第十話 指比との出会い
ことは四月第三週の金曜日,午後六時半ごろ,隅田川沿いの荒川自然公園で起きた.
この日,月末の校外実習に関する生徒会の雑事が急に増えて帰りが遅くなったこと自体は,誰かさんの作為ではない.私用により澁衣景の車は同乗できなくなってしまったため,焼鎌広路が蘆原紅音先輩を家まで送った,その帰路.
突然のことだったので,前置きとして往路の会話を紹介しよう.もう日の沈んだ公園を二人並んで歩きながらしたものだ.
「話しすぎて雑談のネタ切れしてるよな.ちゅーこって,某漫画を参考にお題な.アンデッドは走るべきか走らないべきか」
「それを聞くってことは走らない派ですか? 俺は走る派ですね」
「このゆとりが」
「先輩の代から小中学校は脱ゆとりでしょう」
「珍しく普通につっこんだな,おい」
「嫌ですか?」
「澁衣にいいつけるぞ」
「そんな邪推を」
「ま,それは措いておいて,実際のところだ.走らない,かつ頭を潰せばいいアンデッド相手であれば,たかだか東京の人口千五百万程度,どうとでもなるんじゃないかな.倒せばその分だけ感染拡大可能性が減るし.ただし空気感染は考えないものとする」
「俺は一日五百体くらいで力尽きますね,多分」
「銃無しでか.えらい.八十年で殲滅できるぞ」
「無茶言いますね」
「自爆すれば後の半分は逝けるだろ?」
「勝手にどうぞ.巻き込まないでください」
「とある統計的な研究によると,とにかく初めから殲滅しにかからないと人類絶滅確定らしいぞ.お父さん,統計学者なんだろ? 知らない?」
「父は家じゃ研究しません.研究の話も滅多にしないです.でも,その話なら知ってるかもしれません.どうせなら話聞きに来ますか? 今日は自主休講だそうで,いるはずですし」
「あ,いや,いいよ」
「なに動揺してるんですか」
「うるせえ.死ね」
「死んだらゾンビで出ます.あーあーいいながら抱えてもってっちゃいます」
「したら肘打ちかべリィで殺す.あたしは参謀タイプで,初期の混乱をパスして途中まで生き残るけど,私情にとらわれて幼児を助けちゃったりして死ぬな」
「ありそうですね」
「お前は人類が滅んだ後まで生き残りそうだな」
「いやー,本日最大の中二発言ですが,大事な人がみんな死んじゃったら後追うんじゃないですかね」
「死ぬな.生きろ」
「あ,でもその前に,ゾンビになったそいつら探し出して殺さないと.先輩も覚悟しといて下さいね.ショッピングカートで轢き殺します」
「……おお,殺せ.あたしは幼稚園バスに乗ってるだろうから,探すとき参考にな」
「それだと腐敗してたら見分けつかないかも」
「老人会のバスに乗ってるわ.一番前の座席な」
「覚えておきます」
「そーいやー三分の一は子どもと老人なんだから,殲滅はもっと楽だな」
「ゾンビ対老人の映画もありましたよね」
「走らないやつだけどな.ネタとしては良かった.あと規制されたけど子どものアンデッド対教師の映画もあったぞ.今度見ようぜ」
「また映研に忍び込むんですか.いい加減,許可取りましょうよ」
「罪悪感と背徳感がスパイスなんだよ」
「バニラがいいので,浅草あたりの名画座でやってたらそっちにしましょう」
ケータイで調べると,ちょうど連休中に神保町のゾンビ特集で予定されていた.画面を葦原先輩に見せる.
「……二人で行くのか?」
バックライトに照らされた葦原先輩の顔は二重の意味で陰影に富んでいた.
「澁衣も小径も興味なさそうですから.熊澤先輩は毎回批評が濃すぎるので.嫌なら味付きでいいです.あと仁志は映画館好きじゃないらしいので」
「別に嫌じゃないよ.いつならいい?」
葦原先輩もケータイを取り出した.
「初日はどうですか? 連休は周りのが遠出して留守番なので」
「すぐじゃん! ……ん……分かった.細かいことは直前でまたな」
気まずくはない沈黙.頬を撫でる春の生温かな風.あたりに響く少年野球の音.
「はー,沸いてんな.あたしら.特にあたし」
「春ですからね」
「もう終わるけどな.四季といいながら,夏と冬が長過ぎるんだよ,この国」
話の終わりとともに公園の出口まで来た.葦原先輩のリハビリのために送る時は公園を通っている.先輩の家は線路の下の橋で隅田川を渡ればすぐだ.
「ありがとう.じゃ,また明日.お前も気を付けて帰れな」
橋を渡りきったところで広路は手を振り,踵を返した.道路工事を避けつつ,来た道とは違う公園の中を直進して突っ切る.ここからでも順調に行けば十五分で家につける.
しかし,今日は公園の中間で止まらなければならなかった.葦原先輩がちょうど痴漢に遭ったあたり.この園の広さゆえの死角.
自転車に乗った広路の目の前へ,漂う木の葉のごとく現れたそれは,一言で表すと怪物だ.
まばらな照明によって描かれたのは,野焼きで煤けたような土色の鱗肌に,蜘蛛様のまだらに禿げ上がった頭に,夜でも鮮やかにわかる真っ赤な目に,尖っていること以外が不揃いの牙に,牙を収めきれず粘着くヨダレまみれ口に,地獄絵の餓鬼のように突き出た腹に,牙よりも鋭く光る伸びた爪に,何かが乾いてこびりついたボロボロの縄状の尻尾.さらに洗ってない犬の臭い,いわゆる獣臭が辺りの闇をはっきりと染め上げていく.
来るのはただの人だと気配で判断していた広路は,その容姿に内心で驚愕し,自転車を置いて観察し始めた.
顔はこちらを向いているが,見ているかは眼球に虹彩や瞳孔がないのでわからない.それでも怪物は,広路に対して明らかな殺意を放ち,爪を立てて腕を振り回し始める.ただ,その動きははっきりと見え,小径や矢摩でもいなせる程度の速度しかない.しばしフェイントを疑ってみたが,どうやらそうでもないらしい.何の小細工もなく,ただ唸り声をあげながら空気を引き裂くだけだ.
余裕が出てきたので考える.
これがチュカパブラか.いや,むしろ猿人というべきだな.人間やゾンビではなさそうだ.ヤギゾンビというのはぎりぎりありか.その場合,武器は角ではなく爪だが.でも乳首はないから哺乳類じゃないよな.
……逃避はやめよう.先日の一件と違い,やらねばやられる,やらなくてもやられる,という状況ではない.かといって,ただの人間相手のように目を閉じてても楽勝という訳ではない.攻撃力は侮れないだろう.皮膚と肉,さらには骨まで一度に持っていかれるに違いない.
ふと,世界同時多発的にこんなことが起こってるのではなかろうか,と不安になった.あるいは,これが感染源だったらどうしようとも.
広路は不安を超えてわずかに怖くなり,周辺を探った.
色とりどりのガラスを砕いたようなプリズムの反射光が目に入る.周囲の道路とコンビニには人がいて,襲ったり襲われたりせずに動いている.
毒ガスとか放射能とかまではわからない.毒を疑うなら周りと自分をよく視ることが大事,と仁志は言っていた.周りにはよくいる名も知らぬ虫たちが飛んでいる.攻撃のようなものをかわしながらであるという事を勘案してもなお,自分の呼吸や脈拍に乱れは感じない.体は軽快に動く.今朝,祖父も言っていた事だが,死線のようなものをくぐったことで一つの扉を開けたみたいだ.他も見てみたが特に何も見当たらない.幻覚の可能性は考えなくてもいいか.どうせどこが基底現実かなんて分からないし.
思考が一段落しても,怪物は相変わらず正面に向けて腕を振り回すだけだ.
さて,どうしよう.万が一手負いのまま逃がしてしまって,匂いとかを覚えられていたら,後から襲われることになるかもしれない.でも,念のため以上に倒す必要性がない.逃げればいいんだから.
戦いながらこんなに悩むなんて初めてだ.予防的な殺しを自分は許せるかなんて,考えたことがなかった.でも,考えておく必要はなかった訳じゃない.
怠慢のせいで広路が苦慮していると,組手でペースを上げるがの如く,次第に怪物の腕の振りが早くなり,余裕をもってかわしきれなくなってきた.気のせいか,怪物の腕や足がより太く隆々としてきている.目を凝らす間にもその変化は顕著になり,段々と攻撃が危険域に入ってくる.
とうとう学ランのボタンに爪先が当たって火花を生じ,これ以上はまずいという段階まで来た時,広路は当たりを付けておいた急所の位置,肉の鎧の下で脈打つ心臓の辺りをめがけて,反射的にカウンターの前蹴りを放った.
蹴りが刺さった怪物は,びくん,と全身が跳ね上がって,そのまま崩れ落ちた.
攻撃力の割に防御力が脆い,という推測はどうやら当っていたようだ.
広路は構えたまま一分ほど様子を見た.ぴくりとも動かない.
殺したかもしれない,という動揺はほとんどなく,後処理のことが淡々と思い浮かんでくる.
何が付着してるかわからない.遠回りして近くのコンビニでサンダル買って履き替えないとな.もったいないけど.あと,言い訳も考えないと.とりあえず,糞を踏んだ,でいいか.きっと呆れられて何も聞かれないだろう.
これらの考えに少し遅れて,まずいことをしてしまった,という後悔がやってきて思考を奪った.
広路は深呼吸の代わりに両こめかみを指でぐりぐり押して思考の主導権を取り戻し,辺りを慎重に探り直した.が,時既に遅し.最初の存在を感知した時点で完全に囲まれていた.木々の陰から黒尽くめの武装した人型の生物,恐らく人間が,アスファルトに根を張る雑草のような気配を発しながら,ゴーグルの瞳を緑色に光らせて向かってくる.
彼らの構えるテーザーガンの照準は確実にこちらを捉えていた.プレイヤーの耳はプチュキュイーンという音が聞こえているはずだ.
これでも逃げられなくはない.全力でやれば倒せもするだろう.でも,どちらもその後がより問題になる.
広路は両手を頭の後ろで組んで,制服の汚れも気にせず膝をついた.こんな時は確かこのポーズをするんだったと思う.
"〇九時五五分":"市ヶ谷駐屯地L棟へ移動",
逆さのマスクが頭からとられた時には,広路は後ろ手に手錠をされ,椅子に座らされていた.
そこは殺風景な会議室.ただし,床がつるつるのタイルになっていて,でかい排水口が付いている.広路の正面の壁には,位置的に蛇口と思われるものの蓋が見える.どんな会議をするのやら.
女性が一人,真後ろに立って広路の動きを封じている.といっても両肩に手を置いているだけだが,それでも体を動かす気にならない.この手は表面上は滑らかだが,内は広路よりも遥かにひどく,現在進行形で硬く鍛えられている.剣士の手ではない.恐らく色々な得物があるのだろう.たぶん,彼女がこの中では一番強い.実力的には同じか,少しこちらが下くらいだろうか.最近は世の中の広さを知ることしきりだ.
「マルチツール,一点.短い木刀,一本.寸鉄,一点.以上.それから――」
後ろで男性が広路の持ち物,今はベルトを何か仕込まれていないかカチャカチャさせて調べている.後ろの人に身体検査された時,流れるように抜かれてしまった.父のお下がりでやや高価なものなので,他の道具と違って放棄するには惜しい.
「焼鎌広路.十六歳.東京教育大学附属日暮里高校二年.住所は台東区千束町……吉原か.あそこに子どもが住んでいるとは知らなかった.学校名はどこかで聞いた,いや,見た事があるな」
生徒手帳を見ながらの独り言のような調子に,真後ろの女性が応える.
「わたくしの通っている学校の反対側にある.雑誌の帝大進学者数ランキングに載ってるような所だから知名度はある.彼はそこの生徒会副会長」
この声には聞き覚えがある.おぼろげな記憶を探ると,思い当る人物がいた.確か,お隣の女子高の生徒会役員だ.名前は……何だっけ.
「知っているのか,指比?」
そう.指比憧子.三年生の書記だ.今度の交流会の打ち合わせで電話連絡をした人.門限の厳しい深窓の佳人,というどうでもいい噂を蘆原先輩が仕入れていたっけ.実際は深淵の武人だったということか.うむ,上手くはないので言わないでおこう.
「少しは.うちの学校にも知られているし」
指比は後ろから手を回し,広路の顎を赤いマニキュアの中指で撫でて言う.
「例の件,彼にしましょう.単独,それも武器があるのに使わず素手で渡り合うなんて,貴重,いいえ,重要じゃないかな?」