喪失遊戯 弐
数時間の睡眠の後、目が覚めた彼女が真っ先に知覚した音は雨戸を叩く雨の音だった。
龍神の像の予報は的中した。激しい豪雨ではないが、外に出るのが億劫になるような雨である。
布団から出た彼女は即座に外行きの格好に着替え、身支度を始める。彼女は今日博麗神社に行かなければならないのだ。
そして用事は近日中に行う神降ろしの儀の事である。事前の打ち合わせと契約内容の変更があればその旨を伝えてもらう。そして最後に儀式費用の支払いだ。
汚い仕事をやっているだけあって、それ相応の収入を得ている彼女は儀式に際して支払いとは別に神社への寄付金を払う腹積もりだ。博麗に恩を売っておこうと言うのだろう。
慧音は朝から授業で、既に子供達の前で教鞭を振るっている。篝の分の朝食を作る余裕はない。
そこで彼女は、朝食を食べる為だけに居酒屋に寄る事にしたようだ。呪札を巻いた鞘に納められた刀を背に差し、部屋の隅に立てかけて置いてある唐傘を手に外へ出た。
雨音は地面に打ち付けられ音を鳴らす程度には大きい。だが、鍛えられあげた彼女の行動を阻害する程の強さは無い。
ただ、やはり音を聞けば外に出るのは億劫に思うだろう。そういう雨であった。
傘を差し、殆ど人の往来が無い表通りを斜めに横断し真っ直ぐに居酒屋へと向かう彼女。
こんな雨だと言うのに、居酒屋の灯は消えず中は笑い声と消沈の愚痴とで混沌とした様相を呈していた。
与太者の類はいないが、仕事が無い大工達が少ない所持金をやりくりして酒を飲みかわしている。
――だが、篝が店内に入った途端話し声が一瞬にして途切れた。
居酒屋内の全ての人間と妖怪が居酒屋に入ってきた彼女の方を見る。酔った彼らには刀を持った彼女は地獄の審判員が何かに見えているのだろうか。
無言で彼女は空いている席に座り、店長に寿司の詰め合わせを頼む。様々なネタはあるが、彼女は誰もが食べる卵焼きを好みにしていた。
「吃驚したよ篝ちゃん。凄く怖い顔で入ってくるもんだからね」
「雨の所為で機嫌が悪いんです。それとこれから少し里から出なくてはいけないので憂鬱で」
「ははは! そこで酔ってる連中も入ってくるときはまるで幽霊に憑依された時みたいな顔してたよ」
「笑えない冗談ですね」
「酒でも飲めば憂さが晴れるってもんさ。飲んでいくかい?」
「朝から飲む程酒豪では無いので。それに、出掛けた先に迷惑はかけたくないです」
卓に置かれた六つの寿司を箸で掴み、小皿に溜まった醤油に漬け口に運ぶ。一連の動作を手慣れた様子でやる彼女は此処で食べなれているのだろう。
そして、彼女が寿司を食べ始めたころから酔漢達は再び下らない下品な話や仕事の愚痴を言い合い居酒屋は再び騒ぎに包まれる。
里の心の安静所のような場所であった。砂漠の中にひっそりと存在する入り江のようなものだろう。癒し、という言葉が一番しっくりくるのではないだろうか。
「篝ちゃんは、友達いないのかい?」
「……本当に友達と思える人はいないかな。別れが辛いだろうし、こんな仕事をしている私を好きになる奴なんていないだろう」
「私は好きだけどね? でも、篝ちゃん基準じゃそれは友達じゃあないんだろうね」
「えぇ。本当の友達というのは、腹を割って話せて喜怒哀楽を共に感じれる奴のことだと思う」
「難しいねぇ。私も今まで生きてて一人くらいしかいないよ。そんなやつはさ」
そこで会話が途切れる。店長は別の酔っ払い達との与太話に興じている。お世辞にも饒舌とは言えない彼女は話すのも苦手だ。
心を許した相手ならば気の利いた冗談の一つや二つ言えるかもしれない。が、上辺だけの仲良しごっこの相手ではそこまで言えるほど舌が回らないのだ。
それは普段から話す気がないことの表れかもしれない。
寿司の咀嚼を終えた彼女は代金を支払い即座に店を出た。雨の勢いは止まらず、しとしとと地面を濡らしている。
傘に雨が当たり、僅かな衝撃と共に鈍い音を鳴らす。神の落涙の勢いは、そこまで強いものではないようであった。
「行くか……」
暗い雰囲気を纏ったまま、彼女は博麗神社へと歩いていく。人が殆どいなくなった里の表通りは晴れの日に比べどんよりとした雰囲気に包まれ、道幅が非常に広く見えるのだ。
そんな中、東門へと向かい何の気なしに潜り抜ける彼女。この先は妖怪も出没する林道であり獣道である。
定期的に里の退治屋が駆逐し、一か月前にも斉藤春が里周辺の弱小妖怪を全滅させたため現在は非常に安全だ。妖怪出没の可能性はほぼ零と言っても良いだろう。
しかし、雨で湿気の溜まり場と化している林道は別の意味でも危険が付き纏う。一度この湿気に服を濡らされれば晴れの日まで服が乾かなくなってしまうだろう。
そんな中に、彼女は躊躇せず踏み込んでいった。林道を突っ切れば10分も掛からぬ内に神社の石段の下には辿り着けるのだ。
その背中は、酷く陰鬱で悲しげであった。
「こんな雨の日に来て、話すことがそれなわけ?」
「なんだ、まだお金が足りないのか? 強欲な奴」
「常識で考えなさいよ! 一体全体こんな雨の中で儀式の話をする奴はあんたくらいよ!」
「霊夢が常識を語るのも珍しいものだな」
神社を訪れた篝はすかさず閉じた社の門を叩き、中でだらしなく過ごしていた霊夢を怒らせる。
そうして縁側へと誘い出し、入れ違いに自分が社の居間の座布団の一枚を占拠し、話をせざるを得ない状況を作り出した。
更に頭に血が上った霊夢を前に、札束を置く。そこで霊夢の動きが止まり、札束の方に目が行くようになる。
そこへ更に、札束をもう一束置く。すると霊夢は先ほどの怒りをどこかに忘れたのか非常に優しい笑顔を見せる。
篝が考えた悪魔的な霊夢への懐柔策であった。有り余る資産の僅かを溶かしたところで彼女にとっては何の痛手でもない。
そうして懐柔した篝は霊夢を向かいの座布団に座らせ、すかさず儀式についての話を始める。
再び不機嫌に戻った霊夢だが、儀式の代金数束を支払うと約束したところ一応の承諾を貰えた形である。
そのまま日程や手順について話をした結果、明日の正午過ぎ辺りに行うということが決定した。
「とにかく、明日は頼んだぞ」
「分かってるわよ。相応の報酬を支払ってもらったんだから仕事はするわよ」
「随分嫌そうだな。面倒ならば同じ手段で守矢に頼むのも――」
「それはダメ。もうお金は払ったんだから私の下でやるわ」
「そうか。ではまた明日」
そういって篝は霊夢の横に置いてある盆の中にある茶菓子の内、海苔煎餅をかすめ取って外へ出て行った。
当然霊夢は気づいているが、お茶を啜る中で追いかけるのが面倒になったのだろう。そのまま無視していた。
帰ろうとした篝は、石段を登り切った鳥居の下に傘を持った何者かが佇んでいるのに気付く。傘で顔を見えなくしているのが非常に不気味だ。
彼女は無視して大股で歩き石段に向かおうとするが、その人物に呼び止められた。
「貴女が、出雲篝さんですか?」
「……そうだが?」
「あなたを探してました。やっと、会えましたね」
「……はあ」
呼び止められた彼女は境内の中ほどで佇む者……声色は女の話を聞いていた。
有無を言わさず、人を縫いつけるような語調。無視して通り過ぎれば何をするか分からんぞ、と言う脅迫。そんな雰囲気を醸し出していた。
そしてその女は篝を知っていて、何らかの目的の為に探している。しかし、篝はその女に見覚えはない。
「なぜ、私を探している?」
「それは……」
女はそう言って傘をゆっくりと境内に撃ち捨てた。
篝より頭一つ分身長が低く、鉄の錆のような朱い髪の、端正な顔の女だった。
不気味なほどに見開かれた虚ろな黒い瞳は何も見ていない様であった。
赤と黒が基調の袴の上に無数の呪術が書き込まれたと思しき灰色の陣羽織を纏っていた。
左に太刀を帯びている。長さは長刀や薙刀の類では無く、平均的な長さの刀だ。
そして、女の纏う気配は普通の人間のそれとは大きくかけ離れたものであった。
「あなたの、記憶が欲しいからです」
「何……?」
「もう一度言います。あなたの、記憶を私にください!」
そう言った直後、女の躰から強大な気配を纏った何者かの像が現れる。同時に、周囲の空間そのものが光を失いつつあるかのように薄暗くなっていく。
女の体から立ち昇る赤と黒が入り混じった色の霊力が血液のように像を巡り、何かを形創っていく。
――それは、女性の上半身のようであった。
躰の各所が黒い鎖によって女の体を繋げられている。爆発的な力を持つその穢れた波動に篝は気圧されていた。
「貴様は一体……」
「申し遅れました。私の名は沖田総海。そして、貴女の目の前に現出しているこれは……」
「神降ろしの儀によって契約した、穢れと災いを司る神、禍津日神です」
総海がそこまで言った瞬間、篝は反射的に刀を抜き構える。
しかし、数十秒も持たずして腕が下がる。気付いた篝は再び腕を上げ構えを直そうとするが、腕が上がらなかった。
体の異変に気付いた篝は全身に霊力を循環させ、原因を取り除こうとするも事態は変わらなかった。
そのまま彼女は膝を降り、地面に片膝を付けてしまっていた。
「ふふふふふ。いかに出雲の娘と言え、禍津日神の力の前では無力な小鹿に過ぎませんよ」
「私の禍津日神は、そこに存在するだけで生命を穢れで汚染し力を奪い取って行くのです。人間や妖怪程度ではこの力の前に足を竦ませ膝を折るくらいしか出来ないのですよ」
そう言った総海の声は二十に重なっていた。片方は確かに総海の声だが、もう片方は恐らく彼女に降りた禍津日神のものだろう。
声は同じ声帯が出ているのに、二つの声が聞こえる。神の為せる業と言うことだろう。
こうしている間にも、篝は何とか立とうとするが体は動かず足は震えていた。額に汗をかき、恐怖に縛られていた。
体の補強に使おうとした霊力は禍津日神の力によって根こそぎ奪い取られ、今の彼女は本当に刀を持っているだけのただの人間となってしまっていた。
「さ、観念してください。大丈夫です。記憶を奪うだけで殺しはしません」
そう言うが否や、禍津日神の穢れによって腐食しつつ、鋭い爪伴った巨大な腕が膝を折って震えている彼女の頭上に迫る。
彼女はみっともなく逃げようとするも、そんな力さえ残っておらず悔しげに歯を食いしばるだけであった。
徐々に腕が迫り、周囲に腐臭が撒き散らされる。ただの臭いでは無く、生命力を削り、死を呼び寄せる危険な臭いである。
「はっはっはっは。これでまた、お遊戯の続きが出来る!」
「残念だけど、遊びなら余所でやってくれる?」
開いた社からそう声がしたと同時に、無数の霊力札が禍津日神の像へと殺到する。
巨大な腕で札を防ぐ。しかし博麗の力が込められた札は即座に超圧縮された霊力を持って爆発を起こし、容赦なく穢れを削り取っていた。
続けざまに放たれる札に総海は焦りを見せていた。勝てると思った戦いに勝てなかったのもあるが、出雲の記憶を奪えなかった事に対する焦りもあるのだろう。
そうして彼女が防御しつつ考える間にも、社から出てきた霊夢は無言で札を放ち禍津日神の虚像を破壊していく。
「ぐううぅ……! 博麗霊夢か……!」
「何者かは知らないけどさ。私のお休みの邪魔をするのはいただけないわね」
「霊夢……すまない」
百枚近いお札が一瞬の内に投擲され、巨像に突き刺さる。同時に青白い光を放ち霊力爆破を引き起こす。
穢れは清浄な力に弱い。人間が扱う霊力も十分に有効なのだ。だが、生半可な霊力量では禍津日神に奪われてしまう。
そこで霊夢はいつも持ち歩いている霊力札を使用したのだ。多少奪われても破壊力は落ちない為、この神に対しても有効打を与えられる。
「小癪な真似をする!」
総海は帯びている刀を抜き払い、神格の損傷に関わらず霊夢に斬りかかって行く。
彼女の上にある禍津日神の像は襤褸切れより惨たらしい状態だ。度重なる霊力爆撃の影響で躰が千切れバラバラになって浮いている。そして朽ち果て、塵となって風の中に消えていく。
しかし、像が消えたとえ身体能力が大幅に上がっている神格者たる総海の速さは殆ど変っていない。一気呵成に境内を駆け抜け一秒も経たぬ内に霊夢の目前で刀を振り上げていた。
だが、霊夢もまた疑似的とは言え神格者に変わりは無い。即座に一枚のお札で応戦する。
「博麗結界……! やはり貴女も神格者ですか」
「博麗の巫女は永遠の巫女。存在が永遠ならばその特徴も受け継がれると言う事よ」
札からは博麗紋の金色の結界が展開され、盾のように総海の斬撃を阻む。西洋盾などよりもはるかに硬く、取り回しやすい結界だ。
それでも果敢に打ち込む総海だが、人間離れした霊夢の足運びと防御術の前に一撃も打ち込めずにいた。
まるで舞踊を行っているかのように足を運び、結界への斬撃の衝撃を周囲に拡散させているのだ。
自発的に攻撃を行わず、あくまで受け身のままの彼女はジッと反撃の機会を窺っているのだ。一撃必殺を彼女もまた、信条としている。そして決して本気の手の内を見せない。
「貴女は一つ勘違いをしています」
「何の話かしら?」
「さっきの攻撃だけで、禍津日神が滅んだとでも?」
霊夢の頭上に、巨大な剣を生やした禍津日神の虚像の腕が叩き下ろされる。
それに気付いた霊夢は右手の札で総海の攻撃をいなしながら、左手に新たな三枚の札を取り出し頭上に防護結界を張る。
展開直後に禍津日神の剣腕が結界に激突し、甲高い音を響かせる。だが、結界を貫通できず逆に剣先から霊力によって朽ち果て消滅していく。
「……なるほど、まだ穢れが足りない様ね。今は退きましょう……いずれ、貴女の記憶も貰い受けます」
突如冷静になった総海は穢れと伴い空へと飛翔する。
そのまま中で穢れと共に何処かへ転移して行った。全ての穢れがまるで彼女の中へ飲み込まれるように消えて行ったのは非常に不気味だ。
札をしまった霊夢は膝をついて俯いている篝に肩を貸して立ち上がらせた。篝の顔は青白くなっており、今にも死んでしまいそうな虚ろな目をしていた。
「すまない……本当にすまない……」
「気紛れよ、気紛れ」
「……すまない」
か細い声で謝罪の言葉を述べる彼女は何時もよりも酷く弱い子供のようにも見える。
沖田総海。そして彼女が宿す禍津日神。記憶を奪うと言う遊戯。何を意味しているのかは不明だが、良からぬ目的なのは間違いないだろう。
そして、篝は明日に神降ろしの儀を控えているのであった。




