喪失遊戯 壱
斉藤との決戦から、一か月程経った夏の終わり頃に篝は退院した。
その後、すぐに埃を被った道場を掃除し再び門を開き慧音の堅い授業が終わった後の子供達を迎え入れ、我流ながらも剣道を教えていた。
彼女自身が実戦で使用している型は当然教えていない。あくまで剣道の基本及び基本的な型のみだ。
趣味の域と言われればそれまでだろう。しかし、彼女が里に住む為には絶対的に必要な事なのだ。妖怪退治ばかりやっていても恐れられ、迫害を受けるだけなのだから。
「今日の稽古はこれでおしまい。各自、体を休め次も来るように。解散」
彼女の号令と共に蜘蛛の子を散らしたように荷物を持って道場を後にする子供達。
ここ数日間、彼女は神降ろしの儀の為に心身を休めると同時に、弱った体の調子を整えていた。
何せ、一か月近くも寝ていたのだ。身体の運びに鈍りが出るのは必至だろう。そんな状態で戦いを行えば、三流以下は追い払えても一流の相手は不可能だ。
「……大分力が戻ってきたな」
すっかり人がいなくなった道場で、雑巾掛けを行いながら一人呟いた彼女。その声は弱っていたころとは比べるまでも無く力強さを感じさせる。
同時に、調子が戻った証に普段の冷徹ながらの穏やかさを取り戻していた。
彼女が永遠亭の布団の中で休んでいる時は、それこそほんの僅かな衝撃を与えただけで簡単に死んでしまいそうな危うさがあった。
そこまで広くない道場でも、彼女一人が雑巾掛けすればそれなりの時間は経つもので、彼女が作業を終えた頃外は昼から夕方になりかけていた。
子供たちは既に夕飯の準備を愛する母親と始めている頃だろう。一方彼女は親などいないので次の日の授業の準備を終えた慧音と共に食べる事となる。
ある意味では、慧音が母親代わりと言ってもいいのだろう。いつも戦って怪我をしている彼女の事を本当の意味で理解し助けようとしているのは後にも先にも慧音一人なのだから。
「出雲、飯の用意が出来たぞ」
増設廻廊を通り道場に顔を出した慧音が篝に準備完了の声を掛ける。
篝もまた小さく返事をした後、雑巾を水の溜まった桶に放りこみ、石鹸で手を洗って慧音の住む寺子屋裏の住居に赴く。
道場と寺子屋を繋ぐ廻廊もまた、篝の先祖が慧音と話し合って道場と共に決めた事である。
それなりに前の代から懇意にしているが、個人的な仲で言えば普通の友達だろう。一定の距離は踏み込むが、内面を探るような真似はしない仲だ。
食卓に赴いた彼女は慧音と向かい合わせで手を合わせ、慧音が作った食事を食べる。
白米、味噌汁、焼き魚、漬物……和風で固めた堅実な食事。日本人ならばこれだけで元気が出るだろう。
独り暮らしをしている慧音は料理の腕が非常に良い。宴会の時などは他に料理の出来る者達と共に台所を任される程である。
篝の腕前は一般人程度のものだ。一人で過ごす分には問題ないが、他者に振る舞うとなれば疑問符が付く程度である。
そして慧音は、善意で篝に食事を提供している。こうして見ればヒモか何かと勘違いされそうだが、教師とは違い篝は命に係わる仕事をやっていて収入もそれなりにある。一か月が終わるころに纏めて食費を支払っているのだ。
「慧音さんは、良いお母さんになれますね」
「よしてくれ。私のような堅物では人も寄り付かんよ」
「堅い方が良いですよ。厳しく優しい母は憧れの対象ですよ。私のような杜撰で下らない、血の臭いしかしない女の方がよっぽど貰い手なんていませんて」
「……ふふふふ」
「はは、ははははは……」
食事中の会話とは思えないほど暗い雰囲気だが、二人はその空気に耐え切れず乾いた笑い声を上げていた。
陽が傾き、妖怪の活発化する夜が始まる中で慧音と篝は互いに傷を舐め合いながら談笑に興じていた。対異性問題が主な話題だが、二人とも悟り切った表情で淡々と受け答えをするだけになっていた。
堅物と杜撰、全く似ていないようで二人は驚くほど奥手だ。篝も同様に異性に対してそこまで強く出る事が出来ない。
そう言う事に縁が無かったと言えばそれまでだが、慧音は中々の美貌の持ち主だ。縁談の一つや二つはあっていいものだろう。
篝に関しては……居ない事の方が多いのでそう言った話が無い。そして居ないときは大体刀を振り回している。汚い仕事をやっている。
そこが二人の異性関係の最大の違いだろう。
「そう言えば、明日は雨が降るそうだ」
急激に話題を変え、慧音が言う。その天気予報の情報源は人里に設置された龍神様の石像にある。信仰心を養う為に天気予報の力を仕込んだのだ。当たる確率は大体七割程度のものだ。
そして雨の予報。具体的な時間までは不明だが、降雨七割は外に出る日としてはいただけない。里人も部屋に籠って内職に明けぐれるだろう。
惑いは、童子達は家に集まり花札をしているかもしれない。中には儀式めいて怪しげな事をやるかもしれない。
とにかく、雨と言うのは人間の行動範囲を著しく狭めてしまうものなのだ。
「雨と言えば、天から流れ落ちる水は神の涙の象徴だとか」
「うむ。神が悲しみのあまり泣いたりしていると言われているな。どの神かは分からないが」
「天照大神や、素戔嗚や月読では?」
「彼女達なら今頃月で平和な生活を謳歌しているさ」
「ははははは! 慧音も面白い冗談を言えるものだね」
食器を片づけ洗い終わった彼女は再び食卓に戻り、慧音との談笑を続ける。
陽が沈み、完全に夜になるまで喋っていた二人はそれなりに笑い、沈み、そうして別れを告げることとなった。
部屋から出る時、篝は必ず慧音に向かって深く頭を下げる。食事の感謝の他、里での根回し等彼女が慧音に世話になっている事は思いのほか多いのだ。
汚い仕事をしている彼女が里にいれるのは慧音の尽力の陰と言っていい程なのだ。
「気を付けてな。神降ろしの儀、確か近日のやるのだったな? 楽しみにしている」
「そちらも体調を崩さぬように。お話し相手が減るのは些か悲しいですから」
「ふふふふ。私の目の黒い内は幾らでも話し相手になってやろう。なんなら授業に来るといい」
「遠慮しておきます。試験とか勉強は嫌いなので」
「それは残念だ。……では、お休み」
「はい。お休みなさい」
彼女は慧音の居住家を後にし、自分の部屋へと戻って行く。
外は既に暗く、夜まで仕事をしていた里人たちが居酒屋の灯りの中へ光に誘われる魚の如く入って行く。
疲れた彼らは少ない予算をやりくりし、こうして里で一杯決めてから家でぐっすりと眠り次の日に備えるのだ。
中には飲みすぎて酒屋で潰れてしまう者も出るが、そうした者は豪放磊落で気のいい店主が三時間の店内業務を科す代わりに一夜の宿を貸すことになる。
「……眠るか」
部屋に戻った彼女は寝間着に着替え、外向けの服を畳んで置いた後電灯を消し布団に入る。
彼女は所謂早く寝つける人種で、疲弊している時などは布団に入って数瞬の間に深い眠りに就いている事もある。
何も無い時でも一分掛からず眠りに落ちる事が出来ていた。その深い眠りは、どれだけ揺り起こされても起きず、しかし時間になれば完全に目が醒めると言うある種羨ましいものである。
「……」
彼女は既に小さな寝息を吐いている。睡眠に入ったのだ。こうなれば朝になるまで起きる事は無いだろう。
――不意に、彼女の部屋の中に一つの気配が現れる。里にいるには、余りに異質で重苦しい空気を纏った強大な存在。
それは篝の枕元に立ち、彼女の顔をジッと見下ろし僅かに微笑を浮かべていた。
黒い蝶柄をあしらった白い和服を身に纏い、服と同じ色の長い髪を持つ女性である。突如部屋に現れた事を見るに幽霊の可能性が高いが、確たる実体を持っている。
ならば人間か? それも否、だろう。人間には纏う空気が余りにも強大で重圧なのだ。到底人では辿り着ける域では無い。
そして、彼女が現れた瞬間部屋の内に入る月の光が急激に力を失い闇に包まれたところを見れば、邪神かその類の存在の可能性が大きいだろう。
しかし、その女はそのような悪と呼ばれる存在にも関わらず睡眠中で無防備の篝に危害を加えようとはしなかった。それどころか、しゃがみ込んで愛おしそうに篝の頬を青白い指で這わせていた。
「わらわは待っている。お主が、わらわを呼び出すのを」
それだけ言って女の姿は霧散する。それと同時に月の光が力を取戻し、闇は晴れた。
彼女は気付かない。何者かが自分の枕元に立ち、何かを伝えたことを。彼女は知らない。この時すでに、眼を付けられていた事を。
――彼女は知り得ない。この時、これから起こる過酷な運命を。
夜はまだ終わらない。
――居酒屋。里で唯一の憩いの場所。疲れた顔の労働者や退治屋が酒を飲みかわし、与太話に興じる場所。
店主も寿司を握りながら話しかけられれば楽しげに対応する。そうした空気が安寧を与えている。
そんな居酒屋の一角、端の席に彼女はいた。表通りの茶屋の店主だ。
「そう言えば出雲の娘は近い内に神降ろしを行うんだってね?」
「そうそう! あの娘も大きくなったわよね」
「うん。それにあの若さであんなに強いんだ。将来も有望だね」
彼女は同じ商売仲間である呉服屋の店主の女性と話をしていた。彼女は店仕舞いの後は基本的に此処に出向いて酒を飲んで過ごしている。
そして、酔い潰れる前に会計を済ませ家に戻る。そして世の中を憂いながら更に酒を呷るのだ。
「そう言えばさ、里にまた新しい剣客さんが入ってくるんだって」
「へぇ? どんな奴だい?」
「里の外に点在する集落の一つから来たちっちゃい女の子だそうよ。多分篝ちゃんより若いんじゃない?」
「そりゃ吃驚だ。篝ちゃんも若いけどそれより若い上に剣客とは恐れ入る」
「何でも、刀を握らせたら龍が天に昇るかってくらい才能が開花したらしくてね。既に剣術は一人前だとか」
「新しい因縁の登場、って感じだねぇ? 斉藤みたいにならなくちゃいいけどさ」
そう言って酒を呷る茶屋の店主。彼女は一か月前に起きた篝の戦に纏わる事件を思い出したのだろう。
斉藤春と言う剣客が声高に妖怪殲滅を謳い、狂って人間の篝まで襲った事件。公にはされていないが、春は邪術によって支配されていたと言う事実がそこにはあった。
その精神汚染の所為で狂った彼女が篝と戦い、本当に死ぬ寸前で篝に救われたのだ。そして篝もまた重傷を負い、一か月の間永遠亭に居た。
茶屋の店主は、その事を細かく知っていた。彼女は篝や慧音にも謎な、独自の情報網を持っているようだ。
「でも斉藤さん本当はとっても優しい人って話だよ?」
「やったことがやった事だからねぇ。暫く永遠亭から出てこれないんじゃないかい?」
「そうだねー」
若干重苦しい空気に包まれた二人の間。しかし同時に酒を呷り、そして二人同時に喉に詰まりかけお互いに吹き付けるようにした事で一気に解消された。
唾と酒だらけの互いの顔を見、指を差し合って朗らかに二人は笑っていた。
「……何か、嫌な予感がするねぇ」
そう茶屋の店主が呟いたのを、呉服屋の店主は気付かず笑っていた。




