記憶旋律 弐
「あなたが何処の誰か、というのを私は詳しくは知らないわ」
「でも、私がこの姿になってからの貴方については話すことができるわ」
篝は無表情のまま話を聞いている。横には妖夢が静かに控えている。幽々子はどこか、諦観したような表情で彼女に話して聞かせている。
伊邪那美命の幻影もまた、静かに彼女の背後に控え篝の記憶が虚ろになっても自身が話して聞かせることが出来るように記憶に焼き付けているようだった。
消滅できぬ亡霊となって永い時間存在してきた幽々子の話は重く、これまでの出来事を出来うる限り克明に伝えようとしているのが声からとれる。
時折、篝が筆で半紙に質問を書く。それを見た幽々子が質問に答え篝が納得する答えを出していく。
伊邪那美命は鋭い目をしながらその内容を聞き取っていた。一字一句、言葉と言葉の間さえ聞き逃さぬほどに耳をすませていた。
「貴女は変わらない。なぜか? それは出雲自身が最初に作り出したある禁術によるものよ――」
一泊おいて、幽々子は篝に関する衝撃の真実を話す。その話は全てを失い、それでもなお足掻く彼女にとって人生の根幹が変わるほどのことであるのは想像に難くない。
伊邪那美命もまた、眉間に皺を寄せ険しい顔をしている。自身が宿った者がまさか、そのようなことをしているとは夢にも思っていなかったのだろう。
だが、最初は驚いていた篝も話を聞くうちに落ち着きを取り戻し、それを当然として受け入れているような節が見える。記憶自体はよみがえらないかもしれないが、自分がなぜこうなっているのかは察しがついたようである。
「貴女は死期が近づくか、死を迎えると体に刻まれた禁術の効力により、自身の肉体と魂を初めて生誕した状態に戻してしまうの。それから再び、”出雲篝”として人生を始める。これが、私が貴女を見て変わらないと言った理由――」
出雲篝とは、最初の出雲が新たな人生を始めるための薪をくべる為の器でしかなかったのだ。
彼女が生まれ持って身に着けていた剣技は全て最初の出雲が編み出し、外に出すことのなかったもの。
その記憶は、最初の出雲から始まり途切れているようで実は全てが繋がっている、継ぎ接ぎでありながらそうではない混濁した記憶である。
篝に関するものは、全て原初の出雲から引き継ぎ使っているものに過ぎないのだ。そこには出雲篝という個人は存在しない。出雲篝は個人ではなく、それだけで一つの概念と化していた。無限に記憶を受け継ぎ、決して滅びる事の無い”無名の剣客”なのだ。
「西行寺よ、わらわが宿っているこの者は本来何者なのだ?」
「ごめんなさい。そこまでは分からないわ。彼岸の裁判長なら知っていると思うわね。確証はないけど」
「ふむ……。それでは、もう一つの気配を追うとするかの」
「まだ話は終わってないわ」
強い語気で伊邪那美命と篝を静止する幽々子。その目は亡霊としての虚無を映しながらも、非常に強い意志と覚悟を伴っていた。
二人がこれからやろうとすることを察し、それを止めたのだろうか? それとも、本当にまだ話すことがあり、引き留めたのか。
立ち上がろうとした篝は再び座布団に腰を下ろし、幽々子の顔を直視する。妖夢は突然の事に言葉を失い腑抜けた顔をしていたがすぐに気を引き締めた。
「この白玉楼の最奥にある桜の大樹。あれに関わるつもりなら命を失う覚悟を持っていくのね」
「お主の話が本当ならばこの篝は何度となく命を失っておる。既に覚悟など出来ているだろうて」
「……そう。でも、用心することね」
最後にそれだけ言って幽々子は口を閉ざす。本気で何かを話したのは久しぶりなのだろう。
そして、彼女の話すことが一人の存在のこれからを左右することを自覚していたのだろう。責任は非常に重大なうえに、面倒なものである。
だが、それでも幽々子は話してくれたのだ。警告はしつつも、真実を掴む為の協力は惜しまないと言う姿勢だろう。
話を聞き終えた二人は静かに座布団から立ち、音も無く移動した妖夢の後ろに着いて屋敷を出ていく。
これからが本番なのだ。彼女がこの冥界に足を踏み入れてからずっと感じていた、手招きするような感覚へと自ら近づいていく。
幽々子の放つ死の気配を遥かに超越するほど濃厚なもの。幽々子の言う、最奥にある妖怪樹のもので間違い無いだろう。
妖夢の隣に立ち、無言で桜舞い散る眩惑的な風景の中へと足を踏み入れていく。意識せねば桜に目を奪われ、魅了され桜の木の下で命を絶つ衝動に駆られてしまう。
かつて、西行法師と呼ばれる詩人も桜の樹の下で俳句を詠み、その後まもなく逝ってしまった。
同じような状態かは不明だが、篝であれば無言で腹を切って果てるのだろう。
「……ずっと昔から生きていらしたのですね」
「自覚は無いようだがの」
伊邪那美命と会話する妖夢を適度に無視しつつ、篝は大股で奥へと進んでいく。
微風と共に、枝から離れた桜が空を舞い、地に落ちる。儚い一生を示しているようで不吉だが、同時に儚いながらも命尽きる時まで輝こうとする強い意志を見て取れる。
勿論、ただの落ちる桜に意思などない。だが、それを見た篝は何か感じ入ったような目で見ていたのだ。
桜の樹の密度が増え、いよいよ周囲と比べて明らかに巨大な桜が二人の前方に見えてい。
微風であるというのに、枝を揺らしているその巨大な妖樹はまるで意思を持つ存在のようであった。
数多の死と、それに纏わる記憶を吸い続けた結果妖怪化し意思をもつようになったのだろう。
「これが……その樹か?」
「そうです。西行が誇る死の大樹、西行妖です」
遠目に見えた巨大樹の前に立った篝は目を丸くし、伊邪那美命もまた驚いた顔をしていた。
妖夢は見慣れているためか、表情は変えなかったがこの西行妖がまき散らす死の気配に直接曝されているためか、顔色が悪くなっている。
篝もまた、吐き気を抑えるように顔を強張らせている。そのまま彼女は樹に触れようと少しずつ近づいていく。
一歩一歩を踏み締め、自らの真実を知ると思われる危険物体に触れようとする。触れた後どうするかなど、後で考えればよいのだ――死ななければ。
「気を付けてください。何をされるか分かりませんよ!」
妖夢が篝の後方で叫ぶが、片腕を挙げて大丈夫との合図を送っただけで彼女はどんどん進んでいく。
彼女が歩みを進める毎に、西行妖は狂おしく鋭利な枝を振り回し彼女を絡め捕ろうとしている。
しかし、樹であるが故の射程範囲は短い。特に胴が長い樹程地面の射程は短くなる。つまり、彼女は振り乱される枝の影響を露程にも受けずに樹の目前、手を伸ばせば触れる位置に辿り着いた。
枝を振り回す樹の花……桜の色が急激に桃色から墨染……黒色に変色する。篝に怯えて威嚇しているのか、それとも警告だろうか。
「わらわも援護するが故、一気に記憶を読み取るがよい」
篝の右腕に黒い茨が現れる。伊邪那美命の霊力によって作られた疑似的な器官だ。
彼女はその茨と共に、右腕を躊躇する事無く樹の大樹へと触れさせる。瞬間、大樹の猛りは止まり、墨染の桜も元の桃色に戻り沈静化する。
そして篝は、両目を見開く。焦点が合っていない。何かを探すように目が回り、瞳孔が完全に開きかけている。
「……!」
「お主! 死だけは何としても受け流せ! 死に刻まれた記憶のみを拾い上げるのだ!」
伊邪那美命が西行妖から篝の体へと流れ込む死の本流を受け止めつつ、彼女に記憶を押し付けていく。
黄泉の神である伊邪那美命だからこそ、西行妖の持つ無数の死とそれに伴う恐怖や苦痛、慟哭を取り込み力とすることが出来る。普通の死神程度では強烈な意識に晒され精神が破壊されるだろう。
篝も篝で、神格者となったからこそ無数の人の記憶を難なく受け止めることが出来ている。普通の人間ならば記憶と人格が混ざり合い個として認識できなくなるだろう。無数の、偽りの記憶に支配された人格が出来上がり篝ではなくなってしまう。
つまるところ、これは命を掛けた二人の共同作業なのだ。
「……っ」
「どうした? お主」
「……ぁ……こ……え…………が……」
「お主、言葉を取り戻しつつあるようだの。よい傾向じゃ」
記憶の読み取りを続ける中で、主要なものの他に言語や感情といったものを次々に取り込み新たな自己として確立していっているのだろう。
こんな事が出来るほど死を吸った西行妖はさぞ、人々の生を糧とし成長してきた逸品ものの大樹なのだろう。
抜け落ちた感情の穴を埋めるように、記憶と連動して彼女へと流れ込んでいく。凄まじい本流だが神格者と神の効率的な読み取り及び受け取りによって彼女は治りつつあった。
かつて、神を宿す前の人間だった頃に。人の身でありながら数多の妖を狩ってきた頃に。
だが、全てが元に戻るわけではない。彼女は無数に失い、僅かな力と寿命を手に入れた。彼女が忘却したものは、一つ一つは小さなものなれど彼女にとって必要なものなのだ。
「……終わった」
桜の樹から手を放した彼女は死んだ目ではなく、強い意志を伴った神格者の目となっていた。
小さく、か細い声量で呟く。季節を一つ終えるまで失い続けていたものがようやく戻ってきたのだ
だが、同時に彼女は多くの事を知った。自身に関するものの他に、遥かな昔に起きた悲惨な出来事やこの樹が引き起こした災厄についてなどだ。しかし、それは彼女の記憶とは関係の無いことだった。
「……これから忙しくなるな」
「お主、大事をとって休んだ方が良いのではないか?」
「いや、先を急ぐ。何か胸騒ぎがする」
西行妖に背を向け、白玉楼の出口……己が入ってきた冥界の入口へと歩いていく。妖夢は後を追おうとしたが、彼女の背中を見て足を止めた。
剣士としての勘で、これから彼女が何をしでかそうとしているのかを推測の中で察したのだろう。自分が関わるべきでは無い、自身の手で決着を付けるべきだと考えたのだ。
何時の間にか、幽々子も妖夢の隣に佇み彼女の背を見送っていた。西行妖に関する事案とは言え、最終的に行きつく先は彼女の記憶とその行いの問題なのだ。完全に蚊帳の外では無いにしても、他者の記憶を勝手に見ると言うのは気分の悪い事なのだろう。
「幽々子様……」
「妖夢、白楼剣と楼観剣を良く研いでおきなさい」
「え? それは、どうしてでしょうか?」
「妖忌にも言われていたでしょう? 刀は剣士の命と同義なのだから、と」
「それは、そうですが……」
疑問を呈した妖夢は幽々子の顔を見て青ざめる。何時もはふわふわした様子で、底が知れない幽々子が、今この時は真剣そのものとしか言えない表情をしていたのだ。
彼女に仕えて何百年も経つ妖夢がここまで青ざめたのは初めてではないだろうか?
妖夢は納得出来ていない様子だが、幽々子の無言の圧力と剣幕を身近で受け止めた結果、主の命令と受け入れ屋敷の脇にある工房へと歩いて行った。
一人残った幽々子は、険しい表情で冥界よりも更に高い場所……空の彼方を睨みつけていた。まるで、そこに邪悪な何かが存在しているかのように。
冥界門から出た篝は長い石段を数十段ずつ飛ばしながら幻想郷へと戻って行く。
西行妖に触れ、記憶を読み取り言葉を取り戻した彼女の表情は、一度目の喪失前とも、喪失後も違う。まるで体がそのまま別人に成り代わったのか如く余裕のある表情をしていた。
全てを失い、そして大半を取り戻したとは言えまだ全てが埋まったわけではない。この顔の裏に隠された、確たる自身の根拠とは一体何なのだろうか?
冬の空は、寒気と密接に繋がりのある存在以外の者の体力と精神を着実に削って行く。冥界階段の内側はまだ寒気程度のものだが、一旦外に出てしまえば白い悪魔と呼ばれる猛吹雪と冬季特有の気圧が波状攻撃を仕掛けてくる。普通の人間では家に着く前に力尽きる可能性が高いだろう。
だが、今の彼女は人では無い。神を宿した神に近い人間である。全ての分野で人を超越している彼女にとって冬の寒さなど何の障害にもならない。
そう考える彼女は登ってきたときよりも早く幽明結界門へと辿り着いた。そのまま高速上昇し、結界の穴を通り抜け幻想郷の北の空へと飛び立っていく。
外に出た彼女は次の目的地であ彼岸の裁判所へと行くため、妖怪の山の裏側にあり、この道を通らねば三途の川に辿り着けぬと言う中有の道へ飛んでいく。その間に妖怪の山上空を飛ぶことになるが、問題など一切無かった。
「……胸騒ぎ、か。杞憂に終われば良いのだがの」
「恐らく、現実になるよ。私は詳しいんだ」
そう言った彼女の顔は妙に暗かった




