紅の導き 漆
「貴様は無力だ! 生贄を捧げた所で神が助けに現れる事など無い!」
激昂した春は先程と同じように、そして次こそは仕留めんと彼女の頭部に目掛けて音速をも超える速度で平突きを繰り出す。
邪術に限界まで身体能力を引き上げられ、痛覚を停止させている彼女だからこそ出来る人外の動きである。通常ならばまず不可能だ。
その一撃は岩盤など物ともせずに破壊する程威力がある。先程篝を貫いた突きは人体を破壊するだけならば十分すぎる威力を誇っていたが、仕留め切れていないのが現実だ。
「……」
篝は無言で突き出される刺突刀を同じく刀の刃で受け止める。衝突の振動を完全に殺し切り、僅かながらの隙を作り出す。そこへすかさず刀を払い打ち上げる。
必殺の突きが完全に防御されたのを見た春は恐怖と戦慄で身を震わせた。先ほどの篝とは何かが違うのだ。満身創痍などとは程遠い馬鹿力、反応速度、姿勢制御、安定性……全てにおいて先刻の状態を上回っている。
刀を払いあげられた彼女の無様な隙はすぐさま猛攻に晒される事となる。血塗られた刃の切っ先が高速で軌跡を作り肉体を切り刻んで行く。
胴体、腕、足、頭……どこも区別なく万遍に切り傷を作り血飛沫が上がる。だがそれでも無表情の篝は攻撃を止めようとはしない。
傷口に刃を捻じ込み、内側を切り開いては千切り落していく。僅か数十秒で体中をボロボロにされた春はすぐさま飛び退いた。
「お前は……お前は一体何なんだ! まさか、本当に神なのか!?」
「……」
彼女は答えない。代わりに刀の刃先が彼女に向けられる。血を捧げたと言うのは本当のようだ。
そして春の背中からまた、吹き出す魔力は勢いを増す。再生量が増えたため活力を増大させているのだ。だが、それは同時に彼女がどんどん人でなくなっていくことにもなる。
彼女は既に妄執に囚われており、本来の目的を忘れている。妖怪の殲滅よりも、目の前にいる剣客……出雲篝を殺害することが最上の目的となっている。
最初に彼女を煽ったのは篝なのは間違いないが、ここまで執着するとなれば最早邪術が精神に影響を与えすぎているということ他ならない。
そして、最も厄介なのが自分では止められないという点だろう。
「お前を殺す! 私はお前を殺し、私自身の目的を果たす! 怪物め、化け物め、邪神め! 人の裁きを受けろぉ!」
体の再生が終わったと同時に、無謀にも防御が万全な篝へと連続した平突きを繰り出していく。本来ならば高速すぎる故防御など不可能な攻撃だ。
しかし、今の篝はその速さを正確に見切りその全てを受け流していた。刀同士が衝突せず、全ての攻撃を左右に流されている。余剰分の負担は当然彼女の腕に掛かってきている。
そして驚くべきことに、全てを防御し終えた篝は一歩たりとも後退していない。あらゆる攻撃を無力化したのだ。
「……何だこれは!?」
それでも攻撃を続ける春は周囲の様子を見て驚愕する。篝が流した血が全て彼女の持つ刀に向かって流れて行っているのだ。
傷から流し、地面に落ち不純物が多数混ざった液でさえ生贄として吸収していたのだ。それにより、彼女の刀は今まで以上に切れ味を増している。
鉄をバターのように切り裂くなど容易く、どれだけ硬度があろうとも鱠斬りに断つ。そんな恐ろしい刀を篝は振るっている。無表情で。
何度も肉体を傷つけられ、その度に再生を繰り返した春の体は殆ど瀕死の状態だ。しかし、過剰に再生を続ける邪悪なる呪法が死を許さない。
痛覚が無いにしても、何かが断ち切れれば空虚が襲い掛かってくる。機械がいらない部品を切り離すのとは訳が違うのだ。
その空虚感は春が篝に腕なり足なりを切り潰される度に襲い掛かる。邪法の影響で感覚が麻痺してしまっているのだ。
数十度の剣戟の末、再び春が後退することとなっていた。攻撃は全て受け流され、必殺の一撃を放つ事もままならなくなり、加えて先程の春を上回る速度で刻まれる連撃に防御さえ覚束なくなりつつあるのだ。
攻撃を弾いたと見れば即座に別の部位を狙った斬撃が襲い掛かる。防御を繰り返しても傷ばかりが増え、その度に再生を行う。血すらも紫黒のタール状物質に置き換わり、人ではなくなっていく。
淡々と剣術の基本的な攻撃を繰り出していく篝。しかし速度と重さは仮面を被る前とは比べ物にならぬ程精度が増している。
人の目では当然追いつけず、妖怪の目を以てしても追うのが精一杯だろう。それだけに、周囲への被害も甚大だ。
地面は既に幾重もの軌跡が刻み込まれ、草は斬られた事さえ気付かぬまま根元を断たれている。
血を吸い、更に速さと切れ味が増し、振られる度に空に刻まれる紅い軌跡。一振りに見える攻撃が三つの傷を作り、更に広げていく。防御の上から春の体が刻まれていく。
「く……おのれ……まだ負けぬ……!」
何度目か分からない飛び退きで距離を取った春は一人吐き捨てる。余りにも分が悪すぎるのだ。
そして何より、再生が追いつかなくなり始めているのに気付いていた。背中から吹き出す力の奔流が弱まり、傷の修復が遅くなっているのだ。
短時間に体の大半を破壊され、その再生を行ったが為か、慢性的に再生能力が低下しているのだ。こうなると非常に不味い。
魔力が尽き果てるまで攻撃に晒されれば、いくら邪術を行使しているとはいえ死は免れないだろう。
そして春は選択する。逃げる事を。剣客として、正義として恥ずべきことだが命が優先であると。
「この勝負は次に預ける……私は勝つ! お前に!」
そう言って彼女は全力疾走で霧の湖の中心から逃げ出し、霧の中に入った。
後ろを振り返り、無表情の仮面がどんどん遠く、小さくなっていくのを見て安堵の息を漏らす。
強化された身体能力は彼女の逃走を助けていた。肉体の修復さえ無ければ邪法の魔力は安定して強化を約束する。この力は忌わしいながらも結果的には春の役に立っていた。
全力疾走を止め、完全に霧の中に紛れた春は一度立ち止まり消耗した体力の回復に努める。強化されていても体力が続かねば走る事も難しくなるのだ。
そして此処は霧の中。索敵も捜索も難しい場所だ。
本来ならば安心すべき状況なのだろう。しかし、春の顔は晴れず、そこには恐怖の感情が墨のように塗りたくられていた。
「何者なのだ……奴は……あの刀は一体……?」
「……」
「何!? 何故だ……どうやって追い掛けてきたのだ!?」
立ち止まり回復しようとした途端、霧の向こう側から無表情の仮面が歩いて迫り来ていた。
春は確かにかなりの距離を走った。しかし、未だ霧の中から出られていないと言う事は、周囲を回って半刻も掛からぬ霧の湖から出られていないと言う事だ。
ならば当然、追いつかれる。しかも相手は意思を消し去った刀の使徒と化した篝だ。逃げられる筈がない。
再生能力が追いつかない今の春にとっては悪夢以外の何物でもないだろう。しかし、その怪物は容赦なく春に襲い掛かった。
「……」
「どうやって、どうやって追い掛けたのだ! 距離を離した筈なのに!」
彼女は目から大粒の涙を流しながら応戦している。超高速の斬撃を受けながら、地名となる場所への防御は果たしている。
背中の力の奔流も弱々しくなり、いよいよ限界が近いと言った状態だ。それでも尚、戦おうとするのは驚嘆に値する。
そして、呪法が切れると言う事は即ち封じられた痛覚が全て痛みを伴って体中を駆け巡ることになる。身体を破壊され続けたその痛みは全て痛覚に記憶されている。
場合によっては、余りの痛みに脳が耐え切れず廃人と化すかもしれない危険性が付き纏っている。
「お前はもう、終わりだ」
「終わらん! 私は終わらんよ! 私は、私はぁぁぁ!」
最早正気も狂気も分からず、ただひたすら無謀に突撃していく春の姿は哀愁漂う無様なものであった。
無機質な声で終焉を告げた篝は、向かってくる春の両手両足の腱を斬り裂き、地に叩き落とす。
達磨同然の死に体の春の体の上に立ち、そのまま手足を根元から斬り潰した。背中の奔流は再び力を増し、切断面へと纏わり付き仮初の手足を作ってゆく。
だが、形が出来たと思えばすぐに溶解し重油のように地に広がっていく。最早、定着させ維持する魔力さえ残っていないようだ。
――崩壊。彼女の修復された傷が一斉に開く。幾重にも傷つけられた体が一気に痛みの悲鳴を上げ、生命力を根こそぎ奪っていく。
再構成して立ち上がろうとすれば崩壊し、再び地面に倒れ伏す。何度か繰り返すうちに、指先さえ形創れず脆くも崩れ去ってしまった。
「がああ……ああぁ……ああぁ……!」
声にもならない呻き声を上げ、上に立つ篝へと手を上げようとする。流れる魔力液が辛うじて腕の形になるものの数秒と保たずただの塊となり地面に落ちる。
禁術の効力が切れ、体中の痛覚が復活したのだろう。声すら上げず痛みに悶え苦しむさまは狂っていたとは言え非常に哀れなものだった。
そして篝は、未だ春の精神に影響を与え続けている物体を発見した。
倒れ伏した事で、彼女の服の中から出てきた掠れた文字の一冊の本だった。それは春が死に行く間も胎動し力を放ち続けている。
そして、閉じられた本の頁の端から魔力液が溢れ、春の体を再生しようとしているのも発見した。全ての元凶はこの謎の呪術書だったのだ。
「……」
彼女は無言でそれを拾い上げ、数度刀を高速で振るい細切れにした。
同時に、魔力液の流出が止まり、春の体を再生しようとしていた液もまた動きを止めた。
――そして霧が晴れる。
太陽の光に当たったドス黒い液は蒸発するように焼かれ消えていく。細切れになった魔導書もまた、橙色の炎に包まれ消失した。
そして彼女の被っている無の仮面もまた、太陽光を浴びて大きな罅が入り、音も無く割れた。
「……出雲」
「……何だ、斉藤」
か細い声で、眼から狂気の色を無くした春が篝に話しかける。既に己の運命を悟り、罪を悔いて地獄に向かおうとしているようだ。
そんな彼女に、篝は太陽を眩しそうに見上げながら応答する。今、二人の間に敵意は無い。
斉藤は真の意味で正気に戻ったのだ。彼女の心を大いに惑わせていた呪術書は光に焼かれ燃え落ちた。
驚くべきことに、斉藤は重度の精神汚染に晒されてもなお、自我を僅かに保ち続けていたのだ。それがこうして、今彼女に話しかけている。
篝は表情を無くし、ただ春の声を聞いていた。以前会った時や、戦っていた時とは違う、穏やかで優しい、聞く者を安心させるような美声に耳を傾けている。
「――私は、罪を償えるだろうか」
「罪は消えない。だが、救いはあっても良いだろう」
「そうか……そうだな……」
「もう休め。疲れただろう」
「あぁ……」
そう言って春は瞼を閉じた。
篝は刀に付着した血糊を払い、背中の鞘に収める。そして二人の闘いを見届けた美鈴に向かって合図を出した。
そして、安心したのかそのまま地面に倒れて意識を失ってしまった。
紅魔館の一室、咲夜はレミリアと話をしていた。
これまでの事、これからの事。斉藤の襲撃により一時は人手が足りなくなったが、すぐに立て直したこと。
そして、新たに二人の住人を迎え入れた事。紅音と雪。
雪は当初の予定とは違い、道場には気軽に通えなくなったが、母と一緒にいて嬉しそうであった。紅音も同様だ。
「お嬢様、どうやら終わったようです。今、永遠亭を手配しました」
「ご苦労。……咲夜、どうして加勢しなかった?」
「……昔読んだ武士の本で、一騎打ちに乱入してはいけないと書いてあったので」
「嘘だろう?」
「嘘です。……あの方の生き様を見て見たかっただけです」
咲夜の持つお盆の中には人の血よりつくられたワインが入ったボトルが一本。そしてワイングラスが一つ。彼女はそれを尊大な態度を取って座っているレミリアの横の小テーブルに置き、グラスにワインを注ぐ。
注がれたワインを一気に飲み干したレミリアは美味、と咲夜を褒める。
「強固な意志を持つ者は成長する……嘘偽り無しね」
「はい」
「あの子は真摯に問題と向かい合っていた。未だに妹から逃げ続けている私と違ってね」
「和解したのでは?」
「いいや。あれはまだ私を恐れているよ。私が妹を……フランを恐れているように」
「話してみては?」
「まだ、駄目だ。私の心は脆い。拒絶されてはもう向き合えなくなる。情けない事だ。私も篝を見習いたいものだ」
「気付いておられましたか」
「当たり前だ」
実の所、レミリアは自身の能力によって仮面の下が何者なのかを事前に知っていた。その上で要求を聞いたのだ。
咲夜もまた、自身の第六感と調査によって正体を絞り込んでいた。そして今回の闘いを見て確信したのだった。
だが、二人はこれを誰かに話す事は無い。独力で知り得た自分達だけの秘密と言って、知らない者達を笑うのだろう。
「流転する運命、神に魅入られた少女、出雲の二番目……どうも、キナ臭いですわね?」
「何の用だスキマ妖怪。高みの見物を終えて煽りに来たのか」
「いえいえ。これでも私は良かったと思っていますのよ? だって、守護者たる篝がまた成長したのですから」
「あれはいつか必ずお前に牙を剥くぞ。精々、飼い犬に手を噛まれないようにな、スキマよ」
「ご忠告ありがとう。あとワインは私も貰いますわ」
レミリアの横の空間が突如として裂け、金髪の美人が半身だけ出てきた。
彼女の名は八雲紫。妖怪の賢者とも言われる、守護者の一人だ。霊夢と共に幻想郷の要である常識と非常識の結界及び、博麗大結界の構築と点検を行っている。
何を考えているか分からないが、その実力は永き時を生きてきただけあって幻想郷では最強であると思われる。
そんな彼女が、今こうして二人の前で血ワインを飲んでいる。とても美味しそうに。
「あの二人は永遠亭に送りましたわ。手配が速いのは感心しますが、私の方が早くてよ?」
「咲夜の仕事を取るな。そっちの取り分になってしまうだろう」
「余ったチップなら差し上げますわよ?」
「五月蠅い! さっさと屋敷に帰れ!」
「紫様、ご機嫌よう」
「はぁい。御機嫌よう」
そう言って紫はスキマの中に入り姿を消した。当然ながら、紫が開けたスキマは彼女がいなくなると同時に消え去った。
グラスは何時の間にか咲夜の持つ盆の中へと戻されていた。
「今は、篝が無事に回復する事を祈りましょう」
「ここは紅魔館だぞ? 悪魔は神に祈らんよ」
「それもそうですね」
二人は朗らかに笑い合っていた。