,みぜてんのお!」

 これには広路も加虐心の促しが抑えきれない.

「顔真っ赤ですけど,それは合わせてるんですか?」

 校舎をまた一周する羽目になった.

"1459747500":"roundTo("School")",

 再び生徒会室前.先輩の息が整うのを待ちつつ,どう教えれば地面を蹴らずに走れるようになるか考える.

「もう.いい.しね.くそ,わすれろ.たのむ.くそ.わすれ.くそ.ミス.てか,おまえ,あたし,おしえて,ない,からな」

「俺も教えてないです.訊かれてもないです.そのメッセージが来るまで会長だと気づきませんでした.たしか先輩も相互に友達状態だったと思います」

「インターネットこええ」と震える先輩を横に置いて生徒会室に入ると,澁衣と小径が椅子の上の座布団に正座して,お茶を飲みながら談笑していた.

「おかえりなさい」

「ただいま.はぁ,疲れた.悪いけどあたしにも冷たいの一杯ちょうだい」

「あ,そういえば今日は皆さんに良い物を……」

「持ってきていたら良かったのに,って来なかったのかよ!」

 求めてたなら潰さないでほしい.

「ふふっ.今日は私がお菓子を作ってきました.ご用意しますのでお待ち下さい.葦原先輩はおしぼりをどうぞ」

 コンロが堂々と使えるのは大きい特典かもしれない.

「熱った肌にスーッと効いて、これがありがたい.って今日のそれ黒パンストじゃなくてストッキングとガーターベルトだったの!? しかもイッタリーのラ・なんとかじゃないすかこれ! 刺繍がきれーだなー!」

 お嬢様も放課後だけはスカート短めの露出で,しかもガーターベルトや網タイツ装備だったりする.この感覚は長い付き合いでもよくわからない.もしかして隠れ兵器オタクだったりしないだろうか.

「こういったものはお嫌いでしょうか?」と,澁衣はわざわざこちらを見て首を傾げる.

「嫌じゃない.その動作と質問がかわいい.内輪差に巻き込まれて死にたい,ってこいつが言ってる」

 内輪差の前までは合ってる.

「先輩,朝もチラッチラッ見てたのに気付いてなかったんですか?」

「うるせー.見てたのはストッキング越しのふくらはぎのラインだよ.和混洋裁手芸研究会員だったからって,服ならなんでもわかると思うな」

 こちらを向いた顔は大真面目だった.

「それよりシブイチャーンどうなってんのよー中はー.あすこのセクシーで有名だから気になる」

 前を向いた一瞬で欲望丸出しのダミ声になり,手をわきわきさせながら,にじり寄ってスカートをめくろうとする先輩.澁衣ですら隠しきれないおびえた瞳を見るに,人知を越えたとてつもなく下品な顔なのだろう.怖くて手が出せない.残念ながら,小径は撮影してくれない.

「大丈夫,怖がらないで.さあ,シブイチャーンのスカートを直そう」

「名台詞汚さないでもらえますかね.姉さんが不機嫌そうなんで」

「なんだと.だが,今はパワーをパンツに!」

 いいですとも.

「おやめください!」の声よりも明らかにはやく放たれた平手打ちが,デコにいい音をさせて先輩涙目.平謝りの澁衣.それをニヤニヤして眺めながらほうじ茶を入れる広路と,それを無表情に手伝う小径.これぞ先輩の望んだ放課後茶菓時間.

 調子に乗った先輩からいきなりお題でだされた世界の処刑法について適当にだべりながら,当面の作業を片付ける.明日の入学式と残りの生徒会役員採用と月末の校外実習関係と予算編成.話の方は期待通りに澁衣が詳しかったおかげで盛り上がった.広路は江戸時代の拷問方法くらいしか詳しくない.

「お茶もお菓子もおいしくて楽しくて幸せだ.お前ら家に一人ずつほしい」

「お茶,少し苦かったかもしれません.淹れるとき,先輩たちのことが頭に浮かんでしまったので」

「飲んだら即死じゃねえか,ってんなの拾えるかボケぇ! これじゃドッヂじゃなくてバレーだ」

 このやり取りを最後に,向かいの席の先輩は作業割り当ての一切を放棄してセーターを編み始めた.使ってる毛糸の量から推測して男物だろう.今からなので,マフラーと併せてクリスマスプレゼントかもしれない.アーガイル柄ということは本命か.難儀なことだ.いやがらせとして一言言っておこう.

「せめて受験勉強をしては?」

「受験は再来年以降でもできるが,現役の高三は今しかない.今,ここで,青春できないと,一生,あの時ああしてれば良かったああああああ!って布団の中で叫びたくなる.ってうちの父ちゃんと母ちゃんが力説してた.結局はオタ仲間と結婚までしたくせにな」

 さんざんリア充と馬鹿にされる広路でも,そのことは何故か強く同意できる.

「じゃあ,なんで国立中高一貫なんかに来たんですか.世間的には進学校ですよ.普通といったら文句が出る程度の」

「近いし面白そうだったから.高専も面白そうで,あたしなんかでも行けばモテるらしいけど,まだモテちゃだめだと親バカ父ちゃんが言ったから.でも,後悔はいまんとこない,や,研究会のこととかあるこたあるが,甘酸っぱい青春できてる.大学落ちても,母ちゃんのベンチャーで株貰ってバイトするからいいのだ」

 これには流石に澁衣も説得を始める.小径の方は無関心で書類を片づけている.

「プラトンバリアだ.バリア貼ったからお前らの啓蒙は効かん.だいたい,自分らはどこ行くか決めたのか」

「私は父祖の学校と決められています」

「俺は未定ですけど,真上でいいかなとは思ってます.両親の母校で悪い評判も聞きませんし」

「ふーん.そうかいそうかい…….ところで,転校生が来たらしいな.進路のうゆうティーが漏えいしてた.知ってるか?」

 慌てたように話を逸らす先輩.広路は説得をもう諦めることにする.

「うちのクラス,普通進学コース二年二組です.あと編入生です」

 それを聞くなり,しっかり胸元はガードしてテーブルの上までこちらに身を乗り出してくる.

「細けえ.で,どうだ?」

「大雑把すぎます」

 先輩は一旦身を退き,偉そうにふんぞりかえる.

「編入生だよ.どうなんだ?」

「エントロピー減ってませんけど.見た目女性です.中国からの帰国子女で,トリリンガルです」

「ふむふむって,ちげーよ.聞きたいのはそうじゃない.今回はうまく拾えなかったな,お互いに.ま,あたしが楽しすぎたんだけどな」

 わかっているなら歩み寄れ.見本はこうだ.

「……聞きたいんじゃなくて,話したいんですよね?」

「ご明察.さすが.あたしに転校生を語らせるとうざいくらい長いぞ.短くてもうざい? 悪かったなチキショー.で,聞くかい?」

「手を動かすなら」

 先輩は適当に書類をつかんで開く.

「ったく,一人一台ずつ情報端末が貸与されてて,出欠確認すら電子化されてるこのご時世に,なんでこんなに紙の書類が作成されてんだよ」

「そういうのを仕組んでる人たちがまだ紙でやり取りしてるからだと思います.あと保存性」

「だろうな.ていうか,欲しいのは正解じゃなくて共感.女心と秋空のよみ方はごま塩程度に覚えとけ.勘違いした優しさだから嫌だって奴もいるけど,あたしは別に気にしない方だ.さて,話を戻すぞ」

 元は先輩の進路の話だ.

「まず質問.転校生には二種類ある.何と何か,わかるか? これを澁衣ちゃん」

「私ですか.する側とされる側でしょうか」

「うん,それも正解の一つといっていい.けど,あたしの話とは合わない.でも,よく反応した.振られるって予想してた?」

「いえ,お話を伺っていただけです」

「はぁ,こーゆーのが地頭の差ってやつなんかねー.ま,いいや.次」

「括弧付きとそうでないの」

「ん,どういう意味?」

「転校してきた生徒ではあるけど,それは副で,別の顔が主である,とか」

「ふむ.括弧は文章表現での話ね.まあ,それも正解といえるだろう」

 小径も含めてもう二往復くらいさせられそうだったので先を促す.

「先輩の話的に正解は?」

「それいきなり聞いちゃう?」

 先輩はニヤリと笑いながら立ち上がって,後ろのホワイトボードに向かい,ペンを走らせる.きっとここからさらに転がす自信があるのだろう.書類の記入欄は真っ白なままだ.

「答えは……異質と同質だ」

 二つの単語を書いた部分をノックする.

「それは広路さんのいわれたこととほぼ同じなのではありませんか?」

 珍しく澁衣が自分から質問する.

「んにゃ,違うよ.例えば,田舎の学校に都会からやって来た転校生がいるとする.都会と田舎の文化的摩擦が生じるなら異質,生じないなら同質」

 話ながら説明図を事細かに書き込んでいく.これ完全に仕事放棄だ.しかも澁衣が共犯じゃないか.

「問題は,属する文化や持ってる考え方が異なるかどうか,だ.もっといえば,異質さから転校先に変化をもたらすもの.どんなに転校生が括弧付きで特別でも,学校や同級生も格好付きの特別なら,それは同質だ.でもって,もたらされる変化が終わりの始まりなら,なお良い」

「変化は結果ですよね.異質でも変化させない場合とか,同質でも変化する場合があるのではないですか」

 わざとペンを大袈裟に走らせながら話に乗る.

「確かに.だがな,それは視野が物語的というか,主人公の視点により過ぎだ.一対一なら変化は相関だが,一対多なら因果なんだよ」

 この辺で澁衣は話を聞くのをやめたみたいだ.案外,無責任なところがあるようで.

「何でですか?」

 広路は話を続けた.

 以降,転校生論が十数分ほど語られたが詳細は伏す.どうでもいい話だ.

「なので,この観点ではその娘……名前聞いてなかった」

「姓は仁志,名は純,さん」

「仁志さんは,まだ同質な転校生にあたるはずだ」

「意外にあっさりでしたね」

「だって小径ちゃんが徹頭徹尾すんごいつまんなそうなんだもん.あと澁衣ちゃんも振っといてさりげなく無視モードになってたし.うるうる.広路だけだよ,うざいと言いながらもあたしなんかの話聞いてくれるのは,うるうる.それに会ったこともない,この場にいない人をネタにするのも良くないと気づいた.我ながら遅い.反省.批判,感想はまた今度な.ちなみに,異質さは女性が同性を嫌う要因として,他よりも弱いらしい.意外だよな」

 広路視点では,小径は興味をもって聞いていたのだが黙っておく.代わりに,目の前の書類を積み増す.

 大きくため息を吐きながらも,先輩は判子だけ押し始めた.澁衣がその様子からこちらへ視線を移す.意味を推測するに,どうやら先程の会話参加は話を早めに終わらせる策だったようだ.効果は別にして,そこまで考えが及ばなかった.

「澁衣さんさすがです」

「いえ.私にできることをしたまでです」

「あぁ? 何この三人いれば疎外感.ぼっち回避のための急造グループみたい」

「二人なら無敵ってやつです」

「ふふふ,そうですね」

「なんというまぶしい笑顔.あたしの知ってる澁衣ちゃんじゃない.疎外通り越して孤独すら感じる.これが自意識過剰による去勢か」

「一人だけ手が止まってるからじゃないすか」

「鬼や,鬼がおる」

「石を積んだら帰してあげます」

「今夜は帰らせない宣言?」

「それがいいならそれでいいです」

「ごめんなさい.やります」

「ああ,早くしろよ」

 一通り作業が終わったところで本日の生徒会終了.執拗に編み物を続けようとする先輩を抱えて外に出る.

「離せ! やめろ! まだ終わっていない!」

「俺が帰れないのでお願いします」

 先輩は昨年,夜道で本物の変質者に襲われ,たまたま通り掛かった広路に助けられるという冗談みたいな目に遭った.以来,いろいろあって,だいたい帰りは途中まで広路が送っている.だが,今日は「いつも怖くなくしてくれてありがとう.必ず恩は返す,がしかし.特に理由ないけど,ホントに理由ないけど,今日だけは他で頼む」と強硬に主張してくる.

 理由はわかるようなわかりたくないような,なのでお車送迎付きの澁衣に任せることにする.またどこかで鐘が鳴ったので,手伝いを志願する小径も先に帰す.

"1459753200":"moveTo(35.732365,139.765387,1.0,"Staffroom")",

 一人で鍵を返しに職員室に行くと,見慣れない生徒と入れ違いになった.在校生はみんな帰ったはずだから,また知らない編入生だろうか.だとしたら嘆かわしい.断固,教員に抗議しなくてはと内心いきり立つ.

 ところがよく見ると,その生徒は仁志だった.さっきまでと雰囲気が違い過ぎて気づけなかった.やはり,自分には人を見る目がないのかもしれない.

「帰り一人? 慣れてないなら,駅まででもつきあうけど」

 完全にナンパだこれと言ってる途中で気づき,寒気で心が凍る.

「大丈夫.この国はまだ安全ですから.親切にありがとう.また明日」

 振られてしまった.が,すでに冷たい状態だったので問題ない.本当だ.

 笑顔なのに目は笑ってないのに気づいて惹かれ,つい踏み込んでしまった.手も振られて,この上に予報通りの雨まで降られると困るので,急いで残りを片付ける.

 今後について,あと報連相について,先生方に相談してから校舎を出ると,澁衣と蘆原先輩がちょうど車に乗り込んだところだった.耳を澄ますと,駅前が何やら混雑しているようだ.

"〇七時一五分":"駐輪場へ移動",

 二人に手を振り返してから,ケータイをいじりながら第二駐輪場へ向かう.

 しまゆうこミュの溜まった未読を返しきらないうちに到着.広路以外誰もいない.

 一台だけ残った自転車の鍵を外すと,途端にどこからかの弱い熱を感じる.日の暖かさとは違うハロゲンヒーターのような皮膚だけの表面的な熱だ.去年の秋ごろから頻繁に感じるのだが,少し経つとすぐ消えてしまう.今日のもそれだろうか.

 これに気付かない振りをしながら,わざとらしく口笛を吹き,ケータイ片手に自転車を曵いて,裏門ではなく正門へ向かう.熱さの方は弱くなったがなくならない.

 いつもとは別なのか? 心当たりは例のギャルサーくらいだが,時期が合わない.

"〇七時二〇分":"正門へ移動",

 ちょうど校門を出たところで未読のメッセージを処理し終えた.

 立ち止まり,続いてどうしたらいいのか考えてみる.とりあえずは五事七計から三十六計まで一通り.こういう場合,やる気があるなら誘い込んで待ち伏せるのがセオリーか? 索敵して追うのがいいのか? それより,一目散に逃げてしまった方が安全か? 近親者に危険はないか?

 考えてはみたがわからない.それもそうか.情報がないんだから.「そういうときは心に聞け」というのが拳法の師匠の教えだが,今まで従ったことはない.

 今日は……実は少しばかり機嫌が悪い.そして鐘は鳴らない.

 それでも広路は攻める方向でプランを考えつつ,ケータイで時間指定メッセージを作成する.送信してから,ケータイを出したまま振り返らずに,校舎全体を強く意識して探ってみる.

 流れる清流のような水音.図書室に学校司書さんが一名.しかし,ここは見えない位置にある.

 蜂の巣の匂い.会議室には高等部の教員八名.同じくここは見えない.

 ナメクジが這った後のような触感.体育館を移動しているのは,さっき職員室にいた用務員さんか.これも見えない.

 これで全部だ.高等部の校内に他の人はいない.中等部は探索可能範囲外だし,ここへは視線が通らない.

 道路を挟んで向かい側の女子高は普通に半休で人気がなく,門も閉まっている.

 ストローを噛んだような食感.警備員さんが一人,詰め所にいるだけで,視線はこちらを向かない.つまり,気のせいでない限り,何者かはかなり遠くにいることになる.

 ヤバそうな状況がある程度は把握できたので,ケータイをいじるふりをしながら歩き出す.

"〇七時二八分":"移動",

 いつも通学に使っている線路沿いではなく,お寺とラブホテルだらけの入り組んだ道,通称ラブホ寺街を抜ける.人生墓場ともいう.

 お山のそばから明治通りに出たところで改めて探ってみると,熱はすっかり感じなくなった.だが,その場で自撮りカメラに気になる挙動の車が映り込む.この車線数で路肩に繰り返し止まる運転は,明らかに異常だ.

 まいったな.少し,わくわくしてきた.

 国鉄の線路を越えて根岸の路地へ.

"〇七時五〇分":"九円六園へ移動",

 昔からの付きあいがあるお茶屋さんの裏道に入る.自転車を脇に止め,壁をけって塀に登り,すぐそばの桜の木の陰に身を隠す.木登りは久しぶりだったので、少し左手が擦れてしまった.

 体勢を整え終えたところで,安い印刷機の製版マスター紙の触感が両手に生じる.

 さすがにこれは大袈裟だろうか.いや,例のギャルサーが相手なら妥当か.自分のいるところから舞っていく花吹雪を眺めて逡巡しているうちに,一分ほど遅れて小走りにやってきた人間,大人の男一名を確認.

 広路はすぐに花びらまみれになりながら飛び降りて,真後ろに立ち,声をかける.

「ここは私道で通り抜け禁止です.何かご用ですか? 」

 向こうを向いたまま固まる男.クルーカットに,微妙にサイズが合っていない月皺の浮いたノーベントでダブルの黒シャドーストライプスーツと,襟から覗く派手な柄シャツ,それとロングノーズローファーの黒ギョーザ靴,左耳ピアス.見た目から判断するに,八の字ではなかろうか.少なくとも美浦の母,元警官の探偵とは雰囲気が違うし,穴師家の道場にやってくる軍人や警官とも違う.スラックスの皺からして,さっきの車はこいつだろう.

「どこの組の人ですか」

 矢摩が以前挙げていた中高生が一生に一度は言ってみたい台詞その四を口にしてみた.後で教えたら悔しがるだろうか,とバランスをとって気の抜けたことを考える.

 しばしの沈黙.聞こえるのは涼しい春の風の音だけ.その風もとうとう止んでしまい,間を埋めるように防災放送が流れ始める.

 滑った.やばい,恥ずかしい.

 この空気でどう口を開いたものかと悩んでいると,放送が終わった直後,あっさりと白状された.「息子が惚れた男がどんなもんか見て来い」って「上司」に頼まれた,と.辰巳の方に関わる組名だった.

 今時そんなことあるんだなぁと感心しつつ,嘘臭いので名刺とバッヂをみせるように言う.不貞行為などを行っていないのに尾行したり写真を撮影したりすることはプライバシーの侵害であること,私道への侵入は場合によって違法であること,などをお互いに確認し,車の所まで案内させる.そして,鞄からレポート用紙と筆記具を取り出して念書を作成する.一応は顔を立てて「息子」のことは聞かないでおいた.

 その代わりといってはなんだが,念のためにと先輩から持たされた小型GPSロガーを車にくっ付けておく.あとはログが溜まって行動パターンが読めたら適当なタイミングで回収すればいい.これくらいが自分には精々だろう.集団暴力とは戦えない.職業柄,土地柄,芸の師匠たちは八の字ともそれなりに付き合いがあるので,心苦しいが後で頼ろう.ついでに,鈴内先輩の件も含めて,おかみさん会やのれん会の人にも聞きこみをした方がいいかもしれない.

 肩を落として去っていく男の後ろ姿を見て,本物なら小指が何本なくなるだろうかと憐れな気持ちになる.ま,多くても四本だし.

 そんなもやもやを振り払ってから,念の為,改めて辺りを見まわす.滅多に通らないルートを使ったので,懐かしい物がちらほら見える.その中の一つ,通っていた小学校は,広路たちが卒業した二年後に少子化と耐震基準の関係で廃校になり,今はアートセンターに改装中のはずだ.

 普段は学校が終われば,稽古に次ぐ稽古が待っている.夕飯の後にはまた剣の稽古もある.今日は生徒会の仕事で剣以外はお休みなので,時間はある.気温は低くなってきているが,予報が外れたのかまだ雨は降りそうにない.

 せっかくの機会だし,いろいろ使えそうな場所だし,気分転換も兼ねて面影が残っているうちに中を見ておこうか.広路は先ほどからの高揚を自覚したうえで,いつもと違うことをやってみることにした.

 自転車をお茶屋さんに置かせてもらい,ついでにいくつか小物を拝借してから,歩いて小学校へ向かう.売れ残りの三ノ輪ラムネをもらったので,屋上で飲もうか.

 着くまでのついでに,万弓に電話をかける.

「はい,八荒です」

「広路です.今いい?」

「少々お待ちください」

 長い保留音.

「ごめんなさい.待たせてしまって」

「いや,こっちが悪い.とってもらったけど,やっぱりかけ直す」

「いいの.三社祭の会合で置物やってて,抜け出したかったところだから,助かった.作り笑顔がつらくて,私は懸仏だと言い聞かせてた」

「お疲れ様.顔役が集まる時期ならちょうどいい.悪いけど,個人的な頼み事があると先生に伝えてくれ」

「はい,承りました.お急ぎかしら?」

「いや,明日でもいいんだけど,色々あって今のうちに」

「そう.その話する時は,お稽古と別なら早めに来た方がよさそう」

「ありがとう.よろしく」

「よいよい.感謝しながらもっと私とお話するがよい.まだ会合終わらないし,お稽古に来られない代わり」

「ごめん.ちょいとこれから用が」

「なんだ残念.なら,今夜は私が寝るまで寝かせませんから」

「それもごめん.いつもくらいの時間だと確約できない.万弓とは長くなりがちだから」

「話があるのだから仕方ないでしょう.眠らせたいなら子守歌でも歌えばいいじゃない」

 数秒間,こちらの反応を待つだけのとは違う沈黙が流れる.

「もしかして,しばらく忙しくなるのかしら? なら,別に我慢してあげてもよくってよ」

 とりあえず流せないか試してみる.

「はいはい」

 今度は少し長く,考えるような間が空いた.ケータイを持つのとは逆側で,冷たい風が頬をなでる.

「……ねえ,何か危ないことしてる? できればしないで欲しいな」

 隠すつもりはなかったので,特に驚かない.

「善処する」

「危ないことするんだ?」

 低く,怒気を多少含んだ言い方.

「悩ましいところ」

 そしてまた沈黙.でも広路は待ちはしない.

「ごめん,もうそろそろ」

「はぁ……わかりました.また後で.暇があったら,夕掛と矢摩にも電話してあげて.矢摩は今日買った本の話をしたがっていたから」

「覚えておく.また後で」

 隠さなければ察してくれる,依存ではない共存.これぞ仲の良い幼馴染の特権.母は「都合のいい関係」と嘲弄するが,ここまで積み上げるのは一日二日じゃできない.一緒にいる間,有限実行で約束は必ず守り,剛毅木訥の中にも細やかな気配りを欠かさず寄り添う,そんな綱渡りのコミュニケーションを続けてきたのだ.都合がよくて,何が悪いのかと開き直る.

"〇八時一八分":"金杉小学校に移動",

 広路はしばし脳内の誰かと戦い,小学校に到着.信号には一度も引っかからなかった.

 誰もいない.今日の工事は予想通り終わっていた.

 二四時間警備のステッカーもないし,カメラも敷地内には見当たらない.警察署から近いのもあってか,警備は巡回だけのようだ.赤羽根警備保障という社名から北区の会社だろうし,使いまわしくさい看板の汚れ具合などで判断すると,発報から到着にはそれなりに時間が掛かるとみる.

 参った.入れてしまう.

 鐘は鳴らない.そのまま帰るべきだとは分かっている.それなのに足は止まったままだ.そうしている内,辺りに人がいなくなった.

 仁志にジュースを奢ったせいで,投げられる硬貨が無かった.

 不意に,真後ろから車の近づく音が聞こえた気がして振り向く.でもいない.そもそも後ろは道じゃ無かった.

 前を向き,息を吐いて,吸ってから,防護壁の隙間のフェンスを駆け上がって敷地に入り込む.

 復興小学校特有の重厚な児童用昇降口は閉まっているものの,幸い,一階の壁が新しい入り口用にぶち抜かれており,中まで入れそうだ.靴跡は……埃の具合を見るに,気にしなくてもいいだろう.

 やっちまったものは仕方がない.やるだけやろう.広路は諦めに近い意志を固めた.

 春の夕暮れ時,薄いカバーに覆われて電気のついていない校舎は,窓を覆った蔦もあってかなり暗い.しかし,六年も通った校舎,それでなくとも空間把握は十八番だ.移動には何の支障もない.

 入り口からまっすぐ特別教室棟の四階に向かう.途中,ところどころに仮置きの工事用具が見え,床の砂利や瓦礫もまばらで意外に整然としている.薬品や土の匂いもほとんど無いし,湿気もこもっていない.怪談の舞台には力不足な雰囲気だ.

 迷うことなく数分で四階に着いた.少しだけゆっくり歩いてから,目的地,内装にほとんど手が入っていない多目的室へ駆け込む.ここは反対側の家庭科準備室と外廊下で繋がっているはずだ.

 部屋に入ってきたまま足を止めず,外からみえない位置で一気に加速して準備室に入る.さらにガラスの抜けた換気窓へ潜って隣の家庭科室に入り込み,廊下側の扉上の窓枠に駆け登って,天井の古い空調機に怪物のように捉まる.状態の維持はきついが上手くいってよかった.

 呼吸を整えてから息を殺し,隠し持っていた模造カランビットを取り出して口にくわえる.

 ほのかな熱さ自体にはすぐに気づけた.でも,尾行者が二人だということに気づいたのは一人目を処理した直後のことだ.熱さが消えたら,今度は冷たさだった.他人の尾行に便乗するなんて,もう一人は明らかに先ほどのとは違う.きっと「普通」ではない.その憶測は,尾行者その二が,後ろ向きで家庭科室に入ろうとしたことで確信に変わった.

 理由は三つ.一つ目.この位置関係で多目的室を陰から覗くにはこの場所しかないから.薄暗い中,初めてのはずの場所でそれをすぐに選べる.二つ目.この砂利だらけなコンクリ床の校舎内を新品の革靴で歩いて,一切の音がしなかった.自分にもそんなことはできない.練習したことないし.そして三つ目.そいつの正体.

 全身をはっきり捉えられるくらい尾行者が教室に足を踏み入れると,広路はすぐに窓枠から真後ろに飛び降り,後ろから右手を回して模造カランビットを喉に押し当てる.

「お前は何だ」

 刃はしなやかで鋭いが,所詮は模造なので当てただけでは血は出ない.でも力を込めて引っ掻けばちゃんと傷つけられる.反応を探るためにあえて口に出す.

「言わないと困ることになる」

 主に俺が困る.栄えあるキレる十代の仲間入りである.残念ながら,統計上仲間はほぼいないが.

 反応はない.動揺も感じられない.さっき一度やったので,もうこの手のセリフを口にする恥ずかしさはない.左手と右足で極めて押さえつけたまま,引きずるようにじりじりと家庭科室を出て,廊下中央へ移動する.資材置き場が脇に形成されているものの,本校舎より廊下は広いので移動の邪魔にはならない.

 何もなくなった辺りで一旦止まり,質問を続ける.

「なんでここにいる.何の用だ.ずっと見てたのはお前か」

 回答はない.拘束する力をやや強め,また引きずるように廊下を移動し,多目的室前の十字路へと戻って来たところで改めて尾行者に言う.

「答えろ,仁志純」

 全く出来すぎている.責任者出てこい.

 仁志の方は,名前を言っても反応がない.これは骨が折れそうだ.

 落ち着いて尋問するのに適した場所はどこかと思案する.が,これまでの人見知りっぷりからすると,どこへ行っても無駄かもしれないと思い,とりあえずその場に跪かせる.

 中国語と英語,あとその他で質問を繰り返すが,無反応.

 三つの秘密があるから,この手の状況を想像したことがないわけではない.というより,これまでの人生で準備は出来る限りしていた.しかし,相手がこうだと事前のプランは台無しだ.腹とか殴れば痛がる反応は引き出せるだろうが,欲しいのはそれじゃない.

 黙秘がこんなに面倒だとは知らなかった.もし捕まることがあったら自分もそうしよう.

 一旦,仁志から完全に注意を外して辺りを探索する.校舎内に他の人間はいない.外の人もまばらだ.

 仁志は意識を外されても何もしなかった.今度は急に強く殺気を当てて,軽く首を刃の先端でなぞってみる.結果は変わらず.元ヤンの黒服なら小便を漏らす程なのに.

 やはり,この手のには模造じゃ通じないのか,と思ったその時.

 粗悪な煙草の悪臭が鼻を刺激した.

 視界の外側にあった窓ガラスと壁が,消えた.

 大きな粉砕音ともに,何かが外から飛び込んで来た.

 一瞬だけ目に入ったのは金属の塊.

 仁志をたまたま空いていた左手で突き飛ばしながら,ぎりぎりのところで後ろに跳んで身をかわす.

 何かは,入って来た勢いのまま,廊下側の壁を二つ突き破って,対角の多目的室へと突っ込んだ.咄嗟の防御につかった右手の模造カランビットは,束から上が粉々になってしまった.高い買い物だったが,命よりは安いか.

 突っ込んで来たものを確認せずに,大きく空いた壁の穴に飛び込もうとする.すぐそばの雨樋とカバーを掴んで,外の木に伝って逃げるためだ.が,大きく跳ぼうとする寸前で,奇妙な現象に気づく.止まろうとしたものの,間に合わずに顔からぶつかった.黒くせりあがった鉄のような壁にだ.

 目の前では,タンカーの座礁事故のように黒光りするものが壁のあったところに広がりつづある.振り返ると,多目的室の方の突き破られた壁はそのままだ.

 何がなんだかわからない.けど理屈抜きで危険だとわかる.

 まだ黒く覆われてない隣の窓を開けようと手をかけるがびくともしない.木刀の残った束でガラスを打つが音すらしない.外の探索を試みても,何かに遮られるようで全く把握できない.

 まさか,閉じ込められた?

 それでも出ようと殴る蹴る引っ掻くの試行錯誤している内に,爆発ならぬ大きな音がしたので振り向く.音の出処には,エグゾスケルトンのような全身鎧をまとった何者かがいた.それは崩れた壁を粉砕して,二足歩行でこちらへやって来る.だんだんと近づいてくるにつれ,薄暗い中でも全身が見えるようになってきた.

 触覚のはえた,昆虫のような頭.鋼鉄のような装甲で覆われたムキムキの胴体.四肢も装甲で覆われているが,関節部は皮のような質感が見える.人間発電所よりは生物よりな感じだ.エグゾスケルトンではなく,外法系装着変身ヒーローというのが正しい姿.ダンスマカブルの本に一体はいそうだ.

 名前がないのは不便なので,以降,便宜的に怪人と呼ぶことにする.

 怪人の顔はこちらを向いているが,歩みは倒れた仁志の方に進んでいる.その動きに合わせて広路はじりじりと階段側へ移動する.

 仁志は体を起こしたものの,その場から動こうとしない.怪人を挟んで仁志と向き合うようになる.

 問答無用,見敵必逃.階段までは自分がいちばん近い.逃げるのは得意だ.囮もいる.

 でも.

 いぶかしげに怪人を見ていた仁志が,はっと何かに気づいたように手をかざし,言う.

「私は帝国の宮殿任用局人事部観察課員,玉座第七柱職人付き,職人担当地域の上帝推薦候補観察役一二一番,登録名は一ノ二愛生,本任務での仮名は仁志純です.貴官の所属は?」

 手の平に,光る青いあざのようなものが浮き出してくるのが見える.

 怪人はさっきまでの仁志と同じように,なにも反応しない.

「貴官の装備と紋章は軍人配下のものではないのですか?」

 怪人の歩みは止まらない.仁志は手をかざしたままだ.広路がただそれを見ているうちに,怪人は手の届く間合いに到着した.

 怪人は,これから素振りをするかのような無造作さで,ゆっくりと右拳を振り上げる.

 それほど長くはない人生の大部分,いくつもの武術を学んで来た身だが,実戦経験は多いわけではない.友人の美浦に付き合って路上MMAに参加したり,同じく付き合いで紙袋を被って人助けをした程度だ.しまゆうへのナンパは殺気を飛ばして避けており,喧嘩にはならない.師匠たちとの組み手も,実剣を使おうが鍛練の範囲でしかない.もちろん鍛錬が実戦に劣るわけではないが,経験値の種類が違う.自分はこちらがまだまだ足りていない.

 それでも言える.仁志はやられる.やれば自分もやられる.

 振り上げられた怪人の拳は頂上で止まった.

 その時,仁志の顔が変わる.

 それを見た途端,広路の意識の外で体が動いた.

 鐘の音が聞こえたかは覚えていない.……いや,それは嘘だ.

 息が無意識的に止められていて,頭がくらくらする.目眩とふらつきで体が勢いよく前のめりに倒れ,床に叩き付けられる寸前,ほぼ平行の状態から,息を吸いこむと同時に,脚を全力で踏み込んだ.

 やるしかない.

 怪人の無造作に振り下ろされた拳が仁志に届こうという刹那,真横に辿り着き,勢いを生かしたまま,腰に捻り込む.そして,学校を出た時から練って蓄えていた勁を通し,股関節辺りの装甲の隙間めがけて,後ろ回し蹴りを叩き込んだ.

 自動車以上の重さが,足腰から背骨,頭にまでずしりと響く.同時に,カーーーンと場違いな高い音がして,怪人は,入って来た時の半分くらいの速さで吹き飛び,修復された窓に斜めに叩きつけられる.その勢いのまま脇の工事資材置き場へと回転して突っ込んで,視界から消える.衝撃で足場が崩壊し,資材が雪崩落ちる.床にまで軽く揺れが伝わって,力の抜けきった足元がふらつく.

 ぶつかった窓のガラスにはヒビすら入っていない.そして屋内の壁は直っていない.広路は一連の流れの中でそのことを確認すると,固まったままの仁志の手を取って引っ張り上げ,叫んだ.

「来い!」

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