記憶旋律 伍
稗田阿求が出雲の屋敷に入ったのと同時刻、博麗霊夢は神社の中で誰にも邪魔される事無くくつろいでいた。
だが、そんな怠惰な時間は急な終わりを告げる。炬燵で半覚半眠状態の彼女の横の空間が突如開き、中からド派手な格好の金髪……八雲紫が現れたのだ。
当然、神聖な神社の中に妖怪が入り込めば霊夢の張った妖怪除けの結界が反応し自動的に排除しようとする。だが。紫は片手でそれを黙らせ霊夢を揺り起こした。
不本意な覚醒を遂げた霊夢は、不機嫌な様子のまま炬燵の反対側に座った紫を忌々しげに睨むが、紫の笑顔が一向に消えないのが癪に障ったのか座り直し話を聞くことにしたようだ。
「貴女に仕事の依頼をする事になるかもしれないわ」
「妖怪退治? それだけなら当日にでも言ってちょうだい」
「いいえ、まだ出現が確定したわけではないのよ。ただ、そういう可能性が非常に大きいってだけで」
「アンタでも分からない事ってあるの? 驚きだわ」
「私は全てを知っているわけではないわ。私は知っている事から今回の”異変”について予測しただけ」
「……異変ですって?」
興味を示した霊夢は食入るように紫に問い返す。異変の解決は博麗の巫女の仕事なのだ。これまで彼女は数多の妖怪が起こした異変をほぼ単独で制してきた。時には守矢の巫女、紅魔館のメイド、悪友の魔法使い、冥界の庭師が共に事に当たる事もあったが。
だが、彼女らと共同戦線を張ったとしても異変を終幕させたのは、幻想郷で言えば博麗の巫女と言う扱いとなる。
そして巫女は、お賽銭では収入を賄えないので異変解決による報酬で生活している。何代も前から続く一種の慣習のようなものだった。
「紫、あんたの知ってる事話なさいよ」
「私の推測で良いならば、話すけど? その代り報酬が減るわよ?」
「何で報酬が減るのよ!?」
「情報料として引いておくわ。私も裕福じゃないの、あなたみたいに」
「……いいわ。全部じゃなくていいから言いたい事だけ言って」
「分かったわ」
扇子で口元を隠して笑う紫は、小手先の小細工で報酬を値引きしようとしていたのだ。だが霊夢は報酬が減るのは生活に直結するので不味いと考え、全てを要求しなかった。
言いたいことだけ言え、と言うのはつまり異変が起こるから備え位はしておけという程度のものだ。
大抵の異変は、神社にまで影響が及び生活が困難になった場合のみ紫から報酬が提示されて制圧に出向くことになっている。しかし、今回は勝手が少々違うようだ。
まだ、異変の影響は神社に出ていない。その証拠に霊夢は神社で怠惰にすごしている。
「空から何か落ちてくるかもしれないわ。何かはよく分からないけど」
「何かって何よ? 星でも落ちてくるの?」
「星じゃないけど、邪悪な何かである事は確かよ」
「……まーた怨念とかその類? 神霊の次は怨霊か……冥界と裁判所の奴らもちゃんと仕事してほしいわね」
「あら、彼女らは立派に仕事しているわ。 あなたと違って」
「ふん……お賽銭が増えるなら喜んで仕事するわよ」
不貞腐れた霊夢はますます機嫌が悪くなってしまった。だが超然とした態度で話す紫はその様子を全く意に介さず言うべきことを言い続ける。
霊夢は拗ねながらも話を聞いている。既に何度となく怨霊の類を相手にしている霊夢でも、紫の言葉を無視すればどんな事が待っているか身を以て知っているからだ。
「率直に言うと、昔起きた吸血鬼異変並の戦いが起きそうな予感がするのよね。空の向こうから落ちてくるモノによって」
「吸血鬼異変……まだ弾幕合戦のルールが制定されてなかった頃の話でしょ?」
「えぇ。血を血で洗うような激戦が幻想郷中で起きたのよ。たった一人の吸血鬼によってね」
「それと同じ規模って、空から来るやつはどんな凶暴な奴なのよ」
霊夢が疑問に思うのも当然だろう。しかし、紫も具体的に何が来るか分かっていなかった。一つだけ言えるのは、邪悪な存在である、と言う事のみだ。
それが弾幕ルール以前の、本気の潰し合いが起きる程の規模と言うならば当然霊夢の出番だ。そうなる前に元凶を止めなければならない。
事の重要性は、以前霊夢が経験した異変……間欠泉事件の時に旧地獄で戦った鴉の時と同じような状態なのだろう。
地獄鴉と呼ばれる種族の霊烏路空と言う少女は、元々旧地獄の温度調整等の仕事に従事していたが、突如現れた謎の神によって八咫烏の力を与えられる。結果的に力に溺れた彼女はその力を使って地上を焼き尽した後支配すると言う考えに至った。
そしてそれは、異常を察知した紫によってけしかけられた霊夢と魔理沙によって阻止されることとなる。
その時は未遂で終わったが、もし止められなかった場合の事を考えれば背筋も凍りつくと言うものだ。
「霊夢、備えあれば憂いなしよ」
「はいはい。頭の片隅に留めておくわ」
拗ねた霊夢はもう話も聞きたくないと言わんばかりに、寝るのを再開する。その態度に呆れたのか、紫は何も言わず空間を空け何処かへと去って行った。
霊夢は何事も無かったかのように炬燵に潜り込み、再び惰眠を貪り始める。これが彼女の普段の生活態度だが、異変となればキチンと仕事するのだから恐ろしい。
「……後でなんか言われるのも面倒だし、準備くらいはしておくか」
彼女にしては珍しく、異変が始まる前から準備を始めたのであった。
出雲の屋敷を訪れた阿求は閃と店長から、彼女らの家に纏わる様々な事を聞いた。
店長は出雲の秘密を守る守人として、遥か前の時代から生きている事。その為に元の名前を捨て去った事。
出雲篝と出雲溟に関する、閃が知っている事。他、閃自身についてなどだ。
だが、出雲閃が語った事は地獄の閻魔が持つ魂の台帳に書いてある事と殆ど同じであった。
阿求自身は地獄に行けない為、こうして人伝で真実を語られると言う事は貴重な体験なのだ。
「我々は外界の出雲大社とは関係がありませんのであしからず」
出雲閃は確かにそう言っていた。外界の者達が信仰する神々の名とはまた別系統の家柄なのだ。だが、それでも神に関わっているらしい。
神の血を受け継いでいる、神の力を与えられた、などではなく神から一振りの刀剣を夢の中で授けられたのが始まりだと言うのだ。
その刀こそ、日ノ本で最初の神殺しに使われた天之尾羽張だと言う。その刀を授けられた出雲家当主……出雲溟は様々な術士に依頼しどのようなものかを探ろうとしていたようだ。
しかし、強大過ぎるその力は調査にきた術士を悉く戦慄させ、追い払ってしまう程だったと言う。
「お姉様は、授かった天之尾羽張を使うためにどうすれば良いか三日三晩考え抜いた結果……模倣しようとしたのです」
「模倣、ですか?」
「はい。本物は強大故に人間はおろか神の中では主神以外扱えない代物。そこで、形を模倣した複数の十束剣に力を分けて使おうと考えたのです」
「では、今出雲篝が使っているあの刀は……」
「そうです。天之尾羽張の模倣刀の内の一振り、五つの模倣刀の内の一振り、天之骸です」
「……骸の他の四本は?」
「それぞれ、朧、咒、禍、翳と名付けられました」
天之尾羽張本体の力を使おうとすれば、人間とて耐える事は不可能。たとえ神格者であっても、躰が崩壊する程だと言う。
故に、出雲溟は考えた。強大な一つの力を五つに分けてしまえば使えると。単純だが、力を分割する作業は予想以上の苦難が続いたのだという。
結果として、贄を捧げる事で力の分割……五本の刀が完成し人にも振るう事が出来るようになったと言う。
「溟姉様は五感の内二つを、私は感情を、篝姉様は……」
そこで言葉が止まる。阿求と店長はその様子を不思議そうに見ていた。覚えていないのだろうか?
しばしの沈黙の後、閃は弾かれた様に外へ駆け出して行ってしまった。余りに唐突な行動に二人は言葉を失い座ったままだ。
「……追いましょう」
店長……守人が阿求に声をかける。彼女は我を取戻し、急ぎ閃の後を追って屋敷の中庭へ出た。
雪に半ば埋もれた中庭には屋敷の裏手まで続く足跡が残されていた。状況から言って閃のもので間違い無いだろう。
二人が足跡を追っていくと、屋敷の裏手へと辿り着いた。裏手には小奇麗な墓場があり、数ある墓の内の一つに縋り付き、さめざめと涙を流している閃の姿があった。
二人の気配に気づいたのか、閃は二人を見ずに手だけを使って招き寄せる。阿求はいち早く駆け出し、その墓石に刻まれた名前を見て凍りついた。
「なっ……出雲篝……?」
「あぁお姉様申し訳ありません! 私は、閃は貴女様が亡くなられていた事をとうに知っていました! なのに、なのに!」
「忘れてしまっていた! 忘れまいとした事を忘れて……あぁぁ……」
閃は大粒の涙を流しながら必死に許しを乞うていた。だが、そんな様子さえ気にかからぬ程阿求は驚愕すると同時に、背筋に寒いモノを感じていた。
今現世にいるのは、一体誰なのか? 彼女自身が今まで仲良く付き合ってきたあの出雲篝は何者なのか? 謎が謎を呼び、真実が新たな謎を生む。彼女の頭脳ですら、もはや限界を迎えつつあった。
嘘を吐かれたのだろうか、最初から全て、何もかも偽物だったのか? それとも本物なのだろうか? 死者が現世で、まるで生きているみたいに動くのだろうか。
「騙された……そうだ、お姉様の力だ」
「え?」
「……全て思い出しました。お姉様の死の真相と、溟姉様がやったこと、全部」
「お話します。こちらへ」
涙を手で拭いながら、目の中に憎しみの焔を燃え上がらせ彼女は屋敷の中に入って行った。
ただならぬ雰囲気を感じた阿求は慌ててその後を追い掛ける。得物を追う獣のように。
「台帳を読み終えたようですね」
「はい」
手に抱えた台帳を閻魔の部屋の机に置いた彼女は釈然としない顔で映姫を見ていた。それもその筈、彼女が読んでいた魂の軌跡を書き記したこの書物には不自然な個所が幾つか散見されたのだ。
一部のページが破り取られていたり、文字が完全に潰れて読めなかったり、状況が一部不鮮明な部分があったのだ。
本来、魂の記憶や記録を書き込むものに欠落などあり得る筈が無いのだ。そして、そのあからさまに異常な状態は今この瞬間……彼女が映姫と面会している部分まで続いている。
所々文字が歪み、文脈が狂っていく。これは、台帳に問題があるのか、それとも彼女の魂に問題があるのだろうか?
「読んでいて気付いたと思いますが、その台帳は様々な場所に異常な部分があります。まるで、墨汁をこぼしたまま書きしたためた物のように」
「ただ、江戸時代以前にはなくそれ以降……幻想郷が出来た辺りから散見されています」
「そして、それは……出雲溟の魂が記録を刻まなくなった時と同じ時期からです」
不自然な被りと言うには、余りにも時期が合いすぎているのだ。そして彼女が読んだ台帳の中で最も不鮮明なのもその部分である。
その他の部分……今に至るまでの場所は一部解釈に困る部分はあっても概ね理解可能かつ、そこまえ重要ではない部分なのだ。
しかし、重要度が高いこの部分はページ全体が混沌とした状況になっている。彼女の魂の記憶の中で、この部分だけがまるで複数人の記憶を継ぎ接ぎにしたかの如く理解不能になっているのだ。
「台帳の問題はこちらで検討するとして……これから貴女はどうするのですか?」
「……現世に戻ろうと思います。私がすべきことは沢山あると思いますから」
「そうですか。では、しっかり善行を積んでおきなさい。そうすればきっと、死後も安らかに過ごす事が出来るでしょうから」
「……ご忠告、痛み入ります」
彼女は一礼し、閻魔の執務室を出て行った。
そのまま仕事で駆け回っている死神や他の閻魔達とすれ違いながら、古びた門を抜け裁判所の外へ出た。
何も無い彼岸。心安らかに過ごすための魂の楽園。普段は季節の移り変わりと共に、天気も変動していく。しかし、この日だけは何かが違った。
空が、心に不安を感じさせる暗雲……雷雲に覆われていた。現世の雷雲とは違う、感覚が鋭敏でなくとも感じる事が出来るような強烈な邪気を放っていた。
「……お主、よからぬ事が起きているやもしれぬ。現世に帰る時は用心しておくべきだの」
「分かっている。……だが、もう既に起こっているようだ」
そう言った彼女が三途の川に目を向ける。酷く慌てた様子の死神が、船を降りて駆け足で裁判所へと入って行った。
彼女は三途の川の彼方、現世の空を睨みつける。遠すぎる故に、明確には見えぬものの幻想郷の空が何かに覆われているようであった。
伊邪那美命もまた、彼女の視線の先にあるものを見て苦虫を噛み潰し舌で味わったような表情をしている。……非常によろしくない、と言った顔だ。
「見覚えがある。あの空模様に浮かぶものを。わらわは、アレを良く知っておる」
「……急いだ方が良さそうね」
彼女は誰も乗っていない小舟に乗り、霊力によって無理矢理現世へと漕ぎ出した。




