記憶旋律 肆
伊邪那美命の諌める声も聞こえず、夜通し台帳を読み続けた彼女が次の日に目覚めたのは昼を過ぎた頃であった。
冥界と現世の時間間隔は違う為、本来現世側では一日も経っていないかもしれない。だが彼女はたっぷり九時間睡眠を取り、昼過ぎに眠りから覚めたのだ。
前日、伊邪那美命に言われたため彼女は是非曲直庁から外へ出て彼岸の奥地に向かった。
彼岸に着いた時点で、顕界に帰る事は極めて難しくなる。判決を受けて地獄なり冥界なり天界なりに行く事が決まっているのだから。
しかし、今回は特例的なものもあり、彼女の体質的なものもある。四季映姫が一時的に滞在許可を出したため、死者の世界におりながら彼女は生きている。
もう一つは彼女の内に宿る神、伊邪那美命である。死者の国から現出した神なのだから、死に関する概念的体質を得ている。それが宿った事で篝にもその体質が適用される事となった。
まさに、行きながら死んでいるという奇妙な状態なのだ。
彼岸奥地の空は常に青く、小さな雲が流れるようにどこかへ行くだけの場所だ。そこには判決を待つ幽霊達が静かに佇み、空を見上げている。白玉楼とはまた違った神秘さを感じさせる場所であった。
冥界草が生い茂る小高い丘の上は見晴らしが良く、是非曲直庁以外本当に何も無い彼岸全域を見渡す事が出来る。
何もないが故、景色が良いと言うのだ。
「私も死んだから此処に来るのだろうか?」
「それは無かろう。お主の姉君の作った仕組みの所為で永久に生き続けるのだから」
「……知らない家族の身勝手で、死ぬ事さえ許されないのか私は」
彼女は丘の上で体育座りを行い、気だるげに空を眺める。伊邪那美命の幻影が横に立って彼女を慰めるが、気分は一向に晴れないようだった。
幽霊鳥が空を舞い、太陽は彼岸にも光を注ぐ。だが、どれだけ手を伸ばそうともその光の源は手に入りはしない。
何百、何千年かかっても手に入らないものなど山ほどある。彼女にとって、それは死と言うものの存在だ。
正確には、死を迎えているものの全ての記憶を受け継ぎ魂と体をそのまま、再起動を行うのだ。損傷した肉体は元に戻り、疲弊した精神は安らぐ。経験も全て受け継ぐ。
イカサマにも似たソレのお陰で死んでも、いつかは再び生が始まるのだ。輪廻転生も真っ青の狡だ。
「だが、姉君はお主が死にたがっていると聞いたら悲しむと思うが?」
「家族が死んだら悲しい人が大半だろう。でも、生きたまま苦しめって言うのにも納得できないよ」
「ずっと、一緒にいたかったのではないか? 叶わぬ願いであったようだが」
「……」
「それと一つ疑問に思ったのだが、お主がわらわを宿して全てを忘れる前の事じゃ。姉君に関する記憶はあったのか?」
「無かった。私の推測が正しければ、何らかの条件を満たした時に記憶が蘇るようにしたのだと思う。最初から全て知っていたら私は迷わず死んでいたからね」
自嘲的に笑う彼女を、伊邪那美命の幻は悲しい目で見ていた。当時がどうだったかは不明だが、記憶無きまま永遠の旅人とされた少女の運命は、それは悲しく映ったのだろう。
当の伊邪那美命も、地獄や冥界を信じる者が大勢存在する限り不滅だ。しかし、伊邪那美命と篝では不滅の条件も違えば事情も違う。
一回目の生を受け、永遠人のなる決意をした篝はどのような気持ちだったのだろうか。簡単に決断を下してしまったのだろうか。悩み抜いた結果なのだろうか。一個人の感情など、台帳には載っていなかった。
たとえ記憶の全てを取り戻したとて、その時自分が何を考えていたかなどまでは分からない。受け継がれるのは知識と経験だけなのだから。
「お主、これからどうするつもりだ?」
「何も変わらないよ。幻想郷の力の平衡を乱す奴を抹殺する。……それ以外何か?」
「わらわは与えられた役割が全てとは思わないぞ? 何事も、自分が何をしたいかが重要だと思うが」
「……死ぬ方法を見つけるか、死ぬ事かな。少々生きるのに疲れてしまったよ私は」
彼女は立ち上がり、小高い丘を降りて裁判所へと向かって行く。台帳の続きを読むのだろう。平安期から続く数千年の物語を読み解く為に。
記述の中には彼女の姉の他に妹の存在もあった。どうやら彼女自身名前すら忘れていた中でも、三姉妹の次女だったようだ。三女もまた聡明で物わかりのいい子だったらしい。
だが、二人の姉と同じように転生法を用いて記憶と精神を保持したままであった場合、どうなっているかは全く不明だ。
三人とも離れ離れになり、篝は幻想郷に来たが二人の姉妹の行方は知れず。一家離散の上生存は確かでも所在不明。出雲家が始まって以来最大の危機と言っても過言では無いだろう。
「家族について思う事は無いのか?」
「……心配だけど、何処にいるのかも分からい人の事を考え続けるのは疲れるからね」
「それに、生きているかどうかも分からない。もしかしたら、死んでいるかもしれない」
「分からないから、放置するしか無いのよ」
何も無い丘を降り、裁判所の門を潜った彼女は通り過ぎる閻魔達にお辞儀しながら宛がわれた部屋に戻り、台帳を読み始めた。
夜通し読んだお陰で、三分の一を読破した彼女はそのままの勢いで全てを読み切るつもりなのだろう。だが、魂の記録と言うのは一分一秒の内に次々と続いていくもので、いくら頑張ろうと読みきれるものでは無いのだろうか。
実際のところ全て読まずとも、自身の起源を知りその後どのような経緯でこうなったかを知れれば良いのだ。しかし、存在していた時期が長い事から時間がかかるのは確実だ。
「読み終えた後は……どうするつもりなのだ?」
「さぁ? 死ぬ方法でも考えながら何時も通り暮らすだけよ」
彼女の顔は以前と比べて柔らかく、余裕があるようだった。
人里の一角、茶屋の前の縁台では厚着の阿求と小鈴が座って団子を食べていた。今日は冬でも珍しく陽が照っており、気温もそこそこに高めとなっている。
阿求と言えば、ここ何日か道場にすら帰って来ない彼女の事を思っているのだろう。ただの友人か親友かで言えば当然親友寄りだが、最近の阿求の様子はどこかおかしかった。
「篝さん、冥界に向かったまま帰ってきませんね」
「大丈夫よ! 篝さんなら万が一の事があっても絶対帰ってくるわよ」
「そうでしょうか……。とても嫌な予感がするんです」
縁台に座って話す二人の表情は優れない。既知の人物、それも親しい者が何日も帰って来ないとなれば心配するのも当然だ。
人里の中にも篝を頼りにしている人物は多い。里の武の方面の顔役と言ってもいい彼女が不在となれば、不安がる者達もいる。守護者同然の者が一人減っただけで外敵に怯えながら暮らさなくてはならないのだ。その不安からくる恐怖は相当なものだろう。
「二人とも今日は寒いから帰ったらどうだい?」
茶屋の店主が二人を心配して言うが、二人――特に阿求の方は暮れまで待つつもりのようだ。小鈴は店主の忠告に従い、庵の事もあるからと先に帰って行った。
幻想郷縁起の編纂しかやる事の無い阿求はせめて、彼女が返ってくるまでは待とうと思っているのだろう。だがそれで課せられた使命が滞る事があれば問題である。稗田家はこの幻想郷にいる間はひたすら幻想郷縁起を書きつづけなければならない。後世へと軌跡を伝えてゆくために。
「あんたも健気だねぇ稗田の。そんなにアイツが気になるのかい?」
「それなりの年月一緒にいましたからね」
「ほほぅ。アイツの事は、幻想郷縁起に書くつもりなのかい?」
「勿論です。篝さんもまた、幻想郷内の記録の中の一つですから」
「ほっほっほ。そりゃあ感心感心。……そんな阿求ちゃんに一つ提案があるんだけど、どうかな?」
直前までの、姉御気質な雰囲気から一転。まるで幾多の修羅場を潜ってきたような武人の雰囲気を醸し出して店主は阿求に問いかける。
威圧感を伴った凄みに、阿求は僅かの間怯んだ。しかし、それを編纂作業時の無表情に塗り替え話を聞く姿勢を取った。たとえ心の内では恐怖を感じつつも、それを表に出さないのが表向き歴史家としての矜持だった。
そんな阿求の様子を見た店主は、聞かせるに値すると判断したのか驚くべきことを阿求に尋ねたのだ。
「アイツの、出雲の生家に行ってみないかい? 案外面白い話が聞けるかもしれないよ?」
「……何ですって?」
「出雲篝の生家……出雲の屋敷さ。アイツが始まった場所であり、縛られている場所にさ」
「何故、貴女が知っているのですか!?」
「何故だろうねぇ?」
具体的な事を話そうとしない店主に阿求は苛立ちを憶えていた。何故、一介の茶屋の経営者に過ぎぬ者が幻想郷でも知るモノが僅かしかいない出雲の屋敷の場所を知っているのか。
そして何より、店主の口調は永きに渡ってそれを見ていたかのようなものなのだ。たかが一般人と思っていたら、その実全く違い、幻想郷の根幹にさえ関わるような者だった。
同時に阿求は、この事を幻想郷縁起に記さなければならないと思っていた。自身の代でこれほど重要な事を知る機会が巡った事を感謝しているのだ。
「行きます。出雲の屋敷に」
「え? 私が嘘を吐いているとか、考えないの?」
「それもありますが、そんな事で嘘を吐いたら紫様が許すとは思いませんから」
「……あー、確かに。嘘吐くなって言われてるからねぇ」
店主はぼやきながら茶屋の天井から閉店と書かれた暖簾を出し店先に掛ける。そして同じく閉店を書かれた幟を縁台の横に立てる。二つの作業を終えた彼女は店の奥へと引っ込んでいく。恐らくは遠出用の着替えを行うのだろう。
元々厚着で来た阿求は縁台に座ったまま数分程待ち、これから行く場所に何があるか想像していた。書物、江戸時代の写真――そういった歴史の記録を見る事は彼女にとって有意義かつ必要な事だ。
それが、出雲の中のものとなれば更に重要度は増す。間接的に関わりのある八雲の謎を解く手掛かりになるのかもしれないのだ。古くから付き合いの深い両家の片方の謎を解き明かし、ゆくゆくはもう片方の事情も暴くのだ。
「さて、行こうか?」
店前に出てきた店主の恰好は明治の警察……官吏だ。だが肩から背中を覆うマント、腰から膝辺りまでを覆うマントがあるのは彼女自身の趣味だろう。
彼女は一体何者なのか? 阿求はまずそこに疑問を感じた。彼女が生きてきた十数年間の間、この店主が里の警察をやっていたという記録が無いからだ。にも関わらず、なぜ出雲紋刺繍入りの官吏服を所持しているのか?
出雲篝も管轄上では里の警察に所属している為、一応官吏の服を所持している。紋刺繍はもちろん出雲だ。
里から連れ出された阿求は瘴気が漂う魔法の森に入り、奥へ奥へと進み抜ける。間に彼女は何度か幻覚症状に悩まされたが、店主から貰った瓶に入っている液体を飲み干すと治った。
「過酷な道だろうけど、我慢してくれないか?」
「……大丈夫です。真実を見極めるために危険を冒す必要があるなど、最初から分かっています」
「そりゃ安心だ。今代の稗田は勇敢でいい」
店主は朗らかに笑うと、阿求に歩調を合わせながら時折襲ってくる下級妖怪を懐から取り出した小太刀で仕留めていく。その手並みはまるで熟練した忍者のようだった。
そしてその振る舞いは、ますます阿求の何者であるかと言う疑いを深める事となっている。当の本人はまるで気にしていない様であった。
冬である事もあり、森の中は薄暗い。幻覚胞子も多数舞っているが、夏とは違い量自体は少ない。だが大気に混じっているものでも長時間吸えば幻覚が出てくる。身体の弱い阿求にとっては、大気を使った拷問具と同義であった。店主は一切その影響を受けていないようだ。
阿求の体調を気に掛けてか、店主は阿求の体を優しく抱き上げ、凄まじい速度で森の奥へと駆け出す。そしてあっという間に鬱蒼とした森林を抜け、無縁塚に続く道――再思の道へと辿り着いた。
「すまなかったね、阿求。あともう少しで着くよ」
「この先は無縁塚ですが……?」
「ああ、分かっている」
道の両脇には、冬の雪に埋もれた彼岸花が足掻くように顔を出している。秋には一斉に咲き誇り、それはそれは美しい光景を目にすることが出来る。
二人はそのまま無縁塚へと踏み入れる。無縁……その名の通り、生まれが不明な者、引き取り手がいない者、外界の者などが埋められている墓場だ。墓石も、両手で持てる大きさのものが殆どであり、立派なモノなど片手で数える程度しか無い
最近では、人間が埋められる比率が多くなっている所為で外界との繋がりが強くなっている。同時に墓場である為、冥界とも繋がりやすくなっている。
「阿求、ここから私の手を離さないで着いてきて。あと、何が見えても無視して」
「……はい」
何時になく真剣な表情の店主を見て、阿求は差し出された左手を強く握って歩き始めた。
小ぢんまりとした無縁塚の奥、墓石は立派なものの何も刻まれていないものがあった。店主はそこを目指して踏み込んでいく。途中に現れた、妖怪に影響され妖怪化した哀れな死体を切り潰しながら、淡々遠くへ向かって行く。
結界が乱れている影響か、時折林の中に冥界の風景や外界と思われる灰色の建物が乱立する風景が現れるがその一切を無視して突き進む。
無縁仏達が恨みの視線を向けているようにも見えるが、そんなものに構えっている暇など無いのだ。
「……さぁ、行くよ。覚悟は出来てるかい?」
「勿論です」
障害物走を終え、最奥にある無名の墓碑に辿り着いた二人。店主は阿求に覚悟の程を問うた。対して阿求は揺るぎ無い意思を見せる。
その回答に満足した店主は、懐から先程振るったモノとはまた違う小太刀を取り出し、墓碑に開いている窪みにはめ込んだ。
森全体がざわつくような音と共に、今まで通ってきた道が茨によって塞がれ、代わりに墓碑の背後――二人から見て前方に細い道が出来上がっていた。同時に、結界の乱れが強くなり、周囲にどこかを映し出した景色が無数に現れる。手を伸ばせば引き込まれて帰って来れなくなるだろう。
「さぁ、この先だ」
「はい……」
二人は現れた細い道を突き進む。無縁塚と違い、死者も妖怪もいない寂れた林道だ。
先には大きな屋敷のような物が見えている。恐らく、出雲が所有する屋敷だろう。同時に、篝の生家とも言える。
二人が静かな林道を歩いて抜けた先、屋敷の全容が明らかになる。三階建て程度の中規模な屋敷であった。一応正門と、抜けた先には中庭があるためそれなりの財力を以て建てられたことを窺わせる。
そして正門の前には、篝とよく似た黒髪の少女が箒で雪の上の僅かな落ち葉を掃っていた。
「閃、久しぶりだな」
「守人様……お久しぶりでございます。そちらの方は稗田家の方、ですね?」
「はい。稗田阿求と申します」
店主に声を掛けられた少女は、どうやら閃と言う名前のようだ。彼女は掃除の手を止め、深々と一礼を返した後、阿求の方へと声を掛けた。対して阿求も自己紹介を行う。
出雲閃は、良くも悪くも篝とは違った。俗世間に塗れた篝とは違い、箱庭の中で育ってきた一輪の花のような雰囲気が彼女にはあった。血の臭いは無かった。
「申し遅れました。私は出雲閃と申します。姉の篝がお世話になっております」
どうやら彼女は篝の妹のようだ。そして篝を姉と呼ぶと言うことは即ち、彼女もまた溟の創りだした転生法を用いて当時の姿で現代まで生きてきた存在なのだろう。
だが、当の篝はこの家の事や妹の事を完全に知っているのだろうか?
「稗田が、話を聞きたいそうだ。私は良いと思うが、閃はどう思う?」
「私も問題は無いと思います。溟姉様や篝姉様の事を幻想郷縁起に書かれるおつもりならば、知っているべきかと」
「ささ、立ち話も難ですし、こちらへどうぞ。温かいお茶を用意します」
無表情のままそう言った閃に続き、二人は出雲の屋敷へと入って行った。




