記憶旋律 壱
守矢神社での戦から季節が一つ移り変わり、幻想郷全体が雪で覆われ始めた頃。
出雲篝は言葉を取り戻せぬまま、傘をかけられた茶屋の縁台で団子を食べていた。隣には伊邪那美命の影が居座り、古めかしい口調で何かを言っているが、彼女は聞いていない。
雪で白くなった地を見て、彼女は頬を僅かに動かした後空を仰ぎ見る。
白い結晶が地に振り注ぎ、積っていく。今は冬。幻想郷は冷気に包まれ眠りの時代に入っていた。
妖怪の多くが冬眠を始め、人間も寒さを嫌って外に出なくなる時期。しかし篝はむしろ積極的に外に出て行っている。その行動に意味など無い。
「時にお主。冥界に訪問してはどうかの?」
伊邪那美命の言葉に首を傾ける篝。当然の反応だろう。人間に冥界に行かないかなどと聞かれたら死ねと言われているように感じるだろう。
しかし、ここにおいての冥界は殆ど観光のようなものだ。冥界・白玉楼は生者でも立ち入れる転生を待つ場所なのだ。
そこにいるのは冥界の庭師兼ね西行寺家剣術指南の魂魄妖夢。そして実質的な統治者である西行寺幽々子が屋敷で生活している。
「お主は未だ言葉を取り戻せず、引き裂かれ断片と化した記憶もまだだの。そこでわらわは考えたのだ」
伊邪那美命が一拍置く。篝が団子を食べ終わるのを待っているようだ。そうとは知らぬ彼女は自分の進度でゆっくりと咀嚼している。
こんな雪の中だと言うのに、茶屋の店主は客が来ればしっかりと団子やら茶菓子やらを売る。商売人の魂を体現していると言えるだろう
やがて篝は三食団子最後の一本を食べ終え、皿に串を置いて店主に帰しに行った。そして茶を持って来て再び縁台に座る。
「我……死に近しい所に行けば何か手がかりがあるのではないか、とな」
「何でも、聞くところによれば冥界には死を吸い寄せ近づく者を死に至らしめる妖怪樹があるとか」
篝は顎に手を当て考え始める。
神である伊邪那美命が考えた案なのだ。無碍にするわけには行かないだろう。そして神が言う事なのだから記憶の手掛かり程度はあって然るべきだ。
篝が何を考えているかは分からないが、恐らく行く価値があるかどうかを考えているのだろう。もしかすれば、と言った様子ではないだろうか?
どちらにせよ、今の彼女はこうして団子を食べて怠惰に過ごすか記憶探しをするかしか冬でやる事が無いのだ。
しかし、当てもない放浪の旅は彼女を確実に消耗させる。夏ならばまだしも冬は危険なのだ。
こうして篝の相棒たる彼女が考えたのだから、行かないわけにはいかないだろう。篝は提案に乗ることにしたようだ。
縁台から立ち上がり、北の空の果てを見据える篝。目を細め、眼に映らない何かを幻視しようとしている。
しかし、数秒の後目を逸らした。余りにも遠すぎる上、幻想郷と位相が違う故捉えきれなかったのだろう。
彼女は懐から仮面を取出し被る。そしてジッと集中し、伊邪那美命の神格の力を借りる。背から最早骨格しか残っていない襤褸同然の翼が現れる。
だが、どれだけ腐蝕してようとこの翼は空を飛ぶ力を失ってはいない。翼を羽ばたかせ、彼女は北の空の果てまで緩やかに飛んで行った。
その様子を眺める影が一人、建物の物影から大股で大通りに出てきた。
黒い髪、平均以上に高い身長、背には長い刀を差している。そして顔は笑い顔をした灰色の仮面で覆われていた。
冷気を充満させた厚い雲の層を抜けた彼女はまるで雲の上を歩くように速度を落とす。天に昇った太陽の光が彼女を照らす。
冬の空気は雲の層を抜けた辺りから和らぎ、太陽光による温かさが充満している。
暖かさはあるが、酸素が薄いため人間は飛んでいる途中に意識を失い真っ逆さまに転落しないようにせねばならないだろう。
だが、篝は非常に快適な様子で冥界に向け飛んでいる。北の空の果て、とは言っても広大な空の中を探すのは難しいと思うだろう。
しかし、冥界を外界から遮断する幽明結界は生者の目にも爛々と輝いて見えるのだ。なにより、本来強固な結界は冥界の主と賢者の判断によって上部だけ開けてあり、出入りが自由となっている。
最も、冥界に入れるだけで本丸たる白玉楼に入ろうとすれば冥界の庭師や警備担当の幽霊と遭遇することとなるが。
太陽の光を鑑賞しながら、篝は幽明結界の上部の穴へと飛び込んでいく。閉じられた結界の内側へ、まるで吸い込まれるように降りていく。
光り輝く層を抜ければ、その先は浮遊霊が漂う幻想的な静寂さを伴う長大な階段の始点だった。
薄暗く、故に奥ゆかしさを持つ長い階段を一歩一歩踏みしめて彼女は上がっていく。階段の先にあるのは無数の白と桃色の桜舞う冥界である。
階段の周囲にはぼんやりと蒼い輝きを放つ灯篭が階段の高さに合わせ等間隔に並べられている。そして、階段の下や周囲は隔絶された地域であることを表すかのようにぼんやりとした空が映し出されているだけであった。
浮遊霊が多数存在するためか、温度は外の暖かさに比べて若干低い。だが、かえってその冷たさがこの階段を冥界の入り口と認識させる作用を持っている。
時折、浮遊霊が発行しながら周囲を飛び回ることもある。冥界としての雰囲気は十分な程に演出されているだろう。
階段の上から流れてくる微かな風と桜を身に受け、篝は力強い足取りで登っていく。長大ではあるが登れぬほどではないのだ。雰囲気を楽しみながら詩の一つでも詠めればもっと楽しいことだろう。
石段は錆びているように見えて、一切劣化していないのも特徴だ。此処が現世とは違う世界であると否応なしに実感させられる。
冥界は時の流れが現世と違うのは周知の事実だ。具体的な範囲がどの程度かは不明だが、少なくとも生あるものが同じ感覚で考えてはいけない程度の開きはある。
故に、冥界で生まれた存在は長寿であることが多い。現世で生まれた者と比べ時間間隔がまるで違うからだ。
「死の気配が色濃くなってきおった。ここからはわらわ達の世界じゃな」
伊邪那美命が独り言のように呟く。その様子を意にも介さず石段を上る篝。
彼女の目指す先はここにある。彼女は変な確信をもってこの場所に立っている。だが、本当に必要なものが存在するかどうかなど見てみなければわからないのだ。
失われたすべてを取り戻す旋律は始まっている。これは、彼女自身の問題なのだ。
「……おお、風光明媚で綺麗なものじゃな」
階段を上りきった先にあったのは、一面花吹雪の庭園だった。
桜の木が無数に植えられ、微弱な風に煽られ花を舞わせる。
同時に、死して転生を待つ死者たちが桜に見とれ立ち尽くしている。冥界桜は現世の桜よりも遥かに色合いも良く、それが一斉に舞う様は神の宴にも例えられるほど高潔で美しいものであった。
そんな中へ、彼女は忌憚なく踏み込んでいく。大半の霊は桜に見とれ彼女に気づいていないが、一部の者は闖入者に気づき誘うように手を動かしている。
それを一瞥し、伊邪那美命の囁きを頼りにどんどん冥界の奥へと進んでいく篝。桜の密度はさらに増す。同時に、冥界を包む死の空気の濃度も強まっていく。
「お待ちを、篝様。それ以上奥に進む為には、幽々子様の許可が必要です」
並み居る桜の木の後ろより、まるで最初からそこにいたかのように出てきて彼女の正面に立ったのは庭師魂魄妖夢だ。
その眼は鋭く、本物の剣士の眼をしている。しかし、妖夢も師であり祖父である妖忌から見ればまだまだ半端者という扱いの様だ。
だが、幻想郷の大半の住人はその音速を超える太刀筋と制動力を見れば達人に見えるだろう。妖夢自身、常に自制を掛けているが剣持ち自体が珍しいが故慢心に囚われる事もあるようだ。
妖夢は二本の刀を一瞬で抜けるように手を柄に添えた上で篝の目の前に立つ。その意思は、たとえ相討ちになろうと此処を通さんと言わんばかりの威圧感と殺意だ。
その妖夢の覚悟を感じ取った篝は、争う事は無益と考えたのか強張った体をいつもの状態に戻し、身振り手振りで幽々子なる人物の元に連れて行ってくれるように伝える。
その意図を察した妖夢は僅かに眉を顰めた後、無言で篝が進むべき方向とは別の方向へと歩いていく。付いてこい、と言う事なのだろう。
篝はその導きに従う。伊邪那美命の幻影が何事かを彼女に吹き込んでいるが、篝は耳を貸さずに真っ直ぐに妖夢の後に着いて行った。
「まだ……戻らないのですか?」
道中、妖夢は振り向いて篝に聞く。主語は無いが、その意図は記憶や言語、感情全てをひっくるめて聞いている。
当然、篝は失ったものを取り戻せていないので悲しげに首を横に振るだけだった。感情の殆どが抜け落ちている中でも、季節を一つ越えた辺りでようやく少しだけ取り戻したのだろう。
だが、本調子にはまだまだ程遠い。本来の彼女は優しくも厳しい戦乙女である。今の彼女は全てを失い追放され、落ちぶれた英雄と言った風体だ。
それでも彼女はかつて自分にあったものを取り戻そうと足掻いている。その為に白玉楼に来たのであった。
白玉楼の土は現世の土とあまり変わりはない。しかし、踏み込んだ生者が違和感を感じない、というわけでも無い。口では説明できない、現世のものと比べて奇妙な相違感を感じるのだ。しかし、直接害を及ぼすでもない為その違和感は桜並木を見れば忘れてしまうのだ。
そうして今、この冥界白玉楼の土を歩く彼女は顔には出さないものの足の動きで奇怪さを感じ取っていた。僅かだが歩調が何時もよりずれているのである。
「……」
「……何も、感じませんか?」
「……」
妖夢が探るように声を掛けるが、彼女は首を横に振って静かに歩いて付いて行くだけであった。
死から遠のいたと言えば感じたと言えるのだろうが、今妖夢が言ったのは恐らくは別のことであろう。その事を彼女は察して首を横に振ったのだ。
感情や言語、記憶のみならず感受性さえ損なったのは非常に大きな痛手と言えるだろう。しかし、彼女が力を得るためには仕方ないことであるとも言える。
結果的にどのような方向に向かうかは、全て彼女の努力次第だろう。吉と出るか凶と出るかなど、まだ誰も分かりはしないのだから。
「どうぞ、こちらへ」
半刻程歩いた先、白玉楼の屋敷の中へと入った篝は妖夢の後に着いて主たる西行寺幽々子の下へと向かっていた。
冥界・白玉楼の管理人である西行寺幽々子は苗字が示す通り西行法師の縁者である。地獄の裁判長から直々に転生待ちの魂を管理する役目を与えられているらしい。
故に、この世界の魂は誰一人として幽々子に逆らう事は出来ない。意のままに操られてしまうのだ。
加えて、幽々子自身も亡霊である。そんな彼女の能力は死を操る程度の能力。近くにいるだけで無差別に死ぬ確率が上昇する非常に危険な能力だ。
そして、彼女がその能力を能動的に使用すれば対象は死を免れない。
そんな能力を持つ女性に向かって行くのだから、当然死の気配は濃くなる。しかし、彼女はこの白玉楼の奥にいる死とはまた別の形の死を感じ取っている。
「着きました」
妖夢が襖の前で止まり、一礼する。そして使用人のように襖を開け、篝に先に入るように促す。
篝もまた、一礼し中へと入って行く。中は小奇麗な和室で、卓袱台、壺、掛け軸、座布団、照明意外に余計なものは無かった。
そして、卓袱台の前の座布団にて楽に座っている、水色の和服の幽霊こそ西行寺幽々子であった。
美しい桃色の髪を持つ彼女はずっと昔からこの白玉楼を統治している。故に、幻想郷で起きた出来事も事細かに把握している。
「いらっしゃい、出雲の系譜。会うのは何度目か覚えていないけれど、前と殆ど変ってないわね」
「……」
「ほら、立ってないで座りなさいな。すぐに茶菓子と筆と紙を用意させるわ」
指示に従い、向かい合うように座布団に腰をかける篝。神秘的な雰囲気を持つ部屋での問答が始まろうとしていた。
彼女がここに来た理由。そして手掛かり。失われた記憶の謎を探るべく、死が集うこの場所を選んだのだ。
「まず、久しぶりと言っておこうかしら? 出雲――」
幽々子が彼女に向けて苗字と名前を言う。しかし、篝の耳には名前の部分は聞こえていなかったのか、首を傾けて困ったような顔をしている。
幽々子はその様子を観察し、瞬時に何事か考えた後次の言葉を発する。
「まだ、受け入れられるわけではないようね」
「……」
「その反応も織り込み済みよ。さぁ、お話をしましょう」
使用人の幽霊が卓袱台に茶菓子と筆、紙を持って来て並べていた。




