喪失遊戯 陸
明日、守矢神社襲撃予告の報せは間もなく紫によって睡眠を邪魔された篝に齎された。
直後に、永琳から無理はしやいようにと治癒符を渡された彼女は退院を許可され半日ほどかけて里にある自宅に戻ってきていた。既に日は傾き、間もなく夜になろうと言う時間帯であった。
埃だらけの道場を抜け、居住部屋に着いた彼女はすぐに戦の用意を始める。
刀を神格油に浸し、布で拭く。そして服のほつれを確認しすぐに修繕を始める。
それが終われば、風呂を沸かして入り身を清める。穢れを纏った躰で戦えば不利になるかもしれないからだ。
相手が穢れの神を宿している以上、万全の対策を取っておくべきなのだ。
準備を終えた彼女は月が出る夜、往来の無い里の表通りに出て茶屋の縁台に座り月を眺めていた。今日の月は満月の一歩手前、と言った所だった。
茶屋の店主はこのような遅い時間にも関わらず、何も言わず三食団子を差し出した。それを有難く貰った篝は食べながら眺めている。
総海が襲撃すると言った日まで、残り一時間を切っていた。里は既に寝静まり、妖怪の時間が始まっているのだ。
そんな中、天狗が跋扈する妖怪の山に入り込み神社を襲撃するなど正気の沙汰とは考えられない行為だ。
しかし、篝には確信があった。一度の遭遇で、やると決めたならば絶対にやると彼女は感じ取っていた。
「不安か?」
「……」
篝の横に、縁台に座った伊邪那美命の幻影が現れる。他者から見えているかどうかは不明だ。
彼女は問いに対し、首を横に振った。否定の意味だ。今の彼女に不安など無いらしい。
戦において、不安も恐怖も躊躇も不要なのだ。必要なのは勝利への気持ちのみだ。
後ろ向きの思考は剣筋を鈍らせ、足運びを悪くする。それが重なり、敵から致命の一撃を受けてしまえばそれで全てが終わってしまう。
故に、伊邪那美命は不安を払う為に篝の横に現れたのだろう。阿求の代わりとして。
「案ずるな。わらわがお主を守護してやるのだ。死ぬわけがなかろうて」
「……」
「お主は何時も通り戦えば良い。周りの事など気にするな。自分を押し通すのだ」
「それが出来ねば……お主に訪れるのは死、ぞ」
そう言って伊邪那美命の幻影は消える。茶屋の団子も食べ終わり、その串は自身の衣の中へと仕舞い込んだ。
縁台の塵を掃い、こころから貰った仮面を被り、彼女は妖怪の山に向かって駆け出す。出入りの門を無視し、屋根を伝って外へと出て行った。
その足で、月夜の下にある山へ向かって疾走する。風よりも速く。
人間から神格を得た事で距離感を殆ど無視し、一分の後には既に妖怪の山へと入り込み斜面を駆け抜けていた。
木の葉や立ち塞がる無数の木々を避けながら、ただひたすら目印となる九天の滝を目指して行く。
無数の妖怪が活動する中、襲い掛かってきたものは彼らが認識出来ぬほどの速度で刀を振るい両断していく。地に落ちた遺骸は別の個体に食い尽くされ地に還るだろう。
彼女は速度を落さず、徐々に傾斜が大きくなる妖怪の山を登って行く。ただの登山などでは無い。戦う為の登山なのだ。
こんなことをするのは恐らく幻想郷でも彼女一人だけだろう。それだけ妖怪の山は畏れられ、山の社会を形成している天狗もまた排他的なのだ。
「お主、気を付けよ! 斥候の黒鴉共に捕捉されたぞ!」
伊邪那美命が顔だけ出して注意喚起を行う。
上空を見上げた彼女は、彼女の走る速度に合わせて旋回する鴉の群れを見つける。彼らは天狗の配下として侵入者を捕捉する役割をしている。
基本的に、天狗一人に対し専属の斥候鴉が一匹付く。だが、位の高い天狗には三匹、四匹と多くの鴉が付く事がある。
これが頭上を回っていると言う事は、これを放った天狗には既に見つかっていると言う事だ。間もなく威嚇行動が篝を襲うだろう。
「止まれ! そこの人間!」
「ここは天狗の土地ぞ! 人間はこれ以上立ち入ってはならぬ!」
「警告を無視するならば、物理的に制裁を加えん! そのまま帰るのだ!」
猛烈な風と共に、斥候天狗達が口々に警告を囃し立てる。
だが、篝はまるで聞こえていないと言わんばかりに一気に突っ走って行く。その姿に業を煮やしたのか、天狗達は一斉に空気を圧縮した空気弾の弾幕を放ってきた。
周囲の木々が薙ぎ倒され、葉っぱが舞おうと彼女は止まらない。それどころか、そのまま木の上まで飛び上がり風を起こしている天狗の団扇を全て同時に斬り落として元の道に戻る。
目にもとまらぬ速さで自身の武器を破壊された天狗達は困惑しつつも駆け抜ける篝を空中から追い、次々と風を発生させ彼女を妨害しようとする。
武器のみを壊したのは彼女なりの手加減なのだろう。もし記憶が完全に無い状態ならばここで攻撃した天狗達は全て輪切にされていただろう。
風が空を斬る音を聞きながら、彼女は対地攻撃を正確に回避しながら更に山を上がって行く。
そのまま、更に山を駆けあがって行く彼女は追撃を振り切り、中腹へと到達する。
しかし、中腹から急激に闇が深くなり、何者かが彼女の目の前に姿を現した。無数の穢れを纏った、厄を司る神が空から降りてきた。
緑色の神で、無数のひらひらが付いたゴシック的格好の神様だ。
「……止まりなさい、人間」
「お主……鍵山雛! 厄介な厄神が何故ここにおる!」
「あら、伊邪那美命じゃないの。人間に宿るなんて珍しい」
足を止め、構えている篝の横に現れた伊邪那美命の幻影が、空から降りてきた鍵山雛と言う少女を前にして驚いた顔をしている。
彼の神は、厄を集めて引き受ける神だ。人形流しなどの厄流しも担当している。人間に生死の概念が存在した時に誕生した、言わば伊邪那美命と同じ古の神とも呼べる存在だ。
その習性上、月の民からは神として敬われながらも蛇蝎の如く嫌われている。そして彼女が纏う雰囲気も穢れと不幸の影響で陰鬱そのものだ。
「此処から先は厳重に警戒されているわ。多少の力の持ち主では追い返されるだけよ」
「わらわが宿っておるのだ。万が一も負ける事はありえないのぉ」
「そう。なら好きにするといいわ。忠告はしたからね」
そう言って雛は山間へと姿を消した。どうやら山に立ち入ろうとする人間に注意を促し警告する業務もやっているようだ。
そして、彼女の周囲の空間に立ち入る事を天狗も嫌っている。寄せ付ける穢れと不幸が彼らにも影響を与えているのだろう。
だが、伊邪那美命を宿した彼女にとっては汚染のリスクが伴うものの実質的には力として還元できるのだ。
「先を急ぐぞ! もう時間まで十五分を切っておる!」
彼女は頷き、幻影が消えると同時に再び駆け出した。
無数の木の葉が周囲を舞う。徐々に紅葉と化す山の景色を俊足で走って行く。
やがては水場に至る。そこは妖怪の山に住むもう一つの種族、河童の領地で人間には好意的な種族である。
故に、山に入り込んだ人間を迎え入れ、技術学んだり学ばせたりして共に発展に貢献していっている。
中には河童と婚約する人間もいるらしく、最近では河童と人間のハーフもそれなりにいるらしい。
あと、河童は胡瓜がとても好きな事で有名である。
「水場まで着いたの。九天の滝は目前じゃ」
「盟友! 待ちたまえ! その先は危険だよ!」
そう言って川から飛び出してきたのは緑色と青色の河童だった。
背中にリュックサックを背負い、緑色の作業着を纏った気の良さそうな少女だ。
その少女は背中のリュックから金属製のアームを伸ばし、篝の前に立ち塞がるように仁王立ちしている。
その笑みはとても不敵で、絶対に負けないと言う自信が全身から滲み出ていた。
しかし、河童は天狗と比べ大きく戦闘能力が劣っている事が知られている。確かに尻小玉を直接抜かれれば激痛を伴うし、杈で突かれれば命に関わる。
だが、胡瓜を見せると途端に飛びつき戦意を失ってしまうのだ。その点、非常に懐柔しやすい種族と言える。
「私の名前は河城にとり! 人間、たとえ盟友でもここから先に行かせるわけにはいかないな!」
「えぇい! 五月蠅い河童風情が! 法師に連れられ空飛ぶ猿と歩く豚と共に印度へ法典探しに行っておれ!」
「なぁにぃ!? 私を侮辱したな! 許さない、この最新兵装オプティカルカモフラージュで退治してやる!」
「……姿が消えた!? お主、気を付けよ!」
にとりが金属製の機器を操作すると、突然彼女の姿が消え失せる。このまま不意打ちされればかなり危険だ。伊邪那美命も注意を促している。
――だが、当の篝はまるで意に介していない。それどころか、瞼を閉じてジッとしている始末だ。目が利かなければ、気配を探ろうと言う魂胆なのだろう。
そして、姿を消したのはいいものの肝心の音を消し切れてはいなかった。動くたびにリュックの留め金が音を鳴らし、長靴が葉っぱを踏む音が響いている。
つまり、位置がバレバレなのだ。
「……思ったより、頭は弱いようだの?」
「何だって! 私の頭が――痛い!」
篝が無言で背後に刀の峰を叩き込む。何も無い筈のその場所に頭を抑えた河童の姿が現れる。
河童は痛みに悶えながら地面に蹲る。暫くは動け無さそうだ。
伊邪那美命はうんざりした様子で姿を消し、篝は河童を無視して一気に再び走り始めた。
水場と言う事は水源が近い。つまり最初の目的地である九天の滝は目と鼻の先である事を示していた。
「心せよ。滝の上に強力な気配が幾つおる。先制を打たれぬよう、警戒するのだ」
遠くに見えた滝を見ながら、彼女は止まることなく走り続けた。
「……篝は来ない、か」
0時になり、総海が守矢神社の鳥居の下に現れる。
篝は未だ山頂の神社に姿を現さず、時は過ぎ彼女の襲撃予告の日になった。
なった瞬間、彼女はこの場に出てきた。時間指定はしていないのだから何時来ようと彼女の勝手だが、些か非常識である事には変わらない。
そもそも、目的が記憶を奪う事なのだから危険な事には変わりない。しかし、彼女は目的以外の事に変なこだわりが無い事の証明にもなった。
「……残念だ、残念ですよ篝。貴女の可愛い顔を見ながら、記憶を吸いたかったのに」
守矢神社の本殿まで歩きながら、彼女は神格の虚像を現出させる。巨大な腕は両手とも盤刀となっており、強力な破壊力を示している。
守矢の本殿は幻想郷の建築物としてはかなり大きい方だ。しかし、彼女の出した禍津日神の虚像はこの大きな神社を簡単に破壊してしまいそうな威圧感を持っている。
一方、神社の中は外から見ても完全に寝静まっているとしか表現出来ない。灯りはすべて消えている。湯気なども立っていない。
母屋の方で一人の現人神と二柱の神は眠っているのだろう。そうとしか考えられないのだ。
前日に予告がされたにも関わらず、一切迎撃に出てこないのも不気味だ。もしかすれば、もう逃げてしまった後なのかもしれない。
だが、そんな事は総海に関係の無い事だった。彼女のやるべきは唯一つ。記憶を奪う事だ。
「いないならそれでも良いか。あの三匹の記憶を吸い尽くすだけよね」
虚像の腕が、社の母屋に向かって打ち降ろされる。物理的な質量ではなく、霊的な質量を持って圧し潰し破壊するのだ。
建物の屋根に触れる寸前、一瞬だけ結界のような抵抗があったものの容易く突き破り腕は屋根を貫通。そのまま仲間で達し滅茶苦茶に破壊していた。
だが、眠っていると思われる三人は一向に出てこない。逃げたのだろうか? それとも、今の一撃で呆気なく潰れたのだろうか?
「……逃げたか。ならば次の目標に――」
「待ちなさい」
凛とした声が、境内に響く。東風谷早苗の声だが、明らかに今までとは違う厳かさと敵意を感じ取れる。その源は恐らく激しい怒りだろう。
彼女は神社の裏、引っ越しの時に一緒に転移してきた湖の方から一歩一歩を踏みしめて現れた。その身に纏う気は、たった一柱の現人神とは思えぬほど高まっている。
神奈子と諏訪子が姿を現さない所を見ると、一時的に宿ったと考えるのが妥当だ。
神格を持つ相手には、同じく神格を持つしかないと言う結論に至ったのだろう。三者の合意か、早苗一人の独断かは不明だ。
「いないと思ったらそんな所にいたか。逃げたかと思いましたわ」
「我々は逃げません。我々が、我々の領地を守らずして逃げるのは、あり得ないことだ」
「そうか、ならば――存分に奪わせろ」
再び神格の虚像を再構成し召喚する総海。それを冷ややかな目で見る早苗。今の二人の力は互角だろう。もしかすれば、早苗の方が圧倒的かもしれない。何せ、神格を一度に二つも宿し、なおかつその力の制御に成功しているのだから。
総海と言えば、神格を有してはいるものの溢れる力をそのまま放出していると言った使い方にも見える。故に、霊力の消耗が激しく長時間の戦闘には向かないだろう。
だが、彼女もまた剣客である。神格が使えなくとも、戦闘力は十分以上に残っている。非常に厄介だ。
「さぁ、お遊戯の時間だよ、神様。私に記憶を、経験を、知識を、奪わせておくれ」
冷静ながらも狂気の本性を剥き出しに、総海は早苗に向かって行った。




