第一話 前事不忘後事之師(やり直しの前を覚えていないと酷いことになる)
少年・焼鎌広路には秘密が三つある.一つは,生まれる前の記憶がないことだ.
そんな記憶喪失は当たり前だ.それ以前に,生まれる前ってあるのか.
最近はよくあるらしい.
実際に聞かれたら,答えは「宗教による」が無難だろう.「信仰による」の方がやや穏当か.「ジャンルによる」は高等すぎる.
「ある」か「ない」と断言する奴は,詐欺師かグノーシストに違いない.もちろん,黒でも白でも緋色でも好きに答えればいい.どっちでも普段は困らないんだから.
じゃあ,「ない」のに記憶があったら?
困る.紙の雑誌に投稿しなきゃならない.例えばこんなの.
「前世で共に戦った仲間を探してます.覚醒し,波動存在にリンクできたら,切手を貼ったタングステン・鉛合金加工の返信用封筒を同封の上,お手紙下さい.盗聴防止のためデジタル不可.キーワードは――」以下略.
人,それを電波と言う.広路はこの逆だが,不可視領域なのは同じかもしれない.
逆? 彼ら高貴な勇者たちと違って,あったのに何も知らない.
知らないので想像する.生まれる前の別の自分は何者だったのか.
例えば,神に気に入られた凡夫異生.
例えば,神秘に傾倒した紫の独裁者.
例えば,顕世の全てを憎む生贄の巫女.
例えば,機械仕掛けの熱月の志士.
人でないもの, 細菌から始まって微生物ループを経て一気に食物連鎖を登りきった感すらある.別人への心機一転再出発ではなく,二週目以降のループというのもなくはない.元がデータだったり,逆に今がデータだったりするのも否定できない.いや,仮説上なら世界はデータである可能性の方が高い.なら,せめて量子コンピュータ上であってほしい.ついでに,世界が五分前に始まっていてもおかしくない.その続きに,この世は既に誰かが勝った後の世界だなんて考えたくもない.
ここまでくると「別の自分」なんて呼びたくなくなる.「別の他人」がいいかもしれない.なら,それはただの他人だ.
よかった.前世なんてなかった.
こんな風に,あっちこっちと想像を走らせてみたところで,正解へはたどり着けない.第三帝国の哲学者がいう「投げられっぱなし性」だ.手掛かりを求めて怪奇事件の記事を調べるのはとうに飽きた.
引き継ぎデータやMODを入れて二週目を始めたゲームのキャラも,こうなのかもしれない.ふと気が付くと,手元に大量の金と強い力と充実した装備がある.あるいは全裸である.何があったか思い出せない.でも,何もなかったはずがない.
彼ら勇者たちはひとしきり喜んだり困ったりした後,ある考えに至るだろう.
それは――.
布団に入って秘密のことを考えると,いつもこの辺で意識が薄れていき,気付けば朝になっている.試行錯誤で編み出した不眠を誤魔化すライフハック.たまになら夢のような何かだって見られる.
不眠で死ぬ人間はいない.
不眠で死ぬキャラはいる.
そう聞いて以来,広路は念のため寝ておくことにした.
{"二〇時五五分":"起床",
四月だというのにまだ肌寒い.寝る前に暖房の入タイマをセットしておけばよかった,と広路は後悔した.
起きあがる気になるまでの時間稼ぎとして,布団に入ったままケータイで夢日記をつける.
今日は夢の中で起きる夢だった.夢の夢の中で誰かに正面から拳で殴られ,目が覚めたら夢の中だった.日記検索によると半年ぶり六度目.この手のやつは何か損した気がするので,上書きして忘れたい.でも「二度寝」する時間がない.
大きく息を吐いて気合いを入れ,もそもそと布団から這い出て,急いで胴衣を着る.
"二〇時五九分":"移動",
隣室の姉,焼鎌小径を起こしに行く.
ノックをせず部屋に入り,真っ直ぐ窓へと向かってカーテンを開ける.
女子高生らしからぬ室内は,朝日の白さでより殺風景に見える.無地の机と椅子とクローゼット,鏡台,ベッド,エアコン,照明,空気清浄機,自動掃除機とその基地,ゴミ箱.他には何も表に出ていない.枕元の古いぬいぐるみがなければ,病院の個室かビジネスホテルの一室と間違えそうだ.
以前は二段の下だったベッドに腰掛けて,毛布にしがみつく小径の穏やかな寝顔を眺める.
よく似た顔の彼女は本来,広路の姉になるはずではなかった.これは秘密ではない.
広路と小径は,不妊治療の賜,性別違いのMD型二卵性双生児だ.出生は広路からだが,「姉ブームくる」という母の一存で,書類上は姉弟になったらしい.これこそ秘密にしてほしかった.あと,姉ブームはこなかった.
その「入れ違い」のせいかはわからないが,小径はみなに隠れて「兄さん」と呼んでくることがある.これは小径の秘密だ.
そもそも双子になるはずではなかった.これが広路の二つ目の秘密.
理由は知らない.でも,なるはずなかったのは知っている.
この生殺し感は一つ目の秘密,生まれる前の記憶喪失と共通している.もっとも,予定の内だろうと外だろうと境界だろうと,今は血の繋がった家族なのだから,どうでもいいといえなくもなくはないかもしれない.
小径の方が何か知っている可能性もあるが,聞けない.今と同じく,誤魔化すように頭を撫でたり頬をつねったりするだけだ.呪いか,それとも勇気がないだけなのか,あるいは…….
いつものように迷走し始める思考を打ち消すつもりで呼びかけると,応えるように小径の瞼が痙攣し,静かに開かれる.寝ぼけているのか,這うようにこちらへ腕を回して胴にしがみつき,小さく唸りながら下腹部に顔を埋めてくる.すぐにひきはがし,自室から持ってきた胴衣に着替えさせる.
着替え終わっても立とうとしないので,背負って階下へ向かう.背中と息の当たる首筋だけ温くて気持ちが悪い.
"二一時〇三分":"移動",
薄暗い廊下に微かな衣擦れの音と小径の欠伸が響く.
一階の洗面所に着いたら,小径を降ろして壁に立て掛け,自分の顔をバシャバシャ洗う.ニキビができたのでいつもより雑ではない.それから二人羽織の要領で小径の顔をぬるま湯と水で丁寧に洗い,化粧水と美容液を使ってから,髪とまつ毛も整えてやる.ここまでしてもぐずるので,また背負う.
母屋の隣にある共同稽古場へ向かう途中,耳元での囁きに従い,トイレへと寄る.小径を便座に座らせ,一人で先へと向かう.
トイレのそば,一階奥の扉から渡り廊下へ.屋根はあるが壁はない.すぐ脇に植えられた梅は,ほとんどが零れ落ちていて,季節の変わり目だと感じさせる.が,そんな風情を楽しむよりも,今は寒さを感じる前に渡ってしまいたい.ここは祖母が入院してから掃除が足りないので,そろそろ壁を設置させてほしい.
"二一時〇五分":"別棟着",
水分を補給してから掃除を始める.叩いて,掃いて,拭くのが終わる頃,剣術の師匠である祖父が小径とやってくる.納戸から刀を出してもらい,型の稽古を始める.
"二二時〇〇分":"マンション紫烟楼へ移動",
稽古場の二階に昇り,来たのとは別の渡り廊下から隣のマンションへ.木造から鉄筋コンクリートに途中で変わる非常用通路の一番奥,弁財池のそばで身を乗り出し,外の銅灯籠,秋葉様の火を新しい蝋燭に移す.
"二二時〇五分":"本棟浴室へ移動",
いつもより二十五分ほど早く抜け,シャワーへ.
"二二時〇九分":"台所へ移動",
刀を包丁に持ち替えて料理の時間.五人分の朝ごはんとお弁当.今日の献立は,メバルの煮物,じゃこ菜っ葉のふりかけ,筍のお味噌汁.お弁当の主菜は,豚肉とブロッコリーの塩炒め.豚はロースを薄切りでやわらかく.にんにくの代わりにしょうが多め,片栗粉少なめにし,生姜焼き風にさっと炒める.これで約百五十キロカロリー.旬を過ぎてもなおブロッコリーの汎用性は異常と言わざるを得ない.今度は魚のすり身とあわせてフライにしよう.
副菜は,蒸し海老と野菜の盛り合わせバーニャカウダ風.バーニャカウダソースは,昨日つくって保存しておいたスープをペースト化させて作る.自家製アンチョビの食感を残しつつなめらかに仕上げ,にんにくの香りをミルクとスパイスで抑制している.こちらは約三百キロカロリー.
彩り鮮やかで香り豊か.春らしくなってるじゃないか,とひとりごちる.そこらの解凍茶色弁当とは違うのだ.
七時半ごろ,両親が起きてくる.居間のセットトップボックスを音声で起動してラジオ番組を流すと,すぐ気象情報コーナーになる.
今日の関東地方のお天気は,不安定ながらも日中は晴れ.都内ではところによりにわか雨に注意.弱い南風.花粉は少な目で,各種放射線と磁気嵐,微小有害化学物質の量は平常通り.地震予報とデブリ落下予定は無し.
続いて,星座×干支占い.今日は獅子座×辰年が百点.乙女座×辰年は零点.出生二時間差でこうも違うのは何なので,五十点くらいかと思っていたら,母も同じことを口にする.誤差が五割になるので無意味だと気づいて言おうとしたら,父に先を越された.
CMが明け,次のニュースコーナーが始まると同時に朝ご飯完成.耳を澄ますが,東側俳優のお忍び来日がトップニュースな程度に平和らしい.いつもの中米中東中阿の内戦情報,大規模ネット回線障害の復旧と続く.
容器にご飯とお味噌汁をよそって,お弁当も完成.蓋は開けておき,少し冷ます.
"二二時三八分":"自室へ移動",
部屋へ戻って制服に着替える.体形に合わせて仕立て直してもらったばかりなので着心地が良い.
"二二時四一分":"居間へ移動",
鞄を持ってダイニングに戻ると,既に祖父も食卓についていた.十数秒後,小径がけたたましい足音とともに飛び込んでくる.髪は濡れたまま,セーラー服の襟が外れかけ,ブラ紐もちら見えという適当さ.一言も発さないまま母に連行される.誰に似たのか,と祖父がいつものように嘆く.数分後に全体が整って戻ってきた.家での母は,本業のデザインよりスタイリストの仕事が多い.
では,いただきます.
FM花街が七時五十五分をお知らせします.
ごちそうさまでした.
思春期の子どもたちの前で,父とキスしてから母が出勤.
いってらっしゃい.
さっと後片付けをしてから,残りを食器洗い機に入れる.今日の洗濯は,教授会以外に予定のない父に任せておく.いつまで全員分任せられるのか,もういいならずっとか.
いってきます.
"二三時〇〇分":"玄関へ移動",
玄関から出て,すっかり明るくなった空を見あげる. 雲一つない晴天.だが,十二階の方にUAVらしき影が見える.視認できるということは攻撃機ではないのだろう.先月,ペットボトルロケットで撃ち落とされたのは,どこだったか.考えようとするのだが,記憶がぼやけてしまい思い出せない.
気にせず物置のクロスバイクを担いで表門へ向かう.門を開けると,幼馴染が三人,いつもの順に広路たちを待っていた.
いつも通り,小径は挨拶だけして一人で先に行ってしまう.いや,今日はUAVも一緒だ.テロリストに見えないことを祈る.
一緒に見送る三人の右端にいるのは,穴師夕掛.小径の背に手を振り終えると,こちらに笑顔で向き直る.
「どう? 二年生版だよー」
ペンギンの翼みたいな手をして,とてとてと,出来の悪い電動ぬいぐるみのようにゆっくり回転し,新しい髪型を見せてくる.
「新鮮な感じがする.初めてだっけ?」
「うん.いろんなのやったのに普通のショートは初.子供っぽくないかなー?」
「いや.シミュレータのより合ってるし,心配してたほどでも」
大げさに心配してたよりは,なので子供っぽさはある.とはいえ美容師さんの腕か幼馴染補正か,小学生には見えずに済んでいる.見えたらそれはそれで,かもしれんが.
「地毛の茶系に戻したのが良かったのかも.稽古にも都合がいいし,シャンプー節約できるし,見た目が問題ないなら.うん,当分これで行くからねー」
夕掛はもう一回,今度はバエレ風に片足上げながらつま先立ちでくるりと回転してから,軸足だけでピタリと止まってキメ顔をする.
目視確認.本日のペチパンは黒.
「名探偵みたいな顔しやがって.当分って,先月,うちと同じボブにした時もじゃん.前のシニョンの時も,前の前の――」
「保育園まで遡る気かー」
風祭矢摩が三人の左端からつっこんできて,つっこまれた.
「ほぼ毎月変えてるのに,どうして覚えきれるんだ」
前は広路も覚えていたが,当人は忘れているので諦めた.
「髪は判子絵もといキャラの命だからね.プレジデントと呼んでくれたまえ」
「閣下,お命にトーンが……取れた」
「ありがと.なんで付いたんだろ? 原稿途中で寝落ち?」
HAHAHA!
「ごめんね,気付かなくて.しまちゃんのてっぺんは何か邪魔だからさー」
「嘘つけ.ただの身長差だろ」
去年の身体測定だと十四センチ差.現在は目測で十五センチプラスマイナス三ミリといったところか.服の上からわかる何かの差は,あまりなさそうなのが何とも言い難い.文字通り表現しづらいという意味で.
いや特に思うところはないですええはいマジで本当に.
「トーンは白髪っぽくなるから嫌なんだよね.墨ならいいけど」
「よくないよー.しまちゃんの,二重の意味で緑髪だから分かる」
「そうなん? 言われてみればか.いつから? 染めるか抜いた方がいい?」
矢摩はこちらの顔色を窺いながら,両手で髪をぐしゃぐしゃにする.
「結構前からだよね.色替えはどっかなー.原因次第? 健康診断は明後日だよね」
「ああ.悪いとこないなら,そのままでもいいんじゃないかな.今のじっくり見たのは初めてだけど,艶も深みもあって,髪型にも合ってるんじゃないか」
「なら,今度のサロンまでほっとく」
矢摩はそう言って髪を乱すのをやめた.自発的に行くことがないから,下手すると六月くらいまでそのままになってしまうのか.夕掛が眼で何か言っているので,後でそれとなく行くように仕向けておこう.
「うーん.附子の舐めすぎー? 」
「じゃあ,筆折るか」
「木食苦行だから仕方がない.外で同じくらい食べてる二人は,って運動量の差か.なら今年こそ,あ,ねえねえ,話変わるけど,二年のクラス,一年は見事ばらばらだったけど,今回は紙幅の都――」
「はい,ブラシ」
無意味なメタ発言を割って,さっきまでケータイをいじっていた真ん中の八荒万弓が入ってくる.
「ありがと.どうせすぐ崩れるからいいのに」
「やー,流石にあんなはダメだよ.ね?」
気にはしないが頷いておく.
「ほら.ミストとかしないんだから注意しようよ.まゆちゃんはどう思う? さっきの気づいてた?」
「私が取ってもね.白髪なら問答無用で抜いておくけれど」
「ずっとケータイに夢中だったじゃないかねチミは」
「部屋の照明を消すのに手間取っていただけです.遅れそうになったから」
紫烟楼最上階の角部屋を注視する.
「あれだとまだ点いてないか」
「……広路,お願い」
操作のついでにロゴ部分の保護シールも剥がしておく.その間に万弓は,濃紺にも見える長い黒髪を櫛で梳き,シュシュでアップに結んだ.
「うん,まあ,どんまい.後で練習しよーね」
「茶色い電気の実績と消灯ですよの実績が解除されました」
「それより,クラス分けなら既に明らかでしょう.特進コースが始まるから,矢摩と夕掛だけ別」
万弓はばつの悪そうな顔で話を戻した.
「まーたそんな顔してー.まゆちゃんもこうじくんも,けいちゃんだって結局,希望は普通コースになってたじゃん.前回ついに一桁入ったくせにー.これって,まだみんな一緒がいいってことだよね? 」
「そうはっきり聞かれると困るのだけれど.あと盗み見は感心しません」
口を真一文字にしているのは,照れ隠しにしか見えない.
「かわいいから照れんな.あと,これども」
「こっちも」
ケータイを返す.
「ありがとう.ありがとう」
各員,登校準備はできたようだ.
さて,ここからどうなるか,話題を振ってみる.
「そういえば,お隣さんは今年からエクシードならぬアルティメットコースができたって」
「究極のお嬢様向け? まゆならギリかな」
「女子高でその名付け方はどうかしら.節税の方法とか慰謝料のもぎ取り方を教えてくれるの? マネーロンダリングと迂回献金指南なら興味ありますけれど」
「女子校の女子高生のアラサー化ならぬフィクサー化とな.筆が滑るな」
「はー? もっかい言ってみ? 」
「微塵もうまくありません.二度と言わないように」
容赦がないので少し逸らす.
「うちの高等部でも特別特進コースなんてのつくるらしい.バカロレアとれる医,薬,法,生物,情報の5つ」
「違和感感じるねー.全席優先席みたい」
「ほとんどが特進希望で真上に行かないんだから,自然なんじゃないかね.選抜進学だと他のクラスに悪いだろうし.今更だけど――」
「待て.誰か黒助門に来る」
広路がそう言った直後,周囲に裏大門番所の警鐘が鳴り響く.一打と三打の連続.刃傷沙汰か.
「何人?」
広路が感じたのは,どろりと粘つく湿気のような皮膚への刺激.そして,ヒュンヒュンと風を切る鳥の羽音とブブブと唸る虫の羽音.さらに黄色い光がちらちら視界に入り,鼻孔をニラのような匂いがくすぐる.これを翻訳するのは簡単だ.
「一人.追手は小糠屋さんと十寸見さん」
「この季節.業者に潜って会いに来て,かしらね」
「かもね.どうする? 二ヶ月ぶり五回目の七代目出動? 」
「そうする.まだ得物持ってるし」
「補助するよー」
「うちら引っ込んでる.気をつけて」
「黒助さまのご加護がありますように」
この時,夕掛の二つ上の姉さんが,箒を持ったまま家の門から顔を出してきたのだが,こちらに気づくと,口パクで頼んだと言ってすぐに引っ込んでしまった.
「出たー.有理姉さんのしょくむほうきだー」
「箒でやったらずっとネタにされるわな」
ニラの匂いが強くなってくる.
「十秒」
「おけ.二人は下がって」
夕掛が言い終わるのと同時に,裏小門の切戸が乱暴に開かれる.
京町二丁目の南端,九郎助稲荷社殿の脇にあって焼鎌家と穴師家に挟まれる黒助門こと裏小門は,狼藉者を誘い込むためにわざと開けやすくなっているので,蹴破る必要はない.
一拍おいて出てきたのは,作業着姿の中年らしき男性.その手には……血のついたカッターナイフ.いかにも事務作業用という小ささだ.門を通る前の身体検査はちゃんとやられたようだ.
男はこちらに気づき,吠える.
「どけよ! 死にたいのか!」
無関係な人間を避けようとしたであろう気遣いに,広路は応えず,小道を真っ直ぐ向かっていく.夕掛はやや左斜め後ろをついてくる.さらに,木刀を持った祖父が家から飛び出てくるのがわかる.だが,時間をかける気はない.
「うわーあぶないぶきをすてるんだー」と棒読みで告げてから,さっさと間合いに入っていく.
隅田公園で散歩するかのようなこちらの平静さに怯えた男は,カッターナイフを振りかぶり、こちらを威嚇しようとする.
そこへ一気に踏み込み,刃が振り下ろされる前に跳んで,片足で睾丸をピンポイントに蹴り上げる.
息が止まって悶絶する男.間髪入れず近寄って,腕を掴んで捻り,カッターナイフを落とさせる.落ちたのは駆け寄った夕掛が堀へ蹴り飛ばした.関節を極めたまま,祖父と追手の到着を待つ.
先に着いた追手側に引き渡し,次いで祖父に後処理というか身代わりをお願いして,小道を戻る.途中で,また鐘が鳴る.今度は長い三打が三回.事態解決の報せだ.
自転車のところに着くと,うちの門の影から二人が出てくる.
「お疲れ様.黒助さま,ありがとうございました」
「乙.無事よし.帰還よし」
「今回はやることあったよー」
「一応,靴は拭いときな」
懐紙を取り出して渡す.
「ありがとー.……こうじくん,何だか今日は機嫌悪い?」
「あれは単に時間短縮のため」
「金的でもやったの? さて.話戻すと,成績で切られる可能性あるうちらと,忙しいこうちゃんとけいは措いといて,まゆは特進行っても良かったんじゃない? 変えられなくはないんだし」
「私は普通がいいの.お祖母様も,学歴が高すぎる女子に老人は厳しいと仰るし,お馬鹿に見せてあげた方が各方面の心証に良いから」
待つ間にいじりすぎて絡まった髪を矢摩と解きながら,自嘲ぎみに万弓は言った.
「そーいえば,女子生徒の学業成績とモテは一定まで反比例するって研究結果,前に焼鎌せんせーが言ってたよね」
「さすが十中八九方美人ですな」
「妙な言葉を発明しないでもらえるかしら,フールーさん.言っておきますけど,あなたたち全員が特進にするなら,行っても構いませんから」
「はいはい.偽造ツンデレごっこ代行,お疲れっす.つーか,新鮮だよ.腐ってるのは頭だっての」
「あら,ガスが溜まっているのかと.それより,今のは聞き捨てなりませんね.私がいつ,あなたたちの前で自らを偽ったと? 」
「今.あれ入れてるじゃん.でも,入れてそれって……」
「何を言います.あなたが作った衣装の時だけです.それもモデルに合わせないのが原因でしょう.寸法を隠すために広路抜きでやって,その上,漫画の方を優先するから,品質を下げないと間に合わない.なのに質は下げたくないと言い張る.結局,この前のように高い既製品を買わざるをえない.腐っていて覚えられなかったのかしら」
途中から話を変えても逃げられなさそうだ.
「その件はマジですまない.直近の風呂での印象でやったらああなった.もしかしてさらに萎んだ? あ……ごめ……元…….うち,眼鏡曇ると微かな違いはわからんのだわ」
風呂の時は裸眼だと言ってなかったか.知る必要は全くないが,変えたのか.
「心が曇っているからでしょう」
心で見るイコール妄想になってしまわないかと思ったが,口には出さない.顔を無表情に保ち,息も殺しておく.ただ視線は二人の間を交互してしまう.反対側の夕掛からはテニスの観客にでも見えていそうだ.
その時,三人の後ろ,向かいの門から出てきた矢摩の弟が,口論している二人へ汚物を見る眼を向け,念仏を口ずさみ,逃げるように小学校へ向かった.三人は気付いていない.合掌.
救われない言葉のドッヂボールは続く.
広路は角海老楼の大時計に視線を移し,まだ余裕があるか確認する.それに反応して,相槌役だった夕掛が割って入る.
「なんで罵倒合戦になってるのかなー? クラス一緒だったらいいよね,ってだけの話がさ」
ごもっともで.
「そう.二人を無理に上にあげるとみな苦労するから,合わせて私たちも普通にしてるというだけのこと.お分かりかしら? 」
「ほんとはAだけどBでいいって,カップですか? トリプルエス級魔導師ですか? 生まれも育ちも普通じゃないだろ.このまま行けば,宗の字が三つもつくんだから.体型も和服向きだしなあ.うらやましいなあ.うち,似合わないしなあ」
飛んで火に入る薩摩武士.
「心配しないで.即身仏になれば似合うでしょうから.ああ,もう腐っているからミイラ化は無理でしたね」
「おお,確かに.頭いいな.ご褒美にお昼は唐揚げを分けてあげよう.これで盆地が平原くらいにはなるといいね.たぶん氷原かツンドラタイルだけど」
「遠慮しましょう.我が家には,成長ホルモンが投与された鶏肉なんか食べる必要ないほど,余剰食料がありますからね」
「ぐ,ブルジョアめが」
食いかかったわりに,矢摩はうまく言い返せず,下を向いてしまう.さっきの「九の対偶!」がピークだったようだ.
「もうおしまい? 矢摩にはそれがお似合いね.前を向いては足元が覚束ないのだし」
「小学生じゃないんだから,足元見えなくても転ばねえよ」
あの頃は矢摩が一番大人しかったっけ.
「その重くて硬い後ろの肉塊で,前の脂肪の塊とバランスがとれるようになったからかしら? 」
万弓はみんなのお姉さん役だったのに.
「どこもかしこもやーらけーっつうの.あ,自慢になっちゃった.そっちはすぐ骨だもんね」
「腹部だけでしょう,柔らかいのは.いえ,メンタルもでしたね」
さすがに飽きたのか,また夕掛が割り込む.
「もーいー加減にしなよ.今日はしまちゃんの敗けでいーじゃん.きっかけもどっちかといえばそーだし」
夕掛が口数少ない影の牽引役というのは,あまり変わらないか.
「勝手に負かすな.非は認めるけど勝敗は別だ.ちびっ子の出る幕じゃない.あっちで蟻でも潰して遊んでな」
やぶれかぶれの挑発に,優勢の万弓も何故か乗っかる.
「おねえちゃんたちは忙しいの.幼稚園の送迎バスがくるから向こうにおいきなさい」
普段は穏やかな振りをしている夕掛も,これには抗戦してみせる.
「おっと.これはTGっていうんだ.また忘れたのかな? なら,脳の筋トレしたげよう」
一応,血管はあるから筋トレか.
「あたし脳は腐ってるからいいや.まゆはそこにしてもらえば.届かないし,掴めないけど」
まあ,そこにも血管ならあるか.
「頑張って背伸びして偉いね.でもまだ早いかな.矢摩にはしないであげて.数年後には悲惨なことになってしまうから」
「そんな心配しなくてもいいよ.脳震盪起こすのに,直接触る必要ないから.卒業まで気絶しとけば,クラス分けも関係ないよね」
時計に再度目をやる.時間切れだ.
「クラス,今度は俺だけ別だったりして」
「あ,それありありだねー」
「いや,それフラグだから.うちもそれでいいけど」
「うん.それが次善かしら」
なんて馴染み甲斐のある人たちだ.
明治より残る浅草十二階「凌雲閣」の麓,吉原北里遊郭外縁,足洗町.義理と人情と任侠と色欲にまみれたこの街で共に生まれ、育ってきた.こんな関係だと気になるところの恋愛感情はと言うと……言わせるな.
広路は三人の気持ちを知らない.一応,悪党ではないので普段の言動でおおよその見当はつけられる.それでも,例え彼女たちが,個人としてあるいは総意として「何か」を決めていたとしても,はっきりと言葉にされていなければ,冷戦だって共同戦線だって無いのと同じだ.家が近くて小さい頃からよく遊ぶだけの人かもしれないし,そうじゃないかもしれない.
こういう関係だと,何でも知っているように思ってしまいがちだけれど,そんなのは部外者の幻想だ.
例えば,先月,示現会の時.町会の雑用が予定より早く終わったので家に帰ると,なぜか広路の部屋に小径と夕掛がいて,静かな口論兼組手をしている.止めて理由を問うと,小径がここにいる時に,夕掛が堀の屋根伝いにやってきて侵入を計り,入れろ入れないになったと.何をするのか,していたのか,それぞれに改めて問うと,今度は二人が顔を見合わせ,何かを謀ったように,それぞれ無言で去った.後から別々に二人に聞いてみたが,覚えてないという.まさか二人も記憶喪失だったとは.いや,幻覚だったのかもしれない.
つきあいの長さや深さに関わらず,知らないことはある.幼馴染でも家族でも,自分でさえも.言葉にするまでもなく当たり前のことだ.